青い勲章

 九月の試験が終わり、秋の大会シーズンが近づくころ、同級生の部員が二人増えた。

 一人は、高倉だった。一年生の中ではひときわ身体が大きく、見るからに力がありそうだった。細かいことにはこだわらず、少しぶっきらぼうなところがある。

 それまでの一年生は、空手経験者のヤマリン、静かなみやっち、少林寺拳法経験者のツケ、そして元柔道部の私という、どうにもまとまりのない顔ぶれだった。そこへ高倉が加わると、一年生の集団に急に重量感が出た。

 もう一人は、江本だった。私たちは、エンちゃんと呼んだ。目が大きく、少し飛び出して見える。人柄は優しく、話しかければいつも笑顔で答えた。ただし、身体を動かすことは、あまり得意ではなかった。

 それがはっきり分かったのは、私が一年の同級生を集めて、フットワークの練習を始めた時である。そのころ、二年生の先輩たちは練習を休みがちだった。先輩たちが来れば、練習の中心は組手になる。
 細かく練習内容を決め、足の動かし方から順番に教えるような空手道部ではなかった。
 そこで先輩たちがいない日には、私が中心になって一年生へ声をかけるようになった。

 誰かから指導役を任されたわけではない。八千円のビデオを見すぎて、自分がやりたくなっただけである。私は映像を何度も巻き戻し、選手の拳や蹴りだけでなく、攻撃へ入る前の足の動きを見ていた。

 古来の空手は、すり足を基本とする。
 だが、近代の競技空手では、ボクシングのようなフットワークが主流になっていた。いや、ボクシングよりも間合いが長く、試合時間も短い。そのぶん、動きはもっと激しい。だからといって、ただピョンピョンと跳びはねるわけではない。
 小さく、速く、足を踏み込む。
 たとえば刻み突きなら、後ろ足で畳を蹴り、前足を鋭く踏み込む。
 その前足が畳から受ける反発力を使って、拳をさらに前へ伸ばす。
 フットワークは、ただ相手との距離を調整するためのものではない。
 そう、攻撃そのものにつながっているのだ。

 私はビデオを見ながら何度も足を動かしていたので、このころには、フットワークだけならそれなりにうまくできるようになっていた。

「みんなで、これやってみよ」
 私は一年生たちの前に立ち、動きを見せた。
 構えを崩さず、小さく足を動かす。
 後ろ足で畳を蹴り、前へ踏み込む。
 後ろ足を引き寄せる。
 逆の足の動きですぐに元の間合いへ戻る。
 左右にも動く。

 ヤマリンは、町の道場へ通っていただけあって、難なくついてきた。
 みやっちも、目立たないがきちんと動く。
 ツケには少林寺拳法の癖が少し残っていた。
 身体の大きな高倉は、一歩ごとの動きに重量感があった。
 エンちゃんも、真剣な顔で私の動きをまねていた。

 ところが、しばらくすると、エンちゃんだけ動きが変になった。前へ踏み込もうとすると、手と足の動くタイミングがずれる。後ろへ下がれば、上半身だけが先に逃げる。左右へ動こうとすると、身体と足が別々の方向へ行こうとする。
 フットワークの練習だったはずなのに、エンちゃんだけ、だんだん何か別の踊りを始めたようになってきた。

 本人は真剣だった。真剣だからこそ、余計におかしかった。誰かが吹き出すと、全員が笑った。エンちゃんも、自分のどこがおかしいのかよく分からないまま、一緒に笑っていた。
 それでも練習は続けた。

 人へ教えようとすると、自分の動きについても考えなければならない。
 どちらの足で畳を蹴るのか。
 どうすれば構えを崩さずに戻れるのか。
 なぜ足を交差させてはいけないのか。
 ビデオで覚えた動きを、言葉にして一年生へ伝える。

 私はこのころから、ただ教わるだけではなく、自分で練習の方法を考え始めていた。


 そんな秋のある日、その日も二年生の先輩たちは来ていなかった。柔道場にいたのは、私たち一年生が中心だった。

 そこへ、イマリン先生とアラチ先生がやって来た。二人は、見覚えのある樹脂製の面を持っていた。春に、私の顎を壊した時と同じ面である。
 正確には、顎を壊したのは面ではない。その上から全力で拳を打ち込んだアラチである。
 アラチが面を床へ置き、大きな声を出した。
「よぉし! 試合形式でやるぞ!」

 私は、その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
――よっしゃ! きた!
 春の私は、何もできなかった。
 アラチには、猫足立ちから一気に間合いを詰められ、一発で顎を壊された。
 イマリンには、残心も取らず、極真空手のような連打で顔面を何度も打たれた。極真空手の試合には、正拳による顔面攻撃はないはずなのに、である。
 だが、あの時とは違う。
 本を読んだ。
 毎月『月刊空手道』を買った。
 八千円のビデオを何度も巻き戻した。
 スキップ蹴りを作った。
 三本連突きも、アラチに形を整えてもらった。
 間合いについても考えた。
 相手が動く前の足を見ることも覚えた。

――春のオレと、おんなじやと思うなよ!
 私は意気揚々と面をかぶった。今から考えると、試合形式の練習を迎える高校一年生の心構えとして、少し方向を間違えている。
 技術は身につけていた。
 自信もついていた。
 そして、春に先生二人から受けた仕打ちを、きっちり覚えていた。

 最初の相手は、イマリンだった。アラチが審判役として、私たちの間に立った。
 互いに礼をする。
 構える。
「始め!」

 イマリンは、両手を開いて構えた。手の高さは肩のあたり。
 腕をやや前へ伸ばし、こちらの動きを受け止めるような姿勢を取る。
 極真空手らしい構えだった。
 イマリンは、私たちが練習していたようなフットワークを使わない。足を畳からあまり浮かせず、すり足で前後へ動く。どっしりと構え、圧力をかけながら間合いを詰めてくる。

 春の私は、その圧力に何もできなかった。こちらが攻撃しようとする前に顔面へ連打を浴び、構え直しても、また面を鳴らされた。だが、今はイマリンの足の動きが見えた。
 細かいフットワークはない。前へ出る時には、すり足で距離を詰めてくる。ならば、遠い間合いを保てばよい。

 イマリンが前へ出ようとした。
 私は右の後ろ足を、左の前足へ引き寄せた。
 それと同時に、左脚を小さく蹴り上げる。
 左の三日月蹴り。
 大きく腰を回す蹴りではない。
 小さな動きで、相手の身体へ足先を差し込む。
 強く当てて一本を取るための技ではなかった。
 前へ出ようとする相手を一瞬止める。
 距離を作り直す。
 カウンターを狙って待っている相手のタイミングを外す。そのために使っていた。

 左の三日月蹴りを見せると、イマリンの動きが一瞬止まった。
 私はすぐに距離を取った。
 イマリンが、すり足で追ってくる。
 再び右足を左足へ引き寄せる。
 左脚を小さく出す。
 イマリンが、その蹴りを警戒する。
 その瞬間だった。
 私は遠い間合いから、左の刻み突きを飛ばした。
 後ろ足で畳を蹴り、左の前足を鋭く踏み込む。
 前足の反発力に乗せて、左拳を真っすぐ伸ばす。

 イマリンは小柄だった。私より腕も短い。
 イマリンの拳が届くより先に、私の左拳が透明な面を捉えた。
 バンッ。

「待て! 上段突き、一本!」アラチの声が響いた。
 春には何度も鳴らされた音を、今度は私が鳴らした。
 元の位置へ戻る。
 構える。

「始め!」
 イマリンが間合いを詰める。
 左の三日月蹴りで止める。
 すぐに距離を取る。
 遠い間合いから、また左刻み突き。
 バンッ。

「待て! 上段突き、一本!」
 二本目。
 私はますます気持ちが高ぶった。

「始め!」
 イマリンがすり足で前へ出る。
 私は下がらず、先に踏み込んだ。
 左の刻み突き。
 面が鳴る。
 さらに前へ出た。
 本来なら、一本が決まればアラチが試合を止める。だが、すべての突きが一本として取られるわけではなかった。拳が面へ当たっても、アラチが止めないことがある。一本と認められず、そのまま組手が続くこともあった。

 私はイマリンを追った。
 一発。
 もう一発。
 さらに一発。
 三本連突き。
 本来なら、一本ずつ足を入れ替え、腰を入れ、極めと残心を取る。
 一本目は右逆突き。
 二本目は足を入れ替えて左逆突き。
 三本目は再び足を入れ替えて右逆突き。
 アラチに整えてもらった技だった。

 だが、頭へ血が上った私の連突きは、次第に元の形へ戻っていった。
 右。
 左。
 また右。
 何発出したのか、自分でも分からない。

 きれいな三本連突きではない。拳を振り回しながら、力任せに間合いを詰める、最初のラッシュだった。私はイマリンを追い、顔面ばかりを打った。透明な面が何度も鳴った。
 バンッ。
 バンッ。
 バンッ。

 一本決まるたびに止められるはずの試合形式なのに、それ以上の拳が入っていた。やがて、私の左刻み突きが、もう一度きれいに面を捉えた。
「待て! 上段突き、一本!」

 三本目だった。
 試合の結果は三対〇だった。だが、私はその三本以上に、イマリンを殴っていた。
 その時、審判役のアラチが言った。
「おい、顔打つな!」

 私は動きながら、心の中で全力で突っ込んだ。
――あんた、ようそんなこと言えるなあ!

 春に、樹脂製の面の上からフルスイングの一発を叩き込み、私を一週間のヨーグルトとバナナ生活へ追い込んだ本人である。
 そのアラチが、
「顔打つな」
 と言っている。
 どの口が言うのかと思った。もちろん、口には出さなかった。いや、出せなかった。

 イマリンとの試合が終わった。
 気が付くと、イマリンとの試合で力任せに面を殴ったせいで、じんじんと拳がしびれたような感覚があった。
 私は息を切らしていた。それでも、身体の中にはまだ力が余っていた。

 春には何もできなかった相手を、今度は自分の突きで押し切った。気持ちはますます高ぶっていた。
 私はアラチの方を見た。
――よっしゃあ! 次、アラチこいやぁあ!

 もちろん、声には出していない。出していたら、組手とは別のところで勝負が始まっていたかもしれない。私は、アラチが例の猫足立ちで前へ出てくるのを待った。

 春には、あれほど威勢よく私を呼び出した。
「おぅ、瀬戸! ちょ来い!」
 あの声が、また飛んでくるものだと思っていた。

 ところがアラチは、私たちを見回して言った。
「あと、お前らやっとけよ!」
 そう言い残して、そのまま柔道場を出ていった。
――帰るんかい!

 私は、しばらくアラチが出ていった入口を見ていた。勝てたかどうかは分からない。おそらく、まだアラチの方が強かった。猫足立ちからの入りも、一発の威力も、春の私には想像できないほど鋭かった。

 それでも、春のように簡単に殴れる相手ではなくなった。アラチも、そう判断したのではないか。私は勝手にそう受け取った。

 そして、胸の中で叫んだ。
――オレは、まだまだ強なったるからなあ!

 アラチが、
「おぅ、瀬戸! ちょ来い!」
 と組手に誘うことは、二度となかった。