「千景様! 千景様ではなくて!」
ぱっと華やいだ声が紗月の耳に飛び込んできたのは、とある高級呉服店の前だった。
現れたのは、華やかなご令嬢だった。年齢は紗月よりも少し上だろうか。整った目鼻立ちは文句なく美人だと言える。黒地に赤い牡丹が華やかな着物を着こなしていた。そばには女中らしき若い娘と使用人らしき男性がついている。
「……っ」
隣を歩いていた千景が固まった。小刻みに身体が震えている。脂汗がこめかみに浮いていた。
ただ事ではない千景の姿に紗月は眉をひそめる。
令嬢はずっと恋い焦がれた殿方にあったかのようにこちらに寄ってきた。
「千景様。あなたのことを私はとても心配していたのです」
「ゆ……り……か」
千景から紡がれたかすれた声に、紗月ははっと息を呑んだ。
ゆりか。――東院百合華。千景を選ばなかった番の女性。まさか彼女が。
東院家は花房家と同じ伯爵家だが、最近商売がうまくいったということでかなり勢いがある。叔父の浪費で傾くばかりの花房家とはえらい違いだ。
「抜け殻になってしまったと聞いたけれど、元気になられたのならよかったですわ」
百合華がにっこりと微笑む。妙に口調が馴れ馴れしい。
紗月はなんとなく面白くなかった。
「千景様。軍に復帰するというお話もありますが、本当ですの? であれば、わたくしの護衛をしてくださらないかしら」
(この人は一体何を言っているのだろう)
そもそも千景が抜け殻になってしまったのは、百合華が千景を選ばなかったことだ。もちろん、人の気持ちについてとやかく言うことはできないので、百合華が別の男性を選んだことについて文句を言うつもりはない。
けれど、自分が振った男に自分の護衛になれ、だなんてひどすぎる。獣人相手じゃなくても、なかなかの言い草だ。
千景は真っ青な顔をしている。瞳の焦点が揺れている。
そうだ。百合華の態度に腹を立てている場合ではない。
紗月は意を決して前に踏み込んだ。千景をかばうように前に出る。
「申し訳ありません。急いでおりますので、これくらいにしていただけますか?」
百合華はここで初めて紗月の存在に気づいたらしい。小馬鹿にしたような視線を送ってくる。
「あなたは?」
「――千景の妻です」
その言葉は自然と口から出ていた。
百合華のほんの一瞬、目を大きく見開いた。しかし、すぐ気を取り直したように微笑む。
「そう。かわいそうね。千景様はもう既に番を定めてしまったもの。愛されることはないのに、けなげね」
「私が決めた道ですから。千景様。行きましょう」
紗月は千景をひっぱるようにして、百合華から離れた。千景もなんとかついてくる。
百合華はさすがに追ってくるようなことはなかった。
「大丈夫ですか?」
小さな路地に入ったところで、紗月は立ち止まって千景に尋ねる。
「ああ。大丈夫だ」
顔を青ざめさせながらも、千景は笑おうとする。
「――ありがとう。紗月。助かった」
「いえ当然です。私はあなたの――妻ですから」
千景の様子に注意しながら、紗月は先ほどの百合華を思い出す。
百合華は、千景に好かれていた私、というものを自慢に思っているのだろう。選ばなかったくせに、手放すのは惜しいのだ。
それがたまらなく不愉快だった。
ぱっと華やいだ声が紗月の耳に飛び込んできたのは、とある高級呉服店の前だった。
現れたのは、華やかなご令嬢だった。年齢は紗月よりも少し上だろうか。整った目鼻立ちは文句なく美人だと言える。黒地に赤い牡丹が華やかな着物を着こなしていた。そばには女中らしき若い娘と使用人らしき男性がついている。
「……っ」
隣を歩いていた千景が固まった。小刻みに身体が震えている。脂汗がこめかみに浮いていた。
ただ事ではない千景の姿に紗月は眉をひそめる。
令嬢はずっと恋い焦がれた殿方にあったかのようにこちらに寄ってきた。
「千景様。あなたのことを私はとても心配していたのです」
「ゆ……り……か」
千景から紡がれたかすれた声に、紗月ははっと息を呑んだ。
ゆりか。――東院百合華。千景を選ばなかった番の女性。まさか彼女が。
東院家は花房家と同じ伯爵家だが、最近商売がうまくいったということでかなり勢いがある。叔父の浪費で傾くばかりの花房家とはえらい違いだ。
「抜け殻になってしまったと聞いたけれど、元気になられたのならよかったですわ」
百合華がにっこりと微笑む。妙に口調が馴れ馴れしい。
紗月はなんとなく面白くなかった。
「千景様。軍に復帰するというお話もありますが、本当ですの? であれば、わたくしの護衛をしてくださらないかしら」
(この人は一体何を言っているのだろう)
そもそも千景が抜け殻になってしまったのは、百合華が千景を選ばなかったことだ。もちろん、人の気持ちについてとやかく言うことはできないので、百合華が別の男性を選んだことについて文句を言うつもりはない。
けれど、自分が振った男に自分の護衛になれ、だなんてひどすぎる。獣人相手じゃなくても、なかなかの言い草だ。
千景は真っ青な顔をしている。瞳の焦点が揺れている。
そうだ。百合華の態度に腹を立てている場合ではない。
紗月は意を決して前に踏み込んだ。千景をかばうように前に出る。
「申し訳ありません。急いでおりますので、これくらいにしていただけますか?」
百合華はここで初めて紗月の存在に気づいたらしい。小馬鹿にしたような視線を送ってくる。
「あなたは?」
「――千景の妻です」
その言葉は自然と口から出ていた。
百合華のほんの一瞬、目を大きく見開いた。しかし、すぐ気を取り直したように微笑む。
「そう。かわいそうね。千景様はもう既に番を定めてしまったもの。愛されることはないのに、けなげね」
「私が決めた道ですから。千景様。行きましょう」
紗月は千景をひっぱるようにして、百合華から離れた。千景もなんとかついてくる。
百合華はさすがに追ってくるようなことはなかった。
「大丈夫ですか?」
小さな路地に入ったところで、紗月は立ち止まって千景に尋ねる。
「ああ。大丈夫だ」
顔を青ざめさせながらも、千景は笑おうとする。
「――ありがとう。紗月。助かった」
「いえ当然です。私はあなたの――妻ですから」
千景の様子に注意しながら、紗月は先ほどの百合華を思い出す。
百合華は、千景に好かれていた私、というものを自慢に思っているのだろう。選ばなかったくせに、手放すのは惜しいのだ。
それがたまらなく不愉快だった。
