亡き奥方を離縁するため、私は契約妻になりました

鶏が鳴きはじめるよりも前のまだ暗い時間、千歳は古びた長屋の一室にいた。
 壁の向こうからは、酒に酔いつぶれた男の鼾が聞こえていた。酒の匂いと、湿った畳の匂いが入り混じっている。
 畳の上でうずくまる女性の手首には、赤黒く縒れた縁の糸が幾重にも巻きついていた。
「もう大丈夫。切るところを、少しだけ見ていてください」
 千歳が糸に触れて術をかけた瞬間、糸が彼女の目にも見えるようになった。毒々しい糸の色に、彼女の肩がぴくりと跳ねる。
 千歳は懐から小刀を抜き、糸の結び目に刃を当てた。
(……歪んだ強い執着ね。根も腐りきっているし)
 こういう糸は、無理に引いてしまうと、これからの彼女の縁が乱れることになる。慎重にいかなければ。
「痛くはありませんか」
「え……ええ。ただ、怖いだけです」
 彼女の手首に、千歳の細い指が這う。糸を探り、一番細く切れやすいところを探した。
「怖くて当然です。長く、あなたを縛っていたものですから――見つけた」
 手首に絡みつく執着の証。幾重にも絡んでいるその縁の中、ようやく一番容易く切れる場所を見つけ出した千歳は、小刀を握る手に、静かに力を込めた。
 ――ぷつり。