私の左隣の席は、いつもぽっかり空いている。日の光が差し込む、窓際の特等席。
「古川(ふるかわ)惺(せい)太郎(たろう)君って、いつから不登校になっちゃったの?」
同じ当直だった東条(とうじょう)百合(ゆり)さんにさり気なく訊いてみると、目を瞬かせたあと、
「入学式からずっと来てないよ。」
という予想外の言葉が返って来た。
「そっか。片(かた)月(つき)さんは編入生だもんね、初耳か。古川君は、初等部の時はちゃんと登校してたんだけど今はリモートがメイン…というか、ほぼ登校してこないんだ。」
そこで、東条さんは声を潜めた。
「でもね、古川君って、芸能事務所からスカウトされるくらいのすっごいイケメンで、しかも家はお金持ちらしいよ。お母さんは早くに亡くなられたらしいけど、お父さんが大企業の社長さんらしくて、家もすっごい豪邸なの。惚れちゃうよねぇ。」
私は心の中で、その条件だけで惚れるか?と思ってしまった。
「片月真(ま)琴(こと)さーん、東条百合さーん、お二人さーん。」
声をかけてきたのは、筋肉隆々の体育会系の男子生徒。
「噂話が聞こえてきたっすよ?」
「だから何、開(かい)高嵐(こうあらし)君。」
むっつりとした東条さんの態度に開高君はヒュウッと口笛を吹いた。
「怒ってるんっすか?」
「ガールズトークを盗み聞きするのは良くないでしょ、嵐。」
「いやー百合って結構お喋りだなって思ってしまったんっすよ。惺太郎のことはトップシークレットっすよ?」
「いいじゃん。もう皆薄々感づいてるよ。」
はてさて。何のことだ?
「私も仲間に入れてほしい、から。これから私のことは真琴って呼び捨てで構わないよ。」
「オッケーっす!俺のことは嵐って呼んで欲しいっす。」
「返事するのは私が先でしょ?」
東条さんが開高君を肩肘で突く。
「私のことは百合って呼んでね。よろしく。」
「嵐に百合ね。よろしく。」
私は二人とがっちり握手を交わした。編入生してきて一ヵ月。ようやく友達二人をゲットして、私の心は弾んだ。
「二人共、惺太郎君の家は何処だか分かるんだよね?」
「分かる、けど。」
目を見合わせる二人。
「何考えてるんっすか?」
「いやぁ、家庭訪問してやろうかと思って。病気とかイジメとかが原因で休んでるわけじゃないんでしょ?惺太郎君って。だったら家から引っ張り出してやるのも友達の役目の一つかなって。」
嵐はゆでだこのように顔を真っ赤にして、両手で顔を覆った。
「ヤバイ。真琴って俺のタイプドストライクかもしれないっす…。」
「こらこら。」
私は軽く笑って、肩をすくめた。
「だって放っておけないじゃん、惺太郎君のこと。行こ?」
惺太郎君の家は私のオンボロアパートとはかけ離れた、高級住宅街の一角にあった。百合が言っていた通り、確かに豪邸だ。インターフォンを押すと、女性の人らしき声で返答があった。
「私、惺太郎君の同級生の片月真琴って言います。惺太郎君に会いに来ました。嵐も百合も一緒だと惺太郎君に伝えて下さい。」
「…今は会いたくないそうです。出直して下さい。」
「明日も必ず来ると伝えて下さい。」
百合は「やっぱりね。」と言った感じで、嵐は「明日もっすか…。」と頷きながら、芽生えつつある友情を噛み締めていた。
それから毎日、私は惺太郎君の家に通った。嵐は部活があり、百合は塾で一緒に来れないこともあったが私は欠かさなかった。私は帰宅部だったし、塾にも通っていなかったから、もはや惺太郎君の家に向かうのは日課と化していた。
紫陽花の淡い水色の花弁が、縁に向かって少しずつ深みを増していく季節折、私は初めて惺太郎君と対面することになった。
「本当にしっつこいな、アンタ。」
金髪にピアスを開けたいかにも不良っぽい惺太郎君は、ほう確かになかなかのイケメンだと思ってしまった。
「毎日毎日学校休む貴方様も、かなりしつこいと思うけど?」
「で、嵐と百合は?」
「今日は二人共忙しくて来れなかったみたい。でも心配してると思うよ。」
「心配はしてないと思うけど。二人とは初等部一年の時からの仲で、お互いの事情よく知ってるし。…って、人の家勝手に上がんなよ。」
「お邪魔しまーす。」
私が玄関口で靴を脱いでいると、眉間に皺を寄せたまま、惺太郎君はため息をついた。
「アンタ本当に人の話聞かねーな。」
「私の話素直に聞いてくれるなら、こっちも聞く気はあるけど。」
「はぁ?何。」
腕を組んで壁に寄りかかる彼の流れた金髪に、私は不覚にもドキッとしてしまった。
「学校、来て。」
「は?それだけ言いに来たの?」
「そうだよ。悪い?」
髪をかき上げる仕草がイケメン過ぎる。しかし、そんな恋心悟られてはなるまい。
「…俺が登校しなかったら、これからも毎日家来る気?」
「勿論。」
即答する私の心は言葉とは裏腹にドギマギしていた。この鼓動、どうかバレませんように。
「あー。くそっ。」
髪をくしゃくしゃにして、惺太郎君は叫んだ。
「行くよ,、学校。ちゃんと。毎日はキツイかもしんないけど週一は絶対通う。約束は守るからマジで部屋入んの止めて。」
「学校は毎日通うものだよ?」
「諸事情があんの。アンタも少しは譲歩して。」
膨れっ面の私に、惺太郎君は頼むと言わんばかりに頭を抱える。
「…分かった。」
「おっしゃ、取引成立な。」
「その代わりライン交換させてもらいますから。」
「…アンタ何処まで世話好きなわけ。」
担任の声が上擦る。
「えー。初等部が一緒だった子は知ってると思うけど、古川惺太郎君が登校してきてくれました。皆仲良くするように。」
いかにもお子様向けな紹介に、私は思わずため息をつく。私の左隣の席に着席した惺太郎君の金髪とピアスは光を受けてキラキラと輝いている。まるで王子様だ。整った中性的な顔立ちが見目麗しい。
惺太郎君は授業一科目目にして早くも周りと打ち解けているようだった。前の席の男子に「資料貸してー。」なんて頼んでいる。私からしたら尊敬すべきコミュニケーションスキルだ。ちらりと視線が合ったのは、私がまじまじと視線を送り過ぎたせいだろうか。思わず顔が赤くなる。ああ、これが初恋というやつだろうか。
「わー。古川君のお弁当凝ってるぅ。」
お昼休みになってそんな声が隣から聞こえてきた。
「俺の大切な人が作ってくれた手作り弁当なんで。」
その言葉に、私は飲みかけのお茶で思わずむせてしまった。母親は亡くなっているはずなのに、大切な人が作ってくれたって…家事代行サービスの人がそんなに素敵な人なのか?空想の人物にやきもちを妬いてしまう自分がいて、何だか情けなくもなって来た。
「真琴、もしかして惺太郎に惚れちゃったぁ?」
百合の無邪気な声がぐさりと心に刺さる。
「そんなこと、ナイ。」
「あるあるあるある。絶対ある~。そりゃ顔、金、家、この三拍子揃ってれば誰でも惚れるって。」
理由はそこじゃない、と突っ込みたいが言葉に出来ない。
「惺太郎~。ねぇねぇ、明日真琴とも一緒にお昼食べようよー。」
余計な事するなよ百合!さり気なく真琴とも、って言葉入ってるし!
「んー。百合の頼みなら別にいいけどー。」
そこはいいのか!?
突っ込みどころ満載だ。なんやかんやで一度登校してきたら楽しかったらしく、惺太郎は週一どころか毎日学校に来るようになっていた。謎なのは、毎日持ってくる手作り弁当だ。
「でさー、俺がパス回したわけっすよ。そしたらムリーって!」
「マジで?ヤバイな、それ。」
「えー、私は全然アリだと思うけどなぁ。」
嵐、百合、惺太郎君の三人は初等部一年からの仲だけあって、いつも話が弾むようだった。二人だったらお弁当の作り主も知っているのかもしれない。本人から聞いた方が良いかもしれないと思っていたけれど、機会があれば今度こっそり二人に聞いてやろうと心の中で呟いた。不意打ちで惺太郎君がこんな言葉を放った。
「で、真琴はどう思う?」
「え。私?」
箸からぽろりと卵焼きがこぼれ落ちる。
「ごめん、ちょっと考え事してて話題に付いて行けてなかった。」
というか、いつから私を呼び捨てで呼ぶようになったんだ。
「ふーん。」
惺太郎(と私も呼び捨てにすることにした。)は構わずお喋りを続ける。いつからだろう。こんなに彼がキラキラ輝いて見えたのは。金色(こんじき)の髪もピアスも、弾ける笑顔も、あまりにも眩しすぎる。
「夏休み、俺ん家の海辺の別荘で一週間くらい勉強会でもしね?」
「えー。そこは真っ直ぐ海で遊ぶプランっすよー。」
「嵐、うちらの学校が二期制なの忘れてない?夏休み開けたら前期テストにぶつかるよ。」
「私が編入して初めてぶつかる大舞台のテストだ…。」
「いや、だから真琴の為にも勉強会でもしよっかなって。百合は良い先生になってくれそうだし。」
確かに百合は塾の模試で常に九十点台を叩きだしてる強者だ。
「惺太郎は大丈夫なわけ?私、三人も相手に先生するほど余裕ないよ。」
「俺?大丈夫に決まってんじゃん(笑)。」
優秀な家庭教師でも雇っているのか?お弁当の作り主はその人なのだろうか。
「海は良いよ。めっちゃ澄んだ波音が絶えずすんの。集中するのに持ってこいなんだわ。」
「くぅ~。俺は泳ぎたいっす!」
打ち寄せる波が強い日差しを浴びて煌めいて見える。
「今すぐ飛び込みたいっす!」
「と言ってる嵐君。この海域の名前は?」
「東シナ海!」
「ブー。日本海です。中一レベルの問題です。取り合えず別荘紹介するね、窓から見える景色は絶景。」
窓を開けた瞬間、潮の匂いがふわりと流れ込んできた。白いカーテンが風に揺れて、まるで海の呼吸と部屋がつながったみたいだ。陽光を跳ね返す日本海は波が砕けるたび、光の粒が散って、まるで海が笑っているように見えた。
「寝室は流石に男女別の方が良いと思うから、真琴と百合は隣の部屋で寝て。ベットや布団は揃って寝るだけになってるから。…って嵐!冷蔵庫に入ってるコーラ全部飲みやがったら絞めるからな。」
国語、数学、英語、理科、社会。勉強はやってもやっても終わらない。
「海入んないっすか?ね?ちょっとだけ、ちょっとだけっすから!」
を嵐はずっと連呼している。
「あのなぁ、テスト結果は廊下に堂々と貼りだされるんだぞ、嵐。ブービー賞だったら泣きたくなるだろ?」
「そういう惺太郎は圏外だったけど。」
「百合。何か言った?」
「いいえ。あ、真琴、そこスペル微妙に間違ってるよ。sが抜けてる。」
遊びたい一心の嵐とは真逆に、私は真剣に勉強に取り組んでいた。
窓の外にふと目を向ける惺太郎。余裕たっぷりの様子の彼に、なんだか納得がいかない。
「…後で気分転換に海辺散策でもするか。」
惺太郎の提案に嵐が飛びつく。
「マジっすか!」
「そしたら黙って勉強しろよ、本来の目的はそこなんだから。」
「海っすよ海!海!三人は入らないっすか?」
「海パン用意してきたのはお前くらいだろ、嵐。」
「少なくとも私は、水着持ってきてない。」
と私は冷静に返す。百合はにやりと笑う。
「水着、持ってきちゃった。しかもおニューのビキニ。」
実は遊ぶ気満々だった様子の二人に、私と惺太郎は呆れ顔になる。
「二人共、溺れても知らないからな。浅瀬で泳げよ。」
「了解っす!」
「私、着替えてくるね!」
惺太郎と私は二人きりになってしまった。海の彼方を見つめて、惺太郎が指を指す。
「空と海の境目って分かる?すっごい綺麗だろ。」
言葉では表せない、光を反射した透明な澄んだ青と青の世界。その境目は、確かによく分からない。
「綺麗だね。」
潮の匂いと共に、風が彼の金髪を揺らす。その横顔は何処か憂いを帯びて見えた。
「惺太郎が一緒だと、学校、楽しいよ。」
「何。俺がいないと淋しいわけ?」
からかい混じりの惺太郎だったが、私は真剣に、
「淋しいよ。」
と応えていた。
目を点にする惺太郎。
「淋しい、ね。…俺がいなくても平気な人もいると思うけど。」
「…え?」
「何でもない。」
勉強会初日は、結局お遊びで幕を降ろそうとしていた。かのように見えた。が、私にとって運命的な出会いを果たすことになったのは、その日の夜だった。なかなか寝付けず、窓の外をじっと見ていた所、惺太郎が誰かと二人で浜辺を歩いていたのを目撃してしまったのだ。真夜中の十二時。百合はむにゃむにゃと寝言をたてていた。
真っ白なワンピース姿の女の子と手を繋いでいる、惺太郎。まるで幽霊と一緒にいるみたいだった。居ても立っても居られず、ついには部屋を抜け出し、二人に声をかけてしまった。
「何してるの?惺太郎、その人、誰?」
私の登場が予想外だったのか、しばしたじろいだ後、惺太郎は深く息を吐いた。
「…見られたものはしょうがない。この子は海(うみ)真珠(しんじゅ)だよ。俺の大切な人。真珠、俺の友達、片月真琴が立ってるよ。」
私の視線は惺太郎と真珠の繋がれた手に釘付けになってしまった。妬いてしまう自分が腹立たしい。惺太郎は私のことなんて、何とも思っていないのかもしれないのに。
「真珠は生まれつき盲目なんだ。ね?」
真珠は微動だにしない。瞳が大きく、華奢な可愛らしい少女だった。長い黒髪がよく似合っている。生まれてこの方ショートカットで通してきた私とは正反対だ。
「惺ちゃん、そろそろ寝る時間よ。お友達をいつまでも起こしててはいけないよ。」
「ごめん、母さん。」
…母さん?何のことを言ってるんだ。
「真琴、部屋に戻って寝て。明日勉強怠ったら、また二人に遊ぶ機会を与えてしまうことになるかもしれないし。俺は真珠を置いてくる。」
波音が、遠くに聞こえた。
勉強会二日目。私は真珠のことで頭がいっぱいで勉強は上の空だった。嵐と百合は真珠の存在を知っているのだろうか?
「嵐、お前何回マイナス抜かしてるわけ。」
「棒線一本くらい多めに見てほしいっすよー。」
「そんな訳にはいかないだろ!マイナス抜けてたら完全に数式としては答えがアウトだ。」
「xとyの座標も間違ってない?嵐は本当に勉強は苦手だなぁ。」
私は〇を紙につらつらと書いていた。
「て…真琴は真琴で、何書いてるの?」
「真珠…ってあ、ごめん。何でもない。」
「真珠に会ったの?」
百合の言葉に、その場が凍り付く。
「昨日の夜、一緒に散歩してて。真琴に見つかっちゃったってわけ。」
「そっ…か。まぁ、隠しても隠し通せるもんじゃないしね。良かったんじゃない?」
「真珠とは久しく会ってないっすけど、今近くにいるんっすか?」
「俺ん家の別荘は一軒じゃないんでね。そこに泊まってるよ。」
ああ、真珠の存在は私以外の間では共有されてたんだ。〇印にペケを付けていく。
「俺から提案なんだけど、今日の夕飯は、バーベキューでもしない?道具は揃ってるし、近くのスーパー行けば買い出しもすぐに済むし。」
「いいっすね!」
嵐は俄然乗り気だ。惺太郎は笑って、シャーペンを置く。
「んじゃ、今日はここら辺で切り上げますか。」
「よっしゃー!」
「買い出しは私と真琴で済ませるから男性陣は火起こしとかよろしく。真珠も呼ぶでしょ?あの子、アレルギーとか好みとかあったっけ。」
「特にないはず。真珠は基本的に何も言わないし。」
と惺太郎は肩をすくめた。
「人参、ピーマン、玉ねぎ、椎茸、南瓜あとは…他に何がいるっけ?」
「お肉が肝心なんじゃない。」
「あーっ。そうだ、私菜食主義だから眼中になかった。」
買い物かごにぽいぽいと具材を放り込む百合。私の頭の中は手を繋ぐ昨日の二人で一杯だった。それを察してか否か、百合は、
「真珠は、イタコでもあるんだよ。前に話したと思うけど、惺太郎のお母さんは早くに亡くなってて…真珠を通して惺太郎はお母さんに甘える所があるの。昨日何を見たかは知らないけど、あまり気にしない方がいいよ。」
と言って来た。
「イタコ…ね。」
じゅうじゅうとお肉と野菜が焼ける良い匂いが辺りに漂う。
「そろそろ食べますか。」
惺太郎の一声で皆揃って「頂きまーす。」と手を合わせた。
「真珠、お肉食べたいだろ?冷ますな。」
ふうふうと息を吹きかけ、真珠に対してあーんと食べさせる惺太郎。目眩がしてくる。
「惺太郎、真琴にもあーんしてあげたら?」
「ちょっ。余計な変な事言わないで、百合。」
恥ずかしさで顔が赤くなってしまう。
「別に構わないけど。あーんして欲しいの?」
からかい混じりの惺太郎に、
「結構です!」
とぴしゃりと返す。それにしても惺太郎、真珠に対しては本当に甘いな。というか、彼女も彼女で甘え過ぎではないか?という思いも出てくる。いやいや、そんな事思ってはいけない。
「エビやカニ、ホタテなんかも食べたかったっす…。せっかくの海辺なんで。」
「あー。眼中になかったわ。」
そんなやり取りをよそに、私は「飲み物取ってくる。」と一人席を立った。
ファンタのボトルを手に思わずぼーっとしてしまった。
「そんなに拗ねなくてもいいじゃん。」
後ろを振り向くと腕を組んだ惺太郎が立っていた。
「別に拗ねてないし。」
「嘘。絶対妬いてたでしょ。」
「妬いてなんかいない!」
つまずいて転びそうになり、惺太郎に寄りかかる。
「おっと。」
距離が、近い。近過ぎる。
「俺、真琴のことが好きだよ。」
「…は?」
それって告白?いやでも貴方の大切な人って真珠でしょ。
「腕離して。」
「イヤ。離れたくないもん。」
「からかうのも大概にして!」
「からかってなんかないよ。」
惺太郎の腕が私を包み込む。金髪がさらりと揺れる。
「俺、本気(マジ)だし。」
「惺ちゃん。何してるの?お友達が飲み物待ってるよ。」
「母さん?」
ほらね、やっぱり。私は惺太郎の腕をすり抜け、何処へ行くとでもなく駆け出した。
「真琴!」
背中で惺太郎の声が木霊するのだった。
彼女を追いかけようとした俺の服の裾を、真珠の手が掴んだ。
「惺ちゃん、どうしたの。」
俺は動く事が出来なかった。
部屋の片隅で、私は嗚咽した。戸を軽くノックして、百合が入って来た。
「真琴、どうしたの?」
「惺太郎のことが好き。大好きなの。でも、真珠の存在を失くすことは私には出来ない。どうすればいいのか分からない。」
転げ落ちる涙は止まることを知らない。
「その気持ち、ちゃんと惺太郎に伝えた?」
「…え。」
「想いは言葉にしなきゃ伝わらないものだよ。今すぐには言えないかもだけど、少なくとも生きてる内に伝えてあげてね。」
「お肉も野菜も焦げちゃうから持ってきたんっすけど…って、真琴泣いてる!?」
「アンタとことん空気読めない奴だね、嵐。」
「ひどいっす!」
ぎゃあぎゃあとやり取りする二人を見て、私は思わずふっと笑ってしまった。
勉強会三日目。惺太郎は朝から顔を出さなかった。
「何処で何してるんだろう、惺太郎。」
「真珠の所に会いに行ってるとかじゃないっすか?」
百合が教科書で嵐の頭を叩く。
「痛っ。」
「アンタ、デリカシーってもんはないわけ!?」
「えぇ…俺なんか悪いこと言ったっすか?」
海は好きだ。母さんの遺骨が眠っている場所でもある。
「惺太郎君、皆と勉強した方が良いと思うよ。その為にここに来てるんでしょ?」
真珠の目は光を宿さない。でもその奥で、母さんという光をたまに放つ。俺はその鎖から抜け出せずにいる。そこは自覚している。
「ちょっと息抜きしたかっただけ。昨日真琴を傷つけちゃったみたいで、どの面下げて会えば良いのか分かんないんだよね。」
「私のせい、かな。」
「それは違うよ。」
うーんと伸びをする。
「でもいつまでも逃げてるわけには行かないんだよな。ちゃんと向き合わないと。」
「そうだよ、惺太郎君。逃げてちゃダメ。」
「カレーの匂いがするのは気のせい?」
「夏と言えばやっぱカレーっすよ。」
「昨日のバーベキューの恨み節もあってシーフードカレーになりました。」
部屋の隅で私は怯えるように縮こまっていた。
「真琴、昨日のことなんだけど、」
「ちょっとうちらデザート買いに行ってくるね!」
「えっ。カレー早く食べ」
「いいから早く行くよ。惺太郎、カレー煮込むのよろしく!」
半ば強引に百合は嵐を連れて部屋を出て行った。
キッチンには私と惺太郎の二人きり。くつくつとカレーのルーをかき混ぜながら、惺太郎は静かに言葉を選んでいく。
「昨日は傷つけちゃったみたいで、ごめん。でも俺の気持ちに偽りはないから。真珠は確かに俺の大切な人だけど、それは表面上だけというか…。俺、早くに母親が亡くなってて、それから真珠が母親代わりなんだわ。かっこ悪いよな。男がいつまでも母親に依存するなんて。…よし、このくらい煮込めば十分だな。」
火を止めると、椅子を引いて腰を降ろす惺太郎。
「色々と混乱してると思うけど、気持ちが固まったら真琴からの返事聞かせて。待ってる。」
母親代わり。その言葉の重さが、ゆっくりと沈んでいく。真珠が惺太郎にとってどれほど特別で、どれほどの救いだったのか。そしてそれは今も変わらないのか。その真実で、昨日の嫉妬が急に幼く見えた。
でも、それでも。
「…惺太郎。」
名前を呼んだだけで、彼は少しだけ目を細めた。
その表情が、ずるい。
こんなの、好きにならないわけがない。
「私、すぐには答え出せない。でも…絶対に逃げたりはしない。」
「ズルイ、って思ってるでしょ。」
「なっ。」
ストレートに図星で対応に困る。
「でもそれ、こっちも同じだから。」
…は?
「見ず知らずの同級生がいきなり自宅訪問してくるようになって、学校来いって催促してきて、うざったくなって、でも気づいたら好きになってて。…ずるくない?」
「それは、」
「デザート買って来たよーん。」
絶妙なタイミングで二人は帰って来た。それぞれ両手にミニストップのハロハロを手にしている。
「夏にソフトクリーム系はヤバイっすね~。溶けないうちにって全力で走って来たんっすけど。」
「俺、ハロハロ大好きー。」
「特にソーダ味でしょ?」
「流石百合、よく分かってらっしゃる。」
残りの四日間は勉強、勉強、勉強。時間は無慈悲に過ぎていく。そして結果は明白だった。五十音順で、一位は古川惺太郎五百点満点、二位が東条百合四百九十八点、そして私が少し離れて八位で四百八十点、ブービー賞は免れたものの、どべから三番目で開高嵐五十点。
「嵐、お前どうしたらそんな点取れるんだよ。俺よりゼロが一個も足りないじゃん。何の為の勉強会だったわけ。」
「これでも必死だったんっす…。」
そんなテスト結果が廊下に貼りだされた日の放課後だった。
「告白シーンを考えて欲しいっす!」
と嵐が両手を擦り合わせてきた。百合は塾でいなかったから、惺太郎と私二人に対しての頼み事のようだった。
「お前、何処まで馬鹿なんだよ。そのくらい自分で考えろよ。てか相手は誰なわけ。」
「そのくらい察して欲しいっす!」
「百合ね。」
私の言葉がぐさりと嵐に刺さる。
「その通りっす…。」
「はい一つ質問です嵐くーん。百合ちゃんの何処に惹かれたのかなー?」
「それは、それは…。」
嵐の放つ言葉に集中する惺太郎と私。
「海辺で見たイーカップの巨乳っす!」
「そこ!?」
私は思わずがくっと崩れ落ちる。しかし惺太郎は納得したようだった。
「確かに百合のきょにゅーっぷりは最近目立つ。スタイル抜群だよね。」
「分かる!?分かるか、惺太郎!」
「男なら誰でもフツーに憧れる。しかし嵐、大切なのは中身だぞ。…って、百合は確かに思いやり深く成績優秀で、文句の付け所がない奴だけど。」
私と惺太郎が考えた告白プランの設定場所は海辺の防波堤だ。夕暮れ時、日は落ちかけて、海は橙色に輝いている。急に呼び出しを食らった百合は、困惑した表情を浮かべている。
「いったい何の」
「好きーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっす!」
渾身の想いを込めた嵐の一撃に、離れた場所で見守っていた私と惺太郎は、
「やっちまったよ、あいつ。」
と半分笑いながらも、百合の反応を伺っていた。
「おっ、おう。」
戸惑い気味の百合だが、嫌ではなさそうだ。
「私で良ければ、よろしく。」
顔を赤く染めて、百合は視線を逸らす。嵐はガッツポーズを決めた。
本当に分かりやすい奴だなぁ、とその素直さに、私は少し憧れに近い気持ちを抱いてしまう。私も嵐みたいになれたら良いのに。
「カップルが一組できてしまいましたね、真琴サン?」
「だから、何。」
言いたいことは分かってる。私の気持ちは形になっている。でも口にしたら、それは壊れてしまいそうで。
背後から影が落ちた。振り返ると、惺太郎が立ち尽くしていた。
「待つって約束したけど、俺やっぱり、もう、待てない。」
鼓動が高鳴る。惺太郎の顔が急接近する。待て待て待て待てこの展開。
「惺ちゃん。夕食の時間よ。」
思わぬ真珠の登場に、私は一気に現実に引き戻される。
「分かってるよ、母さん。」
やはり惺太郎は真珠を、いや母親を選んだ。その事実だけが私の胸に突き刺さる。期待していたのか失望したのか、よく分からなくなってきた。
「惺太郎。」
いつかのように手を繋いで去ろうとする惺太郎と真珠に、私は精一杯の一言をかけた。
「今度の花火大会、良かったら、一緒に行こ。嵐も百合も誘って。その、嫌じゃ、なければ。」
「…分かった。考えておく。」
しまった、ラインで誘えばよかったのにと後で後悔した。
家に帰り、布団の上でスマホごと顔を突っ伏した。ああ、やっぱりラインで誘うべきだった。
「真琴~晩飯食わないと餓死するぞ~。」
そんな父の呑気な言葉が台所から響いてくる。
「はーい。今行く。」
実は我が家も父子家庭だ。母親は私が生まれると同時に亡くなったと父から聞かされている。
「元気ないなぁ、真琴。恋の悩みか?」
「ちっがうよ!」
何処までもマイペースな父だ。
「…今日の味噌汁、いつもより美味しいね。」
「おっ、気づいたか。実は煮干しと昆布ダブルで出汁をとってみたんだ。美味いか?」
「お母さんがいたら、また別の味になってたのかな。」
「そりゃそうだろうなぁ。」
「…ってゴメン、卑下するつもりはなくて!」
「分かってるさ。でも確かに、お母さんが生きてたら、それはそれで、また別の味が存在したんだろうなぁ。」
「美味しい。」
私はずずっと味噌汁をすすった。
スマホ画面に夢中になる私。「真琴~風呂入らんのか~。」という父の声が一階から聞こえる。「先に桜(さくら)が入るぞ~。」とも言っている。私は、「うんー、いいよってお姉ちゃんに伝えてー。」と返す。
「ありゃ重症ねぇ。」
「やっぱり恋の悩みだと思うか?桜。」
「お年頃だもの。確実でしょ。」
姉の桜は私と三つ上の大学二年生だ。
「真琴のハートを射止めたのはどんな子なのか、少し気になるわねぇ。」
惺》熱下がった?
私はおでこに冷えピタを貼りながら、布団の中でげほげほと咳をしていた。風邪を引いてしまったのだ。
真》私から誘ったのに、行けなくてゴメン。
惺》仕方ないじゃん。嵐と百合に二人っきりのデートをプレゼントできて、今年はそれで良くね?花火大会は来年もあるし。
真》来年、一緒に花火見れるかな。
惺》花火は毎年あるから。逃げねーよ。
ああ、私って本当に面目ない。
「真琴~お父さん手作りの卵雑炊持ってきたぞ~。入っていいか~?」
とっさにスマホを布団の中に隠し、
「うん、入っゲホッて。ありが…ゴホッとう。」
と応える。
「熱は下がったか?」
「うん。咳がゴホッゴホッ止まらないっゲホッけど。」
「安静にしてるんだぞ~。スマホをいじるのも程々にな~。」
バレてたか。
「いやぁ、今年の花火大会は例年と違って風流だったっす!」
「本来は八月開催だけど台風で延期したって訳アリだったからね。」
「でも百合の浴衣姿が見れなかったのが残念っす…。」
「わーかった。来年は着てくるよ。」
惺太郎が頬杖を突きながら、
「真琴の浴衣姿も俺は見てみたいな。」
とさり気なくリクエストしてくる。
…家に浴衣あったかな。最悪、お姉ちゃんのを借りよう。
そんなこんなで夏はあっという間に過ぎ去り、学校には文化祭のシーズンが訪れようとしていた。うちのクラスは、ファイナルファンタジーⅦ喫茶で決まりだった。スタイル抜群の百合は、男子生徒からの熱いリクエストを受けティファ。嵐は自慢の筋肉を活かし、ザックス。私はショートスタイルが似合うからとユフィ。惺太郎に限っては、なんとヴィンセントという配役が決まったのだった。
「まだクラウドの方が良かったな。俺金髪だし、髪ツンツンさせるだけで済むじゃん。」
と惺太郎は文句たらたらだったが、女子生徒は皆、
「絶対絵になるから!」
と口を揃えるのだった。
そしてそれは、現実となった。ヴィンセントに扮した惺太郎には、他校からの生徒も含め、男女問わず一枚千円のチェキに長蛇の列ができた。黒と深紅のコントラストがやけに映えている。いつもの金髪不良の惺太郎とはまた別人だ。
「惺太郎君、こっち向いて!」
「腕組んでいいですか!?」
「目線くださいっ!」
そんな声が飛び交っている。
肩に手を回したり、顔と顔を近づけたり、惺太郎はファンサたっぷりに応じていた。
「お疲れ。」
私がキンキンに冷えたオレンジジュースを持ってくると、惺太郎は大きなため息をついた。
「マジで暑い…残暑厳しい折このコスはないわ。やっぱり流石に。」
「でも似合ってるよ。」
「そりゃどうも。真琴は本当にそういうことサラッと言うよな。」
ごくごくと喉を鳴らして、惺太郎はオレンジジュースを飲み干した。
「ま、午後からの部も頑張って。」
「えぇ…。まだ続けるの。」
「仕方ないじゃん。惺太郎、売れ行き良いんだもん。」
「真琴のユフィ姿も十分似合ってるし、可愛いと思うんだけど。」
惺太郎の手が私の首筋に触れる。
「ホント、可愛い。」
鼓動が高鳴る。
「午後の部、隣にいてよ。」
そんな惺太郎の甘い囁きに、私は戸惑いを隠せなかった。
「…嫌だよ。変な誤解招いたら困るし。設定上変だし。」
惺太郎は視線を逸らした。
「あっそ。別に無理にとは言わないよ。」
ああ、どうして私、もっと素直になれないんだろう。
一方ティファに扮した百合も大好評だった。教室の隅で私と嵐は完全に裏方に回っていた。
「いやぁ…やっぱり彼女の美貌は確かなものっす。」
うんうんと頷きながら、嵐は何処か満足気だ。百合が他の男子生徒と絡もうが、嫉妬の欠片さえ見せない。
「いいの?百合を他の男子とあんなにベタベタにさせて。」
「あれはティファであって百合ではないっすよ。それに百合は浮気するようなタイプじゃないっす。」
すごい自信だ。ちょっと尊敬してしまうかもしれない。
「ユフィもいるじゃーん。ここのコス喫茶クオリティたけぇ。俺と一枚撮ってくれませーん?」
そんな声が飛んできた。正直あまり関わりたくないような、不良タイプの男子生徒だ。でも自分だけチェキを断るわけにもいかず、隣でしっかりとポーズを決めた。
「どもー。」
と男子生徒は満面の笑みで去っていく。
「俺とも記念に一枚撮らない?」
額に汗をかきながら、惺太郎が近寄って来た。ああ、こいつも不良だった。
「せっかくだから四人で一緒に」
と言いかけた嵐の頭を、百合がお盆でポーンと叩く。
「痛いっす…。」
と嵐は半べそだ。惺太郎が苦笑しながらも、
「思い出に四人で合わせ写真、いいじゃん。」
と結局四人でチェキを四枚撮ってそれぞれの思い出として持ち帰ることになった。
「結局なんやかんやで自由時間全く取れなかったっすね…。」
「仕方ないじゃん。百合も惺太郎も大人気で、今年は稼ぐ年だったとしか言いようがない。で、裏方に回るのは誰かというと私と嵐ぐらいしか手の空いてる人いなかったんだから。」
ぐちぐちと文句を並べる嵐に、百合は笑いかけた。
「来年の文化祭は、それぞれ自由時間大切にしよ。過ぎたこと嘆いても仕方ないでしょ。」
「来年は俺らも高三だから、受験で忙しいかもだけど最後の文化祭、楽しみたいよね。」
「それよりさぁ。」
百合がにやりと笑う。
「もうすぐ地元の奉納祭があるんだよね。うちらの巫女さん姿見たくない?」
「奉納祭?」
引っ越して一年も経たない私には初耳だ。
「でも私、氏子でも何でもないよ。髪もショートだし。」
「一つに結べる程度の髪の長さなら、付け毛付ければ問題ないの。氏子じゃなくても中高生の女子なら誰でも参加権あるし、あとは神主さんの見立ての問題。」
「ごめん。私無理。」
即答した私に、百合は目を瞬き、嵐は口を尖らせ、惺太郎は片眉を吊り上げる。
「本人の意志が一番大事になってくるからね…無理にとは。」
うつむく私に、百合はバシバシ肩を叩いた。
「急に変な事言い出してゴメンね!真琴。気にしないで。」
惺太郎は横目で私を見つめていた。
「私のお母さん、巫女さんだったんだよね。」
惺太郎と二人きりの帰り道、私はそっと呟いた。
「でもお父さんに出会って、お母さんはすぐに巫女さんという職業を辞めたんだ。巫女さんって職業は基本的に独身女性が対象だからね。」
「あー…そういう事情があったのか。」
惺太郎は夕暮れ雲を見つめながら、こう言った。
「お母さんみたいになりたいとは思わないの?」
「思わない。それが幸せに直結するかどうかというと、そうだとは言えないから。」
「複雑だね。」
惺太郎の言葉は淡々としていて、何処か悲し気だった。
「正直、俺は見てみたいけど。」
「…え?」
「真琴が白い衣着て、緋色の袴履いて、舞う所。なかなか絵になると思うんだよね。」
「…真珠に頼んだら。」
「無理だよ。盲目なのにどうやって舞うの。」
まあ、それはそれでごもっともだ。けど、真珠の代わりにはなりたくはなかった。
「惺太郎が私を本当に見てくれるようになったら、考えるよ。」
「うっわー。独占欲強すぎ。」
「何とでも言って!このマザコン野郎。」
惺太郎の足が止まる。
「…お母さんの写真、あるよね。」
「私の?そりゃ、アルバム探せばあると思うけど。」
「今度持ってきてよ。俺の母さんの写真も見せるから。お互い見せあいっこしよ。」
思わぬ惺太郎の提案に、私は咄嗟に、
「構わないけど。」
と応えてしまった。
「いや~巫女さん姿のお母さんは本当に凛々しくてね~。お父さん一目惚れで猛アタックしちゃったわけよ。この品の良さは真琴も譲り受けてるんじゃないかね~。」
「おっ…おお。」
でれでれ顔でアルバムをめくる父。写真に写る巫女姿の母の写真を見るのは、実は生まれて初めてだった。
待ち合わせした公園のブランコに揺られながら、私は、
「これ、約束したお母さんの写真。」
と隣惺太郎に見せた。
「面影が真琴に似てる。」
「そうかな。お姉ちゃんの方がもっと似てると思うけど。」
「ああ、お姉ちゃんいるんだ。俺は一人っ子。これが、俺の母さんの写真。」
惺太郎が見せてくれた写真には、容姿端麗な女性がピカピカのランドセルを背負った男の子と一緒に、入学式の看板の前でにっこりと微笑みを浮かべていた。
「その写真を撮った年に、母さんは亡くなったんだ。俺が七歳の時だった。」
「私のお母さんは、私が生まれるのと引き換えに亡くなったからな。全然記憶にないんだ。」
「それは悲しいね。」
「うーん…私にはそれが現実だからな。お父さんがいるから、そんなに悲しいと思ったことはないよ。」
「会いたいとは思わない?」
「いつか天国に逝ったら会えると信じてる。」
惺太郎は何処か儚げに微笑した。
「真琴は強いんだな。俺は今でも会いたいという想いが強いんだ。真珠は母さんじゃないって分かってるのに、それでも、不思議と真珠は母さんそのままの言葉を投げかけてくるから、いっつも甘えて、それに縛られてる。」
「会いたいという想いを否定する必要はないと思うよ。でも、実際今会えるかどうかは別問題でしょ。」
「…そうだな。分かってる。分かってるんだけど、気持ちが追いつかないんだよ。」
私は惺太郎に笑いかけた。
「追いつかなくていいよ。ゆっくりでいい。」
俺の父さんは大企業の社長だ。おかげで家は豪邸だし、有名な私立校に入れてもらえたし、何不自由ない生活を送れることに感謝はしている。でも、好きではない。父さんは俺に冷たいからだ。たまに家で顔を合わせても、何も話しかけてはくれない。昔からそうだった。
「ママ!パパはちっとも僕と遊んでくれない。」
と俺が口を尖らせると、母さんはいつも困ったように笑って、
「お仕事が忙しいのよ。ママと一緒に遊びましょ。」
と言うのだった。
母さんが亡くなり、父さんはますます仕事に精を出すと共に、俺には無関心だった。学校に行かなくなっても文句を言うことはなかったし、髪を染めても、ピアスを開けても、お構いなしだった。まあ、ある意味自由だ。
でも本心では、自分に興味を持って欲しいという思いも抱いていたから、俺は勉強だけは怠らなかった。父さんにとって自慢の息子でありたいという気持ちは消えなかった。それは母さんから受け継がれたものだ。「惺ちゃんは頭の良い子にならなきゃダメよ。」母さんはいつもそう言っていた。勉強さえ怠らなければ、いつか父さんは俺を認めてくれる。そう信じ続けていた。
「巫女舞、奉納させてもらえることに決まった!」
と百合は歓喜の声を上げていた。
「去年は榊の舞だったんだけど、今年は鈴の舞を奉納させてもらえるって。見に来てくれる!?」
「行くっす!行くっす!」
と嵐は興奮していた。私はお母さんの巫女姿を思い出しながら、
「見るだけなら私も行こうかなぁ。」
とぼやいた。
「俺も暇だし、見に行くよ。稲荷神社だっけ。」
「私、稽古頑張るね!」
と百合は嬉しそうだった。
「巫女舞かぁ。私も若かったらやりたかったなぁ。」
とお姉ちゃんは夕食のポテトサラダを食べながら、そう呟いた。
「お姉ちゃんはお母さんの思い出って、あるの?」
「そりゃあるよ。幼稚園の運動会でかけっこして一番になって、めちゃめちゃ褒めてくれたこととか。」
「ふぅん。」
サクサクのアジフライにかぶりつきながら、私が、
「私はお父さんとの思い出しかないなぁ。」
と言うとお姉ちゃんは吹き出した。
「当たり前でしょ。真琴が生まれてすぐにお母さんは亡くなったんだもの。記憶になくて当然よ。」
そこでお父さんが箸で私の胸を指した。
「真琴、お母さんの命がそこに宿ってることを忘れるなよ。」
父の決まり文句だ。
「はいはい。御馳走様。」
と私は箸を置いて、緑茶をすすった。
学校では体育祭の季節が訪れようとしていた。私と惺太郎は足が速かったので、クラス代表のリレー選手に選ばれた。保護者席からは父の、
「真琴ぉ~!頑張れぇ~!」
という熱い声援が飛んでいた。恥ずかしいこと極まりない。来てほしくなかった。隣で、
「理想の父親像だな。」
と言う惺太郎に、思わず、
「何処が!?」
と口走ってしまった。
「ふれぇ~!ふれぇ~!真琴!」
父の声援は止まることを知らない。ああ、穴があったら入りたいとはこの事だ。惺太郎は不思議そうに首を傾げている。そうこうしている間に、バトンが渡されようとしていた。私と惺太郎は並ぶようにレースで構えた。
バトンが渡されると同時に、ダッシュする。
「速いぞ~!真琴!抜かせ抜かせ!」
そんな父のエールが背中を押す。一人、二人、と抜いた所で、私は思わずつまずき、ド派手に転んでしまった。
「真琴!」
と叫んだのは父ではなく、惺太郎だった。自分も選手で走らないといけないはずなのに、私に歩み寄り、すぐにお姫様抱っこしてきた。
「ええっ!?ちょっと、やめてよ。」
ジタバタする私を尻目に、惺太郎は保健室に直行しようとしていた。
「真琴…いつの間に良いパートナー見つけたんだ。」
と感心する父と共に、応援席からは、「ええっ。二人ってできてたの。」なんて声も聞こえる。
ああ…これは本当にマズイ。
「惺太郎、私はもう大丈夫だから。かすり傷だよ。」
「黴菌が入ると化膿するかもしれないだろ。」
そう言って、惺太郎は血で赤く滲んだ私の膝を水で綺麗に洗い流し、消毒を始めた。
「惺ちゃん。」
そこに現れたのが、真珠だった。ちょうどお昼のチャイムが鳴っていた。
「お弁当作って来たのよ。お腹空いてるでしょ。」
「今は、それどころじゃないから。真珠、一人で食べてて。」
「惺ちゃんの好きな唐揚げ入れてきたのよ。」
「真珠!」
いつもと違う態度の惺太郎に、真珠ではなく私が思わずビクッとしてしまった。
「もういいよ、真珠。」
惺太郎君は、自立しようとしているんだ。
その事実が、目には見えない惺太郎君の逞しさを感じさせた。
もう母親を必要とはしていない。
成長したんだな。私も成長しなきゃ。
消毒液の匂いで、鼻の奥がつんとした。
「らぶらぶ期真っ最中の真琴に、ビックなお知らせです。」
巫女装束に身を包んだ百合が、そっと私に耳打ちした。
「真珠、恐山に帰ってイタコとして生業を立てるって決めたみたいだよ。つまりは、惺太郎はもう、真琴が独り占めできるってわけ。」
「えっ。」
想定外の展開に私は目を丸くする。
「百合ぃ。真琴には俺の口からちゃんと言いたかったんですけど。」
と渋い顔をする惺太郎の姿がそこにはあった。
秋が訪れ、早くも冬が近づいている。私達の青春は止まらない。
「てわけで、改めて俺らの関係、もっと深いものにしてもらえませんか?」
惺太郎なりの、照り隠しが滲んだ告白だった。
「真珠がいなくて、大丈夫なの?」
「いつまでも母親に依存してたら、やっぱかっこわりぃでしょ。十七にもなるし。大人への第一歩ってことで。」
「やっるっすね!惺太郎!」
と嵐がバシバシ惺太郎の肩を叩く。
「お前は、百合の巫女さん姿しっかり目に焼き付けとけ!舞の奉納が始まるぞ!」
「お邪魔っすねー。」
と嵐は百合の待つ境内の奥へと進んで行く。
「好きだよ、真琴。」
惺太郎の言葉が胸に刺さった。私は答えた。
「ありがとう。でも、無理はしないでね。私はたぶん、惺太郎の中から真珠を失くすことはできない。」
「もう、大丈夫。俺も変わったんだよ。真琴が俺を変えたんだ。」
その言葉が、胸に刺さる。
唇が、重なった。
「元気でね、真珠。」
真珠を見送りに、三人で空港に足を運んだ時、百合はそう言って四葉のクローバーのネックレスを真珠の首にかけた。
真珠はそのネックレスを指でなぞりながら、嬉しそうに微笑んでいる。
「ありがとう。」
「年に一度くらい、恐山に行くよ。」
と惺太郎は約束していた。
もう、そんな事でいちいちやきもちを妬くほど、私も子供ではなかった。もう十七なのだ。
「俺からは、これ。何プレゼントしたら良いのか分からなくて朝、作って来たんっす。」
と嵐は特大のおにぎりをプレゼントしていた。
「ありがとう。飛行機の中で食べるね。」
と、やはり真珠は嬉しそうだ。
私は手ぶらだった代わりに思いっきり、真珠を抱きしめた。
「今まで、惺太郎を支えてくれて本当にありがとう。」
「真琴、ちゃん?怒ってないの?」
と真珠は少し意外そうな顔をしている。
「誰も怒るわけない。」
とその場の誰もが真珠を責めることはしなかった。
私達はこれから、それぞれの愛の形を探し、選んで生きていく。
飛行機が秋晴れの空を飛んでいくのを、三人でただ眺めていた。
その静けさの中に、これからの私たちの歩幅がそっと揃っていく気がした。
2
「古川(ふるかわ)惺(せい)太郎(たろう)君って、いつから不登校になっちゃったの?」
同じ当直だった東条(とうじょう)百合(ゆり)さんにさり気なく訊いてみると、目を瞬かせたあと、
「入学式からずっと来てないよ。」
という予想外の言葉が返って来た。
「そっか。片(かた)月(つき)さんは編入生だもんね、初耳か。古川君は、初等部の時はちゃんと登校してたんだけど今はリモートがメイン…というか、ほぼ登校してこないんだ。」
そこで、東条さんは声を潜めた。
「でもね、古川君って、芸能事務所からスカウトされるくらいのすっごいイケメンで、しかも家はお金持ちらしいよ。お母さんは早くに亡くなられたらしいけど、お父さんが大企業の社長さんらしくて、家もすっごい豪邸なの。惚れちゃうよねぇ。」
私は心の中で、その条件だけで惚れるか?と思ってしまった。
「片月真(ま)琴(こと)さーん、東条百合さーん、お二人さーん。」
声をかけてきたのは、筋肉隆々の体育会系の男子生徒。
「噂話が聞こえてきたっすよ?」
「だから何、開(かい)高嵐(こうあらし)君。」
むっつりとした東条さんの態度に開高君はヒュウッと口笛を吹いた。
「怒ってるんっすか?」
「ガールズトークを盗み聞きするのは良くないでしょ、嵐。」
「いやー百合って結構お喋りだなって思ってしまったんっすよ。惺太郎のことはトップシークレットっすよ?」
「いいじゃん。もう皆薄々感づいてるよ。」
はてさて。何のことだ?
「私も仲間に入れてほしい、から。これから私のことは真琴って呼び捨てで構わないよ。」
「オッケーっす!俺のことは嵐って呼んで欲しいっす。」
「返事するのは私が先でしょ?」
東条さんが開高君を肩肘で突く。
「私のことは百合って呼んでね。よろしく。」
「嵐に百合ね。よろしく。」
私は二人とがっちり握手を交わした。編入生してきて一ヵ月。ようやく友達二人をゲットして、私の心は弾んだ。
「二人共、惺太郎君の家は何処だか分かるんだよね?」
「分かる、けど。」
目を見合わせる二人。
「何考えてるんっすか?」
「いやぁ、家庭訪問してやろうかと思って。病気とかイジメとかが原因で休んでるわけじゃないんでしょ?惺太郎君って。だったら家から引っ張り出してやるのも友達の役目の一つかなって。」
嵐はゆでだこのように顔を真っ赤にして、両手で顔を覆った。
「ヤバイ。真琴って俺のタイプドストライクかもしれないっす…。」
「こらこら。」
私は軽く笑って、肩をすくめた。
「だって放っておけないじゃん、惺太郎君のこと。行こ?」
惺太郎君の家は私のオンボロアパートとはかけ離れた、高級住宅街の一角にあった。百合が言っていた通り、確かに豪邸だ。インターフォンを押すと、女性の人らしき声で返答があった。
「私、惺太郎君の同級生の片月真琴って言います。惺太郎君に会いに来ました。嵐も百合も一緒だと惺太郎君に伝えて下さい。」
「…今は会いたくないそうです。出直して下さい。」
「明日も必ず来ると伝えて下さい。」
百合は「やっぱりね。」と言った感じで、嵐は「明日もっすか…。」と頷きながら、芽生えつつある友情を噛み締めていた。
それから毎日、私は惺太郎君の家に通った。嵐は部活があり、百合は塾で一緒に来れないこともあったが私は欠かさなかった。私は帰宅部だったし、塾にも通っていなかったから、もはや惺太郎君の家に向かうのは日課と化していた。
紫陽花の淡い水色の花弁が、縁に向かって少しずつ深みを増していく季節折、私は初めて惺太郎君と対面することになった。
「本当にしっつこいな、アンタ。」
金髪にピアスを開けたいかにも不良っぽい惺太郎君は、ほう確かになかなかのイケメンだと思ってしまった。
「毎日毎日学校休む貴方様も、かなりしつこいと思うけど?」
「で、嵐と百合は?」
「今日は二人共忙しくて来れなかったみたい。でも心配してると思うよ。」
「心配はしてないと思うけど。二人とは初等部一年の時からの仲で、お互いの事情よく知ってるし。…って、人の家勝手に上がんなよ。」
「お邪魔しまーす。」
私が玄関口で靴を脱いでいると、眉間に皺を寄せたまま、惺太郎君はため息をついた。
「アンタ本当に人の話聞かねーな。」
「私の話素直に聞いてくれるなら、こっちも聞く気はあるけど。」
「はぁ?何。」
腕を組んで壁に寄りかかる彼の流れた金髪に、私は不覚にもドキッとしてしまった。
「学校、来て。」
「は?それだけ言いに来たの?」
「そうだよ。悪い?」
髪をかき上げる仕草がイケメン過ぎる。しかし、そんな恋心悟られてはなるまい。
「…俺が登校しなかったら、これからも毎日家来る気?」
「勿論。」
即答する私の心は言葉とは裏腹にドギマギしていた。この鼓動、どうかバレませんように。
「あー。くそっ。」
髪をくしゃくしゃにして、惺太郎君は叫んだ。
「行くよ,、学校。ちゃんと。毎日はキツイかもしんないけど週一は絶対通う。約束は守るからマジで部屋入んの止めて。」
「学校は毎日通うものだよ?」
「諸事情があんの。アンタも少しは譲歩して。」
膨れっ面の私に、惺太郎君は頼むと言わんばかりに頭を抱える。
「…分かった。」
「おっしゃ、取引成立な。」
「その代わりライン交換させてもらいますから。」
「…アンタ何処まで世話好きなわけ。」
担任の声が上擦る。
「えー。初等部が一緒だった子は知ってると思うけど、古川惺太郎君が登校してきてくれました。皆仲良くするように。」
いかにもお子様向けな紹介に、私は思わずため息をつく。私の左隣の席に着席した惺太郎君の金髪とピアスは光を受けてキラキラと輝いている。まるで王子様だ。整った中性的な顔立ちが見目麗しい。
惺太郎君は授業一科目目にして早くも周りと打ち解けているようだった。前の席の男子に「資料貸してー。」なんて頼んでいる。私からしたら尊敬すべきコミュニケーションスキルだ。ちらりと視線が合ったのは、私がまじまじと視線を送り過ぎたせいだろうか。思わず顔が赤くなる。ああ、これが初恋というやつだろうか。
「わー。古川君のお弁当凝ってるぅ。」
お昼休みになってそんな声が隣から聞こえてきた。
「俺の大切な人が作ってくれた手作り弁当なんで。」
その言葉に、私は飲みかけのお茶で思わずむせてしまった。母親は亡くなっているはずなのに、大切な人が作ってくれたって…家事代行サービスの人がそんなに素敵な人なのか?空想の人物にやきもちを妬いてしまう自分がいて、何だか情けなくもなって来た。
「真琴、もしかして惺太郎に惚れちゃったぁ?」
百合の無邪気な声がぐさりと心に刺さる。
「そんなこと、ナイ。」
「あるあるあるある。絶対ある~。そりゃ顔、金、家、この三拍子揃ってれば誰でも惚れるって。」
理由はそこじゃない、と突っ込みたいが言葉に出来ない。
「惺太郎~。ねぇねぇ、明日真琴とも一緒にお昼食べようよー。」
余計な事するなよ百合!さり気なく真琴とも、って言葉入ってるし!
「んー。百合の頼みなら別にいいけどー。」
そこはいいのか!?
突っ込みどころ満載だ。なんやかんやで一度登校してきたら楽しかったらしく、惺太郎は週一どころか毎日学校に来るようになっていた。謎なのは、毎日持ってくる手作り弁当だ。
「でさー、俺がパス回したわけっすよ。そしたらムリーって!」
「マジで?ヤバイな、それ。」
「えー、私は全然アリだと思うけどなぁ。」
嵐、百合、惺太郎君の三人は初等部一年からの仲だけあって、いつも話が弾むようだった。二人だったらお弁当の作り主も知っているのかもしれない。本人から聞いた方が良いかもしれないと思っていたけれど、機会があれば今度こっそり二人に聞いてやろうと心の中で呟いた。不意打ちで惺太郎君がこんな言葉を放った。
「で、真琴はどう思う?」
「え。私?」
箸からぽろりと卵焼きがこぼれ落ちる。
「ごめん、ちょっと考え事してて話題に付いて行けてなかった。」
というか、いつから私を呼び捨てで呼ぶようになったんだ。
「ふーん。」
惺太郎(と私も呼び捨てにすることにした。)は構わずお喋りを続ける。いつからだろう。こんなに彼がキラキラ輝いて見えたのは。金色(こんじき)の髪もピアスも、弾ける笑顔も、あまりにも眩しすぎる。
「夏休み、俺ん家の海辺の別荘で一週間くらい勉強会でもしね?」
「えー。そこは真っ直ぐ海で遊ぶプランっすよー。」
「嵐、うちらの学校が二期制なの忘れてない?夏休み開けたら前期テストにぶつかるよ。」
「私が編入して初めてぶつかる大舞台のテストだ…。」
「いや、だから真琴の為にも勉強会でもしよっかなって。百合は良い先生になってくれそうだし。」
確かに百合は塾の模試で常に九十点台を叩きだしてる強者だ。
「惺太郎は大丈夫なわけ?私、三人も相手に先生するほど余裕ないよ。」
「俺?大丈夫に決まってんじゃん(笑)。」
優秀な家庭教師でも雇っているのか?お弁当の作り主はその人なのだろうか。
「海は良いよ。めっちゃ澄んだ波音が絶えずすんの。集中するのに持ってこいなんだわ。」
「くぅ~。俺は泳ぎたいっす!」
打ち寄せる波が強い日差しを浴びて煌めいて見える。
「今すぐ飛び込みたいっす!」
「と言ってる嵐君。この海域の名前は?」
「東シナ海!」
「ブー。日本海です。中一レベルの問題です。取り合えず別荘紹介するね、窓から見える景色は絶景。」
窓を開けた瞬間、潮の匂いがふわりと流れ込んできた。白いカーテンが風に揺れて、まるで海の呼吸と部屋がつながったみたいだ。陽光を跳ね返す日本海は波が砕けるたび、光の粒が散って、まるで海が笑っているように見えた。
「寝室は流石に男女別の方が良いと思うから、真琴と百合は隣の部屋で寝て。ベットや布団は揃って寝るだけになってるから。…って嵐!冷蔵庫に入ってるコーラ全部飲みやがったら絞めるからな。」
国語、数学、英語、理科、社会。勉強はやってもやっても終わらない。
「海入んないっすか?ね?ちょっとだけ、ちょっとだけっすから!」
を嵐はずっと連呼している。
「あのなぁ、テスト結果は廊下に堂々と貼りだされるんだぞ、嵐。ブービー賞だったら泣きたくなるだろ?」
「そういう惺太郎は圏外だったけど。」
「百合。何か言った?」
「いいえ。あ、真琴、そこスペル微妙に間違ってるよ。sが抜けてる。」
遊びたい一心の嵐とは真逆に、私は真剣に勉強に取り組んでいた。
窓の外にふと目を向ける惺太郎。余裕たっぷりの様子の彼に、なんだか納得がいかない。
「…後で気分転換に海辺散策でもするか。」
惺太郎の提案に嵐が飛びつく。
「マジっすか!」
「そしたら黙って勉強しろよ、本来の目的はそこなんだから。」
「海っすよ海!海!三人は入らないっすか?」
「海パン用意してきたのはお前くらいだろ、嵐。」
「少なくとも私は、水着持ってきてない。」
と私は冷静に返す。百合はにやりと笑う。
「水着、持ってきちゃった。しかもおニューのビキニ。」
実は遊ぶ気満々だった様子の二人に、私と惺太郎は呆れ顔になる。
「二人共、溺れても知らないからな。浅瀬で泳げよ。」
「了解っす!」
「私、着替えてくるね!」
惺太郎と私は二人きりになってしまった。海の彼方を見つめて、惺太郎が指を指す。
「空と海の境目って分かる?すっごい綺麗だろ。」
言葉では表せない、光を反射した透明な澄んだ青と青の世界。その境目は、確かによく分からない。
「綺麗だね。」
潮の匂いと共に、風が彼の金髪を揺らす。その横顔は何処か憂いを帯びて見えた。
「惺太郎が一緒だと、学校、楽しいよ。」
「何。俺がいないと淋しいわけ?」
からかい混じりの惺太郎だったが、私は真剣に、
「淋しいよ。」
と応えていた。
目を点にする惺太郎。
「淋しい、ね。…俺がいなくても平気な人もいると思うけど。」
「…え?」
「何でもない。」
勉強会初日は、結局お遊びで幕を降ろそうとしていた。かのように見えた。が、私にとって運命的な出会いを果たすことになったのは、その日の夜だった。なかなか寝付けず、窓の外をじっと見ていた所、惺太郎が誰かと二人で浜辺を歩いていたのを目撃してしまったのだ。真夜中の十二時。百合はむにゃむにゃと寝言をたてていた。
真っ白なワンピース姿の女の子と手を繋いでいる、惺太郎。まるで幽霊と一緒にいるみたいだった。居ても立っても居られず、ついには部屋を抜け出し、二人に声をかけてしまった。
「何してるの?惺太郎、その人、誰?」
私の登場が予想外だったのか、しばしたじろいだ後、惺太郎は深く息を吐いた。
「…見られたものはしょうがない。この子は海(うみ)真珠(しんじゅ)だよ。俺の大切な人。真珠、俺の友達、片月真琴が立ってるよ。」
私の視線は惺太郎と真珠の繋がれた手に釘付けになってしまった。妬いてしまう自分が腹立たしい。惺太郎は私のことなんて、何とも思っていないのかもしれないのに。
「真珠は生まれつき盲目なんだ。ね?」
真珠は微動だにしない。瞳が大きく、華奢な可愛らしい少女だった。長い黒髪がよく似合っている。生まれてこの方ショートカットで通してきた私とは正反対だ。
「惺ちゃん、そろそろ寝る時間よ。お友達をいつまでも起こしててはいけないよ。」
「ごめん、母さん。」
…母さん?何のことを言ってるんだ。
「真琴、部屋に戻って寝て。明日勉強怠ったら、また二人に遊ぶ機会を与えてしまうことになるかもしれないし。俺は真珠を置いてくる。」
波音が、遠くに聞こえた。
勉強会二日目。私は真珠のことで頭がいっぱいで勉強は上の空だった。嵐と百合は真珠の存在を知っているのだろうか?
「嵐、お前何回マイナス抜かしてるわけ。」
「棒線一本くらい多めに見てほしいっすよー。」
「そんな訳にはいかないだろ!マイナス抜けてたら完全に数式としては答えがアウトだ。」
「xとyの座標も間違ってない?嵐は本当に勉強は苦手だなぁ。」
私は〇を紙につらつらと書いていた。
「て…真琴は真琴で、何書いてるの?」
「真珠…ってあ、ごめん。何でもない。」
「真珠に会ったの?」
百合の言葉に、その場が凍り付く。
「昨日の夜、一緒に散歩してて。真琴に見つかっちゃったってわけ。」
「そっ…か。まぁ、隠しても隠し通せるもんじゃないしね。良かったんじゃない?」
「真珠とは久しく会ってないっすけど、今近くにいるんっすか?」
「俺ん家の別荘は一軒じゃないんでね。そこに泊まってるよ。」
ああ、真珠の存在は私以外の間では共有されてたんだ。〇印にペケを付けていく。
「俺から提案なんだけど、今日の夕飯は、バーベキューでもしない?道具は揃ってるし、近くのスーパー行けば買い出しもすぐに済むし。」
「いいっすね!」
嵐は俄然乗り気だ。惺太郎は笑って、シャーペンを置く。
「んじゃ、今日はここら辺で切り上げますか。」
「よっしゃー!」
「買い出しは私と真琴で済ませるから男性陣は火起こしとかよろしく。真珠も呼ぶでしょ?あの子、アレルギーとか好みとかあったっけ。」
「特にないはず。真珠は基本的に何も言わないし。」
と惺太郎は肩をすくめた。
「人参、ピーマン、玉ねぎ、椎茸、南瓜あとは…他に何がいるっけ?」
「お肉が肝心なんじゃない。」
「あーっ。そうだ、私菜食主義だから眼中になかった。」
買い物かごにぽいぽいと具材を放り込む百合。私の頭の中は手を繋ぐ昨日の二人で一杯だった。それを察してか否か、百合は、
「真珠は、イタコでもあるんだよ。前に話したと思うけど、惺太郎のお母さんは早くに亡くなってて…真珠を通して惺太郎はお母さんに甘える所があるの。昨日何を見たかは知らないけど、あまり気にしない方がいいよ。」
と言って来た。
「イタコ…ね。」
じゅうじゅうとお肉と野菜が焼ける良い匂いが辺りに漂う。
「そろそろ食べますか。」
惺太郎の一声で皆揃って「頂きまーす。」と手を合わせた。
「真珠、お肉食べたいだろ?冷ますな。」
ふうふうと息を吹きかけ、真珠に対してあーんと食べさせる惺太郎。目眩がしてくる。
「惺太郎、真琴にもあーんしてあげたら?」
「ちょっ。余計な変な事言わないで、百合。」
恥ずかしさで顔が赤くなってしまう。
「別に構わないけど。あーんして欲しいの?」
からかい混じりの惺太郎に、
「結構です!」
とぴしゃりと返す。それにしても惺太郎、真珠に対しては本当に甘いな。というか、彼女も彼女で甘え過ぎではないか?という思いも出てくる。いやいや、そんな事思ってはいけない。
「エビやカニ、ホタテなんかも食べたかったっす…。せっかくの海辺なんで。」
「あー。眼中になかったわ。」
そんなやり取りをよそに、私は「飲み物取ってくる。」と一人席を立った。
ファンタのボトルを手に思わずぼーっとしてしまった。
「そんなに拗ねなくてもいいじゃん。」
後ろを振り向くと腕を組んだ惺太郎が立っていた。
「別に拗ねてないし。」
「嘘。絶対妬いてたでしょ。」
「妬いてなんかいない!」
つまずいて転びそうになり、惺太郎に寄りかかる。
「おっと。」
距離が、近い。近過ぎる。
「俺、真琴のことが好きだよ。」
「…は?」
それって告白?いやでも貴方の大切な人って真珠でしょ。
「腕離して。」
「イヤ。離れたくないもん。」
「からかうのも大概にして!」
「からかってなんかないよ。」
惺太郎の腕が私を包み込む。金髪がさらりと揺れる。
「俺、本気(マジ)だし。」
「惺ちゃん。何してるの?お友達が飲み物待ってるよ。」
「母さん?」
ほらね、やっぱり。私は惺太郎の腕をすり抜け、何処へ行くとでもなく駆け出した。
「真琴!」
背中で惺太郎の声が木霊するのだった。
彼女を追いかけようとした俺の服の裾を、真珠の手が掴んだ。
「惺ちゃん、どうしたの。」
俺は動く事が出来なかった。
部屋の片隅で、私は嗚咽した。戸を軽くノックして、百合が入って来た。
「真琴、どうしたの?」
「惺太郎のことが好き。大好きなの。でも、真珠の存在を失くすことは私には出来ない。どうすればいいのか分からない。」
転げ落ちる涙は止まることを知らない。
「その気持ち、ちゃんと惺太郎に伝えた?」
「…え。」
「想いは言葉にしなきゃ伝わらないものだよ。今すぐには言えないかもだけど、少なくとも生きてる内に伝えてあげてね。」
「お肉も野菜も焦げちゃうから持ってきたんっすけど…って、真琴泣いてる!?」
「アンタとことん空気読めない奴だね、嵐。」
「ひどいっす!」
ぎゃあぎゃあとやり取りする二人を見て、私は思わずふっと笑ってしまった。
勉強会三日目。惺太郎は朝から顔を出さなかった。
「何処で何してるんだろう、惺太郎。」
「真珠の所に会いに行ってるとかじゃないっすか?」
百合が教科書で嵐の頭を叩く。
「痛っ。」
「アンタ、デリカシーってもんはないわけ!?」
「えぇ…俺なんか悪いこと言ったっすか?」
海は好きだ。母さんの遺骨が眠っている場所でもある。
「惺太郎君、皆と勉強した方が良いと思うよ。その為にここに来てるんでしょ?」
真珠の目は光を宿さない。でもその奥で、母さんという光をたまに放つ。俺はその鎖から抜け出せずにいる。そこは自覚している。
「ちょっと息抜きしたかっただけ。昨日真琴を傷つけちゃったみたいで、どの面下げて会えば良いのか分かんないんだよね。」
「私のせい、かな。」
「それは違うよ。」
うーんと伸びをする。
「でもいつまでも逃げてるわけには行かないんだよな。ちゃんと向き合わないと。」
「そうだよ、惺太郎君。逃げてちゃダメ。」
「カレーの匂いがするのは気のせい?」
「夏と言えばやっぱカレーっすよ。」
「昨日のバーベキューの恨み節もあってシーフードカレーになりました。」
部屋の隅で私は怯えるように縮こまっていた。
「真琴、昨日のことなんだけど、」
「ちょっとうちらデザート買いに行ってくるね!」
「えっ。カレー早く食べ」
「いいから早く行くよ。惺太郎、カレー煮込むのよろしく!」
半ば強引に百合は嵐を連れて部屋を出て行った。
キッチンには私と惺太郎の二人きり。くつくつとカレーのルーをかき混ぜながら、惺太郎は静かに言葉を選んでいく。
「昨日は傷つけちゃったみたいで、ごめん。でも俺の気持ちに偽りはないから。真珠は確かに俺の大切な人だけど、それは表面上だけというか…。俺、早くに母親が亡くなってて、それから真珠が母親代わりなんだわ。かっこ悪いよな。男がいつまでも母親に依存するなんて。…よし、このくらい煮込めば十分だな。」
火を止めると、椅子を引いて腰を降ろす惺太郎。
「色々と混乱してると思うけど、気持ちが固まったら真琴からの返事聞かせて。待ってる。」
母親代わり。その言葉の重さが、ゆっくりと沈んでいく。真珠が惺太郎にとってどれほど特別で、どれほどの救いだったのか。そしてそれは今も変わらないのか。その真実で、昨日の嫉妬が急に幼く見えた。
でも、それでも。
「…惺太郎。」
名前を呼んだだけで、彼は少しだけ目を細めた。
その表情が、ずるい。
こんなの、好きにならないわけがない。
「私、すぐには答え出せない。でも…絶対に逃げたりはしない。」
「ズルイ、って思ってるでしょ。」
「なっ。」
ストレートに図星で対応に困る。
「でもそれ、こっちも同じだから。」
…は?
「見ず知らずの同級生がいきなり自宅訪問してくるようになって、学校来いって催促してきて、うざったくなって、でも気づいたら好きになってて。…ずるくない?」
「それは、」
「デザート買って来たよーん。」
絶妙なタイミングで二人は帰って来た。それぞれ両手にミニストップのハロハロを手にしている。
「夏にソフトクリーム系はヤバイっすね~。溶けないうちにって全力で走って来たんっすけど。」
「俺、ハロハロ大好きー。」
「特にソーダ味でしょ?」
「流石百合、よく分かってらっしゃる。」
残りの四日間は勉強、勉強、勉強。時間は無慈悲に過ぎていく。そして結果は明白だった。五十音順で、一位は古川惺太郎五百点満点、二位が東条百合四百九十八点、そして私が少し離れて八位で四百八十点、ブービー賞は免れたものの、どべから三番目で開高嵐五十点。
「嵐、お前どうしたらそんな点取れるんだよ。俺よりゼロが一個も足りないじゃん。何の為の勉強会だったわけ。」
「これでも必死だったんっす…。」
そんなテスト結果が廊下に貼りだされた日の放課後だった。
「告白シーンを考えて欲しいっす!」
と嵐が両手を擦り合わせてきた。百合は塾でいなかったから、惺太郎と私二人に対しての頼み事のようだった。
「お前、何処まで馬鹿なんだよ。そのくらい自分で考えろよ。てか相手は誰なわけ。」
「そのくらい察して欲しいっす!」
「百合ね。」
私の言葉がぐさりと嵐に刺さる。
「その通りっす…。」
「はい一つ質問です嵐くーん。百合ちゃんの何処に惹かれたのかなー?」
「それは、それは…。」
嵐の放つ言葉に集中する惺太郎と私。
「海辺で見たイーカップの巨乳っす!」
「そこ!?」
私は思わずがくっと崩れ落ちる。しかし惺太郎は納得したようだった。
「確かに百合のきょにゅーっぷりは最近目立つ。スタイル抜群だよね。」
「分かる!?分かるか、惺太郎!」
「男なら誰でもフツーに憧れる。しかし嵐、大切なのは中身だぞ。…って、百合は確かに思いやり深く成績優秀で、文句の付け所がない奴だけど。」
私と惺太郎が考えた告白プランの設定場所は海辺の防波堤だ。夕暮れ時、日は落ちかけて、海は橙色に輝いている。急に呼び出しを食らった百合は、困惑した表情を浮かべている。
「いったい何の」
「好きーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっす!」
渾身の想いを込めた嵐の一撃に、離れた場所で見守っていた私と惺太郎は、
「やっちまったよ、あいつ。」
と半分笑いながらも、百合の反応を伺っていた。
「おっ、おう。」
戸惑い気味の百合だが、嫌ではなさそうだ。
「私で良ければ、よろしく。」
顔を赤く染めて、百合は視線を逸らす。嵐はガッツポーズを決めた。
本当に分かりやすい奴だなぁ、とその素直さに、私は少し憧れに近い気持ちを抱いてしまう。私も嵐みたいになれたら良いのに。
「カップルが一組できてしまいましたね、真琴サン?」
「だから、何。」
言いたいことは分かってる。私の気持ちは形になっている。でも口にしたら、それは壊れてしまいそうで。
背後から影が落ちた。振り返ると、惺太郎が立ち尽くしていた。
「待つって約束したけど、俺やっぱり、もう、待てない。」
鼓動が高鳴る。惺太郎の顔が急接近する。待て待て待て待てこの展開。
「惺ちゃん。夕食の時間よ。」
思わぬ真珠の登場に、私は一気に現実に引き戻される。
「分かってるよ、母さん。」
やはり惺太郎は真珠を、いや母親を選んだ。その事実だけが私の胸に突き刺さる。期待していたのか失望したのか、よく分からなくなってきた。
「惺太郎。」
いつかのように手を繋いで去ろうとする惺太郎と真珠に、私は精一杯の一言をかけた。
「今度の花火大会、良かったら、一緒に行こ。嵐も百合も誘って。その、嫌じゃ、なければ。」
「…分かった。考えておく。」
しまった、ラインで誘えばよかったのにと後で後悔した。
家に帰り、布団の上でスマホごと顔を突っ伏した。ああ、やっぱりラインで誘うべきだった。
「真琴~晩飯食わないと餓死するぞ~。」
そんな父の呑気な言葉が台所から響いてくる。
「はーい。今行く。」
実は我が家も父子家庭だ。母親は私が生まれると同時に亡くなったと父から聞かされている。
「元気ないなぁ、真琴。恋の悩みか?」
「ちっがうよ!」
何処までもマイペースな父だ。
「…今日の味噌汁、いつもより美味しいね。」
「おっ、気づいたか。実は煮干しと昆布ダブルで出汁をとってみたんだ。美味いか?」
「お母さんがいたら、また別の味になってたのかな。」
「そりゃそうだろうなぁ。」
「…ってゴメン、卑下するつもりはなくて!」
「分かってるさ。でも確かに、お母さんが生きてたら、それはそれで、また別の味が存在したんだろうなぁ。」
「美味しい。」
私はずずっと味噌汁をすすった。
スマホ画面に夢中になる私。「真琴~風呂入らんのか~。」という父の声が一階から聞こえる。「先に桜(さくら)が入るぞ~。」とも言っている。私は、「うんー、いいよってお姉ちゃんに伝えてー。」と返す。
「ありゃ重症ねぇ。」
「やっぱり恋の悩みだと思うか?桜。」
「お年頃だもの。確実でしょ。」
姉の桜は私と三つ上の大学二年生だ。
「真琴のハートを射止めたのはどんな子なのか、少し気になるわねぇ。」
惺》熱下がった?
私はおでこに冷えピタを貼りながら、布団の中でげほげほと咳をしていた。風邪を引いてしまったのだ。
真》私から誘ったのに、行けなくてゴメン。
惺》仕方ないじゃん。嵐と百合に二人っきりのデートをプレゼントできて、今年はそれで良くね?花火大会は来年もあるし。
真》来年、一緒に花火見れるかな。
惺》花火は毎年あるから。逃げねーよ。
ああ、私って本当に面目ない。
「真琴~お父さん手作りの卵雑炊持ってきたぞ~。入っていいか~?」
とっさにスマホを布団の中に隠し、
「うん、入っゲホッて。ありが…ゴホッとう。」
と応える。
「熱は下がったか?」
「うん。咳がゴホッゴホッ止まらないっゲホッけど。」
「安静にしてるんだぞ~。スマホをいじるのも程々にな~。」
バレてたか。
「いやぁ、今年の花火大会は例年と違って風流だったっす!」
「本来は八月開催だけど台風で延期したって訳アリだったからね。」
「でも百合の浴衣姿が見れなかったのが残念っす…。」
「わーかった。来年は着てくるよ。」
惺太郎が頬杖を突きながら、
「真琴の浴衣姿も俺は見てみたいな。」
とさり気なくリクエストしてくる。
…家に浴衣あったかな。最悪、お姉ちゃんのを借りよう。
そんなこんなで夏はあっという間に過ぎ去り、学校には文化祭のシーズンが訪れようとしていた。うちのクラスは、ファイナルファンタジーⅦ喫茶で決まりだった。スタイル抜群の百合は、男子生徒からの熱いリクエストを受けティファ。嵐は自慢の筋肉を活かし、ザックス。私はショートスタイルが似合うからとユフィ。惺太郎に限っては、なんとヴィンセントという配役が決まったのだった。
「まだクラウドの方が良かったな。俺金髪だし、髪ツンツンさせるだけで済むじゃん。」
と惺太郎は文句たらたらだったが、女子生徒は皆、
「絶対絵になるから!」
と口を揃えるのだった。
そしてそれは、現実となった。ヴィンセントに扮した惺太郎には、他校からの生徒も含め、男女問わず一枚千円のチェキに長蛇の列ができた。黒と深紅のコントラストがやけに映えている。いつもの金髪不良の惺太郎とはまた別人だ。
「惺太郎君、こっち向いて!」
「腕組んでいいですか!?」
「目線くださいっ!」
そんな声が飛び交っている。
肩に手を回したり、顔と顔を近づけたり、惺太郎はファンサたっぷりに応じていた。
「お疲れ。」
私がキンキンに冷えたオレンジジュースを持ってくると、惺太郎は大きなため息をついた。
「マジで暑い…残暑厳しい折このコスはないわ。やっぱり流石に。」
「でも似合ってるよ。」
「そりゃどうも。真琴は本当にそういうことサラッと言うよな。」
ごくごくと喉を鳴らして、惺太郎はオレンジジュースを飲み干した。
「ま、午後からの部も頑張って。」
「えぇ…。まだ続けるの。」
「仕方ないじゃん。惺太郎、売れ行き良いんだもん。」
「真琴のユフィ姿も十分似合ってるし、可愛いと思うんだけど。」
惺太郎の手が私の首筋に触れる。
「ホント、可愛い。」
鼓動が高鳴る。
「午後の部、隣にいてよ。」
そんな惺太郎の甘い囁きに、私は戸惑いを隠せなかった。
「…嫌だよ。変な誤解招いたら困るし。設定上変だし。」
惺太郎は視線を逸らした。
「あっそ。別に無理にとは言わないよ。」
ああ、どうして私、もっと素直になれないんだろう。
一方ティファに扮した百合も大好評だった。教室の隅で私と嵐は完全に裏方に回っていた。
「いやぁ…やっぱり彼女の美貌は確かなものっす。」
うんうんと頷きながら、嵐は何処か満足気だ。百合が他の男子生徒と絡もうが、嫉妬の欠片さえ見せない。
「いいの?百合を他の男子とあんなにベタベタにさせて。」
「あれはティファであって百合ではないっすよ。それに百合は浮気するようなタイプじゃないっす。」
すごい自信だ。ちょっと尊敬してしまうかもしれない。
「ユフィもいるじゃーん。ここのコス喫茶クオリティたけぇ。俺と一枚撮ってくれませーん?」
そんな声が飛んできた。正直あまり関わりたくないような、不良タイプの男子生徒だ。でも自分だけチェキを断るわけにもいかず、隣でしっかりとポーズを決めた。
「どもー。」
と男子生徒は満面の笑みで去っていく。
「俺とも記念に一枚撮らない?」
額に汗をかきながら、惺太郎が近寄って来た。ああ、こいつも不良だった。
「せっかくだから四人で一緒に」
と言いかけた嵐の頭を、百合がお盆でポーンと叩く。
「痛いっす…。」
と嵐は半べそだ。惺太郎が苦笑しながらも、
「思い出に四人で合わせ写真、いいじゃん。」
と結局四人でチェキを四枚撮ってそれぞれの思い出として持ち帰ることになった。
「結局なんやかんやで自由時間全く取れなかったっすね…。」
「仕方ないじゃん。百合も惺太郎も大人気で、今年は稼ぐ年だったとしか言いようがない。で、裏方に回るのは誰かというと私と嵐ぐらいしか手の空いてる人いなかったんだから。」
ぐちぐちと文句を並べる嵐に、百合は笑いかけた。
「来年の文化祭は、それぞれ自由時間大切にしよ。過ぎたこと嘆いても仕方ないでしょ。」
「来年は俺らも高三だから、受験で忙しいかもだけど最後の文化祭、楽しみたいよね。」
「それよりさぁ。」
百合がにやりと笑う。
「もうすぐ地元の奉納祭があるんだよね。うちらの巫女さん姿見たくない?」
「奉納祭?」
引っ越して一年も経たない私には初耳だ。
「でも私、氏子でも何でもないよ。髪もショートだし。」
「一つに結べる程度の髪の長さなら、付け毛付ければ問題ないの。氏子じゃなくても中高生の女子なら誰でも参加権あるし、あとは神主さんの見立ての問題。」
「ごめん。私無理。」
即答した私に、百合は目を瞬き、嵐は口を尖らせ、惺太郎は片眉を吊り上げる。
「本人の意志が一番大事になってくるからね…無理にとは。」
うつむく私に、百合はバシバシ肩を叩いた。
「急に変な事言い出してゴメンね!真琴。気にしないで。」
惺太郎は横目で私を見つめていた。
「私のお母さん、巫女さんだったんだよね。」
惺太郎と二人きりの帰り道、私はそっと呟いた。
「でもお父さんに出会って、お母さんはすぐに巫女さんという職業を辞めたんだ。巫女さんって職業は基本的に独身女性が対象だからね。」
「あー…そういう事情があったのか。」
惺太郎は夕暮れ雲を見つめながら、こう言った。
「お母さんみたいになりたいとは思わないの?」
「思わない。それが幸せに直結するかどうかというと、そうだとは言えないから。」
「複雑だね。」
惺太郎の言葉は淡々としていて、何処か悲し気だった。
「正直、俺は見てみたいけど。」
「…え?」
「真琴が白い衣着て、緋色の袴履いて、舞う所。なかなか絵になると思うんだよね。」
「…真珠に頼んだら。」
「無理だよ。盲目なのにどうやって舞うの。」
まあ、それはそれでごもっともだ。けど、真珠の代わりにはなりたくはなかった。
「惺太郎が私を本当に見てくれるようになったら、考えるよ。」
「うっわー。独占欲強すぎ。」
「何とでも言って!このマザコン野郎。」
惺太郎の足が止まる。
「…お母さんの写真、あるよね。」
「私の?そりゃ、アルバム探せばあると思うけど。」
「今度持ってきてよ。俺の母さんの写真も見せるから。お互い見せあいっこしよ。」
思わぬ惺太郎の提案に、私は咄嗟に、
「構わないけど。」
と応えてしまった。
「いや~巫女さん姿のお母さんは本当に凛々しくてね~。お父さん一目惚れで猛アタックしちゃったわけよ。この品の良さは真琴も譲り受けてるんじゃないかね~。」
「おっ…おお。」
でれでれ顔でアルバムをめくる父。写真に写る巫女姿の母の写真を見るのは、実は生まれて初めてだった。
待ち合わせした公園のブランコに揺られながら、私は、
「これ、約束したお母さんの写真。」
と隣惺太郎に見せた。
「面影が真琴に似てる。」
「そうかな。お姉ちゃんの方がもっと似てると思うけど。」
「ああ、お姉ちゃんいるんだ。俺は一人っ子。これが、俺の母さんの写真。」
惺太郎が見せてくれた写真には、容姿端麗な女性がピカピカのランドセルを背負った男の子と一緒に、入学式の看板の前でにっこりと微笑みを浮かべていた。
「その写真を撮った年に、母さんは亡くなったんだ。俺が七歳の時だった。」
「私のお母さんは、私が生まれるのと引き換えに亡くなったからな。全然記憶にないんだ。」
「それは悲しいね。」
「うーん…私にはそれが現実だからな。お父さんがいるから、そんなに悲しいと思ったことはないよ。」
「会いたいとは思わない?」
「いつか天国に逝ったら会えると信じてる。」
惺太郎は何処か儚げに微笑した。
「真琴は強いんだな。俺は今でも会いたいという想いが強いんだ。真珠は母さんじゃないって分かってるのに、それでも、不思議と真珠は母さんそのままの言葉を投げかけてくるから、いっつも甘えて、それに縛られてる。」
「会いたいという想いを否定する必要はないと思うよ。でも、実際今会えるかどうかは別問題でしょ。」
「…そうだな。分かってる。分かってるんだけど、気持ちが追いつかないんだよ。」
私は惺太郎に笑いかけた。
「追いつかなくていいよ。ゆっくりでいい。」
俺の父さんは大企業の社長だ。おかげで家は豪邸だし、有名な私立校に入れてもらえたし、何不自由ない生活を送れることに感謝はしている。でも、好きではない。父さんは俺に冷たいからだ。たまに家で顔を合わせても、何も話しかけてはくれない。昔からそうだった。
「ママ!パパはちっとも僕と遊んでくれない。」
と俺が口を尖らせると、母さんはいつも困ったように笑って、
「お仕事が忙しいのよ。ママと一緒に遊びましょ。」
と言うのだった。
母さんが亡くなり、父さんはますます仕事に精を出すと共に、俺には無関心だった。学校に行かなくなっても文句を言うことはなかったし、髪を染めても、ピアスを開けても、お構いなしだった。まあ、ある意味自由だ。
でも本心では、自分に興味を持って欲しいという思いも抱いていたから、俺は勉強だけは怠らなかった。父さんにとって自慢の息子でありたいという気持ちは消えなかった。それは母さんから受け継がれたものだ。「惺ちゃんは頭の良い子にならなきゃダメよ。」母さんはいつもそう言っていた。勉強さえ怠らなければ、いつか父さんは俺を認めてくれる。そう信じ続けていた。
「巫女舞、奉納させてもらえることに決まった!」
と百合は歓喜の声を上げていた。
「去年は榊の舞だったんだけど、今年は鈴の舞を奉納させてもらえるって。見に来てくれる!?」
「行くっす!行くっす!」
と嵐は興奮していた。私はお母さんの巫女姿を思い出しながら、
「見るだけなら私も行こうかなぁ。」
とぼやいた。
「俺も暇だし、見に行くよ。稲荷神社だっけ。」
「私、稽古頑張るね!」
と百合は嬉しそうだった。
「巫女舞かぁ。私も若かったらやりたかったなぁ。」
とお姉ちゃんは夕食のポテトサラダを食べながら、そう呟いた。
「お姉ちゃんはお母さんの思い出って、あるの?」
「そりゃあるよ。幼稚園の運動会でかけっこして一番になって、めちゃめちゃ褒めてくれたこととか。」
「ふぅん。」
サクサクのアジフライにかぶりつきながら、私が、
「私はお父さんとの思い出しかないなぁ。」
と言うとお姉ちゃんは吹き出した。
「当たり前でしょ。真琴が生まれてすぐにお母さんは亡くなったんだもの。記憶になくて当然よ。」
そこでお父さんが箸で私の胸を指した。
「真琴、お母さんの命がそこに宿ってることを忘れるなよ。」
父の決まり文句だ。
「はいはい。御馳走様。」
と私は箸を置いて、緑茶をすすった。
学校では体育祭の季節が訪れようとしていた。私と惺太郎は足が速かったので、クラス代表のリレー選手に選ばれた。保護者席からは父の、
「真琴ぉ~!頑張れぇ~!」
という熱い声援が飛んでいた。恥ずかしいこと極まりない。来てほしくなかった。隣で、
「理想の父親像だな。」
と言う惺太郎に、思わず、
「何処が!?」
と口走ってしまった。
「ふれぇ~!ふれぇ~!真琴!」
父の声援は止まることを知らない。ああ、穴があったら入りたいとはこの事だ。惺太郎は不思議そうに首を傾げている。そうこうしている間に、バトンが渡されようとしていた。私と惺太郎は並ぶようにレースで構えた。
バトンが渡されると同時に、ダッシュする。
「速いぞ~!真琴!抜かせ抜かせ!」
そんな父のエールが背中を押す。一人、二人、と抜いた所で、私は思わずつまずき、ド派手に転んでしまった。
「真琴!」
と叫んだのは父ではなく、惺太郎だった。自分も選手で走らないといけないはずなのに、私に歩み寄り、すぐにお姫様抱っこしてきた。
「ええっ!?ちょっと、やめてよ。」
ジタバタする私を尻目に、惺太郎は保健室に直行しようとしていた。
「真琴…いつの間に良いパートナー見つけたんだ。」
と感心する父と共に、応援席からは、「ええっ。二人ってできてたの。」なんて声も聞こえる。
ああ…これは本当にマズイ。
「惺太郎、私はもう大丈夫だから。かすり傷だよ。」
「黴菌が入ると化膿するかもしれないだろ。」
そう言って、惺太郎は血で赤く滲んだ私の膝を水で綺麗に洗い流し、消毒を始めた。
「惺ちゃん。」
そこに現れたのが、真珠だった。ちょうどお昼のチャイムが鳴っていた。
「お弁当作って来たのよ。お腹空いてるでしょ。」
「今は、それどころじゃないから。真珠、一人で食べてて。」
「惺ちゃんの好きな唐揚げ入れてきたのよ。」
「真珠!」
いつもと違う態度の惺太郎に、真珠ではなく私が思わずビクッとしてしまった。
「もういいよ、真珠。」
惺太郎君は、自立しようとしているんだ。
その事実が、目には見えない惺太郎君の逞しさを感じさせた。
もう母親を必要とはしていない。
成長したんだな。私も成長しなきゃ。
消毒液の匂いで、鼻の奥がつんとした。
「らぶらぶ期真っ最中の真琴に、ビックなお知らせです。」
巫女装束に身を包んだ百合が、そっと私に耳打ちした。
「真珠、恐山に帰ってイタコとして生業を立てるって決めたみたいだよ。つまりは、惺太郎はもう、真琴が独り占めできるってわけ。」
「えっ。」
想定外の展開に私は目を丸くする。
「百合ぃ。真琴には俺の口からちゃんと言いたかったんですけど。」
と渋い顔をする惺太郎の姿がそこにはあった。
秋が訪れ、早くも冬が近づいている。私達の青春は止まらない。
「てわけで、改めて俺らの関係、もっと深いものにしてもらえませんか?」
惺太郎なりの、照り隠しが滲んだ告白だった。
「真珠がいなくて、大丈夫なの?」
「いつまでも母親に依存してたら、やっぱかっこわりぃでしょ。十七にもなるし。大人への第一歩ってことで。」
「やっるっすね!惺太郎!」
と嵐がバシバシ惺太郎の肩を叩く。
「お前は、百合の巫女さん姿しっかり目に焼き付けとけ!舞の奉納が始まるぞ!」
「お邪魔っすねー。」
と嵐は百合の待つ境内の奥へと進んで行く。
「好きだよ、真琴。」
惺太郎の言葉が胸に刺さった。私は答えた。
「ありがとう。でも、無理はしないでね。私はたぶん、惺太郎の中から真珠を失くすことはできない。」
「もう、大丈夫。俺も変わったんだよ。真琴が俺を変えたんだ。」
その言葉が、胸に刺さる。
唇が、重なった。
「元気でね、真珠。」
真珠を見送りに、三人で空港に足を運んだ時、百合はそう言って四葉のクローバーのネックレスを真珠の首にかけた。
真珠はそのネックレスを指でなぞりながら、嬉しそうに微笑んでいる。
「ありがとう。」
「年に一度くらい、恐山に行くよ。」
と惺太郎は約束していた。
もう、そんな事でいちいちやきもちを妬くほど、私も子供ではなかった。もう十七なのだ。
「俺からは、これ。何プレゼントしたら良いのか分からなくて朝、作って来たんっす。」
と嵐は特大のおにぎりをプレゼントしていた。
「ありがとう。飛行機の中で食べるね。」
と、やはり真珠は嬉しそうだ。
私は手ぶらだった代わりに思いっきり、真珠を抱きしめた。
「今まで、惺太郎を支えてくれて本当にありがとう。」
「真琴、ちゃん?怒ってないの?」
と真珠は少し意外そうな顔をしている。
「誰も怒るわけない。」
とその場の誰もが真珠を責めることはしなかった。
私達はこれから、それぞれの愛の形を探し、選んで生きていく。
飛行機が秋晴れの空を飛んでいくのを、三人でただ眺めていた。
その静けさの中に、これからの私たちの歩幅がそっと揃っていく気がした。
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