白峰紗月になって二週間。
結婚した実感は全くない。そもそも夫となった千景とはまともに口もきいていないのだ。
初日が特別で、基本的に千景は自室にほぼ閉じこもっている。食事も使用人が運ぶかたちだ。
「千景様。紗月です」
紗月は千景の部屋の前でふすま越しに声をかけた。近くに置いた盆には湯飲みが一つ載っている。
予想通り返事はない。
紗月は意を決してふすまを開けた。千景相手に遠慮は無用だ。
千景の部屋は八畳ほどの広さの和室だ。ものが少なく、いつも綺麗に片付いている。
文机に向かって座っている背中が見えた。――千景だ。
といっても、机に向かって何をしているわけでもない。ただ向かっているだけだ。
ぴんと伸ばした背筋は、さすがに軍人さんだな、と思う。後ろ姿だけでも美しい。事情が事情なので、一応軍にまだ籍はあるという。
紗月は千景の隣に座ると、何も載っていない机の上に湯飲みを置いた。
「千景様。今日の薬草茶です。今日こそは飲んでくださいね」
聞いていないのかもしれないが、部屋を訪れる度、紗月はきちんとこうして千景に声をかけることにしている。
――千景の気力を取り戻す。
そう決めた紗月は、早速翌日にはふみに預かってもらっていた父の残した研究資料をすべて侯爵邸の自分の部屋に運んでもらった。
『紗月さんは、どのようにして千景を治療しようと考えているの?』
運び込んだ資料を整理している最中にそう声をかけてきたのは夫人だった。
『基本的には薬です。――獣核の機能を回復させる。獣核ってご存じですか?』
『獣人を夫に持つのだもの。一応知っているわ。獣人特有の器官のことでしょう?』
夫人の言う通り、獣核は獣人特有の器官で、みぞおちのあたりにある。獣人の超人的な能力もこの獣核の働きが大きいと言われている。
『番を失った獣人が気力を失うのは、この獣核がうまく働かなくなるかららしいんです。おそらく、千景さんも番に選ばれなかった衝撃で、この獣核がうまく動かなくなっているのだと思います』
『じゃあ、千景は薬を飲めば治るの?』
『うまく薬が合えば。完全に、とはいえませんが、ある程度の回復は見込めるんじゃないかと思います』
その言葉に夫人の顔がぱっと輝く。息子のことが心配だったのだろう。
もちろん、あくまで補助なので以前のように超人的な能力を発揮できるわけではない。だが、普通の人間と同じような生活くらいは送れるようになるはずだ。
慌ててそう付け足すと、夫人は微笑んだ。
『それでもかまわないわ。もう、あれ以上無気力な息子は見ていたくないの』
頑張ります、そう言って紗月は父の残した帳面から基本的な配合を書き留め、白峰家お抱えの薬師に相談の元、調合してもらった。
それが千景に出した薬草茶だ。
これを飲んである程度回復させた後、あとはその症状を見ながら調合を変えていく。これが基本的な治療だ。
薬草茶自体は、三日ほどで準備が出来て、そこから毎日運んでいるのだけれど、千景が飲んだ形跡は全くない。毎日夕方に湯飲みを取りに来るのだが、いつもそのまま残っている。食事にほとんど手をつけないと聞いて、飲みやすい薬草茶という形にしたのだが。
他の手段を考えないといけないのだろうか。千景は過去見てきた獣人と違ってある程度動けるから、自分で飲んでもらおうと思ったのだけれど。飲もうとする意思すら失っているのか。
そんなことを考えていると、ふいに千景の声が耳に飛び込んできた。
「何故?」
千景から返事があると思わなくて、紗月は驚いた。淡々とした口調ではあるが、彼の声を聞いたのは初日以来だった。
ただ、相変わらず紗月の方に視線は向いていない。
紗月はゆっくりと千景に言い聞かせる。
「千景様の状態を良くするお薬だからです」
「必要ない」
「何故ですか? 千景様は元に戻りたいと思わないのですか?」
「いらない。どうせ番……」
ふいに千景がみぞおちのあたりを押さえた。痛むのか顔を歪めている。初めて千景に表情らしい表情が浮かんだ。しかし、それも少しの間だけ。
「千景様。大丈夫ですか?」
「……」
返事はない。流麗な横顔からは表情が抜けている。
(何だったんだろう、今の)
不思議に思いながらも紗月は励ますように続ける。
「とにかく千景様、今日こそはこの薬草茶を飲んでください。きっと元気になりますから」
「無駄だ」
抑揚のない口調で零れた言葉。相手は抜け殻になった獣人。わかっているのに紗月は悲しくなった。
彼が一番苦しいのだとは思う。でも、彼のために頑張っている人がいることをわかってほしかった。
「無駄ではありません!」
自分でも驚くほど大きな声が出る。千景が珍しくこちらにぼんやりとした視線を向けたくらいだ。
「このお茶には、千景様に元に戻ってほしいという白峰家の方の願いがこもっているんです。その願いを無下にするんですか? 私のことが信用出来なくともかまいません。せめて、このお茶だけは飲んで差し上げてください」
「……」
無言のまま、千景の目線が湯飲みに落ちる。
「千景様。他の手段をとられたくなかったら、大人しく飲んでくださいね」
いつもより少し凄みをきかせた声で言うと、紗月は部屋を出た。
(経口投与が一番無難なんだけど、無理なら注射かしら。私はできないからやっぱり白峰侯爵にお願いするしかないけれど……)
紗月は真面目に次の手段について考えていたのだけれど。
その日の夕方、湯飲みを取りに千景の部屋に行ったところ、湯飲みの中の茶は半分くらい減っていた。
本当は全部飲んでほしかったが、贅沢は言うまい。
「ありがとうございます。千景様。次は全部飲んでくださいね」
にっこりと笑って礼を言う。千景の視線は動かなかったが、少しでも口をつけてくれただけで十分だった。
何が彼を動かしたのかはわからない。
その日から、千景は少しずつ薬を飲んでくれるようになった、のだが……。
結婚した実感は全くない。そもそも夫となった千景とはまともに口もきいていないのだ。
初日が特別で、基本的に千景は自室にほぼ閉じこもっている。食事も使用人が運ぶかたちだ。
「千景様。紗月です」
紗月は千景の部屋の前でふすま越しに声をかけた。近くに置いた盆には湯飲みが一つ載っている。
予想通り返事はない。
紗月は意を決してふすまを開けた。千景相手に遠慮は無用だ。
千景の部屋は八畳ほどの広さの和室だ。ものが少なく、いつも綺麗に片付いている。
文机に向かって座っている背中が見えた。――千景だ。
といっても、机に向かって何をしているわけでもない。ただ向かっているだけだ。
ぴんと伸ばした背筋は、さすがに軍人さんだな、と思う。後ろ姿だけでも美しい。事情が事情なので、一応軍にまだ籍はあるという。
紗月は千景の隣に座ると、何も載っていない机の上に湯飲みを置いた。
「千景様。今日の薬草茶です。今日こそは飲んでくださいね」
聞いていないのかもしれないが、部屋を訪れる度、紗月はきちんとこうして千景に声をかけることにしている。
――千景の気力を取り戻す。
そう決めた紗月は、早速翌日にはふみに預かってもらっていた父の残した研究資料をすべて侯爵邸の自分の部屋に運んでもらった。
『紗月さんは、どのようにして千景を治療しようと考えているの?』
運び込んだ資料を整理している最中にそう声をかけてきたのは夫人だった。
『基本的には薬です。――獣核の機能を回復させる。獣核ってご存じですか?』
『獣人を夫に持つのだもの。一応知っているわ。獣人特有の器官のことでしょう?』
夫人の言う通り、獣核は獣人特有の器官で、みぞおちのあたりにある。獣人の超人的な能力もこの獣核の働きが大きいと言われている。
『番を失った獣人が気力を失うのは、この獣核がうまく働かなくなるかららしいんです。おそらく、千景さんも番に選ばれなかった衝撃で、この獣核がうまく動かなくなっているのだと思います』
『じゃあ、千景は薬を飲めば治るの?』
『うまく薬が合えば。完全に、とはいえませんが、ある程度の回復は見込めるんじゃないかと思います』
その言葉に夫人の顔がぱっと輝く。息子のことが心配だったのだろう。
もちろん、あくまで補助なので以前のように超人的な能力を発揮できるわけではない。だが、普通の人間と同じような生活くらいは送れるようになるはずだ。
慌ててそう付け足すと、夫人は微笑んだ。
『それでもかまわないわ。もう、あれ以上無気力な息子は見ていたくないの』
頑張ります、そう言って紗月は父の残した帳面から基本的な配合を書き留め、白峰家お抱えの薬師に相談の元、調合してもらった。
それが千景に出した薬草茶だ。
これを飲んである程度回復させた後、あとはその症状を見ながら調合を変えていく。これが基本的な治療だ。
薬草茶自体は、三日ほどで準備が出来て、そこから毎日運んでいるのだけれど、千景が飲んだ形跡は全くない。毎日夕方に湯飲みを取りに来るのだが、いつもそのまま残っている。食事にほとんど手をつけないと聞いて、飲みやすい薬草茶という形にしたのだが。
他の手段を考えないといけないのだろうか。千景は過去見てきた獣人と違ってある程度動けるから、自分で飲んでもらおうと思ったのだけれど。飲もうとする意思すら失っているのか。
そんなことを考えていると、ふいに千景の声が耳に飛び込んできた。
「何故?」
千景から返事があると思わなくて、紗月は驚いた。淡々とした口調ではあるが、彼の声を聞いたのは初日以来だった。
ただ、相変わらず紗月の方に視線は向いていない。
紗月はゆっくりと千景に言い聞かせる。
「千景様の状態を良くするお薬だからです」
「必要ない」
「何故ですか? 千景様は元に戻りたいと思わないのですか?」
「いらない。どうせ番……」
ふいに千景がみぞおちのあたりを押さえた。痛むのか顔を歪めている。初めて千景に表情らしい表情が浮かんだ。しかし、それも少しの間だけ。
「千景様。大丈夫ですか?」
「……」
返事はない。流麗な横顔からは表情が抜けている。
(何だったんだろう、今の)
不思議に思いながらも紗月は励ますように続ける。
「とにかく千景様、今日こそはこの薬草茶を飲んでください。きっと元気になりますから」
「無駄だ」
抑揚のない口調で零れた言葉。相手は抜け殻になった獣人。わかっているのに紗月は悲しくなった。
彼が一番苦しいのだとは思う。でも、彼のために頑張っている人がいることをわかってほしかった。
「無駄ではありません!」
自分でも驚くほど大きな声が出る。千景が珍しくこちらにぼんやりとした視線を向けたくらいだ。
「このお茶には、千景様に元に戻ってほしいという白峰家の方の願いがこもっているんです。その願いを無下にするんですか? 私のことが信用出来なくともかまいません。せめて、このお茶だけは飲んで差し上げてください」
「……」
無言のまま、千景の目線が湯飲みに落ちる。
「千景様。他の手段をとられたくなかったら、大人しく飲んでくださいね」
いつもより少し凄みをきかせた声で言うと、紗月は部屋を出た。
(経口投与が一番無難なんだけど、無理なら注射かしら。私はできないからやっぱり白峰侯爵にお願いするしかないけれど……)
紗月は真面目に次の手段について考えていたのだけれど。
その日の夕方、湯飲みを取りに千景の部屋に行ったところ、湯飲みの中の茶は半分くらい減っていた。
本当は全部飲んでほしかったが、贅沢は言うまい。
「ありがとうございます。千景様。次は全部飲んでくださいね」
にっこりと笑って礼を言う。千景の視線は動かなかったが、少しでも口をつけてくれただけで十分だった。
何が彼を動かしたのかはわからない。
その日から、千景は少しずつ薬を飲んでくれるようになった、のだが……。
