契約書:白蛇の檻と偽りの寵妃

<契約書>
契約締結者
甲(夫):瑞央(みずお)- 大帝国「楼蘭」の若き若国師。冷徹無比。
乙(妻):漣(さざなみ)- 没落した水神の血を引く異能者。
特約条項
【目的】
乙は甲の「名目上の寵妃」となり、甲の呪いを抑える水神の力を提供する。
【期間】
満3年間とする。期間満了後は双方合意の上で離縁し、乙には自由と生活費が与えられる。
【ミッション】
乙は後宮において「愚鈍で嫉妬深い悪女」を演じ、敵の目を欺かなければならない。
【禁止事項】
互いに恋愛感情を抱くことを厳禁とする。
第一章:冷血なる国師の誤算
 重厚な朱塗りの扉が閉まると、後宮の一角にある国師の私邸は、水を打ったように静まり返った。
「座れ」
 瑞央は冷淡に言い放ち、豪奢な長椅子に腰を下ろした。彼を包む空気は氷のように冷たい。若くして国師の地位に昇りつめた瑞央は、宮廷の権力闘争と人間の強欲に辟易していた。彼の身に宿る「白蛇の呪い」を抑えるため、どうしても水神の血を引く漣の異能が必要だったが、瑞央にとってこの結婚は単なる利害の取引に過ぎない。
 漣は静かに、瑞央と対峙する木の椅子に腰掛けた。色褪せた小袖を着ているが、その背筋は美しく伸びている。
「条件を提示する」
 瑞央は机の上に、あらかじめ用意していた契約書を滑らせた。
「お前を妻として迎えるが、私はお前を愛することはない。この婚姻は三年間限定だ。その間、お前には後宮で『愚鈍な悪女』を演じてもらう。私の寵愛を独占しようと周囲に当たり散らし、誰からも嫌われる愚かな女だ。そうすれば、私の敵はお前をただの飾りと見なし、命を狙う価値もないと判断する。お前の安全のためでもある」
 瑞央は冷徹な瞳で漣を見据えた。没落公家の娘だ。泣き崩れるか、あるいは国師の妻という地位にしがみつこうと命乞いをするか。どうせ、欲にまみれた他の人間たちと同じ反応をするのだろうと、瑞央は冷ややかに確信していた。
 しかし、漣の反応は彼の予想を完全に裏切った。
「――なるほど」
 漣は契約書を手に取り、ふっと視線を落とした。その唇の端が、微かに、しかし確かに満足そうに吊り上がったのだ。怯えも、絶望も、強欲さもない。そこにあったのは、純粋な「安堵」と「歓喜」だった。
「素晴らしい条件です、国師様。つまり私は、誰からも好かれようと努力する必要がなく、ただ嫌われる仕事を全うすれば良いのですね?」
「……何?」
 瑞央は眉をひそめた。
「私は生まれつき、人の嘘や悪意が『色』として見えてしまうのです」
 漣は自分の淡い紫色の瞳を指差した。
「宮廷のような場所で、笑顔の裏にある真っ黒な悪意を見続けるのは、精神が摩耗いたします。ですが、最初から『嫌われ者』として振る舞ってよいのであれば、誰が私に悪意を向けようと、傷つく必要すらありません。これほど気楽な任務(ミッション)はありませんわ」
 漣は淀みのない手つきで筆を執り、契約書に自らの名を署名した。そして、瑞央の目を真っ向から見つめ返した。その瞳は、驚くほど澄み切っている。
「それに、三年間耐えれば自由と十分な生活費が手に入る。愛などという、いつ壊れるか分からない不確かなものより、この契約書の方がよほど信頼できます。よろしくお願いいたします、契約相手(パートナー)殿」
 瑞央は絶句した。
 目の前にいる淡い紫の瞳の女は、国師である自分に媚を売るどころか、この婚姻を「好都合なビジネス」として歓迎している。瑞央の胸の奥で、経験したことのない奇妙な動揺が走った。
「……ふん。口先だけで終わらねばいいがな」
 瑞央は不機嫌に顔を背けた。これが、二人の偽りの婚姻生活の幕開けだった。
第二章:悪女の仮面と、暴かれる素顔
 後宮での生活が始まると、漣は完璧にその「ミッション」を遂行した。瑞央が他の妃と一言でも話せば、漣はわざとらしく嫉妬の声を上げ、宮廷の夜会では「国師様は私だけのもの!」と高慢に振る舞った。周囲の妃たちは漣を「傲慢で愚かな、哀れな成金女」と蔑み、狙い通り、彼女を政治的脅威と見なす者は誰もいなくなった。
 瑞央は、その様子を冷ややかに観察していた。
(実に見事な演技だ。浅ましい女だ)
 そう自分に言い聞かせるが、誰もいない私邸に戻った瞬間、漣が見せる「素の表情」が、どうしても瑞央の目を引いてしまう。
「あー、疲れました! 今日は『嫉妬に狂う悪女』の声を張り上げすぎて、喉がからからですよ」
 私邸の居間に戻った途端、漣は豪快に息を吐き、高級な茶を湯呑みのように一気に煽った。昼間の傲慢な態度は微塵もない。そこにあるのは、ただの「仕事を終えた職人」の顔だった。
「……お前、少しは慎みを覚えたらどうだ」
瑞央が冷たく言い放つ。
「冷たいですね。私、今日は国師様のために、わざわざ右大臣の娘に嫌みを聞かせて、あなたの政治的盾になって差し上げたのですよ? ほら、お約束の水神の力です」
 漣は瑞央の前に座ると、躊躇なく彼の衣服の袖をまくり、その冷たい手首を掴んだ。
 瑞央の腕には、呪いの証である黒い鱗が浮き出ている。漣が優しく触れると、彼女の身体から清涼な水気が流れ込み、瑞央の全身を苛む激痛が、嘘のように引いていった。
「……くっ」
 瑞央は小さく呻いた。呪いが抑えられる安堵感とともに、漣の手の温もりが、彼の冷徹な心をじわじわと侵食していく。
「これで今夜は眠れますね。では、私は私の部屋で休みます。おやすみなさい、国師様」
 漣は役目を終えると、瑞央に一切の未練を見せず、さっさと自分の部屋へと引き上げていく。
 瑞央は残された自分の手首を見つめた。
 いつもなら、自分を利用しようとする人間ばかりが周りにいた。だが漣は、瑞央の国師としての権力にも、その美しい容姿にも、本当に「これっぽっちも」興味がないのだ。
(なぜだ……。なぜ、私を見ない?)
 これまで他人の執着や愛欲を忌み嫌っていたはずの瑞央の心に、小さな、しかし消えない苛立ちの火が灯り始めていた。
第三章:綻びる契約
 婚姻から一年が経った頃、宮廷の勢力図が大きく動いた。瑞央を失脚させようとする政敵が、ついに漣をターゲットに定めたのだ。「愚鈍な悪女」である漣を拉致し、瑞央を脅迫するための人質にしようという魂胆だった。
 後宮の地下深く、冷たい石牢に囚われた漣の前に、瑞央を敵視する公卿が立っていた。
「くくく……。国師の寵妃ともあろう者が、こうも簡単に捕まるとはな。お前を人質にすれば、あの傲慢な瑞央も膝を折るだろう」
 しかし、縛り付けられている漣は、怯えるどころか退屈そうにため息をついた。
「あの、お言葉ですが。それは時間の無駄ですよ」
「何だと?」
「私と国師様は、ただの契約関係です。私は彼の呪いを抑える道具で、彼は私に安全を保障しているだけ。私が死ねば、彼は別の水神の末裔を探すだけです。彼が私ごときのために命をかけるはずがありませんわ。彼、本当に冷血漢ですから」
 漣は本気でそう思っていた。瑞央は冷酷で、合理主義者だ。損得勘定に合わない行動は絶対にしない。だからこそ、自分も安心してビジネスパートナーでいられるのだと。
 悪役公卿は不思議そうに首を捻った。
「それでは、お前たちは体の関係が無いのか?」
 不躾な言い方に漣は顔をしかめた。
「あなたに関係ないでしょう!」
 公卿は縛られた漣の体を舐め回すように見た。
「これほどの美しい女に手出ししないとは、さすがは冷血漢。だが、この俺は熱血漢の悪党だ。性欲を持て余しているお前の体を温めてやろうぞ」
「結構です!」
「ぐへへ、いいではないか、いいではないか」
「やめて!!」
 公卿の魔手から漣が身を捩って逃れようとした、その時。地下室の頑丈な鉄扉が、凄まじい爆音とともに吹き飛んだ。
「――誰が冷血漢だと?」
 爆煙の中から現れたのは、息を激しく切らし、髪を振り乱した瑞央だった。その瞳は激しい怒りと、見たこともない「恐怖」に染まっている。国師としての完璧な余裕はどこにもない。
「瑞央……様? なぜここに……? 契約違反ですよ、あなたの安全が最優先のはず――」
「黙れ!」
 瑞央は一瞬で周囲の刺客たちを術で組み伏せると、漣のもとに駆け寄り、その縄を荒々しく引きちぎった。そして、呆然とする漣の肩を、壊れ物を扱うかのように強く、強く抱きしめた。
「瑞央様……?」
「お前は……お前は本当に愚かな女だ!」
 瑞央の声は、微かに震えていた。
「契約だと? ビジネスだと? ふざけるな。お前がいない世界など、私にとっては呪いそのものだ。お前が私を見ないのなら、私を見せるまでだ。契約など、今この瞬間から破棄してやる!」
 抱きしめられた漣の視界に、瑞央の「色」が飛び込んできた。いつもは冷徹な氷のような青色だった彼の精神が、今は、燃え盛るような、痛いほどの「純赤」に染まっている。それは、嘘偽りのない、狂おしいほどの執着と情愛の色だった。
「……え?」
 漣は目を丸くした。
 人の悪意は見慣れていたが、これほどまでに真っ直ぐで、巨大な「好意」を向けられたのは、人生で初めてだった。漣の胸の奥が、トクン、と不器用な音を立てる。
「私の負けだ、漣。お前を絶対に離さない。三年の期限など、最初からなかったものと思え」耳
 元で囁かれた瑞央の低い声に、漣の顔が初めて、真っ赤に染まった。完璧だったはずの「愛のない契約結婚」は、冷徹なヒーローが仕掛けた自らの罠によって、完全に崩壊したのだった。
(終わり)