空手道部へ入れば、映画の主人公のように何かが変わる。高校へ入る前に『ベスト・キッド』を見た私は、心のどこかで、そんな期待をしていた。もちろん現実には、音楽に合わせて修行場面が次々と切り替わったりはしない。
入部後に待っていたのは、立ち方と突きと蹴りの反復だった。だが、私は基本練習を苦痛だとは思わなかった。中学の柔道部では、入部してしばらくの間、受け身ばかりを繰り返した。
後ろ受け身。
横受け身。
前回り受け身。
投げ技を教えてもらう前に、まず安全に倒れる方法を身体へ覚え込ませる。畳を叩き、起き上がり、また倒れる。同じ動作を延々と繰り返すことには、すでに慣れていた。
それに比べれば、空手の基本練習は、最初から相手を攻撃する姿を想像できた。前屈立ちで腰を落とし、正拳を突く。拳を腰へ引く。腰を回す。突いた腕と引いた腕を、同時に入れ替える。ただ腕を前へ出すのではない。
足で畳を押し、その力を腰へ伝え、最後に拳へ集める。
森川先輩は、一つずつ丁寧に教えてくれた。
「拳は、この二つで当てるんや」
人差し指と中指の付け根にある、二つの拳頭を指さした。拳全体をぶつけるのではない小さな二点へ力を集中させる。
ボクシングが好きだった私は、拳の握り方そのものに迷うことはなかった。それでも、同じ拳で打つ競技なのに、空手には空手独特の理屈があることが面白かった。ボクシングのパンチは、グローブを着けて打つ。空手の正拳は、むき出しの拳のどこを当てるかまで決まっている。私は人差し指と中指の拳頭を見ながら、何度も正拳を突いた。
「肩に力入りすぎや」
森川先輩に言われた。強く突こうとすると、どうしても肩へ力が入った。
「最初から力入れとったら、遅なるぞ。最後だけ締めるんや」
力を抜けば速くなる。理屈は分かる。だが、力を抜けば弱くなるような気がする。私は突く。森川先輩が直す。もう一度突く。また直される。少しずつ身体の使い方が分かってくることが楽しかった。
何かを始めると、必要以上に熱中する。昔から、そういうところがあった。熱中する方向が正しいかどうかは、あまり考えない。
同じ一年生でも、ヤマリンは最初から私たちとは少し違った。町の道場へ通っていたので、立ち方も突き方も形も知っている。少年二段といっていたが、それがすごいのかも私にはわからなかった。
先輩たちが来るまでの間、初心者の私たちはヤマリンの動きを見た。ヤマリンが腰を切って正拳を突く。空手着の袖が鳴る。
私も同じように突いてみる。私の袖は、あまり鳴らない。
力は入れている。むしろ私の方が強く突いているつもりだった。それでも、ヤマリンの方が空手らしく見えた。ただ力を込めればよいわけではない。そこが、また面白かった。
五月になると、潮見が丘高校では文化祭が開かれた。創立三年目の学校だけに、教師も生徒も、まだ学校行事に慣れていない。慣れていないからこそ、全員が妙に張り切っていた。
空手道部も、文化祭の舞台で演武を披露した。ただし、空手道部だけの発表ではなかった。なぜか、詩吟との合同発表だった。
詩吟を披露する生徒は、一人だけだった。正式な部活動だったのか、同好会だったのか、それとも個人で参加していたのかは覚えていない。その生徒は、上体と頭を大きく揺らしながら、独特の節回しで吟じていた。
「べんせーいー、しゅくー、しゅくー」
身体ごと声を絞り出すような、たいへん熱のこもった詩吟だった。
その声に合わせて、私たち空手道部員が、基本や「平安」などの形を打つのである。
私は舞台に立ちながら思っていた。
――なんで詩吟?
それ以前に、
――詩吟って、何?
高校へ入学して間もない私には、空手と詩吟がどのような理由で結びついたのか、まったく分からなかった。それでも、詩吟の生徒は真剣だった。上体と頭を揺らしながら、
「べんせーいー、しゅくー、しゅくー」
と吟じ続ける。私たちも真剣だった。
その節回しに合わせて、突き、受け、方向を変える。詩吟を知らない一年生が、一人の詩吟に合わせて空手の形を打っている。今思い返すと、かなり不思議な光景である。
もっとも、私にとって武道部が文化祭へ参加すること自体は、初めてではなかった。中学の柔道部でも、文化祭の舞台に立ったことがある。舞台の上に並んだ五人を飛び越えて、前回り受け身を披露した。
体育大会では、畳を背負ってリレーを走った。速さを競う競技で、わざわざ重い畳を担ぐ。
今から考えると、こちらも何をしていたのか、よく分からない。
詩吟に合わせて形を打ちながら、私はそんな中学時代を思い出していた。柔道も空手も、人を投げたり、突いたり、蹴ったりする。それだけを見れば、ずいぶん物騒である。けれど、形を整え、技を見せ、観客の前で演武をする。
武道には、やはり文化的な面があるのだな、と私は思った。
だから詩吟と組み合わされたのかもしれない。理屈としては、分からなくもない。
それでも当時の私の感想は、やはり、
――なんで詩吟?
だった。
もっとも、そんな少し真面目? なことを考えていたのは、空手道部の演武までだった。先輩たちの文化祭は、それだけでは終わらなかった。
羽鳥先輩は、BOØWYのコピーバンドでボーカルを務めた。白い空手着で華麗な蹴りを放っていた人が、今度はマイクを握って舞台に立っている。
長身で、髪にはパーマがかかり、襟足が長い。もともと高校生離れした雰囲気を持つ人だったが、舞台の上では、それがさらに二割ほど増して見えた。
何をさせても格好いい人は、本当に何をさせても格好いい。同じことを私がすれば、「空手部のやつが、なんか歌っとる」で終わっただろう。
その羽鳥先輩の後ろで、ドラムを叩いていたのが古賀先輩だった。茶色い長い前髪を揺らしながら、勢いよくスティックを振る。
柔道場では少し不良っぽく見えた古賀先輩が、舞台の上では、その不良っぽさを正しく使っていた。
羽鳥先輩がボーカルで、古賀先輩がドラム。なるほど、この二人は空手道部の外でも一緒にいたのか、と私は妙に納得した。
もう一人、空手道部からバンドに参加していた先輩がいた。久米先輩だった。背が高く、細身で、どこか知的に見える人だった。
羽鳥先輩が、黙って立っているだけで人の目を引くタイプなら、久米先輩は、何を考えているのか少し分からない静かな雰囲気を持っていた。
久米先輩たちのバンドは、REBECCAを演奏した。
BOØWYとREBECCA。
当時の高校生が夢中になっていた音楽が、創立三年目の高校の舞台から次々と流れてくる。
空手道部の先輩たちは、柔道場では突きや蹴りを繰り返し、文化祭になるとバンドを組んで舞台へ上がった。私が中学生のころに想像していた高校生活より、ずっと華やかだった。
久米先輩とは、この時点ではまだ、ほとんど話をしたことがなかった。ただ、空手でも音楽でも、自分なりに考えながら、真面目に取り組む人らしいことは、少しずつ分かってきた。
この先、私は久米先輩から、空手についていくつものことを教わる。役に立ったものもあった。
少々、身体にこたえたものもあった。それは、まだ先の話である。
文化祭が終わるころには、私はすっかり空手道部員になったつもりでいた。
立ち方にも慣れた。正拳突きも、最初よりは速くなった。蹴りを出せば、足もそれなりに上がった。
柔道では弱かったが、空手なら案外いけるのではないか。私は、早くもそんな勘違いを始めていた。
六月のある日、荒木先生が柔道場へ来た。荒木先生が現れると、道場の空気が変わった。
先輩たちの声が一段大きくなる。背筋が伸びる。それまで少し緩んでいた動きが、急に鋭くなる。あのアラチの前で手を抜く者はいなかった。正確には、手を抜いていると思われたくなかった。
「組手するぞ」荒木先生が言った。
私はまだ、まともな自由組手をほとんど経験していなかった。それでも、怖いより先に、少し嬉しかった。ようやく空手らしいことができる。
基本を繰り返すことも嫌いではなかったが、拳はいつか相手へ届かせるために突いている。早く実際に試してみたかった。
先生との組手では、顔面を覆う樹脂製の面を着けた。生徒同士で組手をする時には、そんなものは着けない。素顔である。ところが、先生を相手にする時だけは面を着けさせられた。
安全のためと言えば聞こえはよい。だが、こちらから見れば少しずるい。
生徒同士なら寸止めを守るのに、先生たちは面があることを理由に、遠慮なく顔面を狙ってくるのである。
透明な樹脂で顔を覆い、後頭部で固定する防具だった。もっとも、それは強い打撃を受け止めるためのものではない。高校空手は、建前としては寸止めが原則である。面は、万一の接触から顔を守る程度のものだった。少なくとも、私はそう理解していた。
荒木先生は私の前に立った。改めて向かい合うと、やはり私の方が背は高かった。身長だけなら、勝っている。入部したばかりの高校一年生が、体育教師を相手に確認できる優位は、それくらいしかなかった。
荒木先生は、普通の空手の構えとは少し違う姿勢を取った。右足へ体重を乗せ、左足を軽く前へ出す。左の踵が畳から浮いている。腰を落とし、身体を斜めに向ける。前へ出した左手は、拳を握らずに開いていた。
猫足立ち。
後に名前を知った構えである。左手を開いたまま、荒木先生は私を見た。身長では私が上なのに、やはり見下ろされている気分がした。
「来い」短く言った。
私は構えた。何を出すかまでは決めていなかった。ただ、先に動かなければならないと思った。左足を踏み込み、右の拳を出そうとした。
その瞬間だった。荒木先生の身体が、畳の上を滑った。一歩踏み込んだようには見えなかった。猫足立ちの姿勢のまま、身体全体が前へ移動した。
開いていた左手が、私の前拳を払う。次の瞬間、右の拳が顔面へ飛んできた。
樹脂製の面に、拳がまともにぶつかった。
バンッ。
面全体が顔へ押しつけられ、その衝撃が顎の奥まで突き抜けた。寸止めではなかった。防具の上からなら大丈夫だと考えたのか。もともと手加減というものが苦手だったのか。
それは分からない。
ただ、フルスイングだった。私は数歩後ろへ下がった。倒れはしなかった。
「構え崩すな!」荒木先生の声が飛んだ。
痛い。だが、痛いとは言えない。
先生との組手で殴られて、「痛いです」と言えるような空気ではなかった。
私はもう一度構えた。
目の前では、荒木先生が同じ猫足立ちをしている。左手を開き、左の踵を上げている。次も同じように入ってくるかもしれない。
分かっている。分かっているのに、動いた瞬間にはもう間に合わなかった。
前拳を払われる。
身体を崩される。
突きが飛んでくる。
アラチは短気だった。技も短気だった。
構えから攻撃までに、こちらへ考える時間をほとんど与えなかった。私は何度か前へ出た。そのたびに払われ、突かれ、崩された。
身長では私が勝っていた。
態度では負けていた。
空手でも完敗だった。
その日は、今村先生とも組手をした。普段の今村先生は、小柄で親しみやすい新任教師だった。部員たちは、本人に向かっても平気で「イマリン」と呼ぶ。だが、空手着を着て構えた今村先生に、普段の愛されキャラは通用しなかった。
私が前へ出ようとすると、先に顔面を取られた。一発入れて、残心を取って止まるのではない。そのまま二発、三発と続けてくる。極真空手のような連打だった。ただし、極真空手の試合には、正拳による顔面攻撃はない。
極真経験者の今村先生が、なぜ私の顔だけは遠慮なく連打してくるのか。当時も分からなかったし、今もよく分からない。
一度。
二度。
何度構え直しても、また透明な面が鳴った。荒木先生には、一発で顎を壊された。今村先生には、連打で自尊心を壊された。
入部して二か月ほどの高校一年生なのだから、負けて当然である。しかし当時の私は、そんな冷静な納得はしなかった。
悔しかった。
いつか、この二人に一発くらい返してやりたい。とりわけ、若くて小柄な今村先生に何もできなかったことは、私の中へしっかり残った。その悔しさが、秋の私を必要以上に熱心にすることになる。
もっとも、私の顔を何度も打ったのは二人だったが、顎を壊した犯人ははっきりしている。
アラチである。
その日の練習が終わったころには、顎の付け根が腫れていた。口を開けると痛い。上下の歯を合わせても、いつもの位置で噛み合わない。帰宅して夕食を食べようとしたが、うまく噛めなかった。
ご飯が食べられない。肉など論外だった。
その日からしばらく、私の主食はバナナとヨーグルトになった。健康的な朝食のようだが、朝も昼も夜も続けば、かなり悲しい。一本のバナナを小さくちぎり、奥歯を使わないように舌でつぶす。高校生男子の食事としては、あまりにも弱々しかった。
それを知った富田松雄が、学校で話を広めた。
「瀬戸、アラチに殴られて、飯食われへんねんて」私は被害者である。
ところが話が広まるにつれ、なぜか私の方が情けない人物になっていった。
「バナナしか食われへんらしいで」
「ヨーグルトも食うとる」情報が増えた。
間違ってはいない。間違ってはいないが、広めなくてもよい。
教室で友人から、
「顎、大丈夫か」と聞かれるたび、私は曖昧に笑った。
大丈夫ではなかった。一週間ほど、まともな食事ができなかった。今の基準で見れば、明らかにやりすぎである。
当時の基準で見ても、たぶんやりすぎだった。
それでも私は、空手道部を辞めようとは思わなかった。荒木先生が怖くなかったわけではない。猫足立ちを見るだけで、顎の付け根が痛むような気がした。
それでも、もう一度向かい合ったら、今度は一発くらい当てたいと思った。柔道では、相手と組み合っても闘志が湧かなかった。空手では、面の上から殴られて顎を腫らしても、逃げたいより先に、やり返したいと思った。そう、単純な復讐心だった。
私の中で眠っていた何かは、たしかに目を覚ました。ただし、『ベスト・キッド』で私が想像していたものより、少し凶暴だった。アラチの拳は、ずいぶん乱暴な目覚まし時計だったのである。
今になって考えると、なぜ一年生の中で私だけが、先生二人の組手相手に選ばれたのだろう。たぶん、一番頑丈そうに見えたのだ。
見立ては半分当たり、半分外れていた。
入部後に待っていたのは、立ち方と突きと蹴りの反復だった。だが、私は基本練習を苦痛だとは思わなかった。中学の柔道部では、入部してしばらくの間、受け身ばかりを繰り返した。
後ろ受け身。
横受け身。
前回り受け身。
投げ技を教えてもらう前に、まず安全に倒れる方法を身体へ覚え込ませる。畳を叩き、起き上がり、また倒れる。同じ動作を延々と繰り返すことには、すでに慣れていた。
それに比べれば、空手の基本練習は、最初から相手を攻撃する姿を想像できた。前屈立ちで腰を落とし、正拳を突く。拳を腰へ引く。腰を回す。突いた腕と引いた腕を、同時に入れ替える。ただ腕を前へ出すのではない。
足で畳を押し、その力を腰へ伝え、最後に拳へ集める。
森川先輩は、一つずつ丁寧に教えてくれた。
「拳は、この二つで当てるんや」
人差し指と中指の付け根にある、二つの拳頭を指さした。拳全体をぶつけるのではない小さな二点へ力を集中させる。
ボクシングが好きだった私は、拳の握り方そのものに迷うことはなかった。それでも、同じ拳で打つ競技なのに、空手には空手独特の理屈があることが面白かった。ボクシングのパンチは、グローブを着けて打つ。空手の正拳は、むき出しの拳のどこを当てるかまで決まっている。私は人差し指と中指の拳頭を見ながら、何度も正拳を突いた。
「肩に力入りすぎや」
森川先輩に言われた。強く突こうとすると、どうしても肩へ力が入った。
「最初から力入れとったら、遅なるぞ。最後だけ締めるんや」
力を抜けば速くなる。理屈は分かる。だが、力を抜けば弱くなるような気がする。私は突く。森川先輩が直す。もう一度突く。また直される。少しずつ身体の使い方が分かってくることが楽しかった。
何かを始めると、必要以上に熱中する。昔から、そういうところがあった。熱中する方向が正しいかどうかは、あまり考えない。
同じ一年生でも、ヤマリンは最初から私たちとは少し違った。町の道場へ通っていたので、立ち方も突き方も形も知っている。少年二段といっていたが、それがすごいのかも私にはわからなかった。
先輩たちが来るまでの間、初心者の私たちはヤマリンの動きを見た。ヤマリンが腰を切って正拳を突く。空手着の袖が鳴る。
私も同じように突いてみる。私の袖は、あまり鳴らない。
力は入れている。むしろ私の方が強く突いているつもりだった。それでも、ヤマリンの方が空手らしく見えた。ただ力を込めればよいわけではない。そこが、また面白かった。
五月になると、潮見が丘高校では文化祭が開かれた。創立三年目の学校だけに、教師も生徒も、まだ学校行事に慣れていない。慣れていないからこそ、全員が妙に張り切っていた。
空手道部も、文化祭の舞台で演武を披露した。ただし、空手道部だけの発表ではなかった。なぜか、詩吟との合同発表だった。
詩吟を披露する生徒は、一人だけだった。正式な部活動だったのか、同好会だったのか、それとも個人で参加していたのかは覚えていない。その生徒は、上体と頭を大きく揺らしながら、独特の節回しで吟じていた。
「べんせーいー、しゅくー、しゅくー」
身体ごと声を絞り出すような、たいへん熱のこもった詩吟だった。
その声に合わせて、私たち空手道部員が、基本や「平安」などの形を打つのである。
私は舞台に立ちながら思っていた。
――なんで詩吟?
それ以前に、
――詩吟って、何?
高校へ入学して間もない私には、空手と詩吟がどのような理由で結びついたのか、まったく分からなかった。それでも、詩吟の生徒は真剣だった。上体と頭を揺らしながら、
「べんせーいー、しゅくー、しゅくー」
と吟じ続ける。私たちも真剣だった。
その節回しに合わせて、突き、受け、方向を変える。詩吟を知らない一年生が、一人の詩吟に合わせて空手の形を打っている。今思い返すと、かなり不思議な光景である。
もっとも、私にとって武道部が文化祭へ参加すること自体は、初めてではなかった。中学の柔道部でも、文化祭の舞台に立ったことがある。舞台の上に並んだ五人を飛び越えて、前回り受け身を披露した。
体育大会では、畳を背負ってリレーを走った。速さを競う競技で、わざわざ重い畳を担ぐ。
今から考えると、こちらも何をしていたのか、よく分からない。
詩吟に合わせて形を打ちながら、私はそんな中学時代を思い出していた。柔道も空手も、人を投げたり、突いたり、蹴ったりする。それだけを見れば、ずいぶん物騒である。けれど、形を整え、技を見せ、観客の前で演武をする。
武道には、やはり文化的な面があるのだな、と私は思った。
だから詩吟と組み合わされたのかもしれない。理屈としては、分からなくもない。
それでも当時の私の感想は、やはり、
――なんで詩吟?
だった。
もっとも、そんな少し真面目? なことを考えていたのは、空手道部の演武までだった。先輩たちの文化祭は、それだけでは終わらなかった。
羽鳥先輩は、BOØWYのコピーバンドでボーカルを務めた。白い空手着で華麗な蹴りを放っていた人が、今度はマイクを握って舞台に立っている。
長身で、髪にはパーマがかかり、襟足が長い。もともと高校生離れした雰囲気を持つ人だったが、舞台の上では、それがさらに二割ほど増して見えた。
何をさせても格好いい人は、本当に何をさせても格好いい。同じことを私がすれば、「空手部のやつが、なんか歌っとる」で終わっただろう。
その羽鳥先輩の後ろで、ドラムを叩いていたのが古賀先輩だった。茶色い長い前髪を揺らしながら、勢いよくスティックを振る。
柔道場では少し不良っぽく見えた古賀先輩が、舞台の上では、その不良っぽさを正しく使っていた。
羽鳥先輩がボーカルで、古賀先輩がドラム。なるほど、この二人は空手道部の外でも一緒にいたのか、と私は妙に納得した。
もう一人、空手道部からバンドに参加していた先輩がいた。久米先輩だった。背が高く、細身で、どこか知的に見える人だった。
羽鳥先輩が、黙って立っているだけで人の目を引くタイプなら、久米先輩は、何を考えているのか少し分からない静かな雰囲気を持っていた。
久米先輩たちのバンドは、REBECCAを演奏した。
BOØWYとREBECCA。
当時の高校生が夢中になっていた音楽が、創立三年目の高校の舞台から次々と流れてくる。
空手道部の先輩たちは、柔道場では突きや蹴りを繰り返し、文化祭になるとバンドを組んで舞台へ上がった。私が中学生のころに想像していた高校生活より、ずっと華やかだった。
久米先輩とは、この時点ではまだ、ほとんど話をしたことがなかった。ただ、空手でも音楽でも、自分なりに考えながら、真面目に取り組む人らしいことは、少しずつ分かってきた。
この先、私は久米先輩から、空手についていくつものことを教わる。役に立ったものもあった。
少々、身体にこたえたものもあった。それは、まだ先の話である。
文化祭が終わるころには、私はすっかり空手道部員になったつもりでいた。
立ち方にも慣れた。正拳突きも、最初よりは速くなった。蹴りを出せば、足もそれなりに上がった。
柔道では弱かったが、空手なら案外いけるのではないか。私は、早くもそんな勘違いを始めていた。
六月のある日、荒木先生が柔道場へ来た。荒木先生が現れると、道場の空気が変わった。
先輩たちの声が一段大きくなる。背筋が伸びる。それまで少し緩んでいた動きが、急に鋭くなる。あのアラチの前で手を抜く者はいなかった。正確には、手を抜いていると思われたくなかった。
「組手するぞ」荒木先生が言った。
私はまだ、まともな自由組手をほとんど経験していなかった。それでも、怖いより先に、少し嬉しかった。ようやく空手らしいことができる。
基本を繰り返すことも嫌いではなかったが、拳はいつか相手へ届かせるために突いている。早く実際に試してみたかった。
先生との組手では、顔面を覆う樹脂製の面を着けた。生徒同士で組手をする時には、そんなものは着けない。素顔である。ところが、先生を相手にする時だけは面を着けさせられた。
安全のためと言えば聞こえはよい。だが、こちらから見れば少しずるい。
生徒同士なら寸止めを守るのに、先生たちは面があることを理由に、遠慮なく顔面を狙ってくるのである。
透明な樹脂で顔を覆い、後頭部で固定する防具だった。もっとも、それは強い打撃を受け止めるためのものではない。高校空手は、建前としては寸止めが原則である。面は、万一の接触から顔を守る程度のものだった。少なくとも、私はそう理解していた。
荒木先生は私の前に立った。改めて向かい合うと、やはり私の方が背は高かった。身長だけなら、勝っている。入部したばかりの高校一年生が、体育教師を相手に確認できる優位は、それくらいしかなかった。
荒木先生は、普通の空手の構えとは少し違う姿勢を取った。右足へ体重を乗せ、左足を軽く前へ出す。左の踵が畳から浮いている。腰を落とし、身体を斜めに向ける。前へ出した左手は、拳を握らずに開いていた。
猫足立ち。
後に名前を知った構えである。左手を開いたまま、荒木先生は私を見た。身長では私が上なのに、やはり見下ろされている気分がした。
「来い」短く言った。
私は構えた。何を出すかまでは決めていなかった。ただ、先に動かなければならないと思った。左足を踏み込み、右の拳を出そうとした。
その瞬間だった。荒木先生の身体が、畳の上を滑った。一歩踏み込んだようには見えなかった。猫足立ちの姿勢のまま、身体全体が前へ移動した。
開いていた左手が、私の前拳を払う。次の瞬間、右の拳が顔面へ飛んできた。
樹脂製の面に、拳がまともにぶつかった。
バンッ。
面全体が顔へ押しつけられ、その衝撃が顎の奥まで突き抜けた。寸止めではなかった。防具の上からなら大丈夫だと考えたのか。もともと手加減というものが苦手だったのか。
それは分からない。
ただ、フルスイングだった。私は数歩後ろへ下がった。倒れはしなかった。
「構え崩すな!」荒木先生の声が飛んだ。
痛い。だが、痛いとは言えない。
先生との組手で殴られて、「痛いです」と言えるような空気ではなかった。
私はもう一度構えた。
目の前では、荒木先生が同じ猫足立ちをしている。左手を開き、左の踵を上げている。次も同じように入ってくるかもしれない。
分かっている。分かっているのに、動いた瞬間にはもう間に合わなかった。
前拳を払われる。
身体を崩される。
突きが飛んでくる。
アラチは短気だった。技も短気だった。
構えから攻撃までに、こちらへ考える時間をほとんど与えなかった。私は何度か前へ出た。そのたびに払われ、突かれ、崩された。
身長では私が勝っていた。
態度では負けていた。
空手でも完敗だった。
その日は、今村先生とも組手をした。普段の今村先生は、小柄で親しみやすい新任教師だった。部員たちは、本人に向かっても平気で「イマリン」と呼ぶ。だが、空手着を着て構えた今村先生に、普段の愛されキャラは通用しなかった。
私が前へ出ようとすると、先に顔面を取られた。一発入れて、残心を取って止まるのではない。そのまま二発、三発と続けてくる。極真空手のような連打だった。ただし、極真空手の試合には、正拳による顔面攻撃はない。
極真経験者の今村先生が、なぜ私の顔だけは遠慮なく連打してくるのか。当時も分からなかったし、今もよく分からない。
一度。
二度。
何度構え直しても、また透明な面が鳴った。荒木先生には、一発で顎を壊された。今村先生には、連打で自尊心を壊された。
入部して二か月ほどの高校一年生なのだから、負けて当然である。しかし当時の私は、そんな冷静な納得はしなかった。
悔しかった。
いつか、この二人に一発くらい返してやりたい。とりわけ、若くて小柄な今村先生に何もできなかったことは、私の中へしっかり残った。その悔しさが、秋の私を必要以上に熱心にすることになる。
もっとも、私の顔を何度も打ったのは二人だったが、顎を壊した犯人ははっきりしている。
アラチである。
その日の練習が終わったころには、顎の付け根が腫れていた。口を開けると痛い。上下の歯を合わせても、いつもの位置で噛み合わない。帰宅して夕食を食べようとしたが、うまく噛めなかった。
ご飯が食べられない。肉など論外だった。
その日からしばらく、私の主食はバナナとヨーグルトになった。健康的な朝食のようだが、朝も昼も夜も続けば、かなり悲しい。一本のバナナを小さくちぎり、奥歯を使わないように舌でつぶす。高校生男子の食事としては、あまりにも弱々しかった。
それを知った富田松雄が、学校で話を広めた。
「瀬戸、アラチに殴られて、飯食われへんねんて」私は被害者である。
ところが話が広まるにつれ、なぜか私の方が情けない人物になっていった。
「バナナしか食われへんらしいで」
「ヨーグルトも食うとる」情報が増えた。
間違ってはいない。間違ってはいないが、広めなくてもよい。
教室で友人から、
「顎、大丈夫か」と聞かれるたび、私は曖昧に笑った。
大丈夫ではなかった。一週間ほど、まともな食事ができなかった。今の基準で見れば、明らかにやりすぎである。
当時の基準で見ても、たぶんやりすぎだった。
それでも私は、空手道部を辞めようとは思わなかった。荒木先生が怖くなかったわけではない。猫足立ちを見るだけで、顎の付け根が痛むような気がした。
それでも、もう一度向かい合ったら、今度は一発くらい当てたいと思った。柔道では、相手と組み合っても闘志が湧かなかった。空手では、面の上から殴られて顎を腫らしても、逃げたいより先に、やり返したいと思った。そう、単純な復讐心だった。
私の中で眠っていた何かは、たしかに目を覚ました。ただし、『ベスト・キッド』で私が想像していたものより、少し凶暴だった。アラチの拳は、ずいぶん乱暴な目覚まし時計だったのである。
今になって考えると、なぜ一年生の中で私だけが、先生二人の組手相手に選ばれたのだろう。たぶん、一番頑丈そうに見えたのだ。
見立ては半分当たり、半分外れていた。
