青い勲章

 足の痛みは取れなかった。
 左足の親指に力が入らないため、何度も突き指を繰り返した。普段の私は、踏み込むとき、足の指を上へ持ち上げるようにして、低く、素早く前へ出ていた。ところが、今までどおりの感覚で踏み込むと、左足の親指を突き指してしまう。
 そのたびに、最初に感じた、
 ピキッ。
 という鋭い痛みが走った。

 左足の親指の関節の横には、こぶのような腫れができていた。
 兵庫県大会は近づいている。休むという選択肢はなかった。

――戦い方を考えなあかん。
 私は構えを変えた。
 大きく前後へ開いていた足幅を、肩幅より少し広い程度まで狭めた。それだけで、つま先への負担が少し減ったように感じた。

 極端な半身の構えもやめた。身体を正面へ近づけ、両拳を自然に高い位置へ置いた。
 相手に向ける身体の面積は広くなった。その分、ガードを上げた。

 これまでは前後の動きを重視していたが、足幅を狭くしたことで、左右にも動きやすくなった。
 そのときになって、三園学院高校との試合を思い出した。
 なぜか相手を追い切れない。
 攻撃のタイミングが合わない。
 あの違和感の正体は、相手が左右へ動き、私との間合いをわずかにずらしていたことだった。相手の方が一枚上手だった。

 新しい構えは、神槍学園高校の長谷部選手を参考にした。長谷部選手の構えには力みがなく、それでいて、どこからでも技を出せそうに見えた。
 足幅を狭くしたことで、私の腰の位置は以前より高くなった。それでも中段逆突きを出す瞬間には、上体を左へ傾け、相手の懐へ潜り込んだ。

「妖怪変化」と呼ばれながら、ほかの部員の構えを試していた経験が役に立った。

 痛めた左足で、自分から踏み込みたくない。組手相手と接触することも怖かった。だから私は、相手の方から攻めてくるように仕向けるようになった。
 かつて私が否定的に見ていた、ヤマリンの待ち拳。それを、私は自分の主戦法にした。


 練習を重ね、新しい戦い方に慣れ始めたころ、明城高校との合同練習があった。
 ヤマリンは、他校との合同練習になると、号令をかけるのを嫌がった。
「オレ、そういうのん、あかんねん。瀬戸が気合い入れたやつ、やって」
 キャプテンのくせに。
 仕方なく、私が号令をかけることになった。

 明城高校は東播磨地区大会の参加校だったが、それほど目立った成績を残している学校ではなかった。だからといって、なめられるわけにはいかない。

 私は気合いを入れて号令をかけ、潮見が丘高校のいつもの練習メニューを進めた。打ち込み練習へ入ったとき、ふと思った。
――待てよ。
――他校にまで瀬戸対策を教えて、大丈夫か?
 自分で作った練習メニューとはいえ、私の得意技ばかりである。
 その結果、打ち込みの説明をするときだけ、声が少し小さくなった。

 その後、試合形式の組手も行った。
 私の相手は、身長が軽く百八十五センチを超えていた。手足も長い。かつての私が苦手としていた、典型的な長身選手だった。
「始め!」
 イマリンが審判を務めた。

 戦い方を変えてから、初めて他校の選手と対戦する。足の痛みを忘れた。

 私は相手の前拳を左下へ押さえ、右の追い突きを出した。
 踏み込んだ後は右足が前になるため、痛めた左足の親指も怖くなかった。
「中段突き、一本!」

 続けて、三本連突きを仕掛けた。
 相手は体勢を崩し、なすすべがなかった。
「中段突き、一本!」

 二本を先取したところで、私は待ち拳へ切り替えた。
 相手が攻めてくる。
 その動きが、まるでスローモーションのように見えた。
 相手の長いリーチに合わせて、後ろ足をさらに後ろへ下げる。
 次の瞬間、前足を深く踏み込みながら、右の中段逆突きを出した。
 いち、に。
 そのタイミングで、きれいに極まった。

――よし!
――この戦法でいける!
 私は確信した。


 その秋、井岡弘樹が最年少の世界王者になった。クラスの友人三人と、ボクシングの話になった。
 私は言った。
「オレも、パンチ速いで」

 見せることになり、左ストレートをシャドーで出した。
 友人たちは、
「ああ、はいはい」と、呆れたように笑った。

 昔、漫才師のツービートが、腕を少しだけ動かして、「ほら、速すぎて見えないだろ」と言う漫才のネタがあった。私が、それをまねしていると思ったらしい。
 そこで、一人に手のひらを広げてもらった。私は、その手のひらへ左ストレートを打ち込んだ。
 パーンッ!
 乾いた音が教室に響いた。
「えぇー!」
 今度は、本当に驚いた。

 彼らには、私の拳がどこを通ったのか見えていなかった。
 私は、自分の突きのスピードにかなりの自信を持っていた。


 兵庫県大会はこの年、なぜか潮見が丘高校で開催されることになった。
 先生方の努力があったのかもしれない。
 単に押しつけられただけかもしれない。とにかく、自校開催となった。

 大会の一週間ほど前になると、引退した三年生の先輩たちが顔を出すようになった。
 柔道場まで来て、激励してくれた先輩もいた。
 空手着を着て、練習に参加してくれた先輩もいた。その違いは、今になって思えば、大学受験組と就職組の差だったのかもしれない。
 受験生にとって、秋は大切な時期である。それでも先輩たちは、柔道場まで足を運び、私たちへ声をかけてくれた。
 古賀先輩などは、日ごろの鬱憤を晴らすかのように大暴れして帰った。

 そして大会前日には、羽鳥先輩が試合形式の組手で私の相手をしてくれた。
「始め!」

 半年近くぶりに見る、羽鳥先輩の構え。
 前拳を低く下ろし、浅めの騎馬立ちで構えている。
 フットワークが重いわけではないが、基本はすり足だった。
 ゆらゆらと小刻みに首を振りながらリズムを取る姿は、獲物を狙う蛇のように見えた。

――気後れしたらあかん。
――胸を借りるつもりで、どんとぶつかっていこう。

 最近、ただならぬ痛みを感じていた左足の親指も、その日は調子がよかった。
 攻めていけそうだった。

「おう!」
 私は自分を奮い立たせるように、気合を発した。
 間合いを詰め、フェイントを出す。
 羽鳥先輩が、ぴくりと反応した。
 やはり、すんなり飛び込めばカウンターを打たれそうだった。

羽鳥先輩は前拳を低く下ろしている。
相手の前拳を押さえて入る、あのコンビネーションは使えなかった。

 私は得意の、二段踏み込みの左刻み突きへ入った。
 相手の間合いのぎりぎり手前まで踏み込み、急停止する。
 同時に、
「おう!」
 と気合を発した。
 間髪を入れず、さらに深く踏み込み、左拳を伸ばす。
 羽鳥先輩の前拳が下から伸び、私の左拳を払った。
 私はすぐに横移動を交えながら距離を取った。
 真っすぐ下がれば、羽鳥先輩の蹴りの餌食になる。

 ここで私は、牽制の左蹴りを出した。
 軸足となる後ろ足を寄せると同時に、左の前足を三日月の軌道で蹴り上げる。
 その瞬間、羽鳥先輩が前へ出た。
 小さな動きから、鋭い左拳を放つ。
 刻み突きのカウンターだった。

 長いリーチから放たれた拳が、私のあごの下、胸骨のあたりへ突き刺さった。
「中段突き、一本!」

 蹴りの名手である羽鳥先輩のお株を奪おうとした結果、逆にカウンターを食らってしまった。
――まだ、ここからや。
 これで身体の硬さが取れた。

 おそらく、これが羽鳥先輩との最後の組手になる。全力を出さなければならない。

 私はフットワークを使い、ぎりぎりの間合いを出入りした。
 常にフェイントを出す。
 互いのフェイントが何度か交錯したとき、羽鳥先輩の反応が一瞬遅れた。

――今や!
 私は、全力で最速の左刻み突きを放った。

 決まった。
 引き手を取り、残心を示す。

――よし。
――もっと羽鳥先輩に、自分の全力を見てもらうんや。
「中段突き、一本!」

 これで一対一。
 まだ続けられる。

 羽鳥先輩は、今のところ積極的に攻めてこなかった。

 私は今度、開始線から一直線に間合いを詰めた。
 少し遠い位置で左の前足だけを浅く踏み込み、右の逆突きを出す。
 羽鳥先輩の前拳に当たるかどうかという距離だった。
 羽鳥先輩が、ぴくりと反応した。
 カウンターを出すか。防御するか。
 一瞬の迷いを感じた。
 その瞬間、私は素早く後ろ足を踏み込み、左の逆突きを出した。
 まだ間合いはわずかに遠く、羽鳥先輩には届かない。
 しかし、先輩の上体はのけぞり、体勢が崩れていた。
 さらに続けて、右の逆突きを出す。
 深く踏み込んだ拳が、羽鳥先輩のみぞおちへ突き刺さった。

 引き手を戻して残心を取ろうとしたが、勢いがつきすぎて、その場で一回転した。試合で調子がよいときには、よくこうなった。
――絶好調や。

「中段突き、一本!」
 私の三本連突きが決まり、二対一となった。

 羽鳥先輩は、まだ蹴りを出していない。
――きっと、狙っとるはずや。
 ガードの上からでも、あの蹴りを食らえば大変だった。

 前蹴りを警戒し、私は横へ動いた。左へ移動すれば、相手の左回し蹴りは決まりにくくなる。
 その分、右の回し蹴りは当たりやすくなるが、それは右だけに注意すればよいともいえる。
 構えを変えてから、私は横移動がうまくなっていた。

 再び、何度目かのフェイントが交錯した。
 羽鳥先輩の長い左拳が伸びてくる。
 浅い。
 私はすでに、カウンターの中段逆突きへ入っていた。
 羽鳥先輩は左拳を引きながら、一連の動きで右拳を伸ばしてくる。
 ワンツーだった。
 私は構わず、そのまま右の中段逆突きを伸ばした。
 双方の右拳が交差する。
 わずかに、私の右拳の方が先に当たった。
 ほんの少しでも迷っていれば、羽鳥先輩の拳の方が先に届いていただろう。
「やめ! 中段突き、一本!」

 羽鳥先輩との組手は、私の勝ちで終わった。
 しかし、羽鳥先輩は得意の蹴りを一度も使わなかった。私が蹴りを警戒して動いたからだろうか。身体がなまっていたからだろうか。
 おそらく、どちらも違う。
 多くの対戦相手を悶絶させ、過剰攻撃まで取られたあの蹴りを、羽鳥先輩は私に使わなかった。
 試合前の私に怪我をさせないように。そして、自信をつけさせるように。

「ありがとうございました! 明日は優勝します!」
 それが分かっていながら、私はうれしくて、はしゃぐように言った。

「あほか。オレに勝ったぐらいで調子乗んな!」
 羽鳥先輩は、爽やかに笑った。