前皇后は体の弱い人だった。産後の肥立ちが悪く、伏せってばかりの記憶しか天藍にはない。
あまり会えずにいた母が亡くなったのは、八歳のとき。わけもわからないまま、周りの大人に流されて、気づけば城を降りていた。
以降、里山で乳母に育てられたのだ。
「母は病気で亡くなったと聞いていた。帝も次の正室を娶ったから、俺が廃嫡となるのも仕方ない。そう思って静かに生きてきたんだ」
その風向きが変わったのは、半年前。乳母が亡くなるときだった。
病に侵され、余命幾許もないと天藍は看病してきた。血の繋がりはないとはいえ、その上でここまで育ててくれた女性だ。恩はある。
だが。
「病が見せる夢だったのかは、今となってはわからない。乳母は夢現に『皇后様、申し訳ございません』と何度も口にしていたのだ」
はたして乳母は、なにを謝っていたのか。
考えてみれば、亡くなったとはいえすぐに皇子が廃嫡されるものだろうか。
すぐに次の正室が決まったことも気になる。
母は本当に病死だったのか。
「死の真相を探るため、俺はここに戻ってきた。まだ死ぬわけにはいかないんだよ」
内容に反してにこやかに言う天藍を、桂華は信じられないものを見る目で見た。
「……皇家の関係者とは思ってたけど、予想外のが出てきたんだけど」
「そうだな。世が世なら君も皇族だ」
あっけらかんと言うことではない。
桂華は溜息を一つついて、天藍に視線を向ける。
「となると、日長は元は皇后の侍医ってことね?」
「あぁ」
「皇后様は、玉髄様に薬を飲ませている。透輝様は日長からもらった薬を玉髄様に届けていた。そして玉髄様だけど……侍医に診てもらってるのよね?」
「そのはずだ」
ならば倒れた原因は一つしかないではないか。
問題は、このことをどうやって進言するかだ。
「言い忘れていたが、透輝は根の優しい良い子だぞ」
「はぁ」
唐突な言葉の意味がわからず、曖昧な返事をしてしまう。
天藍はそれを意に介さず、弟自慢を始めた。
「最後に会ったのはまだ三歳のときだったが、賢い子でな。自分の立ち位置を理解していて、それに基づいて動くことのできる……」
「つまりなに?」
長くなりそうだったので、途中で遮った。賢い人物だというのは、数日監視していてわかっている。
おぉそうだ、と天藍は切り替えた。
「透輝に会いたくば、日長に言えばいい。取り計らってくれるはずだ」
ここに繋がるのか。
天藍と透輝が同盟関係にあるならば、桂華が動くのも簡単になるだろう。
「俺たちは一蓮托生。やってくれるな?」
試すような笑みに、確信を得ていると実感する。桂華も似たような表情を浮かべ、「もちろん」と頷いた。
枷のついた身でありながら、この男は頼りになる。もう認めざるを得なかった。
*
夜半、桂華は医局を訪ねた。日長は心得ていたようで、なにも聞かずに桂華を受け入れてくれた。
日長に促されて奥に立ち入ると、ちょうど透輝も訪れていたようだ。桂華は両手を合わせ、拝礼する。
「彼女が例の?」
「えぇ、桂華殿です」
日長の答えに、そりゃあ噂になるはずだよなと桂華は思う。
なにせ廃嫡されたとはいえ、元皇子の妻なのだ。なぜ天藍がすんなり受け入れたのか、疑問に思えてくる。
透輝を間近で見たのは初めてだが、やはり聡明そうな面構えだ。
天藍とよく似た金茶の髪は癖がなく、猫のような瞳が桂華を映している。
まだ十三と聞く。背丈は桂華とそう変わりなさそうだ。
「お初にお目にかかります」
「ここに来たということは、兄上から話は聞いたのか」
この城に上がってから、天藍と透輝が二人で会っていた様子はない。日長を挟んでいたとしても、ただの村娘が元皇子と勝手に結婚したことについて、なにか沙汰はないのだろうか。
そう考えていたら、透輝が小さく溜息をついた。
「兄上もなにを考えているのだか」
「いざとなれば婚姻の証など、どうとでもなりましょうから」
そうなのか。
それを見越しての結婚だったのならば、なんだか拍子抜けしてしまう。
そう考えたところで、桂華はその考えを振り払った。残念などと思っていない。思ってはいけない。
桂華はこの透輝を殺さねばならないのだ。天藍の素性を知ったからといって、任務を忘れるなどあってはならない。
透輝へと視線を向ける。
天藍と母親は違うはずだ。意志の強い目は、帝譲りか。
「では明日、皇后様の前で進言してもらおう」
ふいに二人の視線がこちらを向いて、桂華は小さく飛び上がってしまう。
「わっ、私がですか……!?」
「当然だ。曲がりなりにも、今の貴女は兄上の妻なんだろう?」
歳の割りには大人びた喋り方をする皇子だ。とはいえ、身分が高いことには違いない。
透輝が『兄上の妻』と言ったのが気にかかる。天藍が武官として城に上がっていることを、皇后は気づいていないようだった。ならばこれは、『罪人の妻』として進言しろということか。
桂華は小さく溜息をつく。
「わかりました。皇后様にお許しいただけるかはわかりませんが、できる限りのことはいたしましょう」
どう転ぶかはわからない。桂華は渋々了承した。
*
翌日、いつもどおり朝餉と昼餉の仕込みを終わらせた桂華の前に、透輝の従者が現れた。
逃げる気はなかったが、やや重たい気持ちで後をついていく。
広間では、寛ぐ皇后に従者らが付き従っており、皇子の姿はなかった。
病状はよくなったと噂されてはいた。皇后はもう皇子の心配はしていないのだろうか。
「皇后様、桂華をつれてまいりました」
およそ興味のなさそうな目が桂華を向いた。皇子のことなど忘れているかのようだ。一人の従者に耳打ちされてようやくあぁと口を開けた。
「汝が皇子を狙った男の妻か。命乞いでもしにきたか」
「いいえ、皇后様。私は皇子様の病の真相を明らかにしにまいりました」
きっぱりとのたまう桂華に、皇后は「ほう?」とおかしそうに眉を上げた。
この顔、好きになれそうにないなと思いながら、桂華は弁明を始めた。
「皇子様には、常日頃からお飲みしている薬があると聞きました。そして皇后様がお与えになっている薬も」
「それがどうした。侍医に飲み合わせは確認しておる。薬が原因とは言わせんぞ」
その言葉を聞いて、桂華はやはりと思う。
『良き母』を演じていた報いだ。
「皇子の病は、薬の過剰摂取です」
桂華が告げるも、皇后は意味がわからないようだった。言葉の意味がではない。
皇后は、はっと笑う。
「なにを言うかと思えば。薬の量はきちんと侍医に確認しておる」
「ですがそれは、頻度を守った場合、でしょう? 皇后様は、皇子にいつ何度薬をお与えになったか、全て把握しておられますか?」
芯のある声に、皇后はぐっと押し黙った。
桂華は畳みかける。
「直属の侍医にはお尋ねになったかと思います。ですが、日長殿に確認はお済みですか?」
今度こそ皇后はなにも言えなくなった。
皇后の侍医、そして側妃派の日長。派閥争いしていることは想像に難くないから、それぞれの投薬は共有されてないだろう。
そこを見越しての判断だった。
「皇子の具合が少しでも悪くなると、薬をお与えになっていたのでしょう。ですがそれではすぐに足りなくなってしまいましょう。だから皇后様は、日長の元に参られていたのではないですか? 新たな薬をもらうために」
ざわついたのは周囲であった。
まさか皇后が、側妃派の日長を頼っているなど思ってもみなかったのだろう。
「珈々は少量であれば、滋養となります。ですが大量に摂取するとなると、話は別です。ましてや護摩人参との飲み合わせは、よろしくないかと」
皇后は押し黙ったままだ。桂華は内心溜息をつきながら、口を開いた。
「子を思うがゆえの母心だとお察しいたします。体調もよくなられたとお聞きしましたので、案ずることはないでしょう」
しょうがないので、場を納める言葉を吐く。
ここまで釘刺せば、もう無暗に薬を与えたりはしないだろう。
「灰簾! 玉髄の薬を確認しておけ!」
「はっ!」
灰簾と呼ばれた初老の男性が、皇后の侍医だろう。命を受け、慌てて広間を出ていった。
ひとまずは、皇子暗殺事件は解決した。
残る問題は――。
*
夕刻、天藍は解放されたらしい。厨の女官たちにもう上がっていいと気を遣われ、桂華は言葉に甘えることにした。
すでに牢を去ったあとのようで、桂華は武官の詰所に向かう。しかしそこももう辞しており、「傷の手当てをしに行ったんじゃないか」という武官の言を得て、医局へ向かう羽目になった。
なかなか見つからないのがもどかしい。
だがこれは苛立ちではなく、逸る気持ちだ。桂華はその感情の名にまだ気づいていない。
医局のそばまで来たところで、人影が見えた。あの背格好は——。
「天藍!」
桂華の声に、天藍が振り向く。
すでに日長の治療を受けたあとらしい。尋問で受けた傷には包帯が巻いてあり、ひとまず体は無事そうだ。
口元に笑みを浮かべている天藍を見て、桂華はほっと胸を撫で下ろした。
「迎えに来てくれたのか」
「探したんだから。そんな怪我なのに、一人で帰るなんてどうかしてるわ」
呆れた調子で桂華は言葉を紡ぐ。
桂華の言葉に、天藍は小さく驚いたようだった。
「そうか、心配してくれたのか」
言われてはっとなる。今の言葉からすると、そういう風に取られてしまってもおかしくない。
心配しなかったわけではないのだが、改めて指摘されると素直に頷けないものがある。
「……そりゃ、するでしょ。いちおう旦那なんだし……」
口を尖らせながら、目を逸らして言う桂華。
そんな桂華を目の当たりにし、天藍は思わず目を瞬かせてしまった。その瞳が嬉しそうに緩められたことに、余所を向いていた桂華は気づかない。
「少し歩こうか」
天藍にそう言われ、桂華は隣に並んで歩きだす。
どうやら遠回りして帰るようだ。二人は庭園に出た。
様々な草花が咲き乱れ、色も香りも楽しませてくれる庭園だ。
「ここは母上の生前からある庭なんだ。花が好きな人だった」
今の皇后となってからは、しっかりとした手入れがされるのは、皇后の庭の方になっていったのだろう。ところどころ、雑然とした部分もある。
「それにしては、綺麗なんじゃない?」
「守ってくれていた人々がいるんだろうな」
感慨深そうに庭を眺める天藍の横顔を、桂華は見ていた。
やはり復権を願っているのだろうか。天藍にその気がなくとも、それを望む臣下もいそうだ。
「幼いころの話だが、かつての炬国に行ったことがあった」
ふいに飛び出した懐かしき名に、桂華は小さく息を呑む。
自身の生まれた国。今はもうない国。
桂華が生まれ育った城は廃城となり、陽国の治める地となっていると聞く。
「当時の城主の奥方が、金木犀の花を好んでいたそうで、本殿の庭は得も言われぬ良い香りがしていた」
懐かしき香りが漂ってくるようだった。香りの記憶はふとした瞬間に思い出されるようだ。
天藍は庭の隅を指差す。
「花が好きな母上のために、炬国の城主が一枝贈ってくださった。それがあの木なんだ」
今は花が咲く時期ではない。葉を付け大きく育った木が金木犀だとは気づかなかった。
「あの庭がどうなったかわからないが……。もし失われているようならば、俺はこの木の枝を届けたいと思うよ」
炬国に友好の意を示していたのは、天藍の母の派閥だった。だからこそ、玉髄の母が皇后となった際に滅ぼされることとなった。他にも様々な事情が重なった結果だが、最初のきっかけはそれだ。
陽国に逃げ落ちてから、かの国には帰れていない。
どうなったかわからない故郷を、取り戻したいと思ってくれている人がいる。
その事実に、桂華の胸に込み上げてくるものがあった。
物思いに耽っていたら、ふいに天藍が桂華の方に顔を向け、しっかり目が合ってしまう。
「金木犀は桂花とも言うらしいな。一字違うが君の名の花だ」
そう告げられて、桂華の心臓が跳ねる。まさか桂華が桂姫だと気づかれたのだろうか。
だが伊達に忍びの修行をしてきた桂華ではない。焦りは表情に出さなかった。
「いつかあの庭を、君にも見せたいものだ」
気づかれているのかいないのか。これだけでは判断がつかない。ボロを見せる前に、話題を変えることにした。
「そういえば、よく皇后様にあなたのことがばれなかったものね」
十年城を去っていたとはいえ、面影くらいはありそうなものだ。皇后は天藍の元を訪れなかったのだろう。
「俺は婆様似らしいからな。それに『天藍』の名は知られていないはずだ」
笑みを浮かべて言う天藍に、桂華は嫌な予感がする。この笑顔のときは、ろくなことを言わない。
「幼名は『青金』と……」
「あーあーあー! 聞こえない!」
桂華は耳を塞ぎ大声を上げた。
聞く耳を持たない桂華に、当然天藍はむっとする。桂華の両手を掴んだ。
「なぜ話を聞かない」
「これ以上、皇族の秘密を知ったら戻れない気がする!」
桂華は怖いのだ。密偵として側妃の子を殺さねばならぬというのに、天藍は透輝と近い。このまま天藍に肩入れしてしまったら、剣が鈍る。
拒否を続ける桂華に、天藍はふっと笑った。
「安心しろ。君はもう戻れないところまで来ている」
「そんなことない!」
このまま距離を取れば、まだ戻れるはず。心はとうに傾いているのに、桂華はそう思い込んでいる。
「日長が言ってた。婚姻の証なんてどうとでもなるって」
「あいつ、そんなことを言ってたのか。俺が皇籍復帰されないと難しいと思うぞ」
「そうなの!?」
天藍は皇家に戻るつもりはないと言っていた。それが口だけだとしても、天藍の指示なしにこの婚姻が解消されることはない。桂華はようやくそのことに気づいてしまった。
いや、いざとなれば黙って消えればいい。この男とて、忍びの里にまで追ってはこられないだろう。
「滅多なことを考えるなよ? 俺が指を振れば動く奴は、それなりにいる」
「お、脅すつもり……!?」
協力者が日長だけということはないのだろう。透輝も真意はわからないが、天藍を尊重しているようにも見えた。
焦る桂華に、天藍はその整った顔で極上の笑みを浮かべた。
「そんなわけないだろう。しがらみがあるとはいえ、好きでもない女と婚姻関係を続ける酔狂さはないさ。できれば君のしがらみの方を解きたいと思っている」
悔しいけれど、ぐらりと心が傾きかけてしまった。
この人といれば、自分の居場所を見つけることができるのだろうか。
いやいやと心の中で首を振る。抜け忍は重罪だ。どこまで逃げても必ず処罰されるだろう。
「……私に自分の命は賭けられる?」
絞り出せたのは、そんな言葉だった。
今の桂華には選ぶことができない。天秤が傾いてほしい方はあるのに、それこそしがらみが邪魔をする。
「元より既に首に縄がかかった状態だ」
そうだった。素性を隠し、城という敵陣に単身で乗り込んでくるとんでもない男だ。
この男の手を取ってもいいのだろうか。
そう思ったところで、すでに手を握られていたことに気づいた。
「縄を引くも引かぬも、君が選んでいいんだぞ」
そこまで言われ、桂華はうなだれ深々と溜息をついてしまう。
生き死にの話なのか、夫婦の手綱の話なのか。「ただ」と続けられて、桂華は顔を上げた。
「この手を取ってくれるなら、全力で桂華の力になろう。そして君の力も俺に貸してくれると嬉しい。それが夫婦というものだろう」
皇族であり、皇家の闇を暴こうという男が、そんなことを言うのか。
難しく考えていたことが馬鹿らしくなってきて、桂華は肩を震わせてしまう。突然笑い出した桂華を、天藍はどう思っただろうか。
一つ深呼吸をして、桂華は手にぐっと力を込める。握り返されたことが意外でもなさそうな天藍に少し面白くないが、今はいい。
「いいわ。嫁ぐなら全てを賭ける覚悟で。そんな言葉もあるしね」
おぼろげな記憶だ。いつか母がそう言っていた気がする。
もし天藍が炬国を取り戻せるのなら、そのときを隣で見ていたい。
その前に、陰謀渦巻くこの城で、母の死の真相を解き明かすなど本当にできるのだろうか。
天藍ならできると思えてしまう。
ひとまずは、こちらに天秤を少し傾かせておこう。
強気に笑う桂華に、天藍は楽しそうだ。おもむろに桂華の手をすくうように持ち上げた。
「そうだな。俺もこの命、君に賭けるとしよう。よろしく頼むな、嫁御殿」
そうして桂華の手の甲に口付けた。
驚き慌てて手を引こうとするが、桂華の手はびくともしない。
「なにするのよ!?」
「桂華は俺の妻だろう。妻に口付けてなにが悪い?」
「~~~~そうだけど! 時と場所を考えて!」
周囲に人の気配はないが、初めて口付けられた桂華は焦りでなにを口走っているかわからない。
初心な反応に口元が緩んでいる天藍にも、気づいていないのだろう。
天藍はそのまま桂華の手を引いて歩き出した。
「離してってば!」
「なぜ? 帰るのは同じ房だろう?」
それはそうだけど……と桂華はもごもご言うことしかできない。
手のひらから伝わる熱に鼓動が速くなるけれど、この熱が心地よい。
願わくば、この手を離す未来が来ることがありませんように。そんな願いが桂華の心の片隅に生まれていた。
心の距離はまだある。むしろ今ようやくまっすぐと向き合えた。
それでも、この夫婦が世を変えていく物語は、まだ始まったばかりだ。
あまり会えずにいた母が亡くなったのは、八歳のとき。わけもわからないまま、周りの大人に流されて、気づけば城を降りていた。
以降、里山で乳母に育てられたのだ。
「母は病気で亡くなったと聞いていた。帝も次の正室を娶ったから、俺が廃嫡となるのも仕方ない。そう思って静かに生きてきたんだ」
その風向きが変わったのは、半年前。乳母が亡くなるときだった。
病に侵され、余命幾許もないと天藍は看病してきた。血の繋がりはないとはいえ、その上でここまで育ててくれた女性だ。恩はある。
だが。
「病が見せる夢だったのかは、今となってはわからない。乳母は夢現に『皇后様、申し訳ございません』と何度も口にしていたのだ」
はたして乳母は、なにを謝っていたのか。
考えてみれば、亡くなったとはいえすぐに皇子が廃嫡されるものだろうか。
すぐに次の正室が決まったことも気になる。
母は本当に病死だったのか。
「死の真相を探るため、俺はここに戻ってきた。まだ死ぬわけにはいかないんだよ」
内容に反してにこやかに言う天藍を、桂華は信じられないものを見る目で見た。
「……皇家の関係者とは思ってたけど、予想外のが出てきたんだけど」
「そうだな。世が世なら君も皇族だ」
あっけらかんと言うことではない。
桂華は溜息を一つついて、天藍に視線を向ける。
「となると、日長は元は皇后の侍医ってことね?」
「あぁ」
「皇后様は、玉髄様に薬を飲ませている。透輝様は日長からもらった薬を玉髄様に届けていた。そして玉髄様だけど……侍医に診てもらってるのよね?」
「そのはずだ」
ならば倒れた原因は一つしかないではないか。
問題は、このことをどうやって進言するかだ。
「言い忘れていたが、透輝は根の優しい良い子だぞ」
「はぁ」
唐突な言葉の意味がわからず、曖昧な返事をしてしまう。
天藍はそれを意に介さず、弟自慢を始めた。
「最後に会ったのはまだ三歳のときだったが、賢い子でな。自分の立ち位置を理解していて、それに基づいて動くことのできる……」
「つまりなに?」
長くなりそうだったので、途中で遮った。賢い人物だというのは、数日監視していてわかっている。
おぉそうだ、と天藍は切り替えた。
「透輝に会いたくば、日長に言えばいい。取り計らってくれるはずだ」
ここに繋がるのか。
天藍と透輝が同盟関係にあるならば、桂華が動くのも簡単になるだろう。
「俺たちは一蓮托生。やってくれるな?」
試すような笑みに、確信を得ていると実感する。桂華も似たような表情を浮かべ、「もちろん」と頷いた。
枷のついた身でありながら、この男は頼りになる。もう認めざるを得なかった。
*
夜半、桂華は医局を訪ねた。日長は心得ていたようで、なにも聞かずに桂華を受け入れてくれた。
日長に促されて奥に立ち入ると、ちょうど透輝も訪れていたようだ。桂華は両手を合わせ、拝礼する。
「彼女が例の?」
「えぇ、桂華殿です」
日長の答えに、そりゃあ噂になるはずだよなと桂華は思う。
なにせ廃嫡されたとはいえ、元皇子の妻なのだ。なぜ天藍がすんなり受け入れたのか、疑問に思えてくる。
透輝を間近で見たのは初めてだが、やはり聡明そうな面構えだ。
天藍とよく似た金茶の髪は癖がなく、猫のような瞳が桂華を映している。
まだ十三と聞く。背丈は桂華とそう変わりなさそうだ。
「お初にお目にかかります」
「ここに来たということは、兄上から話は聞いたのか」
この城に上がってから、天藍と透輝が二人で会っていた様子はない。日長を挟んでいたとしても、ただの村娘が元皇子と勝手に結婚したことについて、なにか沙汰はないのだろうか。
そう考えていたら、透輝が小さく溜息をついた。
「兄上もなにを考えているのだか」
「いざとなれば婚姻の証など、どうとでもなりましょうから」
そうなのか。
それを見越しての結婚だったのならば、なんだか拍子抜けしてしまう。
そう考えたところで、桂華はその考えを振り払った。残念などと思っていない。思ってはいけない。
桂華はこの透輝を殺さねばならないのだ。天藍の素性を知ったからといって、任務を忘れるなどあってはならない。
透輝へと視線を向ける。
天藍と母親は違うはずだ。意志の強い目は、帝譲りか。
「では明日、皇后様の前で進言してもらおう」
ふいに二人の視線がこちらを向いて、桂華は小さく飛び上がってしまう。
「わっ、私がですか……!?」
「当然だ。曲がりなりにも、今の貴女は兄上の妻なんだろう?」
歳の割りには大人びた喋り方をする皇子だ。とはいえ、身分が高いことには違いない。
透輝が『兄上の妻』と言ったのが気にかかる。天藍が武官として城に上がっていることを、皇后は気づいていないようだった。ならばこれは、『罪人の妻』として進言しろということか。
桂華は小さく溜息をつく。
「わかりました。皇后様にお許しいただけるかはわかりませんが、できる限りのことはいたしましょう」
どう転ぶかはわからない。桂華は渋々了承した。
*
翌日、いつもどおり朝餉と昼餉の仕込みを終わらせた桂華の前に、透輝の従者が現れた。
逃げる気はなかったが、やや重たい気持ちで後をついていく。
広間では、寛ぐ皇后に従者らが付き従っており、皇子の姿はなかった。
病状はよくなったと噂されてはいた。皇后はもう皇子の心配はしていないのだろうか。
「皇后様、桂華をつれてまいりました」
およそ興味のなさそうな目が桂華を向いた。皇子のことなど忘れているかのようだ。一人の従者に耳打ちされてようやくあぁと口を開けた。
「汝が皇子を狙った男の妻か。命乞いでもしにきたか」
「いいえ、皇后様。私は皇子様の病の真相を明らかにしにまいりました」
きっぱりとのたまう桂華に、皇后は「ほう?」とおかしそうに眉を上げた。
この顔、好きになれそうにないなと思いながら、桂華は弁明を始めた。
「皇子様には、常日頃からお飲みしている薬があると聞きました。そして皇后様がお与えになっている薬も」
「それがどうした。侍医に飲み合わせは確認しておる。薬が原因とは言わせんぞ」
その言葉を聞いて、桂華はやはりと思う。
『良き母』を演じていた報いだ。
「皇子の病は、薬の過剰摂取です」
桂華が告げるも、皇后は意味がわからないようだった。言葉の意味がではない。
皇后は、はっと笑う。
「なにを言うかと思えば。薬の量はきちんと侍医に確認しておる」
「ですがそれは、頻度を守った場合、でしょう? 皇后様は、皇子にいつ何度薬をお与えになったか、全て把握しておられますか?」
芯のある声に、皇后はぐっと押し黙った。
桂華は畳みかける。
「直属の侍医にはお尋ねになったかと思います。ですが、日長殿に確認はお済みですか?」
今度こそ皇后はなにも言えなくなった。
皇后の侍医、そして側妃派の日長。派閥争いしていることは想像に難くないから、それぞれの投薬は共有されてないだろう。
そこを見越しての判断だった。
「皇子の具合が少しでも悪くなると、薬をお与えになっていたのでしょう。ですがそれではすぐに足りなくなってしまいましょう。だから皇后様は、日長の元に参られていたのではないですか? 新たな薬をもらうために」
ざわついたのは周囲であった。
まさか皇后が、側妃派の日長を頼っているなど思ってもみなかったのだろう。
「珈々は少量であれば、滋養となります。ですが大量に摂取するとなると、話は別です。ましてや護摩人参との飲み合わせは、よろしくないかと」
皇后は押し黙ったままだ。桂華は内心溜息をつきながら、口を開いた。
「子を思うがゆえの母心だとお察しいたします。体調もよくなられたとお聞きしましたので、案ずることはないでしょう」
しょうがないので、場を納める言葉を吐く。
ここまで釘刺せば、もう無暗に薬を与えたりはしないだろう。
「灰簾! 玉髄の薬を確認しておけ!」
「はっ!」
灰簾と呼ばれた初老の男性が、皇后の侍医だろう。命を受け、慌てて広間を出ていった。
ひとまずは、皇子暗殺事件は解決した。
残る問題は――。
*
夕刻、天藍は解放されたらしい。厨の女官たちにもう上がっていいと気を遣われ、桂華は言葉に甘えることにした。
すでに牢を去ったあとのようで、桂華は武官の詰所に向かう。しかしそこももう辞しており、「傷の手当てをしに行ったんじゃないか」という武官の言を得て、医局へ向かう羽目になった。
なかなか見つからないのがもどかしい。
だがこれは苛立ちではなく、逸る気持ちだ。桂華はその感情の名にまだ気づいていない。
医局のそばまで来たところで、人影が見えた。あの背格好は——。
「天藍!」
桂華の声に、天藍が振り向く。
すでに日長の治療を受けたあとらしい。尋問で受けた傷には包帯が巻いてあり、ひとまず体は無事そうだ。
口元に笑みを浮かべている天藍を見て、桂華はほっと胸を撫で下ろした。
「迎えに来てくれたのか」
「探したんだから。そんな怪我なのに、一人で帰るなんてどうかしてるわ」
呆れた調子で桂華は言葉を紡ぐ。
桂華の言葉に、天藍は小さく驚いたようだった。
「そうか、心配してくれたのか」
言われてはっとなる。今の言葉からすると、そういう風に取られてしまってもおかしくない。
心配しなかったわけではないのだが、改めて指摘されると素直に頷けないものがある。
「……そりゃ、するでしょ。いちおう旦那なんだし……」
口を尖らせながら、目を逸らして言う桂華。
そんな桂華を目の当たりにし、天藍は思わず目を瞬かせてしまった。その瞳が嬉しそうに緩められたことに、余所を向いていた桂華は気づかない。
「少し歩こうか」
天藍にそう言われ、桂華は隣に並んで歩きだす。
どうやら遠回りして帰るようだ。二人は庭園に出た。
様々な草花が咲き乱れ、色も香りも楽しませてくれる庭園だ。
「ここは母上の生前からある庭なんだ。花が好きな人だった」
今の皇后となってからは、しっかりとした手入れがされるのは、皇后の庭の方になっていったのだろう。ところどころ、雑然とした部分もある。
「それにしては、綺麗なんじゃない?」
「守ってくれていた人々がいるんだろうな」
感慨深そうに庭を眺める天藍の横顔を、桂華は見ていた。
やはり復権を願っているのだろうか。天藍にその気がなくとも、それを望む臣下もいそうだ。
「幼いころの話だが、かつての炬国に行ったことがあった」
ふいに飛び出した懐かしき名に、桂華は小さく息を呑む。
自身の生まれた国。今はもうない国。
桂華が生まれ育った城は廃城となり、陽国の治める地となっていると聞く。
「当時の城主の奥方が、金木犀の花を好んでいたそうで、本殿の庭は得も言われぬ良い香りがしていた」
懐かしき香りが漂ってくるようだった。香りの記憶はふとした瞬間に思い出されるようだ。
天藍は庭の隅を指差す。
「花が好きな母上のために、炬国の城主が一枝贈ってくださった。それがあの木なんだ」
今は花が咲く時期ではない。葉を付け大きく育った木が金木犀だとは気づかなかった。
「あの庭がどうなったかわからないが……。もし失われているようならば、俺はこの木の枝を届けたいと思うよ」
炬国に友好の意を示していたのは、天藍の母の派閥だった。だからこそ、玉髄の母が皇后となった際に滅ぼされることとなった。他にも様々な事情が重なった結果だが、最初のきっかけはそれだ。
陽国に逃げ落ちてから、かの国には帰れていない。
どうなったかわからない故郷を、取り戻したいと思ってくれている人がいる。
その事実に、桂華の胸に込み上げてくるものがあった。
物思いに耽っていたら、ふいに天藍が桂華の方に顔を向け、しっかり目が合ってしまう。
「金木犀は桂花とも言うらしいな。一字違うが君の名の花だ」
そう告げられて、桂華の心臓が跳ねる。まさか桂華が桂姫だと気づかれたのだろうか。
だが伊達に忍びの修行をしてきた桂華ではない。焦りは表情に出さなかった。
「いつかあの庭を、君にも見せたいものだ」
気づかれているのかいないのか。これだけでは判断がつかない。ボロを見せる前に、話題を変えることにした。
「そういえば、よく皇后様にあなたのことがばれなかったものね」
十年城を去っていたとはいえ、面影くらいはありそうなものだ。皇后は天藍の元を訪れなかったのだろう。
「俺は婆様似らしいからな。それに『天藍』の名は知られていないはずだ」
笑みを浮かべて言う天藍に、桂華は嫌な予感がする。この笑顔のときは、ろくなことを言わない。
「幼名は『青金』と……」
「あーあーあー! 聞こえない!」
桂華は耳を塞ぎ大声を上げた。
聞く耳を持たない桂華に、当然天藍はむっとする。桂華の両手を掴んだ。
「なぜ話を聞かない」
「これ以上、皇族の秘密を知ったら戻れない気がする!」
桂華は怖いのだ。密偵として側妃の子を殺さねばならぬというのに、天藍は透輝と近い。このまま天藍に肩入れしてしまったら、剣が鈍る。
拒否を続ける桂華に、天藍はふっと笑った。
「安心しろ。君はもう戻れないところまで来ている」
「そんなことない!」
このまま距離を取れば、まだ戻れるはず。心はとうに傾いているのに、桂華はそう思い込んでいる。
「日長が言ってた。婚姻の証なんてどうとでもなるって」
「あいつ、そんなことを言ってたのか。俺が皇籍復帰されないと難しいと思うぞ」
「そうなの!?」
天藍は皇家に戻るつもりはないと言っていた。それが口だけだとしても、天藍の指示なしにこの婚姻が解消されることはない。桂華はようやくそのことに気づいてしまった。
いや、いざとなれば黙って消えればいい。この男とて、忍びの里にまで追ってはこられないだろう。
「滅多なことを考えるなよ? 俺が指を振れば動く奴は、それなりにいる」
「お、脅すつもり……!?」
協力者が日長だけということはないのだろう。透輝も真意はわからないが、天藍を尊重しているようにも見えた。
焦る桂華に、天藍はその整った顔で極上の笑みを浮かべた。
「そんなわけないだろう。しがらみがあるとはいえ、好きでもない女と婚姻関係を続ける酔狂さはないさ。できれば君のしがらみの方を解きたいと思っている」
悔しいけれど、ぐらりと心が傾きかけてしまった。
この人といれば、自分の居場所を見つけることができるのだろうか。
いやいやと心の中で首を振る。抜け忍は重罪だ。どこまで逃げても必ず処罰されるだろう。
「……私に自分の命は賭けられる?」
絞り出せたのは、そんな言葉だった。
今の桂華には選ぶことができない。天秤が傾いてほしい方はあるのに、それこそしがらみが邪魔をする。
「元より既に首に縄がかかった状態だ」
そうだった。素性を隠し、城という敵陣に単身で乗り込んでくるとんでもない男だ。
この男の手を取ってもいいのだろうか。
そう思ったところで、すでに手を握られていたことに気づいた。
「縄を引くも引かぬも、君が選んでいいんだぞ」
そこまで言われ、桂華はうなだれ深々と溜息をついてしまう。
生き死にの話なのか、夫婦の手綱の話なのか。「ただ」と続けられて、桂華は顔を上げた。
「この手を取ってくれるなら、全力で桂華の力になろう。そして君の力も俺に貸してくれると嬉しい。それが夫婦というものだろう」
皇族であり、皇家の闇を暴こうという男が、そんなことを言うのか。
難しく考えていたことが馬鹿らしくなってきて、桂華は肩を震わせてしまう。突然笑い出した桂華を、天藍はどう思っただろうか。
一つ深呼吸をして、桂華は手にぐっと力を込める。握り返されたことが意外でもなさそうな天藍に少し面白くないが、今はいい。
「いいわ。嫁ぐなら全てを賭ける覚悟で。そんな言葉もあるしね」
おぼろげな記憶だ。いつか母がそう言っていた気がする。
もし天藍が炬国を取り戻せるのなら、そのときを隣で見ていたい。
その前に、陰謀渦巻くこの城で、母の死の真相を解き明かすなど本当にできるのだろうか。
天藍ならできると思えてしまう。
ひとまずは、こちらに天秤を少し傾かせておこう。
強気に笑う桂華に、天藍は楽しそうだ。おもむろに桂華の手をすくうように持ち上げた。
「そうだな。俺もこの命、君に賭けるとしよう。よろしく頼むな、嫁御殿」
そうして桂華の手の甲に口付けた。
驚き慌てて手を引こうとするが、桂華の手はびくともしない。
「なにするのよ!?」
「桂華は俺の妻だろう。妻に口付けてなにが悪い?」
「~~~~そうだけど! 時と場所を考えて!」
周囲に人の気配はないが、初めて口付けられた桂華は焦りでなにを口走っているかわからない。
初心な反応に口元が緩んでいる天藍にも、気づいていないのだろう。
天藍はそのまま桂華の手を引いて歩き出した。
「離してってば!」
「なぜ? 帰るのは同じ房だろう?」
それはそうだけど……と桂華はもごもご言うことしかできない。
手のひらから伝わる熱に鼓動が速くなるけれど、この熱が心地よい。
願わくば、この手を離す未来が来ることがありませんように。そんな願いが桂華の心の片隅に生まれていた。
心の距離はまだある。むしろ今ようやくまっすぐと向き合えた。
それでも、この夫婦が世を変えていく物語は、まだ始まったばかりだ。
