異能の契約花嫁と隻眼の旦那様

翌日の朝、司沙は車で迎えに来た。
 玄関の門前に白い二人乗りの車が停まり、中から長身が現れる。
 真央は昨夜のうちに納戸の中の物を整理してトランクに詰めたが、ほとんど中は空である。着物は着た切りだし、持ちだすものと言えば母の位牌くらいのものだった。
位牌を家においておけば、どんな扱いをされるかわかったものではない。

「乗れ」

 短く言われ、真央は車のドアに手をかける。車など乗るのは初めてだ。それに、そもそもこの国で車に乗れるのは相当な金持ちの上位層である。柴崎家すら持っていない。
 座席に乗り込むと、やがて車が動き出した。
 司沙は真央に一つも視線をくれず、ただ運転をしている。
沈黙が気まずかったが、下手なことをできない嫁となった自分が声を出していいのかわからず、結局市ヶ谷家につくまで車の中は静寂だった。
 やがて車が市ヶ谷家に到着した。家──と表現するにはあまりにも大きく、市ヶ谷邸と言った方がよさそうな門構えである。
 洋風の両開きの門が使用人によって開かれ、車ごと奥に入っていく。少し中を進んだところで停まり、降りるように言われた。

「俺の後ろをついて歩け。迷わないように気をつけろ」
「はい」

 ようやく声が出せた。
 司沙の後ろに従って歩いた先は、レンガ造りの屋敷に繋がっていた。重厚な玄関の扉の向こうは長い廊下で、壁には絵画や銃、刀などが飾られている。
 曲がり角も多く、なるほど先導する司沙がいなければ迷ってしまいそうだった。

「こっちだ」

 司沙と真央が踏み入れたのは、接待に使われているであろう応接間だった。
 ベルベット張りの柔らかそうなソファが、黒檀の低いテーブルを挟むように置かれている。
 空いているのは二人掛けのソファの方で、反対側の一人掛けのソファには白髪交じりの壮年の男が座っていた。
着ているのは仕立てのよいベンガラ色の背広で、首元には昨日司沙が着けていたものと似たループタイが光っている。

「座れ」

 司沙に短く命令され、真央はソファに腰かける。尻が生地に沈み込み、一瞬動揺してしまった。
 それを悟られたらしく、壮年の男が笑う。

「こんなソファに座るのは初めてかい」
「そうですね……実家では、いつも畳に直で座っていたので」
「なるほど。司沙、この娘が柴崎真央で間違いないね。柴崎の家でこき使われていたと聞いたが、なるほどそんな手をしている」
「ええ、父上」

 壮年の男は司沙の父だったようだ。
 彼の目線が真央の両手に落とされ、あわてて真央は手を袖で隠した。真央の手は長年の水仕事や家事で荒れに荒れていたからだ。
 これが使用人扱いされていたことのなによりの証拠だった。

「私は司沙の父で義一(ぎいち)という。いいかい真央くん。今日をもって君は司沙の嫁になるわけだが、契約内容は覚えているね」

 前傾姿勢になって膝の上に肘を置き、義一が穏やかに問うた。

「はい。嫁になってからは一切の口答えを禁じ、反抗のそぶりを一片でも見せたら──自由を一切奪い、人に力を注ぎ込むためだけの道具として扱う、でしたよね」
「その通りだ、よく覚えているね。秋治くんの一件もあったわけだし、きっと市ヶ谷の者は使用人含めて君を歓迎はしないだろう──私もだが」

 義一の顔には柔和な笑みが浮かんでいたが、言葉には一切の柔らかさはなかった。むしろ、鋭く研いだ刀のごとき冷たさがあった。
 真央は口を真一文字に結んでから、おもむろに開く。

「ええ、もちろんそうだと思います。兄は、許されないことをしました。私は、せいいっぱい市ヶ谷の家の嫁として働きたいと思っています」
「覚悟はあるのかい」

 突如投げかけられた質問に心が揺れた。
 さりとて、答えは一つしかない。

「あります。契約書に、名前と血判を押したその時から」
「よく言った」

 義一の目が細められる。

「司沙、よい娘を娶れたな。結婚式は一か月後、いろいろと様子を見て落ち着いてから行おうと思う。いいな」
「承知しました」

 司沙が頭を下げ、つと立ち上がった。

「挨拶はこれで終わりだ。次は荷物を置きに行こう。ついてこい」

 言うが早いか、司沙はもう歩き出していた。慌てて腰を上げ、彼の後ろについていく。
応接間を出る直前に義一に一礼をしたが、彼は穏やかな笑みを浮かべて腕を組んでいるだけだった。


 司沙に案内されたのは、二階の長い廊下の突き当りにある部屋だった。
 角部屋ゆえに大きい出窓があり、昇った日の光がさんさんと室内を照らしている。
部屋の隅には天蓋付きの寝台があり、他には背の高い本棚やワードローブ、深い茶色のビューローが置かれている。全て高級そうな佇まいの調度品であった。

「トランクはそこの棚にでもしまっておけ。あと、寝る場所は俺と同じだ。あの寝台」

 司沙が堂々と鎮座する寝台を指さす。
 一瞬で顔に熱いものが集まるのが自分でもわかった。
 彼がそれを見逃すはずもなく、鼻で笑って首を傾ける。

「なに、俺がお前を取って食うとでも思ったか? そんな心配は無用だな」

 つかつかと歩み寄り、司沙が真央の目の前にまで迫った。あと一歩で身体が触れ合いそうな距離である。

「言っておくが、俺はお前が嫌いだ。力を享受して人質として、監視するためだけにお前を嫁にしたんだ」

 腕が伸ばされ、強く顎を掴まれた。みし、と力が入り、頬に爪が食い込む。

「もちろん存じております。逆らったり反抗したり、絶対にいたしません。つとめて従順にいたします」
「それはどうだろうな」

 顎が解放されたはずみに、真央はよろめいたが、司沙が心配することは無論なかった。

「明日の朝からでも仕事を開始させる。使用人と同じように、家事をするように。逃げようなどとゆめゆめ思うなよ」

 司沙の低い声が胸に染み入ってくる。
 真央はなんだ、と思った。

 ──柴崎の家でやってきたことと同じではないか。それが、場所と主人が変わっただけ。

「心得ました」

 つとめて笑顔を司沙に向けると、彼は虚を突かれた面持ちになったが、すぐに普段のすました表情に戻った。


 司沙の言った通り、翌日から真央の仕事は始まった。
 司沙と同じ寝台で寝てもなにも起こらず、彼に揺すり起こされて身支度を整える。着たのは新しくしつらえてもらった麻の着物で、前よりは着心地が良い。
 彼と義一──母はもう亡くなっているらしい──と食卓を囲んだ後から別行動に入る。
 司沙は庭で近衛隊の大将としての鍛錬。
 真央はたすき掛けをして、命令された廊下の掃除を始める。
 通りがかった使用人の女がちらりと真央を一瞥し、何も言わず素通りしていった。
 市ヶ谷家の廊下は広く長い。雑巾がけをしてから専用の薬剤で磨き上げるのだが、一時間たっても一つの通りを拭き終わらない。
 腕と腰が次第に痛くなってきたが、命令は絶対である。真央は構わず腕を動かした。
 その時、後ろで何かが倒れる音がした。
 次に感じたのは足元の濡れた冷ややかな感触である。
 振り返ると、背後に先ほどの使用人の女が立っていた。彼女の足元には倒れたバケツがあり、乾いた音をたてながら廊下の隅に弧を描いて転がっていく。
 女がバケツを倒したのだと気づくのに、少々時間を要した。

「邪魔」

 はっきりと彼女は吐き捨てた。

「ここは私がいつも掃除しているところです。あなたみたいなよそ者に任せると時間がかかってしかたありません。どこか行ってくれませんか」

 じわじわと麻の着物の生地に水がしみていく。

「……そうでしたか。でも、共にやればもっと時間を短く済ませることができるのではありませんか?」

 純朴な問いだったが、女は片眉を吊り上げた。自分の領地に他人──しかも謀叛を起こした柴崎家の者──が入ってきたのが我慢ならないのだろう。

「なにを言っているのか聞こえなかったのですか。邪魔だと申したのです。働くなら別の所でなさったらいかがですか」
「ですが、これは司沙さまからのご命令で」

 司沙の名前を出した途端、女は黙った。舌打ちを堪えるような顔になり、ため息をつく。

「じゃあ端から端までさっさと拭いてくださる? 拭いたところから磨いていくから」

 足を踏み鳴らしつつ消え、次に彼女はモップを持って現れた。

「ほら、拭きなさいよ。……人質嫁が」

 人質嫁。
 真央は床を拭きながら、その言葉を反芻した。どうやら真央と司沙の契約内容は使用人にも筒抜けになっているらしい。
 昼になるまで二人がかりで廊下を拭いては磨き、ようやく終わった時にはすっかり着物に汗が染みていた。
 使用人の女は菊野と言う名で、市ヶ谷家に仕えて長いと言う。それだけ家に忠誠心があるということだろう。
 おそらく悪い人ではない、となんとなく真央は思った。
 昼からは昼食作りが始まる。朝食作りこそ免じてもらったものの、これからは料理の仕事も課せられるらしい。
 台所も広く、柴崎家の倍以上はある。ふたたび台所で立ち働く使用人たちに怪訝そうな目を向けられたが、今度こそ司沙に話を通されていたようで、ややあってから「そこのエプロンを使いなさい」と指示された。

「これからスープとメインディッシュのソテーを作ります。あなたはスープ作りを担当してください」

 年かさの女の使用人に言われ、大きな鍋の前に立つ。中には大量の湯が煮えていた。
 正直なところ和食ばかりを作っていたので洋食はほとんど経験がなかったが、逃げるわけにもいかない。
 真央は使用人に揉まれながらスープを作り、なんとか食卓に載せることができた。
 食事は司沙と義一と食べるので、真央は自分で作ったものを自分で食べることになる。
 白いテーブルクロスのかけられた円形のテーブルに、ソテーとスープ、パンやサラダが置かれた。
 この時点で真央はかなり消耗していたが、弱音を吐くまいと意地を張った。
実家でも文句や弱音は吐いてこなかったという矜持が、真央の身体をよその家でへたり込ませなかったのである。
慣れないナイフとフォークで試行錯誤しながら食事を進めていると、司沙が口を開いた。

「疲れただろう。休みたいか。それとも──逃げだしたいか」

 助ける言葉の割には、試すような口調だった。果たして、この言葉にすがっていいのか。

「いいえ。結構です。これくらい実家での仕事で慣れておりますから」

 嘘である。長い廊下掃除も、洋食作りも初めての経験だった。
 だが、疲れを肯定する台詞は喉元で押し下げられ、ただ強がる台詞だけがろ過されてこぼれだした。

「私は、一日で逃げたりするような、やわな女ではありません」

 言い切ると、司沙が小さく笑った。

「そうか。見かけによらず強いんだな。では、午後もしっかり働いてもらおう。午後は庭の掃き掃除、夕食の準備、それから──」
「申し上げます。ステイションの前に悪霊が出現したもようです。直ちに出撃準備を」

 にわかに扉が開き、軍服を着た男が現れた。部下のようである。
 闖入者に部屋はいったん静まり、司沙はナイフとフォークを置いて立ち上がった。

「了解した。準備しよう」

 彼は真央を見もせず、廊下に消えていく。残された義一と真央はただ黙って食事を続けていたが、ふと思い出した。
 なぜ、自分が市ヶ谷家の嫁として求められたのか。それは神通力を増強させる力を必要とされていたからではないか。
 真央は勢いよく椅子から腰を上げた。

「すみません。私、働かないと。力を与えに行かないといけないので、失礼します」

 義一の顔を見ることもなく、部屋を飛び出す。
 廊下を走って司沙の部屋に戻る途中、部下らしい集団に鉢会った。
「おい、お前──司沙さまの嫁だろう。例の力を我々に注いでくれないか。我々も市ヶ谷の者だ。力を司沙さまだけが独占することもなかろう」

 軍服の集団に詰め寄られて及び腰になったが、まっとうな文句である。
 真央は小さく頷き、彼らに順番に並ぶように伝えた。

「では、いきます」

 真央は両手を広げ、一人の部下の胸の前にかざした。
 真央の胸に小さな光が宿り、それは線を画いて両手のひらに球体として溜まっていく。

「我、そなたに力を与えん。悪霊を狩るその力、増して身体に血として流れよ」

 呪文を唱えると、手から光は彼の胸に注がれていく。注がれた光は胸にぶつかって消え、彼の身体に宿っていく。

「……おお、なるほど力がみなぎるようだ」
「本当か」

 彼らが騒ぎ出した時、こつ、と靴が床を叩く音がした。一同が身をひるがえすと、軍服に着替えた司沙が立っている。
 胸には大将の証である勲章が付いており、黒と赤を基調とした軍帽を被っている。靴は編み上げられたブーツで、光沢のある黒革だ。
 彼は足を踏み鳴らしつつ部下たちの群れを分け入って、真央の前に仁王立ちした。
 ブーツのせいか少し背が高くなり、威圧感が増している。

「なぜ先に俺へ力を注がない」
「えっ」

 うっかり口ごもってしまった。なぜもなにも、頼まれたから力を注いだのである。

「部下の方々に、頼まれたので」
「そんなもの断れ。大将である俺が先でなくてどうする……と言いたいところだが、嫁であるお前がまず優先すべきは誰だ? こんなこと、俺に言わせるな」

 額に手を当て、司沙が小さく息を吐く。
 は、と短く息がもれてから、真央は首を何度も縦に振った。

「ええ、もちろん、もちろんでございます」
「では、さっそく頼む」

 真央は司沙の胸の前に手をかざし、先ほどと同じ調子で力を注ぐ。
 司沙の身体に注がれていく光を見送り、「いかがでしょうか」とおずおずと訊ねた。

「ありがとう。これで十分に戦える」

 一瞬だけ、彼の表情が緩んだように見えた。見間違いだったかもしれないが。

「俺の分は終わった。お前たちも力を与えてもらえ」

 くるりと踵を返し、司沙が玄関に向かって歩き出す。急いで真央は彼の背に向けて叫んだ。

「ご武運を!」

 司沙の足が止まり、整った細面がこちらを打ち見る。そしてまた前を向いた。
 何も言われなかったものの、無視されたとは思わなかった。
真央の手と口には、確かに初めて夫の支えになったという手ごたえが熱く残っていたからだ。


 司沙たちが帰って来たのは、日が傾いて地平線に沈むかと言う時間であった。
 市ヶ谷家の広い庭に軍服を着た集団がたむろし、おのおのが水を飲んだり座ったりと身を癒している。
使用人たちは井戸から汲んできた水や濡らした手布などを運ぶのに躍起になっていた。
もれなく真央も手伝いに駆り出され、やまもりの手布を抱えて人と人との間を行ったり来たりして忙しいことこの上ない。

「お疲れさまでした」

 出がけに最初に力を注いだ軍人は、腕を負傷していた。深く傷を負ったらしい。

「悪霊にやられた。普段はあんな小さな悪霊にやられるような僕ではないんだが」

 彼は歯噛みしつつ軍服の上を脱ぐ。右腕に赤黒い傷が深く走っていた。

「これは……さぞ痛かったでしょう」

真央は彼の傷を手布でぬぐい、包帯を巻いていく。柴崎家で毎日のように秋治を世話していたから、包帯を巻くのには慣れている。
 巻き終えると、後ろの方で菊野の声がした。

「こっちも手伝いなさい」
「はい!」

 短く答えて走る。何人もの傷を手当した後、ふと司沙の姿が見つからないことに気づいた。

「司沙さまは……」

 腰を上げて四方を見回すと、陰った木の下に座っている姿を見つけることができた。
 行きがけに履いていたブーツは脱いでおり、ズボンを膝までまくったことで足があらわになっている。白い足には包帯が巻かれていたが、遠目にも雑な巻き方であることが見て取れた。
濡れた手布を持って近寄り、隣に膝をつく。

「司沙さまも、お怪我をなされたのですか」

 訊いたとたん、彼の眦がきつく持ち上がる。

「司沙さま──『も』と言われると、なんだか俺が弱いようで腹が立つな」
「すみません」
「冗談だ、気になどせん」

 この男が言う言葉が冗談なのか本気なのか、まだまったく見分けがつかない。

「この巻き方では包帯が緩んでしまいます。もう一度、新しくまき直しますね」
「頼む」

 彼の額には汗が浮かんでいた。それを別の手布でぬぐってから、包帯を巻きなおす。
 現れた傷は深く縦に流れており、真央は目にした一瞬、唾を飲み下した。

「どうだ、痛そうだとでも思ったか」
「それはもちろんです。こんな傷が痛くないはずがないでしょう」

 手布を傷にあてると、血がじわりと滲んで生地が赤く染まる。
 包帯を巻き終えると、司沙が短く息を吐いているのが視界に入った。また額に汗が噴き出している。脂汗だった。

「痛いのを堪えているのですね」
「……」

 返答はない。

「痛いのであれば、我慢することはありません。我慢していると余計に、辛くなりますよ」
「辛くなどない」
「嘘ですね」

 うっかりこぼしてしまい、真央は口に手をあてた。

「ごめんなさい。すぎたことを申しました。ですが、痛いのであれば、口に出した方が楽になることもあります。私はあなたの嫁です。このしがない嫁にも、あなたの辛さと痛みを伝えてくださりませんか」

 辛さや痛みは、口にすれば小さくなる。
 これは真央が柴崎家の生活で学んだことだった。
 真央は辛い時も、心が痛い時も、たいていは耐えてきてしまった。
だが、限界を超えた日の夜、納戸のかび臭い布団の中で「辛い」と言いながら涙をこぼした折、胸に沈んだ澱がふっと解けていくのを感じたのだ。
真央は司沙の手をとり、胸に置いた。
男の人にこんな真似をしたのは初めてなので、心臓がうるさく鳴っている。
しばらくそのままでいると、司沙が小さく顎をあげ、茂った木を見上げた。

「ああ──痛い、痛いなあ」

 腹の底から出た、芯の通った声であった。

「とても痛い。悪霊に足を切られた時、血が吹き出して死ぬかと思った」

 死ぬかと思った。その言葉は、思った以上に軽い調子で放たれた。

「司沙さまもそういうことを申すのですね。意外です」
「お前が辛さを吐けって言ったんだろ」
「……そうでした」

 ふと後ろを向くと、すでに部下や使用人たちは屋敷の中に引き下がっていったらしく、誰の姿も見えない。
 やがて、司沙も足をかばいつつ立ち上がった。

「今日は世話になった。一日中働いて疲れただろう、礼にこれをやろう」

 彼が軍服の胸ポケットから取り出したのは、大きなエメラルドがはめられた指輪だった。

「母が持っていたのを、守り代わりに持っていた。指輪は他にもあるから、遠慮せず受け取ってくれ」

 ちか、と夕日を反射して差し出されたエメラルドが輝く。
 だが、真央は首を横に振った。

「他にたくさんあると言われましても、そんな大層なものはいただけません。手当の対価として受け取るには重すぎます」
「なに、お前は俺に優しくしておいたくせに、俺からの振る舞いは享受できないのか。これはお前から受け取った優しさへの返礼だ」
「……優しさに返礼など要りません」
「随分ときれいごとを言うんだな。見てごらん、このエメラルドの輝きを。なによりも美しいと思わないか」

 エメラルドの光が目を焼くようだった。しかし、真央はなおも首を振る。

「宝石より──今、この時の夕焼けの方がよっぽど美しいと思います」
「なにを」

 司沙の目がわずかに見開かれ、口がうっすらと開いたままになる。信じられないとでも言いたげな表情だった。

「私は、宝石の価値を知りません。ですが、一日中立ち働いた後に見る夕焼けがなにより美しいことを知っています」

 夕日が樹木の葉を通し、木漏れ日となって二人に降り注ぐ。
 柴崎家で見ても、市ヶ谷邸で見ても、夕焼けは同じだ。

「私は毎日、身を粉にして働いてきました。そして夕方、いつも美しい夕焼けを見てきたのです。見るたびに、この夕焼けを見るために毎日頑張ろうと身を奮い立たせてきたのです。
今この時、働いた対価に宝石などをもらってしまったら……私は蜜の味を知ってしまいます。驕ってしまいます。私の労働が、宝石になるほどの価値があるのだと。それは嫌なのです。だから、受け取ることはできません」

「ふん──なるほどな」

 一通り真央の言い分を聞いてから、司沙は指輪をポケットに再び収めた。

「そんな美徳もいい話だが、それに従って生きていれば、お前はいつか身を壊して死ぬぞ。死ぬとき、『はたしてこれで良かった』と思って死ねるか?」
「それはまだわからないことです。ですから──」

 真央は司沙に向け、一歩を踏み出した。
 初めて寝台のある自室で、司沙に近寄られた時のように。

「司沙さまが、私が死ぬときに『これで良かった』と思えるような人生を送れるよう、手伝いをしてください」

 彼の双眸──片方は眼帯で塞がっているが──を見据え、真央は彼の胸に手を置いた。

「それは命令か?」
「なんとでも、お受け取りください」

 言い切ると、司沙は身体をひねって遠くを眺めた。

「俺はお前を少し見くびっていたようだな」

 葉がこすれる音が小さく鳴っている。どこかで烏が鳴いた。

「今日はもう仕事はいい。夕食を食べてゆっくり休め」

 言い終わる前に彼は歩き出していた。

「承知しました」

 真央は遠ざかる背中に向け、返事をした。


 翌日、真央は実家に呼ばれて帰っていた。もちろん、司沙には許可をもらっている。
 いつもの畳がしかれた間で座布団もなく直に座り、真央は家族からの詰問を受けていた。

「どう、粗相もなくうまくやっているんでしょうね」

 始めに口火を切ったのは律だった。次に春太郎が脇から訊いてくる。

「我々のもとになんの電報や連絡もないということは、今のところは問題はないんだろう。そうだな、真央」
「はい。今のところは……特にお叱りを受けてはおりません」

 真央がはっきりと告げた瞬間、間の空気がわずかに緩んだ。
しかし、なにが不満なのか千佳は頬を膨らませている。

「ねえ、司沙さまとなにかなかったの」
「え、なにか、って……」

 目がぎらりと光る。真央は焦りつつも邪推した。
 司沙が家に契約しに来た日、自分より着飾っていた姉のことだ。契約した後も、なぜ自分でなく真央が選ばれたのか文句を垂れていた。
 深く思考せずとも、千佳が司沙のもとに嫁ぎたかったと考えていることは明らかである。反抗すれば嫁の座を降ろされ、道具扱いされることを差し引いたとしても。

「昨日、怪我をして帰られた司沙さまの手当をした礼にエメラルドの指輪を差し出されましたが、それはお母さまの形見だそうで……もらうのを断りました」
「なんですって⁉」

 千佳の声が間にとどろいた。

「どうして断ったの。司沙さまからの申し出なのに、もったいない」

 本音が漏れている。そのせいか、真央も本音で返してしまった。

「お姉さまはお相手の形見を平気で受け取れるのですね」

 直後、頬に痛みが走った。少しあって、真央は千佳に頬を打たれたのだと気が付いた。
 目の前には憤怒の面持ちの姉がいる。

「私が強欲みたいな言い方しないでちょうだい。あんたは司沙さまに反抗しないように言われているのに、話が違うじゃない」
「反抗ではありません。丁重に断っただけです」
「それを反抗っていうのよ」

 両親は止める様子がない。もしかすると真央が家を出た後、千佳はずっとこの調子なのかもしれない。それで慣れてしまったのだろうか。
 そのまま彼女は立ち上がり、廊下へと出て行ってしまった。

「秋治お義兄さまのご様子はいかがですか」

 話を元に戻す。秋治の姿が見えないのが気になっていたのだ。

「秋治は……真央が司沙殿に嫁いでからなにやら塞ぎこんでしまってな。ずっと慣れない左手で物書きをしている」

 春太郎が頭を掻きながら答える。

「なにを書いているのかごらんにはなりましたか」
「いや。気になりはするんだが、秋治が頑として見せてくれないんだ。近寄ると不機嫌になるし、なにを考えているのかわからない」

 どうやら、真央が嫁いだことで柴崎家の中が少しずつ変わってきているらしい。察するに、あまり良い方向にではなさそうだが。
 少し間があって、廊下側の障子が開いた。

「真央、これを司沙さまに渡しなさい」

 突き出されたのは綺麗な花柄の封筒だった。

「お手紙ですか」
「そうよ。無くしたら承知しないからね」

 よもや開いて中を確かめるわけにもいかない。真央は素直に受け取り、懐にしまった。


 外に出ると、すでに日が傾いていた。ある程度の仕事を終わらせてから外に出たのだから、遅くなることは覚悟していた。
 柴崎家から市ヶ谷家までは車で半刻かかる。歩けばなおのこと時間がかかるが、迎えの車を出してくれと司沙に頼むことができなかった。夫に甘えるのは難しい。
 市ヶ谷家までの道のりの途中には、田んぼや畑、竹藪が広がる地帯がある。
 橙色の日差しが差し込む中、真央は手紙をふところにひたすら歩いた。空気は少々蒸しており、着物にこもる熱気がむずがゆい。
 ──と、その時、竹藪の暗がりで何かがうごめいた。

「なにかしら」

 竹藪を揺らすがさがさとした音の後、ゆっくりと暗がりからなにかが這い出てくる。
 這い出てもなお姿は黒かったが、どことなく狐を思わせる形をしていた。ただ普通の狐と違う点があり、身体はずっと大きく、額に目が六つ開き、尾が十本ある。どうみても異形のモノだった。

「……悪霊」

 口にしてやっと気が付いた。尋常でない姿をしたこれは、悪霊以外の何物でもない。
 背後からも竹藪を揺らす音がする。首だけで振り返ると、すでに何体もの悪霊が真央を取り囲んでいた。
 足がすくんで動けない。神通力こそ持っているが、実戦で使ったことなど一度もない。
 どうにか足を踏ん張ってどう動くか思考していた刹那、遠くから振動が響いてきた。
規則正しく軽い調子──馬が駆けてくる。

「この周辺に悪霊が逃げ込んだという知らせが、付近の臣民からあった。竹藪を取り囲んで捜査せよ」

 聞こえた声は、他でもない司沙のものだった。
 部下たちが馬から降りる気配の後、一斉に竹藪に突撃してきた。狐の悪霊が驚き、目まぐるしい速さで竹藪を走り出す。

「そっちに逃げたぞ! 首を斬ってしまえ」

 誰かが叫んだと思うと、どこからか銃弾が撃ち込まれる。真央は行き場を失って竹藪の中をさまよった。
 激しい争いはしばらく続いた。銃弾の爆ぜる音、サーベルが肉を切り裂く音、ブーツが土を蹴る音。
 耳に騒がしく響き、真央はひたすら竹藪からどうにか抜け出そうと走ったが、軍の者たちとすれ違ったり悪霊を避けたり、はたまた銃弾に足が固まったりと思うように動けない。
 しばらく進んだ折、竹藪の出口あたりに誰かが倒れているのを見つけた。
 背中を鋭い爪で切り裂かれた痕があり、彼の手前にはふり杖が落ちている。悪霊にやられたらしい。

 ──無視していいのか。

 思わず足が止まり、彼の意識の有無を確かめようとする。彼は呼吸こそしているものの、目がうつろで今にも気を失ってしまいそうだった。

「しっかりしてください!」

 真央が呼びかけると、彼は「うあ」と小さな呻きを漏らした。
 一寸の間があって、草を踏みしめる気配があった。見ると、狐の悪霊がこちらを見据えている。
 尻が持ち上がっていた。間もなく飛びかかってくる体勢だ。

「こ、こないで」

 言っても無駄なことはわかっているものの、声がこぼれる。
 真央は倒れた男の半身を持ち上げ、形ばかりだが落ちていたふり杖を握らせた。彼の手の上から真央の手が覆う。

「こっちに来たら……じ、神通力で除霊するわよ」

 やったことはない。ほとんど言葉ばかりの牽制である。
 だが、悪霊は待ってくれなかった。一度大きく吠えたと思うと、地面を蹴って真央目がけて飛んでくる。

「……っ!」

 真央は一瞬の判断で、短い刹那にできるだけ男の手に力を込めた。
力が増強されていく感触がわずかにあってから、彼の手を掴んだままふり杖を大きく振るう。
強い衝撃があり、ふり杖についている分銅が狐の額に深くめり込んだ。
 狐が悲鳴を上げ、顔から徐々に崩壊していく。やがてその場にはなにも残らず、気配すらも消えていた。

「消えたの……⁉」

 初めて除霊できたことに安堵するなり、腰が抜けてしまった。立てなくなり、その場でへたり込んでしまう。

「最後の一匹がそっちに行ったが──」

 司沙の声がした。ややあって、部下を連れた司沙が竹藪から現れる。
 彼はふり杖を男と握ったまま座り込んでいる真央を見て、唖然としていた。

「……真央? どうしてここに」
「申し、あげます……」

 司沙が訊いた直後、倒れていた男がゆっくりと腰を上げた。

「この方が、私に力を注いでくださったのです。おかげで、除霊を果たすことができました」
「真央が力を?」

 司沙が近寄り、真央に手を差し出した。

「立てるか」
「は、はい」

 言われるがまま立ち上がり、尻についた土を払う。

「なるほど。最後の悪霊は真央がいたから祓えた、と」

 面白げに顎に手を当てていた司沙が、ふいに真央の手を強く引っぱった。部下たちの前に立たせ、声を張り上げる。

「皆よく聞いてくれ。この女は俺の嫁だが──今回、悪霊討伐において多大な力を貸してくれた。最後の一体を彼女が討伐してくれた。真央、お前は悪霊を祓ったことはなかったのだろう。今回が初めてだな」
「……はい、初めてでした」

 しん、と部下たちが静まってから、さざなみのようなざわめきが起こる。

「拍手を頼む。称えてくれ」

 その一言が発されると、部下たちが割れんばかりの拍手を始めた。口笛を鳴らす者もいる。

「大将の奥方、すごいですね。なにか特別な力でも持っているんですか」

 事情を知らないらしい部下の一人が訊いてきたが、司沙はふっと笑って黙殺した。

「助かった、真央。倒れた者に力を注ぎ込んで対処したのはいい判断だった。なかなか戦場の現場でできる判断ではない」
「そんなに褒められてもなにも出ませんよ」

 素直に褒められたのが少々不気味だったせいもあって、ついつい謙遜してしまう。だが司沙は構わず真央の頭に手を乗せた。
 わしわしとがむしゃらに髪がなでられる。

「どうして、なでるんですか。私のことがお嫌いなはずではなかったのですか」
「お前は俺にずっと嫌いでいてほしいのか」

 問い返され、返答につまった。

「そんなことは、ありませんが……」
「なら、俺の中で芽生えた好いた気持ちを否定しないでくれ」

 真央の心臓が高く跳ねた。
 ──芽生えた、好いた気持ち。
 高く跳ねた心臓は、なおも早鐘を打ち続けている。

「お前にも、早く俺を好く気持ちが生まれてほしいと思ってしまった。嫌いだと先に宣言したのは俺であるのに。虫が良すぎるか」

 初めて聞く自虐的な台詞に、真央は固まってから否定した。

「そんなことを言わないでください。私も、私も──司沙さまのことを好く気持ちが、小さいですが……胸に確かにあります」
「本当にか」
「ええ。嫌いだと言われた時は、ああ、この人は私を一生好きになることはないのだろうと思いましたが……司沙さまを手当した時に、少々ばかり好きになったことを否定できません」

 好いた気持ちは、まだ恋心ではない。単に美しい景色が好き、かわいい猫が好き、と簡単に口に出してしまえるような軽さのものだ。
 司沙の「好いた気持ち」が真央のこれと同じなのかはわからないが、とりあえずはこの気持ちを抱えて過ごすことになるだろう。それは案外、嫌な気はしない。心地よいまでもあった。

「真央、俺たちはそろそろ宮廷に帰って帝と元帥に悪霊のことを報告しなければならない。先に帰っていてくれるか」

 真央ははっとした。司沙は夫である以前に大将として部下を引き連れているのだった。いつまでも真央と談笑しているわけにいかない。
 だが、一つ用件を忘れていた。

「あの……これを、義姉から渡すよう言われていて」

 真央はふところから暖まった花柄の封筒を取り出した。千佳から司沙に渡すよう言われていたものである。

「義姉から? あの千佳という娘からか」

 彼は不審げに封筒を開き、中の便せんに目を通し始めた。なにが書いてあるかはわからない。
 次第に司沙の眉間にしわが寄っていく。少しして、彼は便せんをくしゃりと潰してしまった。

「なにが書かれていたのですか」
「真央の代わりに自分を嫁にすればいいという内容だ。まったく厚顔無恥なことはなはだしい」

 言葉を失った。千佳が考えていることは察していたが、まさか彼女が行動に出るとは。

「すみません、うちの義姉が」
「真央が謝ることではない。それより、ずいぶんと自分に自信があるようだな。お前の姉は」

 千佳は真央と違って、両親から愛情を受けて育った。並以上の自信もあるだろう。
 うつむいた真央の肩に、司沙の手が置かれる。

「だが、俺が欲しかったのは真央だ。ただの神通力だけではない、さらに力を強くする能力を持ったお前がほしかった」

 じんわりと心に温かさが染みて広がっていく。ここまで、自分を欲して必要としてくれる人は今までいなかった。

「さあ、そろそろ帰れ。悪霊に会わないよう、呪いをかけておこう」

 司沙が手をどけ、くるくると宙をかき混ぜる。そこから光の玉が沸き上がり、真央のまわりを飛び回り始めた。

「悪霊はこの光を嫌う。きっと無事に帰れるだろう」
「ありがとうございます。では、失礼します。司沙さまも、ご無事で帰られますよう」

 真央は礼をして、竹藪を抜けて帰路についた。