潮見が丘高校には、活躍した生徒を表彰する制度があった。
地区大会入賞では「あすなろ賞」、県大会入賞では「もっこく賞」、全国大会や近畿大会では「潮見が丘賞」と、実績によってランク分けされていた。
私たちは東播磨地区大会で優勝し、なぜか「もっこく賞」を受賞することになった。県大会ベスト八の実績や、創部二年目であることが考慮されたのかもしれない。
全校集会の場で、優勝した団体組手のレギュラーが表彰された。私、岡田、みやっち、ヤマリン。そして、高倉。
大会前日に喧嘩をして欠場した高倉まで表彰された。
決勝戦で大将を務め、個人優勝者を相手に負ける役目を引き受けたツケには、何もなかった。
高倉が照れ隠しに言った。
「オレ、何もしてないのに表彰されてもた」
誰も答えなかった。
表彰状と、副賞のメダルが贈られた。メダルは銀色で、ずっしりと重かった。オリンピックのメダル並みの大きさだった。
友達が受賞した「あすなろ賞」のメダルなら、見たことがあった。銅色で、小さなメダルだった。
「もっこく賞」を受賞する生徒は少なかったので、私は初めてそのメダルを見た。銀色の重みを握り締めながら、思った。
――なんで、ツケと桃井が表彰されへんねん。
素直には喜べなかった。
名前の入った表彰状はともかく、副賞のメダルはツケに渡してやりたかった。しかし、そのときの私は何もできなかった。
無理を重ねた結果、私の左足の親指は大きく変形していた。東播磨地区大会のあと、痛みもぶり返した。かろうじて体育の授業には参加できたが、動くたびに痛んだ。
空手道部には、しばらく試合の予定もなかった。私は練習を休みがちになった。それでも、今さら怪我のことを言い出せなかった。
冬休みが近づいたころ、クラスの用事で職員室へ行った。
「今日は部活に出られるんか」
マッツァンが声をかけてきた。
「今日は友達から借りたドラクエやらなあかんから、帰るわ」
マッツァンが怒った。
「そんなんやったら、辞めたらどないや」
「ああ、考えとくわ」私はすっかり不貞腐れていた。
翌日、アラチに呼び出された。
「お前、最近、部活さぼっとるらしいのう」
「今日、行きます」
相変わらず、アラチには弱かった。
冬休みは丸ごと部活を休んだ。
年が明けて、一九八八年一月。
足の痛みは消えなかった。
病院には、あまり通わなかった。
私は極度の医者嫌いだった。親の勧めで通っていた外科が、怖かったのだ。そこでは、いつも痛めた患部へ直接、太い注射を打たれた。
柔道で胸骨にひびが入ったとき、当時の私の薄い胸板へ注射針を刺された。あのときは、恐怖で身体が固まった。
今回も、左足の親指の腫れの頂点へ、ぶっすりと注射を打たれた。
それが怖すぎて、なかなか病院へ行けなかった。
それでも足の調子が良いときには、練習へ出た。久しぶりに練習へ行くと、高倉の拳が強めに私を刺した。部活をさぼりがちな私に対する、彼なりの抗議だったのだと思う。
――何も知らんくせに、お前なんかに責められたない。
私は、同じくらい強く突き返した。
二月になって、明石北陵高校との合同練習があった。
例によってヤマリンは指揮を執るのを嫌がって私に押し付けてきた。はいはい、と引き受けて練習した。練習の最後に試合を行った。
私の対戦相手は明石北陵高校のキャプテンだった。東播磨地区大会個人組手の優勝者だ。いつもの私なら張り切って「こいつに勝ったらオレがチャンピオンな!」とでも言っていただろう。
しかし、この日だけは
――今は試合したないなあ。
そんなふうに思っていた。
試合では足の怪我が気になって待ち拳に終始した。相手はスイッチを繰り返す変則タイプだったので全くタイミングが合わず、あっさりと負けた。
試合後、アラチから
「組手に精彩が無い!」と怒鳴られた。
空手を始めてから闘志が湧かないなんて、こんなことは今まで無かった。体が鈍っていたから? 足の怪我が気になるから? 両方かも知れない。
戦う気持ちが切れてしまったのだ。
後日になって、ようやく先生たちに怪我のことを話した。
イマリンは、
「お前の動きやないと思とったわ」と言った。
練習が終わり、部員全員が正座して並んでいる前で、ニッシャンが説明した。
「実は瀬戸は、秋の大会から怪我しとった。ずっと隠して練習も試合もしてきたんや。俺も、ただのさぼりやないと思とった!」
ニッシャンは涙ぐんでいた。
私は心の中で突っ込んだ。
――あんた、結構冷たい目で見てたよな。
それから、皆の空気が変わった。一人で背負い込むなよ。そう思われていることが分かった。それが、たまらなく気まずかった。
恥ずかしかった。照れくさかった。
強くありたかった私が、心配される立場になってしまった。私は、ますます部から遠ざかった。
三月。
足の調子が良かったので、久しぶりに練習へ行った。
柔軟運動で、ヤマリンが私の背中を押しながら言った。
「また練習やろうな。ほんで試合に出してもろて、頑張ろ」
毒舌で、エロガキで、弱い先輩を平気で馬鹿にするヤマリンが、最後だけはまっすぐなことを言った。
それが、私の最後の練習になった。
正式に退部するとは言わなかった。もう行かないとも言わなかった。次の練習へ行かなかった。その次も行かなかった。
私は自然に、空手道部から消えた。
空手では、相手が攻撃を始める瞬間が見えるようになった。チームの誰をどこへ置けば勝てるのかも、考えられるようになった。それでも、自分が痛いときに、「痛い」と言うことだけは、最後までできなかった。
それから卒業までの一年間、高校生活はそれなりに充実していた。春の文化祭で、私たちのクラスは人形劇を上演した。私は主演で二役を務め、賞も取った。
友達をかばい、駅前で喧嘩をしたこともあった。元気は、少し有り余っていた。制服姿だったため通報され、学校で犯人捜しが始まったときには冷や汗をかいた。
家の事情で、一人暮らしを始めた。
春には偏差値四十八まで落ち込んでいた成績も、秋には六十まで取り戻した。もっとも、そのあと油断した。推薦入試では、すべり止めまで全滅した。受かったのは、すべり止めの、さらにすべり止めだけだった。それから死ぬほど勉強し、一般入試で第一志望の大学に合格した。
しかし、その間ずっと胸に棘が刺さったような感覚があった。
そして、卒業の日を迎えた。私は春から始まる大学生活に、胸を膨らませていた。
卒業アルバムを開いた。空手道部の集合写真に、自分は写っていなかった。
胸の棘が、チクリとした。
そうして私は、潮見が丘高校を卒業した。昭和は終わり、元号は平成に変わっていた。
一九八九年五月。
私は大学生になっていた。
ひょんなことから、大学の空手道部の練習へ参加する話になり、空手着を探した。見つからなかった。メーカーもグレードも自分で選んだ空手着だった。裾と袖も母には任せず、自分でミシンを踏んで調節した。その空手着の所在さえ、分からなくなっていた。
私は思った。
――自分は、どれほど空手から遠ざかっていたのだろう。
よく考えてみると、最後の練習の日、柔道場へ置いたまま帰ったのだった。
潮見が丘高校へ電話した。久しぶりにイマリンの声を聞いた。大学はどうか、元気でやっているか。そして、空手着が必要になった経緯を話した。
大学では成り行きで日本拳法部へ入り、隣で練習していた空手道部から声をかけられた。試合形式の組手をしたことをきっかけに、練習へ参加する話になった。
イマリンにその話をすると、
「あれだけの技術あってんから、やったほうがええわ」と言われた。
空手着の話になるとイマリンは、最近まで柔道場に置いてあったのを覚えていると言った。
「言うといてーや。取りに行ってもいいっすか?」
私は軽い調子で、母校へ向かった。
イマリンと二人で柔道場へ行き、
「ないなあ」
「ないっすね」と言いながら探した。
そこへ、岡田、桃井、岩崎と、さらに下の後輩たちが入ってきた。私を見ると、驚くほど目を輝かせた。
「押忍! 瀬戸先輩!」
元気な声だった。
私は少し引いた。
――何や、こいつら。
最初は、私が難関大学へ行ったからだろうかと思った。
少し考えた。部の練習方法を作り、怪我を隠したまま皆を引っ張り、県大会ベスト八、東播磨地区大会優勝を成し遂げた先輩として、覚えていてくれたのではないか。
何も言わずに消えた私を、後輩たちは責めなかった。ただ、戻ってきた先輩として迎えてくれた。
胸に刺さっていた棘が、ポロリと抜けた気がした。
空手着は見つからなかった。結局、イマリンが自腹で新品を買ってくれた。
あれから、もう四十年近くになる。
平成も終わり、令和となった。
左足の親指には今も、第一関節の横にぽっこりとしたこぶが残っている。
「傷は男の勲章」古い精神論を思い出す。
腹を立てて、みやっちの肘を蹴った。
痛いと言えなかった。
何度も突き指をした。
骨折を隠したまま、試合へ出た。
立派な傷ではない。
意地も、怒りも、未熟さも、恥ずかしさも詰まっている。それでも私は時々、そのこぶを指でなぞる。
空手着はなくなった。ツケに渡せなかったメダルも、今はどこにあるのか分からない。仲間たちとも、それぞれの人生へ離れていった。
それでも、そのとき、私はそこにいた。
この小さなこぶだけが、それを証明してくれる。
私にとって、それは今も、
青い青春の勲章なのである。
地区大会入賞では「あすなろ賞」、県大会入賞では「もっこく賞」、全国大会や近畿大会では「潮見が丘賞」と、実績によってランク分けされていた。
私たちは東播磨地区大会で優勝し、なぜか「もっこく賞」を受賞することになった。県大会ベスト八の実績や、創部二年目であることが考慮されたのかもしれない。
全校集会の場で、優勝した団体組手のレギュラーが表彰された。私、岡田、みやっち、ヤマリン。そして、高倉。
大会前日に喧嘩をして欠場した高倉まで表彰された。
決勝戦で大将を務め、個人優勝者を相手に負ける役目を引き受けたツケには、何もなかった。
高倉が照れ隠しに言った。
「オレ、何もしてないのに表彰されてもた」
誰も答えなかった。
表彰状と、副賞のメダルが贈られた。メダルは銀色で、ずっしりと重かった。オリンピックのメダル並みの大きさだった。
友達が受賞した「あすなろ賞」のメダルなら、見たことがあった。銅色で、小さなメダルだった。
「もっこく賞」を受賞する生徒は少なかったので、私は初めてそのメダルを見た。銀色の重みを握り締めながら、思った。
――なんで、ツケと桃井が表彰されへんねん。
素直には喜べなかった。
名前の入った表彰状はともかく、副賞のメダルはツケに渡してやりたかった。しかし、そのときの私は何もできなかった。
無理を重ねた結果、私の左足の親指は大きく変形していた。東播磨地区大会のあと、痛みもぶり返した。かろうじて体育の授業には参加できたが、動くたびに痛んだ。
空手道部には、しばらく試合の予定もなかった。私は練習を休みがちになった。それでも、今さら怪我のことを言い出せなかった。
冬休みが近づいたころ、クラスの用事で職員室へ行った。
「今日は部活に出られるんか」
マッツァンが声をかけてきた。
「今日は友達から借りたドラクエやらなあかんから、帰るわ」
マッツァンが怒った。
「そんなんやったら、辞めたらどないや」
「ああ、考えとくわ」私はすっかり不貞腐れていた。
翌日、アラチに呼び出された。
「お前、最近、部活さぼっとるらしいのう」
「今日、行きます」
相変わらず、アラチには弱かった。
冬休みは丸ごと部活を休んだ。
年が明けて、一九八八年一月。
足の痛みは消えなかった。
病院には、あまり通わなかった。
私は極度の医者嫌いだった。親の勧めで通っていた外科が、怖かったのだ。そこでは、いつも痛めた患部へ直接、太い注射を打たれた。
柔道で胸骨にひびが入ったとき、当時の私の薄い胸板へ注射針を刺された。あのときは、恐怖で身体が固まった。
今回も、左足の親指の腫れの頂点へ、ぶっすりと注射を打たれた。
それが怖すぎて、なかなか病院へ行けなかった。
それでも足の調子が良いときには、練習へ出た。久しぶりに練習へ行くと、高倉の拳が強めに私を刺した。部活をさぼりがちな私に対する、彼なりの抗議だったのだと思う。
――何も知らんくせに、お前なんかに責められたない。
私は、同じくらい強く突き返した。
二月になって、明石北陵高校との合同練習があった。
例によってヤマリンは指揮を執るのを嫌がって私に押し付けてきた。はいはい、と引き受けて練習した。練習の最後に試合を行った。
私の対戦相手は明石北陵高校のキャプテンだった。東播磨地区大会個人組手の優勝者だ。いつもの私なら張り切って「こいつに勝ったらオレがチャンピオンな!」とでも言っていただろう。
しかし、この日だけは
――今は試合したないなあ。
そんなふうに思っていた。
試合では足の怪我が気になって待ち拳に終始した。相手はスイッチを繰り返す変則タイプだったので全くタイミングが合わず、あっさりと負けた。
試合後、アラチから
「組手に精彩が無い!」と怒鳴られた。
空手を始めてから闘志が湧かないなんて、こんなことは今まで無かった。体が鈍っていたから? 足の怪我が気になるから? 両方かも知れない。
戦う気持ちが切れてしまったのだ。
後日になって、ようやく先生たちに怪我のことを話した。
イマリンは、
「お前の動きやないと思とったわ」と言った。
練習が終わり、部員全員が正座して並んでいる前で、ニッシャンが説明した。
「実は瀬戸は、秋の大会から怪我しとった。ずっと隠して練習も試合もしてきたんや。俺も、ただのさぼりやないと思とった!」
ニッシャンは涙ぐんでいた。
私は心の中で突っ込んだ。
――あんた、結構冷たい目で見てたよな。
それから、皆の空気が変わった。一人で背負い込むなよ。そう思われていることが分かった。それが、たまらなく気まずかった。
恥ずかしかった。照れくさかった。
強くありたかった私が、心配される立場になってしまった。私は、ますます部から遠ざかった。
三月。
足の調子が良かったので、久しぶりに練習へ行った。
柔軟運動で、ヤマリンが私の背中を押しながら言った。
「また練習やろうな。ほんで試合に出してもろて、頑張ろ」
毒舌で、エロガキで、弱い先輩を平気で馬鹿にするヤマリンが、最後だけはまっすぐなことを言った。
それが、私の最後の練習になった。
正式に退部するとは言わなかった。もう行かないとも言わなかった。次の練習へ行かなかった。その次も行かなかった。
私は自然に、空手道部から消えた。
空手では、相手が攻撃を始める瞬間が見えるようになった。チームの誰をどこへ置けば勝てるのかも、考えられるようになった。それでも、自分が痛いときに、「痛い」と言うことだけは、最後までできなかった。
それから卒業までの一年間、高校生活はそれなりに充実していた。春の文化祭で、私たちのクラスは人形劇を上演した。私は主演で二役を務め、賞も取った。
友達をかばい、駅前で喧嘩をしたこともあった。元気は、少し有り余っていた。制服姿だったため通報され、学校で犯人捜しが始まったときには冷や汗をかいた。
家の事情で、一人暮らしを始めた。
春には偏差値四十八まで落ち込んでいた成績も、秋には六十まで取り戻した。もっとも、そのあと油断した。推薦入試では、すべり止めまで全滅した。受かったのは、すべり止めの、さらにすべり止めだけだった。それから死ぬほど勉強し、一般入試で第一志望の大学に合格した。
しかし、その間ずっと胸に棘が刺さったような感覚があった。
そして、卒業の日を迎えた。私は春から始まる大学生活に、胸を膨らませていた。
卒業アルバムを開いた。空手道部の集合写真に、自分は写っていなかった。
胸の棘が、チクリとした。
そうして私は、潮見が丘高校を卒業した。昭和は終わり、元号は平成に変わっていた。
一九八九年五月。
私は大学生になっていた。
ひょんなことから、大学の空手道部の練習へ参加する話になり、空手着を探した。見つからなかった。メーカーもグレードも自分で選んだ空手着だった。裾と袖も母には任せず、自分でミシンを踏んで調節した。その空手着の所在さえ、分からなくなっていた。
私は思った。
――自分は、どれほど空手から遠ざかっていたのだろう。
よく考えてみると、最後の練習の日、柔道場へ置いたまま帰ったのだった。
潮見が丘高校へ電話した。久しぶりにイマリンの声を聞いた。大学はどうか、元気でやっているか。そして、空手着が必要になった経緯を話した。
大学では成り行きで日本拳法部へ入り、隣で練習していた空手道部から声をかけられた。試合形式の組手をしたことをきっかけに、練習へ参加する話になった。
イマリンにその話をすると、
「あれだけの技術あってんから、やったほうがええわ」と言われた。
空手着の話になるとイマリンは、最近まで柔道場に置いてあったのを覚えていると言った。
「言うといてーや。取りに行ってもいいっすか?」
私は軽い調子で、母校へ向かった。
イマリンと二人で柔道場へ行き、
「ないなあ」
「ないっすね」と言いながら探した。
そこへ、岡田、桃井、岩崎と、さらに下の後輩たちが入ってきた。私を見ると、驚くほど目を輝かせた。
「押忍! 瀬戸先輩!」
元気な声だった。
私は少し引いた。
――何や、こいつら。
最初は、私が難関大学へ行ったからだろうかと思った。
少し考えた。部の練習方法を作り、怪我を隠したまま皆を引っ張り、県大会ベスト八、東播磨地区大会優勝を成し遂げた先輩として、覚えていてくれたのではないか。
何も言わずに消えた私を、後輩たちは責めなかった。ただ、戻ってきた先輩として迎えてくれた。
胸に刺さっていた棘が、ポロリと抜けた気がした。
空手着は見つからなかった。結局、イマリンが自腹で新品を買ってくれた。
あれから、もう四十年近くになる。
平成も終わり、令和となった。
左足の親指には今も、第一関節の横にぽっこりとしたこぶが残っている。
「傷は男の勲章」古い精神論を思い出す。
腹を立てて、みやっちの肘を蹴った。
痛いと言えなかった。
何度も突き指をした。
骨折を隠したまま、試合へ出た。
立派な傷ではない。
意地も、怒りも、未熟さも、恥ずかしさも詰まっている。それでも私は時々、そのこぶを指でなぞる。
空手着はなくなった。ツケに渡せなかったメダルも、今はどこにあるのか分からない。仲間たちとも、それぞれの人生へ離れていった。
それでも、そのとき、私はそこにいた。
この小さなこぶだけが、それを証明してくれる。
私にとって、それは今も、
青い青春の勲章なのである。
