異能の契約花嫁と隻眼の旦那様

 真央が市ヶ谷家に来て一週間が経った。昼の仕事が一段落し、自室のソファで休んでいると、司沙が長い包みを持って現れた。
 黒い布に包まれたそれはどこか重そうに見える。

「真央、仕事に精が出るな。今日も疲れただろう」

 司沙がソファの隣に座り、テーブルに包みを置いた。
今日は彼は休みなので、首元のボタンを外したシャツに黒いズボンという軽装である。いつもの堅苦しい姿と違って、いくらかとっつきやすい気がした。

「司沙さま、それはなんでございますか」
「開けてみろ」

 言われるがまま、真央は包みを開く。中から出てきたのは銀色に光るふり杖だった。

「これは……ふり杖ですか。なぜここに」
「新品だ。真央にやろうと思って買ってきた」

 予想外の返答に、真央はしばし固まった。

「私にこれを? どうして。私は戦う近衛隊ではないのですよ」
「もちろんわかっている。だが、先日のお前の戦いを見た時から、お前にはこれが似合うと思ってな。絶対に買って渡そうと思った」
「戦いというほどのことはしてはおりませんが……」

 真央は苦笑いしたが、司沙はいたって真剣だった。ふり杖を手に取り、真央の手に握らせる。

「以前、お前は俺が渡そうとしたエメラルドの指輪を断っただろう。また、それより夕焼けの方がはるかに綺麗であるとも言った。俺は、ふさわしい対価というものを間違えていたのだと思う。なにかを与えてもらった、施してもらった時、華美だったり豪華だったりするものを与えておけば、誰だって喜ぶと考えていた。実際、今までそうだったからな」

 ふり杖を握り、真央は彼の言葉に耳を傾けた。

「しかし、違った。真央は俺の指輪を受け取らなかった。労働の対価に指輪は受け取れない、と……ならば、なにが良かったのかとずっと考えてきた。そして、真央が悪霊を退治したのを目にしたとき、これだ、と思ったんだ。多くの者の目からして価値があると見えるようなものより、その者にとって役に立つものを与えるべきだったのだと気づいた。だから、悪霊を祓った真央には、その時使ったものと同じふり杖を与えようと決めたんだ」

 司沙の目に宿っていたのは、今までのような冷酷さではなく、熱をもった光だった。ちょうど、あの日の帰りに彼が着けてくれた呪いのような。

「受け取ってくれるか、真央」
「ええ。ありがたくちょうだいいたします」

 言うと、目に見えて司沙の顔が明るくなった。すかした、すました表情とはまったく違う、素の面。

「これを常に持ち歩いてくれ。ちょっと荷物になってしまうが……真央は自分で身を守れる、強い人間だとわかったからな」
「承知いたしました。では、これから買い物に参りますが、ちゃんと持って行こうと思います」
「買い物?」
「はい。今日の夕食の買い物です。菊野さんに頼まれたので」
「仕事を減らすように頼んだ方がいいか」

 めずらしく甘いことを言ったので、真央はきょとんとした。

「いえ、仕事をするのが私の役目ですから。取り上げられては困ります」
「……そうか」

 真央はふり杖の上下についた革のベルトを背中に回し、ふり杖を背負った。

「では、行って参ります」

 なにか言いたげな司沙を残し、真央は部屋を後にした。


 買い物を何事もなく済ませ、魚や野菜などの入ったかごを傍らに道を歩く。商店街を抜けて、静かな神社のある小道に差し掛かった時、見知った姿を見つけた。
 白いシャツの右側の袖を結び、ぶらぶらと風になびかせている──秋治だった。
 彼はまだ真央がいるのに気が付いていないようで、石灯籠の影に黙ってたたずんでいる。
 秋治とは、この前実家に帰った時も顔を合わせていないので、いちおう挨拶しておいた方がいいかもしれない──そう思って足を踏み出した時、秋治が宙に向かってなにかをつぶやいた。

「霊よ、その御霊を我の前に指し示せ」

 ふわ、と宙の中からどす黒い塊が浮かんでくる。悪霊だった。

「霊よ、頼みたいことがある。聞いてくれるか」

 秋治はためらいなく悪霊に問いかけた。悪霊は漂いながら、低い声で答える。

「なんだ。申してみよ」
「今度、そなたの仲間と連れ立って市ヶ谷の家を襲撃してはくれないか。この大切な右腕が取られたことと──除隊になったことの復讐がしたい」

 耳を疑った。悪霊どもと連れ立って、市ヶ谷邸を襲う?
 悪霊がさらに訊いた。

「なぜそこまで市ヶ谷司沙に固執する」
「僕より年下のくせに、抜け駆けして大将になるなんて許せない。あってはならないことだ。何事も年下の者が年上の者に従う。それがこの国で美徳とされていることではないか? なぜあいつだけがその決まりを破る」
「……言い分はわかった。では、対価はなんだ」
「僕の身体だ」

 きっぱりとした声が神社の静寂な空気を破る。真央は自分の足が棒になったのを感じた。

(義兄が、悪霊と契約をした……)

 状況を掴もうとしているうちにも、秋治は淡々と悪霊との契約を済ませていく。ようやく悪霊がその場から消え、真央は我に返った。

「お義兄さま! 今、なにをされていたのです」

 冷や汗が背筋を流れるのがわかった。

「見ていました、全て。市ヶ谷を悪霊と共に襲撃すると」
「なんだ、なにやら視線を感じると思ったら真央か……見ていたんだろ? 全部、その通りだよ」

 結ばれた袖を揺らして、秋治はこちらを振り返った。

「ですが、対価がお義兄さまの身体……身体を出せば、死んでなお悪霊に身体を囚われ続けるのですよ。平気なのですか」

 悪霊はすでにこの世の存在ではない。その悪霊と契約をすれば、死んで魂だけの存在になってからも身を悪霊に囚われ、浄土にも行けず永遠に現世をさまよい続けることになる。

「平気さ。死んでからのことなんてわかりゃしない。生きているうちに嫌なことは片付けた方がいいだろう」

 真央はなにも答えられなかった。

 悔しいという気持ちはわかる。だが、すでに彼は悪霊と契約を済ませてしまった。

「……もし悪霊どもが屋敷に押し寄せたとしても、司沙さまはそう簡単に負けたりいたしません」
「ずいぶんと言うようになったな。すっかり市ヶ谷の嫁気取りか」
「気取りもなにも、契約した身です。もうこの身体は市ヶ谷家のものです」
「柴崎に帰りたいとは思わないんだな」

 ぽつり、と秋治がこぼして視線を落とした。

「市ヶ谷家の当主である司沙がいなくなれば、柴崎家が取り潰される心配もなくなる。それどころか、分家としてではなく主家として成り上がれるかもしれないんだ。それを嬉しいとは思わないのか? もう働かずに済むんだぞ」

 真央をこき使ってきた本人がよく言える。

「謀叛ではありませんか。失敗すれば、私は市ヶ谷家の道具となり、柴崎家は取り潰されるのですよ。今、お義兄さまがしようとしていることがどれだけ危険だかお分かりになりませんか」

 いたって冷静に言い聞かせようとしたが、彼の耳には入ってこないようだった。

「失敗させない。僕にはその覚悟がある」

 秋治は身をひるがえし、神社の参道を引き返していく。出口の鳥居に差し掛かったところで、彼は右肘を持ち上げた。

「では、また会おう。真央」

 そのまま彼の姿が見えなくなり、真央は呆然とした。
 確か、春太郎は言っていた。
 真央がいなくなってから、秋治は塞ぎこんでずっと書き物をしていると。それはもしや、司沙を討ち果たすための作戦を練っていたのではないか。

「お義兄さま……」

 風がさやかに吹く中、真央はこのことを司沙に伝えるか迷っていた。


 重い足取りで帰路に着き、食事の準備に取り掛かる。今夜の献立はビーフステーキにニンジンのグラッセ、コーンスープだった。
 いつものテーブルで慣れないスプーンでスープをすすっていると、司沙に目ざとく問われた。

「顔色が悪いな。なにかあったのか」
「……お話してもようございますか」
「無論」

 許可を得て、真央も覚悟を固めた。
 今日、神社で見たこと聞いたことをすべて包み隠さず伝えると、すぐに司沙の顔が曇った。一方の義一は聞きながらも特に顔色を変える様子はない。

「なるほど……秋治がそんな作戦を練っていたとは知らなかった。襲撃するなら、悪霊の動きが活発になる夜だろう。使用人たちも起きている昼に襲撃するとは考えにくい。夜間の警備を手厚くし……しばらくは俺も徹夜することにする」
「でも、そうしたら昼間のお仕事に影響が出てしまうのではありませんか」
「なにを言っているんだ。自分の家が襲われようとしているんだぞ。なにを差し置いても守るべきものがあるだろう」

 司沙が動いたせいで、がちゃり、とナイフが皿にこすれる耳障りな音がした。
 少し考え、真央は口を開く。

「私も徹夜します。司沙さまと夜を徹して起きることとします」
「……正気か?」
「もちろんです。司沙さまの命が狙われている今、嫁である私が呑気に寝ているわけにはいかないでしょう」

 真面目な面持ちで言い放つと、司沙は根負けしたように椅子に深く座りなおした。

「わかった。お前が決めたことだ、泣き言は言うなよ」
「承知しました」

 約束を言い交して食事に戻る。義一は相変わらず落ち着いた様子で食後のコーヒーを飲んでいたが、ふと顔を持ち上げた。

「真央くん、以前実戦で悪霊を祓ったと聞いたが、今回も悪霊を祓える自信があるのかい」

 藪から棒の質問に、コーヒーカップを持つ手が固まった。

「自信は……正直なところありません。あれはほとんど僥倖であるともいえますし」

 襲い掛かってくる狐の悪霊を、部下の男とふり杖を握って討伐した。あの時の賢明な判断が、またできるとは限らない。
 それでも。

「──私は司沙さまを守りたいと思います」

 もらった、あのふり杖で。

「この家は針の筵であったのではないかな」

 義一の問いはもっともだった。初めて市ヶ谷家に来てから、夫には「嫌い」と宣言され、使用人からは仕事の邪魔をされ、色々なことがあった。
 さりとて、「嫌い」と言ったはずの司沙から予想外の告白をもらった。
彼の中で芽生えたという好いた気持ちを受け取って、真央の中でも確かに好きという気持ちがふつふつと生まれだしたのだ。

「そのお言葉は否定しません。ですが、司沙さまは私のことを好きと申してくれました。そのお言葉に、今こそ報いる時だと思うのです」
「……司沙、そんなことを言ったのか」

 初めて義一の余裕そうな表情が崩れた。市ヶ谷家の当主として謀叛を起こした柴崎家をなにより嫌っていたはずの息子が、嫁に好意を示したというのだから当然だろう。

「言いました。確かに」

 真央の見間違いでなければ、司沙の頬に赤みがさしていた。

「ふうん、ずいぶんと司沙も丸くなったものじゃないか」
「父上はどうお思いで」
「まだわからん。だから、今回のことで真央くんには市ヶ谷家の嫁としての覚悟を見せてもらおうと思う」

 どうやら、これから自分は試されるらしい。

「わかりました。この真央、司沙さまのための命を賭して戦います」
「言ったね、真央くん」

 真央は義一に向けてしっかりと首肯した。


 その晩、真央は自室のソファでコーヒーを飲んで目覚ましに努めていた。もう三杯目である。

「そんなに飲みすぎるのも良くないぞ」
「でも、飲まないと眠ってしまいそうで怖いのです」

 湯気が立ちのぼるカップをソーサーに戻し、真央は壁にもたれている司沙を見た。
 彼はいつでも出撃できるようにいつもの軍服を着ている。真央もふり杖を傍らに置いていた。

「まあ、真央は毎日働いてすぐに眠ってしまうからな。そう思うのも致し方ない」

 彼の言うことは事実だった。
 朝から夕方まで働き、へとへとになって寝台に潜り込むとすぐに寝入ってしまう。隣に司沙がいても、「おやすみなさい」を交わした一分後には意識が飛んでしまうのだ。
 すでにまぶたが重い。うっかりすれば船を漕いでしまいそうである。
 その様子を察したのか、司沙がソファの隣に座った。

「もう寝そうではないか」
「……面目ありません」
「そんなに眠いのなら──目を覚ましてやろうか」
「そんなこと、おできになるのですか」

 驚いて訊くと、司沙は少々意地悪く笑った。

「覚ましてやる。こっちを向け」
 言われた通り、真央は司沙の方を向いた。いつかと同じように顎が掴まれたかと思うと、司沙の顔が近づいてくる。
 ──あれ。これはなんだか様子がおかしい。これは、まさか。
 勘の鈍い真央も、司沙が今からなにをしようとしているのか悟った。
 心臓がうるさく音を立て始める。

「あ……あ……」

 言葉にならない吐息がこぼれる。あと一寸で唇が重なろうとした時──下の階からガラスが割れる音が響いてきた。
 一瞬で身体が離れ、司沙が立ち上がる。真央も急速に現実に引き戻され、ふり杖を構えた。

「続きは後だ。下がなにやら騒がしい。行くぞ」
「了解しました」

 二人はおのおのの武器を片手に階段を降りる。すでに階下では部下や使用人たちが武装して固まっていた。

「この者が侵入する悪霊を見たそうです」

 部下の一人が腰を抜かしている使用人を指した──菊野だった。
 割れたガラスは広間の窓のものらしく、外に面しているため、すでに多くの悪霊が侵入していると考えてよさそうである。

「報告承った。では、小隊を組む。各十人ずつで隊を組め。俺の隊には真央も入ってもらう」

 真央は頷いた。司沙がいる隊はすなわち大将首のある隊ということになり、最も悪霊に狙われる可能性が高い。

「問題は、悪霊を裏から操っている秋治がここにいるか否かだ。真央はどう思う」
「あの腕はまだ治りかけですし、利き手を失ったことでサーベルを握ることはできないでしょう。つまり丸腰ですから、その状態でここに乗り込むとは考えづらいと思います。おそらく、家にいるかと」
「俺と同じ意見だな。なら、俺と真央の隊は柴崎家に乗り込むことにする。残りの隊は屋敷内の悪霊を討伐するように」

 大声で司沙が言い渡すと、部下と使用人たちが揃った返事をした。
真央は司沙の後に続いて厩に走る。
隊の部下たちが身軽に馬へ乗るのを見て、ひとり焦った。

「さあ、真央、馬に乗れ。目立たないように行くぞ。秋治が捜しているのは俺だから、俺が屋敷にいないとわかれば追ってくるに違いない」
「私、馬を操ったことなどありませんが」
「俺の後ろに乗れ」

 言うなり胴を持ち上げられ、横に馬へ乗せられた。鞍の固い感触が尻に広がる。

「しっかり掴まっていろ」

 次の瞬間、馬が勢いよく走りだした。慌てて司沙の腰を掴み、激しい振動に耐える。後ろからは部下たちが乗る馬の蹄の音が追いかけてきていた。
 目まぐるしく景色が変わる。ここから柴崎家までにはそれなりに遠い。
 少しして、発砲音があった。

「大将! 悪霊が屋敷から着いてきた模様です。私どもで退治しておりますが、お気をつけて」
「わかった」

 発砲音は悪霊を撃ったものらしい。
 真央は空いた左手で背負っていたふり杖を構えた。

「そっちに行きました!」

 部下の一人が叫んだと同時に、黒い影が弧を描いて司沙目がけて飛んでくる。
 真央はふり杖を悪霊に振るい、分銅を悪霊の中央にめり込ませた。
 ぎ、と嫌な声があって、悪霊が夜の闇に溶けていく。

「やったか」
「司沙さま、やりました」

 だが、一体討伐しただけでは終わらなかった。次々と悪霊が司沙の首を狙い、絶え間なく飛んでくる。
 真央も間断なくふり杖で応戦したが、分銅が司沙に当たらないように気をくばったりしているうちに腕が痛くなってきた。

「もう少しで柴崎家だ。耐えてくれ」

 返事をする余裕さえ失われていた。
 ──と、悪霊が不規則な動線を描いて迫ってきたと思うと、馬の脚に勢いよくぶつかった。
 馬は体勢を崩し、小道の脇に生えていた雑草の山に倒れ込む。真央たちは宙に放り出され、雑草の生えた地面に打ち付けられた。
 骨が嫌な音をたてたのがわかったが、尻もちをついたままではいられない。

「仕方ない。あと少しの道のりだ、走るぞ」

 先に立ち上がった司沙から差し伸べられた手を握り、なんとか腰を上げる。
 二人は夜道をひた走り、必死で柴崎家へと向かった。
 さりとてその間も悪霊が二人の邪魔をしてくる。
 真央は悪霊たちの攻撃を必死で交わしつつ、ふり杖をがむしゃらに振りながら駆け抜けた。
 司沙もサーベルを抜き、暗闇に向けて刃を振るっている。

「真央、平気か」
「はい!」

 喉から声を振り絞り、足を動かす。
 ようやく柴崎家の門が見えてきた。
 家はしんと静まり返り、悪霊たちの気配は微塵も感じられない。

「義兄は縁側に面した間で寝起きしています。鍵をかけることはないので、きっと開いているでしょう」
「承知した」

 悪霊の攻撃の小さな間を縫って、司沙が縁側に面した障子を蹴破った。
 木枠がひしゃげる音が響き、夜風が一気に部屋へと流れ込む。
 そこにあったのは、布団の上であぐらをかきながら必死でなにかを唱える秋治の姿だった。あまりに静謐な様子は、ちょうど僧が無心で読経をするのにどこか似ていた。
 なるほど、遠隔で悪霊に指示を出していたらしい。

「秋治ィ!」

 司沙の怒鳴り声に、秋治がおもむろに首をひねった。

「大将さま自らお出ましか」
「お前……自分がなにをやっているかわかっているのか。醜い、くだらない嫉妬に身を焼かれて自らを悪霊に売ったのだぞ」

 ぴくり、と秋治のこめかみが痙攣したのが見えた。

「くだらない? お前にはそう見えるだろうよ。だが、僕にとっては許されざることだ。年下の者が年上の者の上に立ち、指揮をする。自然の摂理に反しているとは思わないか? 僕は見過ごせない。お前のような小僧が僕を差し置いて大将になるなど、看過できることではない!」

 きっとこれは秋治の本音だった。
 自分より年下の者が、ゆうゆうと上の役に付いたのだ。真央には経験がないのでわからないが、年上が年下に頭を下げるのは相当に難しいことらしい。
 無意識のうちに、真央は秋治に意見していた。

「お義兄さま、もうおやめください。あなたの一挙一動が柴崎家の寿命を削っているとなぜ気づかれないのですか」
「……お前も僕に意見するのか。柴崎の居候のくせに! 妾の子がなにを偉そうな口を利く!」

 秋治が結ばれた袖を揺らして立ち上がる。はずみで空気が揺れた。
 否、空気が変わった。真央の隣に立つ司沙がまとうものに明らかな怒気が混じった。

「秋治。お前──今なんと言った」
「柴崎の居候、妾の子と言ったんだ。仕方なく柴崎に置いてやってる、使用人みたいなものだったからな」
「俺の嫁にたいそうな口を叩くな。二度とその口、開けないようにしてやる」

 サーベルの刃が光ると同時に、司沙が秋治に切りかかった。
 しかし、その刃は秋治の身体の手前で弾かれた。

「悪いが、今の僕には悪霊の加護がついているものでね。簡単には斬れやしないよ」

 その折、廊下から足音が聞こえてきた。かと思えば、春太郎に律、千佳がなだれ込んでくる。寝ていたところを起こされたらしく、全員寝巻姿であった。
 光景を目の当たりにし、春太郎が呆然としてつぶやいた。

「これは……何事か」
「ああ、司沙の首をとろうと思ったんです。悪霊と少々契約をしましてね」
「お前、また市ヶ谷家に反抗すれば柴崎家は取り潰されるのだぞ。わかっているのか」
「当然。だからここで司沙の命を取ります」

 彼は、枕の下から黒く光るものを取り出した──拳銃だった。

「除隊になった時にくすねてきたものだ。これなら難しい技巧もいらない」

 銃口が司沙に向けられる。

「玉はちゃんと入っているからな。無駄撃ちしても大丈夫だ」
 真央は思わず後ずさった。秋治は今にでも司沙の命を奪えるのだ。

 ──私にできること。それは。

 悪霊の加護を突破しなければ、秋治に近づくことすらできない。ならば、することは一つ。
 真央は司沙の背中に張り付き、手を背中に当てた。ちょうど、心臓の裏側の位置だ。

「我、そなたに力を与えん。悪霊を狩るその力、増して身体に血として流れよ」

 口の中で小さく唱えると、手の内側に光が宿って司沙の体内に取り込まれていく。
 彼も力が注がれていることに気づいたらしく、心なしか背筋が伸びた。

「真央」
「はい」
「血が半分しか繋がっていないとはいえ、兄だ。奴を狩っていいか」
「許可します」

 会話は秋治に聞こえていたらしく、彼の眉間にしわが寄った。次の瞬間、発砲音が響いた──見ると、司沙の右足に穴が開いている。

「司沙さま!」
「これくらい平気だ。立っていられる。では──いくぞ。真央も加勢しろ」

 撃たれたはずの足を構わず踏み出して、司沙がサーベルを振るった。

「──あ」

 秋治の小さな声が聞こえた。
 今度こそ悪霊の加護は機能していなかった。神通力のこもった刃の切っ先が光をまとって秋治に降りかかる。

「な、なんだ、これは、」

 秋治の身体が急速に崩壊していく。黒いもやがあふれ出し、斬られた肩から消えていく。

「悪霊と契約していた身だろう。お前の身体はもう悪霊のものだ。取り込まれていると言ってもいい。その悪霊を祓えば、身体もろとも除霊されてもおかしくはない」
「お兄さま!」

 千佳が消えゆく秋治にすがりつく。

「司沙さま、兄をお助けください! 兄は嫉妬に惑わされていただけなのです。どうか、どうか」
 しかし、千佳の願いは黙殺された。
 やがて秋治は跡形もなく消え、着ていたシャツとズボンだけがはらりと布団の上に落ちた。

「ここに宣言する。二度の主家への謀叛、もはや許されることはない。柴崎家は取り潰し、追放とする」

 柴崎家は主家の市ヶ谷家があることで成り立っている分家である。家の建っている土地も市ヶ谷家のものゆえ、取り潰した上追放されれば、路頭に迷うことになる。
 春太郎を始め、律と千佳の顔が青くなっていく。ぎりぎりのところで成り立っていた家が、ついに崩壊した。
 律が膝を折り、その場にくずおれる。立ち尽くす真央に千佳が掴みかかってきた。

「なにぼうっとしてるの真央! あんたも嫁の地位を追われるのよ。道具扱いされるって契約を覚えてるの」
「その心配はいらない」

 司沙の落ち着いた声が落ちた。

「真央は俺に協力してくれた上、もう市ヶ谷家の大切な一員となっている。追放はしない。道具扱いなどもってのほかだ」
「そんな──そんなのって、契約は」

 今度こそ千佳が泣き出した。

「契約? 俺が始めたことだ。俺の裁量でいくらでも好きに出来る」

 口の端が不敵に持ち上がる。傍から見るとぞっとするような冷ややかさだった。

「帰ろう、真央。ここにもう用はない」
「──はい」

 真央は司沙に背を押され、柴崎家を出た。


 後日、正式に柴崎家は取り潰しとなり、家は取り壊された。
真央が司沙と跡地に来た時には、すでに更地になっており、今まで暮らしていた彼らがどこに行ったのかはわからずいまいであった。
更地となった実家跡に二人でたたずみ、真央は司沙の手を握った。

「悲しいと思うか」
「実の母と暮らした家なので、まったく寂しくないと言えば嘘になりますが……涙はでません」

 位牌は実家を出る時に持ち出している。柴崎家に真央が惜しいと思うものは残っていない。

「そうか。それならよかった」

 司沙の大きな手が、上から握りなおされる。
 揃って二人は踵を返した。
 少し歩いて、ふと司沙が足を止めた。首をすこしひねり、真央の顔を凝視する。
 間がややあって、彼は瞬きをしてから口を開いた。

「帰ったら、結婚式の話をしよう」

 そういえば義一は、一か月経って落ち着いたら結婚式を行うと言っていた。ちょうどいいころ合いかもしれない。
 真央の手と顔に熱が集まり、爆発しそうな心地に襲われる。
 だが、真央は沸騰する頭に負けじと頷いた。

「しましょう。したいです」
「いい返事だな」

 心がとくん、と跳ねた。
 そのまま手がひかれ、真央は道を歩き出す。
 空には高く日が昇っていた。