番に選ばれなかった元軍神様と愛のない契約結婚をしました

「君が妻」

 淡々とした声でそう言った青年は、思わず見とれそうになるくらい綺麗な顔立ちをしていた。
 けれど――その美しい琥珀色の瞳は、妻になる紗月のことを見ているようで見ていなかった。


 * * *


 ――屋敷の外に出ているときは、辛い現実を忘れられる。

 花房紗月(はなぶささつき)はこじんまりとした古い家屋の一室で、亡き父の残した資料を読んでいた。
 研究者だった父が、自分の研究内容を帳面に綺麗にまとめていたもので、獣人の男性が定める運命の女性――番について書かれている。

『紗月は亡くなった母さんに似て綺麗だから、もしかしたら番として求められるかもしれないね』

 この天耀皇国は、獣人と呼ばれる亜人と、人間が共存している。何を隠そう皇帝も獣人だ。総じて獣人は地位の高い者が多い。

(でも、お父様が亡くなった今、私が獣人の方と出会うことはきっとないわね)

 紗月は花房伯爵家の一人娘だ。伯爵令嬢であれば夜会などで獣人の殿方と出会う機会はあっただろう。
 しかし、父が亡くなったことで紗月の運命は暗転した。花房伯爵家を勘当されたはずの叔父に乗っ取られてしまったのだ。今の紗月に自由はほぼない。
 ――いつか父と共に研究をしたい。父の研究はきっと獣人にとって役に立つから。
 それが、父の研究を間近で見ていた紗月の夢だった。
 けれど、今の紗月に出来るのは、父が残した資料を読んで、覚えていた知識を忘れないようにすることくらい。そんな自分がもどかしい。

 「お嬢様。そろそろ……」

 申し訳なさそうにこの家の主である老婆が声をかけてくる。紗月は顔を上げると、ぱたんと読んでいた帳面を閉じた。

「わかったわ」

 名残惜しいが仕方がない。あまり遅くなりすぎると夕餉の支度に間に合わず、食事を抜かれてしまう。それだけならまだいい。この場所を知られると面倒だ。
 帳面を元の場所に戻すと、紗月はすっくと立ち上がった。

「ありがとう。ふみ。また来るわね」
「いえいえとんでもない。こんなあばらやでよかったらいつでも来てください。本当に本来ならお嬢様が正当な跡継ぎなのに……」

 紗月の置かれている状況を知る老婆――ふみが憤慨する。が、紗月は笑顔を作ってそれを止めた。

「大丈夫よ。あと数ヶ月の辛抱だもの。そうしたらあんな屋敷、出て行ってやるわ」

 ふみは、以前紗月の家に勤めていた使用人だ。高齢で引退して、今は息子一家とこの家に住んでいる。屋敷を離れた今も紗月を大切にしてくれて、屋敷に居場所がない紗月に「避難場所」を提供してくれているのだ。父の大切な研究結果を預かってくれてもいる。
 じゃあね、となおも心配そうなふみに手を振って、紗月は外へ飛び出した。日が暮れる前に屋敷に帰らないといけない。
 今の紗月にとって、女学校へ行って帰ってくるまでの時間がわずかな自由時間。この時間だけは失うわけにはいかないのだ。
 くたくたの矢絣の着物に、裾が擦れた紫色の袴。女学校の制服姿で足早に屋敷へと向かう。背中で三つ編みに結った黒髪が揺れた。
 見えてきたのはひときわ立派な屋敷だ。紗月は裏門を通り使用人用の出入り口から屋敷の中に入った。誰にも咎められずに離れの部屋にたどり着いた紗月は、ほうと息を吐き出した。

 日没を過ぎても家に戻らなかったら、叔父は容赦なく屋敷から閉め出すだろう。夜は異形と呼ばれる怪異が活発になる。襲われたら命の危険もあるのでそれだけは避けなければならない。
 休む暇もなく着古した木綿の着物に着替えて、白い前掛けをかける。ぱちぱちと頬を叩いた。
 ここからは気持ちを切り替えないといけない。
 母屋の台所へ向かっている最中に、廊下で派手な服装をした叔母と出会う。

「紗月。もう、夕餉の支度は始まっているようだけれど?」

 咎めるような声色に、紗月はぎゅっと身体を縮こまらせたまま言う。

「申し訳ありません。奥様」

 叔母様などと呼ぼうものなら手を上げられる。叔父一家は紗月のことを、ただの穀潰しとしか思っていない。
 屋敷に置いているのも、一応女学校に通わせているのも、世間体のためだけだ。叔父は紗月が成人するまでの後見人ということになっているから。成人したらきっといろいろ理由をつけて家を追い出されるのだろう。紗月が自らの意志で叔父に当主を譲った、という形にして。
 なので、他人の目が届かない屋敷の中での紗月の扱いは、ひどいものだ。無給の使用人のような扱いをされている。水仕事で紗月の手は荒れてボロボロだ。
 叔母をやり過ごし、叔父一家の夕餉の支度をしている台所へ向かう。料理人の指示に従って、紗月は洗い物を始めた。

(あと少しの我慢よ)

 女学校を卒業したら、この家を出て行くのだ。働いて、お金を貯めて、そしていつか。
 叔父一家の夕餉の後始末をしたあとに、ようやく夕食にありつける。
 紗月は使用人たちの残りを食べることになっていて、いつも冷たいご飯が少しと味噌汁くらいしか残っていない。今日は青菜のおひたしが残っていただけ幸せだろう。女学校へ持っていく弁当だけは、あまりにもみすぼらしいと変な噂が立ってしまうので、まともなものを持たされているのが幸いだ。
 薄暗い台所で紗月は一人遅い食事を取る。
 この屋敷に、紗月をお嬢様扱いしてくれる使用人は、もういない。