あっという間に一月が過ぎ、秋の足音が聞こえてくるようになった。
千景はゆっくりと回復している。薬草茶を運ぶたびに「ありがとう」と言ってくれるようになった。
紗月が話しかけて、それに千景が短く答えるという形ではあるが、短い単語であれば、会話らしい会話も交わせるようになってきている。
どこを見ているかわからなかったぼんやりとしたまなざしも、最近は焦点が合ってきた。
表情はまだ戻っていないし、動きもどこか緩慢だけれど、白峰家に紗月がきたときの彼のことを考えれば、雲泥の差だ。
日に日に千景が良くなっているのを感じる。もちろん、軍神と呼ばれていた頃の彼の姿にはほど遠いけれど、でもある程度からは彼の努力次第になる。
あともう少しで一緒に食事を取ることもできるようになるのではないだろうか。
「千景さん。紗月です」
朝のいつもの時間。ふすま越しに声をかける。
「ああ」
「!」
まさかの返事がきて、紗月は思わず息を呑んだ。今までずっと返事がこないまま、二拍ほど待ってふすまを開けるのが通常だったのに。
ふすまをあけると、いつも文机に向かっていた千景がこちらを向いていた。
「いつも、同じ時間に来るんだな」
まだその白皙の顔に表情らしい表情は浮かんでいない。それでも、十分だった。
紗月はすうと深呼吸をしてから、千景に向かって微笑む。
「はい。すっかり習慣になっておりますので」
どうぞ、と薬草茶の入った盆を差し出すと、千景はそれを受け取って飲み干した。
空になった湯飲みを紗月に渡して千景は言う。
「最近、とても調子がいい」
千景の言葉に紗月は目を丸くした。千景の琥珀色の瞳がこちらに向けられる。
「このお茶……いや、君のおかげなんだろう」
千景の瞳は、しっかりと紗月を捉えていた。紗月は慌てて首を振る。
「いえ。お義父様がこうして機会をくださったおかげです。私一人の力ではありません」
薬師がいなかったら、薬の処方だってできなかった。そしてその場を整えてくれたのは景正だ。
「それに――私はこのために白峰家へ来たのです」
「君は俺の妻だったな」
千景が問いかけてくる。その声音からは、好悪は何も感じ取れなかった。
彼と意思疎通ができるようになった今、きちんと紗月の立場を表明しておくことが大事だろう。
紗月は千景と向き合って座った。彼の人形のような顔立ちをしっかりと見つめる。
「はい。私は、一応書類上は千景様の妻ということになっています」
「一応」
「これは千景様を治療するための契約結婚なのです」
そう言って、紗月は事情を語り始めた。亡き父が番を失った獣人について研究していたこと。そして自分はその父について回っていたこと。
しかし父が亡くなり、家を叔父に乗っ取られてしまったこと。
いつか父の研究を引き継ぎたいと思っていること。
――そして、景正が機会をくれたこと。
花房家の事情については伏せても良かったのだが、結婚することになった一番の理由は叔父の存在なので、言わないわけにはいかなかった。
千景は黙って耳を傾けている。
「とりあえず二年間のお約束になっています。番ではない私が書類上だけでも妻であることが不快かもしれませんが、それまで耐えていただければと思います」
紗月は改めて頭を下げた。千景の様子を伺う。
「不快とは思わない」
千景から発せられた言葉に紗月はほっとする。
番が伴侶を大切にしていることはよく知られている。彼が回復するにつれて、邪魔に思われたらどうしようと考えていたのだ。
とりあえず拒否はされないようだ。よかった。
「ありがとう。――紗月」
千景から名前を呼ばれて、紗月は思わず息を呑んだ。
それだけじゃない。千景の口元は小さく弧を描いていたのだ。
翌日。千景は朝食の場に現れた。夫人は涙ぐみ、いつも通り千景の部屋に食事を運ぼうとしていた使用人は慌てていた。
口数は少ない。無表情のままだ。
まだすべてが戻ったわけではない。けれど、確実な一歩だった。
千景はゆっくりと回復している。薬草茶を運ぶたびに「ありがとう」と言ってくれるようになった。
紗月が話しかけて、それに千景が短く答えるという形ではあるが、短い単語であれば、会話らしい会話も交わせるようになってきている。
どこを見ているかわからなかったぼんやりとしたまなざしも、最近は焦点が合ってきた。
表情はまだ戻っていないし、動きもどこか緩慢だけれど、白峰家に紗月がきたときの彼のことを考えれば、雲泥の差だ。
日に日に千景が良くなっているのを感じる。もちろん、軍神と呼ばれていた頃の彼の姿にはほど遠いけれど、でもある程度からは彼の努力次第になる。
あともう少しで一緒に食事を取ることもできるようになるのではないだろうか。
「千景さん。紗月です」
朝のいつもの時間。ふすま越しに声をかける。
「ああ」
「!」
まさかの返事がきて、紗月は思わず息を呑んだ。今までずっと返事がこないまま、二拍ほど待ってふすまを開けるのが通常だったのに。
ふすまをあけると、いつも文机に向かっていた千景がこちらを向いていた。
「いつも、同じ時間に来るんだな」
まだその白皙の顔に表情らしい表情は浮かんでいない。それでも、十分だった。
紗月はすうと深呼吸をしてから、千景に向かって微笑む。
「はい。すっかり習慣になっておりますので」
どうぞ、と薬草茶の入った盆を差し出すと、千景はそれを受け取って飲み干した。
空になった湯飲みを紗月に渡して千景は言う。
「最近、とても調子がいい」
千景の言葉に紗月は目を丸くした。千景の琥珀色の瞳がこちらに向けられる。
「このお茶……いや、君のおかげなんだろう」
千景の瞳は、しっかりと紗月を捉えていた。紗月は慌てて首を振る。
「いえ。お義父様がこうして機会をくださったおかげです。私一人の力ではありません」
薬師がいなかったら、薬の処方だってできなかった。そしてその場を整えてくれたのは景正だ。
「それに――私はこのために白峰家へ来たのです」
「君は俺の妻だったな」
千景が問いかけてくる。その声音からは、好悪は何も感じ取れなかった。
彼と意思疎通ができるようになった今、きちんと紗月の立場を表明しておくことが大事だろう。
紗月は千景と向き合って座った。彼の人形のような顔立ちをしっかりと見つめる。
「はい。私は、一応書類上は千景様の妻ということになっています」
「一応」
「これは千景様を治療するための契約結婚なのです」
そう言って、紗月は事情を語り始めた。亡き父が番を失った獣人について研究していたこと。そして自分はその父について回っていたこと。
しかし父が亡くなり、家を叔父に乗っ取られてしまったこと。
いつか父の研究を引き継ぎたいと思っていること。
――そして、景正が機会をくれたこと。
花房家の事情については伏せても良かったのだが、結婚することになった一番の理由は叔父の存在なので、言わないわけにはいかなかった。
千景は黙って耳を傾けている。
「とりあえず二年間のお約束になっています。番ではない私が書類上だけでも妻であることが不快かもしれませんが、それまで耐えていただければと思います」
紗月は改めて頭を下げた。千景の様子を伺う。
「不快とは思わない」
千景から発せられた言葉に紗月はほっとする。
番が伴侶を大切にしていることはよく知られている。彼が回復するにつれて、邪魔に思われたらどうしようと考えていたのだ。
とりあえず拒否はされないようだ。よかった。
「ありがとう。――紗月」
千景から名前を呼ばれて、紗月は思わず息を呑んだ。
それだけじゃない。千景の口元は小さく弧を描いていたのだ。
翌日。千景は朝食の場に現れた。夫人は涙ぐみ、いつも通り千景の部屋に食事を運ぼうとしていた使用人は慌てていた。
口数は少ない。無表情のままだ。
まだすべてが戻ったわけではない。けれど、確実な一歩だった。
