番に選ばれなかった元軍神様と愛のない契約結婚をしました

 ちなみに、後日聞いた千景が救いにきた経緯はこうだ。
 紗月がなかなか帰ってこない。
 そう女中頭から連絡を受けた千景は、嫌な予感がしたのだという。
 千景は景正から紗月の知識が狙われる可能性を聞いていたらしい。
 幸い、千景のそばには紗月がもってきた風呂敷やら封筒やらがあった。
 そこにわずかに残った紗月の匂いを頼りに、紗月を追ったのだという。嗅覚が鋭いのも獣人の特徴だ。
 そして無事に紗月を発見し――あとは紗月の見ての通り。
 女の薬がきかなかったのは、おそらく獣核の回復のために飲んでいた薬の効果だろうとのこと。

「――いやあ、本当に千景の鬼気迫った様子ったら。奥さんに見せて上げたかったよ。いや、普通、いくら獣人だからって、そこまで鼻がきくわけじゃないからね。あり得ない。あれは執着のなせる技だね」

 というのは、千景と共に紗月を追ってくれた男性――千景の同期なのだという――の言葉だ。ちなみに彼も獣人らしい。

「でも、本当に千景が回復したことがわかって、ある意味嬉しかったよ」

 しみじみ言った彼の言葉は、きっと本音だろう。



* * *
 

 
 春が近づきつつある。
 薬師の女は捕まり、いろいろと企みを吐いているそうだ。どうやら女の薬は一部の華族の間で重宝されていたらしく、顧客をたどると芋づる式にその家の悪事も暴かれるかたちになった。百合華の家、東院家もその一つだ。
 その流れで、東院百合華が千景にとって作られた番だったことも明るみにでた。

 それだけではない。
 百合華は皇太子の番であり婚約者だ。だが、女の薬によって、作られた番ではと疑われているらしい。
 おそらく、婚約はそのうち解消されることだろう。紗月の元には既に千景を救った薬の打診が景正経由で内密に来ている。


 
「……これでよし、と」

 自室の文机に向かっていた紗月は、そっと筆を置いた。千景の回復の経緯について大体の内容がまとめ終わった。

 ――紗月の研究を支援する準備が整った。

 そう景正から話が来たのは昨日のこと。ついにきたか、と紗月は思った。
 結婚については二人で話し合えと言われている。二人の意志を尊重する、と。
 千景は紗月を大事にしてくれている。でも、特に言葉にしてもらったことはない。夫婦らしいふれあいもしたことがない。
 攫われたときに抱きしめられたことがあるだけ。
 おそらく、恩人だから大事にしてくれているのだろう。
 回復した千景は、再び社交界で注目の的となっている。療養中に結婚したということは知られているが、紗月があまり表に立たないこともあり、令嬢たちは虎視眈々と千景のことを狙っているらしい。

(千景様には私よりふさわしい人がいるのはわかっている)

 紗月の生家である花房家はあまり力のある家ではない。しかも花房伯爵家は最近資金繰りに困っている、という話を噂に聞く。もしかしたら、景正が何か手を回したのかもしれないが、さすがに面と向かっては尋ねていない。
 昔から、父について回っていたので、令嬢らしい知識にも欠ける。

(でも、私は――)

 紗月はぎゅっと拳を握った。そろそろ千景が帰ってくる時間だ。





「ただいま。紗月」
「おかえりなさい」

 玄関で千景を出迎えた紗月は、意を決して千景に言った。

「千景様。話があるんですが、よろしいですか?」

 もしかしたら怖い顔になっていたかもしれない。何かを感じ取ったのか、千景は緊張した面持ちでうなずいた。

「じゃあ、俺の部屋に来てくれないか」

 千景のあとを紗月はついていく。千景が回復してから、彼の部屋を訪れるのは初めてだ。なんとなく緊張する。

「それで、紗月。話というのは?」

 くるりと千景が振り向いて、紗月を見つめてくる。立ったまま向き合う形だ。

「――研究を支援する準備ができた、とお義父様に言われました」

 紗月は千景の顔を見上げた。

「俺も、聞いた」

 どこか固い口調で千景が言う。紗月はうなずいた。ならば話は早い。

「この結婚は、千景様が回復するまでの契約結婚でした。もし、千景様が望むのであれば――」

 全てを言う前に、紗月は千景にぎゅっと手を握られた。

「いやだ。離縁はしない!」
「――え?」

 千景からの思いがけない言葉に紗月は大きく目を見開いた。何も言えない紗月に対し、千景は更に言葉を重ねる。

「抜け殻になった俺を支えてくれたのは、紛れもなく、君だ。俺は、君を伴侶としたい」
「千景、様」
「これは番に対するような狂おしい気持ちじゃないかもしれない。それでも、君は俺の特別なんだ」

 紗月は千景の言葉に息を呑んだ。
 特別。その言葉で十分だった。彼が紗月を求めてくれてることが伝わってきたから。

「――紗月。俺のそばにいてくれないか?」

 すうっと紗月の目から涙が零れた。

「私で、いいんですか?」
「もちろんだ。抜け殻になっていた俺に、毎日話しかけてくれただろう? 君の声だけは俺に届いていたんだ」

 まさか、毎日話しかけていたことが無駄じゃなかったなんて。紗月の胸が熱くなる。
 紗月は思わず千景に抱きつく。ぎゅっと背中に手を回して、そして千景を見上げて言った。

「慕いしています。千景様。ずっとそばにいさせてください」

 千景は琥珀色の瞳を丸くして、それから破顔した。

「もちろんだ。よろしく頼む」

 千景の手が紗月の頬に触れて――そっと二人の唇が重なった。




 番でなくてもかまわない。それとは違った関係を重ねていけばいい。
 今日から、新たな二人の関係が始まった。