青い勲章

 夏休みが終わった。学校が始まった。
 久しぶりに顔を合わせるクラスメートもいた。教室では、夏休みにどこへ行った、何をしたという話が飛び交っていた。
 しかし九月になると、今年もやはり試験があった。

 試験休みに入る前、私は夏休みに編み出した新しいコンビネーションを、いろいろな相手に試していた。相手の前拳を左下へ押さえ、そのまま右の追い突きを出す。高倉のようなリーチの長い相手には有効だった。
 しかし、ヤマリンのように小回りの利く相手へ使うと、相打ちになることがあった。逆に、踏み込むところへカウンターを取られることさえあった。

――万能やない。
――使いどころを考えなあかん。

 試験休みに入ると、私は拳以外の攻撃方法について考え始めた。試験勉強をしなかったわけではない。ただ、机の上には空手の本が積まれていた。
 教科書を読む。
 少し読む。
 休憩する。
 ビデオを見る。
 空手の本を読む。
 また教科書を開く。
 今年も私は、試験休みまで空手の研究に使っていた。

 手刀や抜き手について考えた。抜き手なら、指の長さの分だけ拳より遠くへ届く。私の指なら、七センチほどリーチを伸ばせる。
――身長に換算したら、十センチ以上は稼げるんと違うか。
 勝手な計算だった。

 中段へ抜き手を突き込んでも、おそらく突き指に終わる。それなら、上段へ使えばどうだろう。素早くメンホーへ触れるだけなら、過剰な攻撃にもなりにくい。
 本来の抜き手のように真っすぐ突き込まず、指先を上へそらすように当てれば、顔面へ伝わる衝撃も指が吸収してくれるのではないか。

 攻撃が交差し、至近距離になったときには、手刀や裏拳が使えるかもしれない。
――いや、審判はポイントにしてくれへんやろな。
 しかし、どのような場面でも、最後に残心へつなげれば心証はよくなる。審判の心証を侮ってはいけない。

 考えが出そろったところで、私は安心して試験勉強を始めた。
 ところが、ふと気になった。
――なんか、ルールにあったような……。
 私は慌てて空手の本を開いた。顔面への抜き手は禁止されていた。

――あかん!
――反則負けになってしまう!

 さらに、その隣に書かれている項目が目に入った。投げ技も禁止だった。

――柔道経験を生かすこともできひん!
――考える前に見てしもた!
 もう、勉強どころではなかった。

 それから私は、至近距離で攻撃が交錯したときに、手刀打ちを出して残心を取るようになった。審判への印象づけには、多少役立ったのではないかと思う。
 しかし結局、リーチ差への対策について、それ以上の答えを出すことはできなかった。


 試験が終わった。ある意味、私も終わっていた。

 九月から、体育の授業は柔道になった。柔道部のない潮見が丘高校では、ほとんど全員が素人だった。
 そう、経験者を除いて。

 私は自信よりも、不安の方が大きかった。高校の空手道部では、上級生たちに交じって大会へ出ても、一回戦で負けたことはなかった。
 しかし、中学時代の柔道部では、一回戦を突破できたのは、体重別の大会での一度だけだった。中学の柔道部では、私はいつもどこか萎縮していた。先生には、アラチとは違う怖さがあった。大柄な柔道四段の先生に蹴られることもあり、何より自分が嫌われていることを感じていた。怒られないことばかりを考えていた時期もある。そんな不安を抱えながら、私は再び柔道着に袖を通した。
 ある程度授業が進むと乱取りも行った。

――え?
――楽勝やん!
 自分でも驚いた。

 柔道部時代の得意技は、払い腰と大外刈りだった。ところが、体育の授業では背負い投げが面白いように決まった。
 やがて、皆が私との乱取りを嫌がり、逃げ回るようになった。

 団体戦形式で試合をしたときのことだった。中学時代、隣の強豪校でレギュラーだった浅井が、わざわざ私を選ぶように前へ出てきた。
 浅井とは、中学一年生のときに練習試合で対戦していた。当時は成長の速さに差があり、私の方がかなり身体が大きかった。その体格差のおかげで、試合は私の優勢で終わった。
 今では、浅井も私と同じくらいの体格になっていた。

――あのときのリベンジか?
――いや、お前、あの後めっちゃ強くなってたやん!
――オレなんか相手にすんなや!
 少しびびった。

 しかし、今は帰宅部のやつに、格闘技で負けるわけにはいかない。
 試合では、結局どちらも技を決めることができなかった。それでも、明らかに私の方が優勢だった。

――ざまあ。
――調子に乗って出てきやがって!
 私は勝ち誇った。
 中学時代の私にはなかった闘志を、今なら燃やすことができた。


 秋の大会シーズンが近づくと、ニッシャンが組手練習へよく参加してくれるようになった。ニッシャンは、私にとって良い練習相手だった。組手をすれば、互いに簡単には技を極められない。
 私は、ニッシャンといい勝負ができることがうれしかった。

 一度、試合形式で組手をしたことがある。しかし、そのころの私は迷走していた。岡田やヤマリンの構えを、自分でも試していたのである。岡田は、前拳を高い位置で小さく折りたたむように構えていた。足は、私以上に前後へ大きく開いている。

 私は岡田の構えをまねてみた。しかし、私には岡田ほどのジャンプ力がなかった。足を大きく開くと、そこから十分に踏み込むことができず、かえって相手との間合いが近くなりすぎた。

 ヤマリンの構えも試した。ヤマリンは、基本に忠実な構えだった。しかし、それは私の速く、低く、そして激しいフットワークには合わないように感じた。

 ニッシャンとの試合中だというのに、私は構えを次々と変えた。勝敗など、もうどうでもよくなっていた。
 その様子を見ていたイマリンは、私のことを、
「妖怪変化」
 と呼んだ。


 そして、北神戸地区大会の日を迎えた。
 個人組手には、エンちゃんと桃井が出場した。二人とも一回戦で敗れた。

 個人形には、岡田とツケが出場した。岡田は決勝まで進出したものの、入賞には届かなかった。ツケは予選で敗退した。
 それでもツケは、形にやりがいを見いだしたようだった。

 そして、団体戦。私の出番である。
 試合の順番は、皆でわいわいと話し合って決めた。私は部内で自分が一番強いと思っていたので、当然、大将になるものだと考えていた。
 しかし、全員が、
「一番は嫌や」と言うので、私が先鋒になった。
 実のところ、私も最後まで出番を待つより、一番手でさっと試合に出る方が性に合っていた。
 皆が団体戦のセオリーを理解しているのか、少し不安ではあった。しかし、まずはリラックスして試合に臨むことが大切だと思い、私は口を挟まなかった。
 先鋒、瀬戸。
 次鋒、岡田。
 中堅、ヤマリン。
 副将、みやっち。
 大将、高倉。

――なんか、それらしい感じに決まったなあ。
 私はそう思った。

 一回戦は快勝だった。私の相手は、かなり大きかった。しかし、精神的には余裕があった。リーチ差を克服する方法を、私は夏休みの間に散々考えてきた。それに、これまでの公式戦では上級生と対戦することが多かった。
 この秋の新人戦からは、私たちが最上級生である。

 試合が始まった。
 私は、いきなり前拳を払っての追い突きを出した。
「中段突き、一本!」

――やっぱり、公式戦でも極まる!
――いける!
 夏休みに編み出したコンビネーションが、公式戦でも決まった。

 次に、小さなフェイントを出してみた。
 相手の反応は鈍かった。
 私は二段踏み込みの刻み突きを放った。
「中段突き、一本!」

 これも極まった。
 最後は三本連突きで圧倒した。
――スピードに差があったら、今までのコンビネーションだけで勝てるやん!
 私は得意になった。

 残る四人も、その勢いに乗って勝った。
 五対〇の快勝だった。

 続く二回戦で、私たちは北神戸地区大会を連覇している三園学院高校と対戦した。
――ここに勝ったら、優勝も見えてくるな。
 私はそんなことを考えていた。

 試合が始まった。
 最初から違和感があった。リズムが合わない。
 なぜか、相手の動きを読むことができなかった。

 それでも私は、相手の攻撃に合わせてカウンターを狙った。
 しかし、中段逆突きは失敗した。
 相手にポイントが入った。

 私は、得意になっていた新しいコンビネーションを狙った。こちらが前へ出ようとすると、相手はすぐに下がった。三本連突きでも、追い切れそうになかった。
 そのまま時間だけが過ぎていった。

 試合は〇対一で終わった。私の負けだった。

 その後の四人も、全員が敗れた。
 部内で一番組手が強い私を先鋒にしたことの懸念が、表に出た形になった。私が最初に負けたことで、皆が萎縮し、実力の半分も出せていなかったように思えた。
 一番手で出る以上、自分が勝たなければチームも負ける。
 私はそう感じた。


 それからは、兵庫県大会を意識して練習するようになった。時には殺気立つこともあった。

 そのころの私は、左の前足から出す三日月蹴りを牽制に使っていた。後ろ足を前足へ寄せるのと同時に、前足で相手を蹴り上げる。
 みやっちは、その蹴りを毎回、肘の尖った部分で受けた。
 痛かった。
 腹が立った。

 ある日、私はわざと、みやっちの肘を狙って蹴り上げた。
 左足の親指に、
 ピキッ。
 と、刺すような痛みが走った。

 自分からやったことだった。痛いとは言えなかった。

 それからは、踏み込むたびに左足の親指を突き指するようになった。親指に力が入らず、うまく上げることができない。第一関節の横が、こぶのように腫れ始めた。

 県大会へ向けて、雲行きが怪しくなった。