その足で役所に婚姻届けを出し、城に向かえば、すぐに二人とも採用されてしまった。
怪しまれないか覚悟していたのだが、例の触書のせいで人手不足らしい。
たしかに未婚の娘も城に上がれたら、縁談や花嫁修業といった側面も取れよう。既婚で城に上がるうまみはあまりないのだ。
そういったことを、天藍と別れ、年嵩の女官に城内を案内してもらいながら桂華は聞いた。天藍は武官の詰所の方へと行った。
「これで一通りは案内できたかね。仕事は明日からだ。あんたの部屋はここだよ」
城の隅の官舎、ここで働く者たちの房の一つだった。
案内してくれた女官が去っていき、桂華は中に入る。一部屋の狭い房だが、寝起きするだけだ。充分だろう。
夜も更け眠りにつく者ばかりが多いと思うが、初日であまり怪しまれる動きをすべきではないだろう。今日はこのまま寝ようとしたときだった。
戸の向こうで、なにやら話し声がする。
「本格的な仕事は明日からだ。遅れないように」
男の声だ。どうして女官の房に?
静かに戸の傍に移動していた桂華は、そう思いながら息を潜める。
足音が離れていったようだが、まだ一人気配がする。何者かはわからないが、まさか自分の正体がバレたかと、桂華は足に仕込んだ暗器に手を掛ける。
無造作に戸が開いた。
「…………」
「………………」
二人の視線がかち合って、沈黙が流れる。
戸の向こうにいたのは、天藍だった。
「……ここは女官の房だけど?」
「いや、武官の房だと案内されたが……?」
困惑する二人の耳に、隣の房からの話し声が聞こえてきた。
「ちょっとあんた! ケガしてるじゃないの」
「これくらいケガに入らんさ」
男女の声だ。桂華と天藍が声のした房の前で耳を澄ますと、
「大事な旦那なんだから、心配なんだよ……」
「優しい妻を持って、俺は幸せさ」
などと話している。
二人は慌てて元の房に転がり込んだ。
「つまり、なに? ここは夫婦用の房ってこと?」
「どうやらそのようだな。布団も二組用意されている」
ばっと桂華が部屋の隅に目をやると、たしかに布団は二組ある。あれはただここが二人部屋だからなのかと思っていた。二人部屋を一人で使えるとにわかに喜んだのに。
「考えてみれば、おかしくはないな。既婚者しか城には上がれないんだ。夫婦で出仕する者も多いだろう。官舎にこんな房があっても不思議じゃない」
「それは、そうだけど……」
天藍は桂華の横を通り過ぎ、布団に手を掛ける。
「……なにしてるの?」
「なにって、もう寝る時刻だろう? 早く寝ねば、明日の仕事に支障が出る」
至極当然といった顔で答えられたが、桂華が納得できるはずもない。
「あんたと一緒に寝られるわけないでしょ!?」
「叫ぶな。隣に聞こえる」
壁が薄いのは確認済みだ。それを忘れて叫んでしまった。
幸い、隣には気づかれなかったようだ。さっきのやり取りからすると恐らく、夫婦二人で仲良くしているのだろう。
「だって……私たち、今日会ったばかりじゃない……!」
桂華は反論せずにはいられない。
ふと気づく。自分はなにをこんなに焦っているのだ?
これまでの任務で、男女問わず雑魚寝することなど数多あった。その延長線上と思えば、なにも焦ることはない。
「布団は二組あるんだ。離して寝ればいいだろう」
それはそうだが。
堅物かと思えばそんなことを言う。この男のことがわからない。
天藍は布団に入りかけて、桂華に顔を向けた。
その顔には、どこか嘲りが浮かんでいる。
「形ばかりの夫婦だ。お前になにかする気など、起こらない」
そう言って壁の方を向いて寝転んでしまう。
口をわなわなと震わせたのは桂華だ。
落ち着け、壁が薄いと話したばかりではないか。
「むかつくー!!」
布団を頭から被り、どうにか口の中に抑えた。
こんな男、こっちからお断りだ。
*
一見真面目に働く桂華は、後宮の厨房に配属となった。狙いは側妃の子・透輝なので、万事順調だ。
住み込みで働く女官たちは、噂話くらいしか娯楽がないらしい。仕事の合間に、様々な話題を口にしている。数日も一緒に働けば、ある程度の情報は入ってきた。
今の皇后は継室だという。先の皇后が病死し、召し上げられた。
彼女にはまだ幼い男子が一人いるが、側妃の子が先に生まれている。だからこそ、桂華に暗殺の任務が回ってきたのだ。
仔細は聞かされなかったが、おおよそ皇后ないし皇后派からの指示だろう。
後宮の女官になれたとはいえ、すぐに事に移すわけにはいかない。機を見計らって動かなければ。
だというのに――。
天藍の終業時刻は、毎日まちまちだ。共に食事をとる日は少なく、日勤のときの就寝時刻は合う。
そういうときは、天藍が寝静まってから、桂華は密かに出ていく。
布団は離して背中合わせに眠るのが、常になっていた。それはいい。
問題なのは、房同士の壁が薄いことだ。
静まった房に、隣から仲睦まじい男女の声が漏れ聞こえてくるのだ。
天藍が寝入るのを待っていた桂華は、気まずくて仕方がない。背中を向けて寝ているものだから、彼がどんな表情をしているかもわからず、ただ黙りこくっておくしかないのだ。
早く寝てくれと思っていたら、
「なぁ」
と声がして、びくりとしてしまう。
桂華は振り向かずに後ろの様子を窺った。
「少し話をしないか?」
「……この状況で?」
隣からの声は相変わらず聞こえている。「ちょっと声押さえろよ」などとのたまっているが、違うそうじゃない。盛るのをやめろ。そう思いながらの質問返しだ。
天藍がくくっと喉の奥で笑ったのが聞こえた。
「眠れたものじゃないだろう?」
小娘扱いされているようで、面白くない。
そっと寝返りを打つと、天藍はこちらを見ていた。暗闇に慣れた桂華の目に、その視線が刺さる。
不思議な瞳だ。深海を覗き込んだようでありながら、夜空のような広さも感じる。意志の強さを映した目は、どんな生き様を見てきたのだろう。
「まずはもっとお互いのことを知らないか?」
「今さらじゃない?」
「そうか? 夫婦となる日に初めて会う夫婦だって、いるじゃないか」
いなくもないが、それは高貴な身分の者ばかりがほとんどだ。町人や村人は近しい家の者同士で嫁を取る。
というのは情報としてでしか知らない桂華だ。城主の娘という身分は幼い頃に失ったし、忍びの里は近親婚を繰り返している。『普通の夫婦』というものがわからない。
「俺は親がいなくて婆に育てられたんだがな、鍬や鋤の扱い方は村一番だったな」
まだ話すと言っていないのだが、勝手に話し出されてしまった。まぁ隣の声を聞き続けるよりはいい。
「そんなあんたが、なんで武官を志したの?」
何気ない問いかけだった。だが天藍は考え込むように少し黙り、天井を見上げる。
「婆は昔、城で仕えていたらしい。どんな場所か、俺も知りたくなった」
考え込んだ時間はなんなんだというかのような、ありきたりな理由だった。桂華は拍子抜けしてしまう。
天藍の顔が、また桂華の方を向いた。
「そういう君はどうなんだ?」
「私?」
暗殺のため。
などと言えるはずがない。
「貧しい村だからね。稼ぎ口がほしかったのよ」
他の女官にも答えた内容だ。なにも怪しいところはないだろう。
里の上層部は裕福な暮らしをしているが、桂華のような末端はぎりぎりの暮らしだ。悔しいことに、上の者たちはいつだって下々に危険な任務に赴かせ、甘い蜜を啜っている。
「そうか。頑張っているんだな」
思いもよらない言葉に、桂華は目を瞬かせる。
誰だって、自分の生活のために必死なはずだ。桂華のような立場の者はそう多くはないだろうが、多少の差はあれど苦労は誰もがしている。
それでも、桂華には弱音を零せる相手がいなかった。天藍が桂華の本音をわかってくれたわけではないが、頑張りを認めてくれる人がいるというのは、こんな気持ちになるものなのか。
「桂華?」
返事のない桂華に、天藍は声をかける。そこでようやくはっとなり、心揺さぶられてしまったことに内心焦った。
「ううん、威張れるようなことじゃないわ」
「そんなことないさ。仕事、頑張ってるじゃないか」
いつ見たというのだ。天藍だって新入りで、扱かれている最中だろう。
だがその言葉に嘘の色はない。気づかないうちに見られていたのだろうか。視線に気づかなかったことが悔しい。
「天藍は……」
質問を投げかけようとして、どう聞いたものか言葉に詰まった。不審がられるかと思ったが、天藍は静かだ。
彼の方を見ると、目を閉じて寝息を立てていた。連日の鍛錬で疲れていたのだろう。
しばらくその寝顔を見つめてから、桂華は偵察へ向かうため、布団を抜け出した。
*
側妃の子・透輝は齢十三。子どもとも大人ともつかない精悍な顔立ちは、その立場ゆえか。
学問も武術も兵法も日々真面目に修めており、卒がない。側妃の子でなければ、さぞかし将来が期待されただろう。
それも八年前までの話だ。
皇后の子・玉髄が生まれてからは、手のひらを返された。表に出ることは減り、日々の鍛錬も奥座敷で行っている。
立場を奪われた者の心中は、如何なるものか。そう思いながら、桂華は奥の間で木刀の素振りをする透輝を屋根裏から見ていた。
奥に引っ込んでいるとはいえ、透輝の周囲には隙がない。常に誰かが傍におり、直接刃を立てるのは難しそうだ。
となると、手っ取り早いのは食事に毒を仕込むことか。後宮に入って側妃の食事番となるまではうまくいったが、皇子の食事はまた別部署となる。
移動できるように働きかけるか、それとも忍び込むか――。
「やはり透輝さまは筋が良い。やはり武将となられるべきでは?」
「滅多なことを言うな。師範、私は皇族の不利益となることはしたくないのだ」
話しながら、二人は出ていく。
まだ幼さが残る皇子ながらも、自分の立場を熟知しているようだ。
この分ならば、殺害など企てなくともよさそうなものを。そうは思うが、不安の芽は摘んでおきたいのだろう。
つくづく高貴な立場とは面倒なものだ。
そう思っていた矢先の出来事であった。
夕餉の支度を済ませ、翌朝の仕込みをする。そんな流れにも、もう慣れた。
にわかに外が騒がしくなる。何事だろうと桂華たちが顔を向けたときだった。
剣を携えた男たちがずかずかと踏み込んでくる。城の武官の格好だが、その表情は固い。
「なんです? 給仕係以外は立ち入り禁止ですよ」
厨房の女官長が、武官たちに毅然と立ち向かう。
その中の長であろう男が、偉そうに顎を上げた。
「皇太子暗殺の疑いがかかっている。全員取り調べを行う! ついてまいれ!」
桂華はまだ動いていない。
敵対勢力が紛れ込んでいたのか。
桂華は女官たちの様子を窺うが、誰もが不安そうな色を浮かべているようにしか見えなかった。
怪しまれないか覚悟していたのだが、例の触書のせいで人手不足らしい。
たしかに未婚の娘も城に上がれたら、縁談や花嫁修業といった側面も取れよう。既婚で城に上がるうまみはあまりないのだ。
そういったことを、天藍と別れ、年嵩の女官に城内を案内してもらいながら桂華は聞いた。天藍は武官の詰所の方へと行った。
「これで一通りは案内できたかね。仕事は明日からだ。あんたの部屋はここだよ」
城の隅の官舎、ここで働く者たちの房の一つだった。
案内してくれた女官が去っていき、桂華は中に入る。一部屋の狭い房だが、寝起きするだけだ。充分だろう。
夜も更け眠りにつく者ばかりが多いと思うが、初日であまり怪しまれる動きをすべきではないだろう。今日はこのまま寝ようとしたときだった。
戸の向こうで、なにやら話し声がする。
「本格的な仕事は明日からだ。遅れないように」
男の声だ。どうして女官の房に?
静かに戸の傍に移動していた桂華は、そう思いながら息を潜める。
足音が離れていったようだが、まだ一人気配がする。何者かはわからないが、まさか自分の正体がバレたかと、桂華は足に仕込んだ暗器に手を掛ける。
無造作に戸が開いた。
「…………」
「………………」
二人の視線がかち合って、沈黙が流れる。
戸の向こうにいたのは、天藍だった。
「……ここは女官の房だけど?」
「いや、武官の房だと案内されたが……?」
困惑する二人の耳に、隣の房からの話し声が聞こえてきた。
「ちょっとあんた! ケガしてるじゃないの」
「これくらいケガに入らんさ」
男女の声だ。桂華と天藍が声のした房の前で耳を澄ますと、
「大事な旦那なんだから、心配なんだよ……」
「優しい妻を持って、俺は幸せさ」
などと話している。
二人は慌てて元の房に転がり込んだ。
「つまり、なに? ここは夫婦用の房ってこと?」
「どうやらそのようだな。布団も二組用意されている」
ばっと桂華が部屋の隅に目をやると、たしかに布団は二組ある。あれはただここが二人部屋だからなのかと思っていた。二人部屋を一人で使えるとにわかに喜んだのに。
「考えてみれば、おかしくはないな。既婚者しか城には上がれないんだ。夫婦で出仕する者も多いだろう。官舎にこんな房があっても不思議じゃない」
「それは、そうだけど……」
天藍は桂華の横を通り過ぎ、布団に手を掛ける。
「……なにしてるの?」
「なにって、もう寝る時刻だろう? 早く寝ねば、明日の仕事に支障が出る」
至極当然といった顔で答えられたが、桂華が納得できるはずもない。
「あんたと一緒に寝られるわけないでしょ!?」
「叫ぶな。隣に聞こえる」
壁が薄いのは確認済みだ。それを忘れて叫んでしまった。
幸い、隣には気づかれなかったようだ。さっきのやり取りからすると恐らく、夫婦二人で仲良くしているのだろう。
「だって……私たち、今日会ったばかりじゃない……!」
桂華は反論せずにはいられない。
ふと気づく。自分はなにをこんなに焦っているのだ?
これまでの任務で、男女問わず雑魚寝することなど数多あった。その延長線上と思えば、なにも焦ることはない。
「布団は二組あるんだ。離して寝ればいいだろう」
それはそうだが。
堅物かと思えばそんなことを言う。この男のことがわからない。
天藍は布団に入りかけて、桂華に顔を向けた。
その顔には、どこか嘲りが浮かんでいる。
「形ばかりの夫婦だ。お前になにかする気など、起こらない」
そう言って壁の方を向いて寝転んでしまう。
口をわなわなと震わせたのは桂華だ。
落ち着け、壁が薄いと話したばかりではないか。
「むかつくー!!」
布団を頭から被り、どうにか口の中に抑えた。
こんな男、こっちからお断りだ。
*
一見真面目に働く桂華は、後宮の厨房に配属となった。狙いは側妃の子・透輝なので、万事順調だ。
住み込みで働く女官たちは、噂話くらいしか娯楽がないらしい。仕事の合間に、様々な話題を口にしている。数日も一緒に働けば、ある程度の情報は入ってきた。
今の皇后は継室だという。先の皇后が病死し、召し上げられた。
彼女にはまだ幼い男子が一人いるが、側妃の子が先に生まれている。だからこそ、桂華に暗殺の任務が回ってきたのだ。
仔細は聞かされなかったが、おおよそ皇后ないし皇后派からの指示だろう。
後宮の女官になれたとはいえ、すぐに事に移すわけにはいかない。機を見計らって動かなければ。
だというのに――。
天藍の終業時刻は、毎日まちまちだ。共に食事をとる日は少なく、日勤のときの就寝時刻は合う。
そういうときは、天藍が寝静まってから、桂華は密かに出ていく。
布団は離して背中合わせに眠るのが、常になっていた。それはいい。
問題なのは、房同士の壁が薄いことだ。
静まった房に、隣から仲睦まじい男女の声が漏れ聞こえてくるのだ。
天藍が寝入るのを待っていた桂華は、気まずくて仕方がない。背中を向けて寝ているものだから、彼がどんな表情をしているかもわからず、ただ黙りこくっておくしかないのだ。
早く寝てくれと思っていたら、
「なぁ」
と声がして、びくりとしてしまう。
桂華は振り向かずに後ろの様子を窺った。
「少し話をしないか?」
「……この状況で?」
隣からの声は相変わらず聞こえている。「ちょっと声押さえろよ」などとのたまっているが、違うそうじゃない。盛るのをやめろ。そう思いながらの質問返しだ。
天藍がくくっと喉の奥で笑ったのが聞こえた。
「眠れたものじゃないだろう?」
小娘扱いされているようで、面白くない。
そっと寝返りを打つと、天藍はこちらを見ていた。暗闇に慣れた桂華の目に、その視線が刺さる。
不思議な瞳だ。深海を覗き込んだようでありながら、夜空のような広さも感じる。意志の強さを映した目は、どんな生き様を見てきたのだろう。
「まずはもっとお互いのことを知らないか?」
「今さらじゃない?」
「そうか? 夫婦となる日に初めて会う夫婦だって、いるじゃないか」
いなくもないが、それは高貴な身分の者ばかりがほとんどだ。町人や村人は近しい家の者同士で嫁を取る。
というのは情報としてでしか知らない桂華だ。城主の娘という身分は幼い頃に失ったし、忍びの里は近親婚を繰り返している。『普通の夫婦』というものがわからない。
「俺は親がいなくて婆に育てられたんだがな、鍬や鋤の扱い方は村一番だったな」
まだ話すと言っていないのだが、勝手に話し出されてしまった。まぁ隣の声を聞き続けるよりはいい。
「そんなあんたが、なんで武官を志したの?」
何気ない問いかけだった。だが天藍は考え込むように少し黙り、天井を見上げる。
「婆は昔、城で仕えていたらしい。どんな場所か、俺も知りたくなった」
考え込んだ時間はなんなんだというかのような、ありきたりな理由だった。桂華は拍子抜けしてしまう。
天藍の顔が、また桂華の方を向いた。
「そういう君はどうなんだ?」
「私?」
暗殺のため。
などと言えるはずがない。
「貧しい村だからね。稼ぎ口がほしかったのよ」
他の女官にも答えた内容だ。なにも怪しいところはないだろう。
里の上層部は裕福な暮らしをしているが、桂華のような末端はぎりぎりの暮らしだ。悔しいことに、上の者たちはいつだって下々に危険な任務に赴かせ、甘い蜜を啜っている。
「そうか。頑張っているんだな」
思いもよらない言葉に、桂華は目を瞬かせる。
誰だって、自分の生活のために必死なはずだ。桂華のような立場の者はそう多くはないだろうが、多少の差はあれど苦労は誰もがしている。
それでも、桂華には弱音を零せる相手がいなかった。天藍が桂華の本音をわかってくれたわけではないが、頑張りを認めてくれる人がいるというのは、こんな気持ちになるものなのか。
「桂華?」
返事のない桂華に、天藍は声をかける。そこでようやくはっとなり、心揺さぶられてしまったことに内心焦った。
「ううん、威張れるようなことじゃないわ」
「そんなことないさ。仕事、頑張ってるじゃないか」
いつ見たというのだ。天藍だって新入りで、扱かれている最中だろう。
だがその言葉に嘘の色はない。気づかないうちに見られていたのだろうか。視線に気づかなかったことが悔しい。
「天藍は……」
質問を投げかけようとして、どう聞いたものか言葉に詰まった。不審がられるかと思ったが、天藍は静かだ。
彼の方を見ると、目を閉じて寝息を立てていた。連日の鍛錬で疲れていたのだろう。
しばらくその寝顔を見つめてから、桂華は偵察へ向かうため、布団を抜け出した。
*
側妃の子・透輝は齢十三。子どもとも大人ともつかない精悍な顔立ちは、その立場ゆえか。
学問も武術も兵法も日々真面目に修めており、卒がない。側妃の子でなければ、さぞかし将来が期待されただろう。
それも八年前までの話だ。
皇后の子・玉髄が生まれてからは、手のひらを返された。表に出ることは減り、日々の鍛錬も奥座敷で行っている。
立場を奪われた者の心中は、如何なるものか。そう思いながら、桂華は奥の間で木刀の素振りをする透輝を屋根裏から見ていた。
奥に引っ込んでいるとはいえ、透輝の周囲には隙がない。常に誰かが傍におり、直接刃を立てるのは難しそうだ。
となると、手っ取り早いのは食事に毒を仕込むことか。後宮に入って側妃の食事番となるまではうまくいったが、皇子の食事はまた別部署となる。
移動できるように働きかけるか、それとも忍び込むか――。
「やはり透輝さまは筋が良い。やはり武将となられるべきでは?」
「滅多なことを言うな。師範、私は皇族の不利益となることはしたくないのだ」
話しながら、二人は出ていく。
まだ幼さが残る皇子ながらも、自分の立場を熟知しているようだ。
この分ならば、殺害など企てなくともよさそうなものを。そうは思うが、不安の芽は摘んでおきたいのだろう。
つくづく高貴な立場とは面倒なものだ。
そう思っていた矢先の出来事であった。
夕餉の支度を済ませ、翌朝の仕込みをする。そんな流れにも、もう慣れた。
にわかに外が騒がしくなる。何事だろうと桂華たちが顔を向けたときだった。
剣を携えた男たちがずかずかと踏み込んでくる。城の武官の格好だが、その表情は固い。
「なんです? 給仕係以外は立ち入り禁止ですよ」
厨房の女官長が、武官たちに毅然と立ち向かう。
その中の長であろう男が、偉そうに顎を上げた。
「皇太子暗殺の疑いがかかっている。全員取り調べを行う! ついてまいれ!」
桂華はまだ動いていない。
敵対勢力が紛れ込んでいたのか。
桂華は女官たちの様子を窺うが、誰もが不安そうな色を浮かべているようにしか見えなかった。
