番に選ばれなかった元軍神様と愛のない契約結婚をしました

 紗月の名前を力強く呼んだ声。それは確かに千景のものだった。
 声のした方を見れば、焦ったような千景がこちらに駆けつけてくるところだった。

「千景様!」

 紗月は彼の名前を呼ぶ。

「こんなに早く嗅ぎつけるとはね」

 薬を調合していた女性が作業を止め立ち上がる。
 千景の顔からすうと表情が消えた。静かに怒っている。

「紗月を返してもらおう」
「白峰千景。前にあったときよりも回復しているようね」

 女性は千景の顔を見て笑った。

「お前は……東院百合華の後ろにいた女中か」
「あら、記憶力がよろしいこと。東院家は私のお得意様なのよ」

 にっこりと女性が微笑む。全然気づかなかった紗月は思わず目を見開いた。
 千景はにこりともせずに言う。

「もう一度言う。紗月を返してもらおう」
「ご冗談を。返すわけにはいかないわ」

 女性は余裕たっぷりだ。何故なのだろう。千景は軍人で、一時は軍神とも呼ばれていた男。真っ正面からやりあったら勝ち目などないだろうに。
 と、そこまで考えて、紗月ははっとした。女性には薬がある。
 女性はにっこりと笑うと――。ふわりと甘い蜜のような香りがした。
 千景が吸わないようにとっさに鼻と口をおさえる。が、吸ってしまったのだろう。がくりと膝をついた。
 神経をやられるとかそういった薬なのだろうか。

「千景様!」

 紗月は悲鳴のような声を上げた。いくら回復してきたとはいえ、まだ十分とはいえないのに。

「獣人には効果てきめんでしょ? そういう薬なの。常備しておいてよかったわ。獣人相手にまともにやり合えるわけがないもの。いくら壊れた獣人でもね。あ。修理済だったんだっけ」

 そんなうずくまる千景を尻目に、くすくすくす、と女性は笑う。
 壊れた獣人。修理済。ひどい言葉ばかりだ。おそらく、女性の中には獣人に対する怒りがあるのだろう。
 でも、そんなことは千景には関係ない。どうしよう。せっかく千景がきてくれたのに。

「さて。番を定めてなかったら、せっかくだし、ここで私を番にしてもらうのもよかったんだけど。まあ、夫婦仲良く消えてもらいましょうか」

 機嫌よさそうに女性が膝をついた千景へと近寄る。

「やめて!」

 紗月は思わず叫んだ。
 女性の意識がこちらに向く。そのときだった。
 膝をついていたはずの千景が突然立ち上がったのだ。

「――え?」

 気配に気づいたらしい女性が振り向き――だがそれまでだった。
 千景は鮮やかな手際で女性を拘束する。
 女性は抵抗する間もなかった。

「どうして! あの薬は完璧なはずなのに!」
「それは、修理前の獣人にだろう? 残念ながら、俺に薬は効かなかったようだぞ。修理済だからかもしれないな」

 ひんやりとした声で千景は拘束した女性に言う。

「私の薬は完璧なはずなのに!」
「完璧だったら、今ここに俺はいない。諦めろ」

 千景は女性の首筋に手刀を入れる。
 女性がくたりと力を失った。

 そのとき、ばたばたと足音がして、軍の本部で会った男性が走ってくるのが見えた。

「千景! お前、奥さんのことだからって、ちょっと暴走しすぎだぞ!」
「うるさい。お前たちがのろのろしていただけだろう。あと来るな! 犯人が変な薬をまいた。犯人はやる!」

 そう言うと、千景は女性の身柄をぽいっと男性へ投げた。いつの間にか縄でしっかり手を縛っている。
 力も十分戻ってきているようだ。その力業を見て、紗月は変な感心をしてしまう。
 男性はわけがわからぬまま女性を受け止める。

「お、おい。千景!」
「彼女が犯人だ。しっかり捕まえておけ」

 男性は何かを言いたそうだったけれど、千景のいう「変な薬」がまかれていたことに気づいたのか、これ以上中に入ろうとはしなかった。
 面倒くさそうに言ってから、千景はすぐに紗月の元へ近づいてくる。

「紗月……」

 琥珀色の瞳で紗月を心配そうに見つめながら、千景は紗月の拘束を解いてくれた。
 番でもなんでもない妻なのに助けに来てくれた。それだけで紗月の胸はいっぱいになる。

「千景様。ありがと……」

 紗月が全てを言う前に、ぎゅっと千景に抱きしめられた。

「紗月。よかった。心配した」

 絞り出すような声が聞こえて、紗月の胸がじんと熱くなる。

「千景、様……」

 おずおずと紗月は自分の腕を千景の背中へと回した。