異能の契約花嫁と隻眼の旦那様

 柴崎(しばさき)家の縁側に面した間には、ぷんと膿の香とよどんだ空気が満ちていた。匂いの根源は、日に焼けた畳の上に敷かれた布団からである。

「お義兄さま、具合はいかがでしょうか」

 濡らした手布を載せた盆を運び、真央(まお)が薄い着物の裾をひるがえしながら、布団の隣に腰を降ろした。
 直後、間の壁を怒声が揺らした。

「遅いぞ、真央。傷口が腐ったらどうするんだ」
「……申し訳ございません」

 鋭い視線と共に突き刺さる言葉に、真央は反射的に腰を折った。
理不尽なことで怒られるたびにしている動作。もうすっかり身に染みて慣れている。
怒声の主──布団に半身を起こしているのは、十八の真央より八つ年上の義兄である秋治(しゅうじ)だった。
 彼は白いシャツに身を包み、両腕を布団の上に投げ出している。しかし、右腕の肘から先はすっぱりと切り落とされ、丸くなった肘には包帯が巻かれていた。
 真央は包帯をほどき、傷口を手布でぬぐう。新しい包帯に巻きなおし終え、真央が間を後にしようとした折、背後から憎々しげな恨みがましい声が降りかかった。
 思わず背筋が引き延ばされる。

「僕が戦場に行く前に、お前がもっと力を注いでくれたら市ヶ谷(いちがや)の小僧に負けることもなかったんだ。この腕だって無事だった。何度でも言っておくが、この柴崎の家が傾いたのはすべてお前のせいだからな」
「わかって、おります」

 着古した着物の上で、真央はこぶしを握る。ぎち、と爪が手のひらに食い込む音がした気がした。
 秋治の目線から逃れるように間を飛び出し、次に真央が向かったのは台所だった。そろそろ昼餉の準備をしなければならない。
 台所に繋がる縁側を歩いていると、小さな庭で満開になったつつじの花が目に入った。今の季節──晩春の花である。
 その手前で、義母の(りつ)と義姉の千佳(ちか)がつつじの蜜を吸って遊んでいる。
 義父の春太郎(はるたろう)の姿はないので、おそらく洋間で本か新聞でも読んでいるのだろう。
 義母たちが着ているのは豪奢な銘仙で、咲き誇るつつじに負けず鮮やかである。
思わず真央は彼女らの服装と自分の麻の着物を見比べてしまい、恥ずかしくなった。

「早くいかなくちゃ」

 そそくさとその場を後にしようとすると、千佳に目ざとく見つけられた。

「真央! 昼餉の準備が終わったら庭を掃いておいてちょうだい。落ちたつつじが雨で汚れると嫌だから」

 命令する声色はいたって楽しげで、断られるとは微塵も思っていない調子である。
 千佳たちのまわりには大量のつつじが落ちていた。つつじはたくさん咲いているものの、蜜を吸う代償に花がもぎ取られたのだ。

「承知しました」

 返事をし、今度こそ台所に入る。
 しん、と静まった台所には使用人の一人もいない。
 真央はネギや白菜を取り出し、まな板の上で刻み始める。まずは味噌汁づくりからだ。
 調子のよい音が台所に響いていく。
 ところが、まな板の上でコマ切れになっていくネギを見つめていた刹那、ふとため息がこぼれた。
目の淵が滲んだ気がしたが、首を振って沈んだ気持ちを振り飛ばそうとする。
 けっして、ネギが目に染みたわけではない。

「どうして、こうなってしまったのかしら」

 きっと、これは真央の本音だった。力を込めてネギの最後の一切れを刻む。次は白菜だ。
 手の内でざくっと白菜が切れた瞬間、遠くから子どもとその親の楽し気な喋り声が聞こえてきた。
 それは真央の耳の奥で残酷に反響し、心の奥を激しく揺さぶる。

 ──私の母が、死ななければ。この家から母と二人で出ていれば、私はこんな扱いを受けなかったのだろうか。

 全ての始まりは、春太郎の妾だった母が死んだ時だろう。
 柴崎家では妾を囲っており、それこそが真央の母だった。元々彼女は遊郭の女郎で、入れあげていた春太郎が金で引き取ったのだ。
 そして生まれたのが真央だった。
 母は真央を大切に育ててくれたが、いかんせん彼女は身体が弱く、五年前にこの国を襲った流行病ではかなく往ってしまった。
 母がいた頃は優しかった春太郎も真央には興味がないらしく、亡くなって以来は冷たくあたるようになった。
 夫の妾の子を良く思わない律はもちろん、千佳は半分血を違えた妹をこき使った。
 使用人か、それ以下のごとく。

「真央、いるか」

 ふいに、台所に低い声が入ってきた。首だけで振り返ると、義父の春太郎が着流し姿で立っている。

「お義父さま。昼餉はまだでございますが、なにかご用でしょうか」
「こっちを向いてくれるか。大事な話がある」

 春太郎の頭には白いものがいくつか混じり、顔にはいくつか染みが浮かんでいる。五十も半ばを過ぎると、老いが表にありありと出てくるらしい。
 真央が従って前を向くと、春太郎は歩み寄ってきた。

「いいか、よく聞け。市ヶ谷の家から縁談が入ってきた」

 真央は思わず息を呑んだ。

「市ヶ谷家と言いますと──例のお家でございますか。縁談は千佳さまに?」
「いや、真央、お前にだ。先日、現当主の司沙(つかさ)殿からじきじきに申し入れがあった」

 真央の頭が混乱し始めた。
なぜなら市ヶ谷家は柴崎家と因縁のある家だからである。それこそ、義兄の一件から関係がこじれて今に至る。

「で、でも、秋治さまの一件で関係は修復不可能になったはずでは」

 義兄の一件というのは、今から半年前にさかのぼる。
 この東の絶海に浮かぶ島国──葦津国(あしつのくに)には、かつて悪霊と呼ばれる物怪たちが跋扈していた。
悪霊というのは、死んだ人間や動物の遺恨が形を成したもので、遺恨すなわち純粋な負の感情が動き回る悪しき者たちの総称である。
 人間は彼らを恐れて暮らしていたが、国の君主たる帝を守る近衛隊たちが神通力を磨き、悪霊と対抗できるようになった。
その近衛中将として秋治は活躍していたのだが、年下ながら彼の上を行く存在があった。

 ──市ヶ谷司沙。彼こそが近衛大将を務め、帝も信頼を寄せる若き青年将校であった。

 秋治は年下に先に出世されたことに苛立ちと嫉妬を募らせ、ついに実力行使に出た。
 悪霊と戦う途中、戦乱に紛れて司沙の命を奪おうと切りかかったのである。
 柴崎家は市ヶ谷家の分家であり、これは主家を乗っ取ろうとした謀叛であるとされ、市ヶ谷家と柴崎家は現在冷戦状態にあった。
 こんな家に残ってはいられない、とすでに使用人はほとんど出はらっており、家事は真央がすべて担っている。

「ああ。真央の持つ力を使って司沙殿に挑み、返り討ちにあって右腕を無くした。まったく愚かな奴だ」

 真央の持つ力、と言われた時に、春太郎がちらりとこちらを見た。
その目に秋治の「お前がもっと力を注いでいれば」と言う恨みが込められているように思え、背筋が凍った。

「……私が、もっと力を注いでいればよかったのですよね。申し訳ございませんでした」

 いつも通りの礼をした真央に、春太郎は冷たく一瞥をくれた。

「わかっているなら、なぜそうしなかった」

 真央は返事ができなかった。よもや、秋治が腕を失い除隊になるとは思ってもいなかったからだ。

「ともかく、だ。お前は神通力だけでなく、除霊をするための神通力を増強させる力を持っている。それを司沙殿は見込んだのだ」
「私の、力をですか」

 春太郎の言う通り、真央には人の神通力を元の倍以上に増強させる力があった。
母は力のない普通の者だったため、力を持つ春太郎の血が変異を起こして真央に宿ったのだろう。

「ああ。まだ詳しい話は伺っていないのだが、お前を正妻にしたいと強く言われている。今日の午後にも彼が訪問しにくるそうだ」
「今日の午後ですか……」

 あまりにも突然のことで固まった。
 義姉の千佳ならともかく、使用人以下の扱いを受けている自分が縁談など、なにかの間違いではないか。

「わかったな。着物を部屋に出しておくから、早く着替えておくように」

 真央の部屋というのは、窓のない納戸のことである。
 春太郎が踵を返すのを見送り、真央は一人になった台所で嘆息した。


 昼餉が終わってから、真央は自室の納戸で紅色の銘仙に着替えた。もちろん着付けを手伝ってくれる者は誰もいない。
 黒い帯を締め、彫金の帯留めをする。初めて身に着けた豪華な銘仙は身体に重かった。
その時、納戸の引き戸が勢いよく開いた。見ると、真央以上にめかしこんだ洋装の千佳が腰に手を当てて立っている。

「真央! 遅いわよ。もう司沙さまがおいでになったわ」
「今参ります」

 答えた直後、千佳に腕を掴まれた。ぐい、と廊下に引っ張り出され、客間まで引きずられる。
 痛さに声が出そうになったが、すんでのところで堪えた。

「ほら、司沙さまがお待ちよ。くれぐれも粗相のないようにね」

 障子の前に立たされ、入るように促される。
 真央はおそるおそる障子を開け、深々と礼をした。

「柴崎春太郎の娘、柴崎真央と申します」

 おもむろに頭を上げた時、視界に映ったのは若く美しい男の姿だった。
 客間の上座に正座をした彼の髪は黒々と艶めき、何度もくしけずったように流れている。
長身を包むのは黒い背広で、胸元には銀色に光るループタイがされていた。
だが、何よりも目をひくのは男の目──左目に真っ黒の眼帯がされていることだった。
黒い眼帯の表面には銀色の糸で花の刺繍がほどこされており、遠目にも高級な逸品であろうことが察せられた。
 彼は鋭い右目を一度瞬き、真央に目をくれた。

「なるほど、お前が例の力を持った娘か。俺は市ヶ谷司沙。現在の市ヶ谷家の当主だ。知っていると思うが」

 一気に空気が張り詰めた。圧倒的な迫力に気おされないよう、息を整えて答える。

「はい、存じております」

 下座には律と春太郎が座している、厳しい面持ちの律に手招きされ、真央は彼女の隣に腰を降ろす。
 続いて着飾った千佳が座った。

「さて、本人が来たわけであるし──単刀直入に言おう。柴崎真央、お前を嫁にめとることにした。これは決定事項だ。お前に拒否権はない」

 白皙の面は冷たく、それにたがわず声も低く冷酷だった。
 司沙以外の一同が息を呑んだ音が、はっきりと耳朶に触れる。

「ただし、この結婚について契約したいことがある。春太郎殿、これを読んでもらえるか」

 司沙は表情一つ変えず、一枚の紙を取り出して春太郎に差し出した。
 春太郎はこわごわ受け取り、目線を滑らせている。ややあって、「これは」と震えた声が間に落ちた。

「嫁に迎えてからは柴崎真央の一切の口答えを禁じ、反抗のそぶりを一片でも見せたら──真央の自由を一切奪い、人に力を注ぎ込むためだけの道具として扱う」

 春太郎が読み上げた文章が間に滔々とこだまする。
 冷静になるようつとめて黙って前を向いていた真央の頭にも、その読み上げた内容はしっかりと入ってきた。
 反抗すれば、自由の一切を奪われる。
 間もなく司沙の鋭利な視線が真央に注がれた。

「どうしてこんな契約を交わすことになったか、身に覚えがないわけではあるまいな。なあ、春太郎殿。ことを起こした秋治殿はこの座にいないようだが」

 ねめつけるような声色に真央の腕があわ立った。

「秋治は今、体調がすぐれないものですから……奥の間で寝かせております」
「ふん、そうか」

 そっけない返事の後、司沙はさらに続けた。

「俺は悪霊との戦いの中で、秋治の謀叛により、左目を失った。分家が主家に反旗をひるがえすなど言語道断。その代償として、力を持つ者を嫁として寄こせと言っている。まあ──言い換えれば、人質のようなものだな。昔の世と同じだ。今後裏切らないと誓う代わりに、子や妻を差し出す話を聞いたことがないわけではなかろう」

 司沙の薄い唇が持ち上がる。笑っているのにも関わらず、寒気のするような冷たい笑みだった。

「悪い話ではないだろう。力を持つ真央が市ヶ谷の家に来ればますます神通力を持つ家として栄え、お前たちは真央を差し出したことで取り潰しを免れるのだからな」

 どうやら市ヶ谷家は、謀叛を起こした分家の柴崎家を取り潰す予定だったようだ。

「真央」

 春太郎が振り返った。

「行ってくれるな」

 春太郎の顔は鬼気迫っており、首を横に振れるような余地はなかった。
 真央は銘仙の下の胸がうるさく鳴っているのに気づいていたが、あえてそれを無視して首肯した。するしかなかったのだ。
 自分の首が上下した瞬間、肩にずんと重石が乗ったように思えた。身体の自由をすっかり奪われたにも近い、窮屈な閉塞感。
 泳ぎそうな目をどうにか司沙に向けると、彼は泰然とした態度で口の端を上げていた。

「決定だな。では春太郎殿、およびに真央。契約書に名前を書き、そして血判を押せ」

 春太郎の持っていた紙は契約書だったらしい。司沙の長い指で差し出された万年筆を受け取り、義父は震える指で名前を書いた。

「真央、書け」

 いよいよ紙を両手で受け、万年筆を握る。

 ──この紙一枚で、ついに自分の行く末が決まってしまうのか。

 ふと思い、次に真央が感じたのは諦観だった。いままで、ろくな人生を歩んでこられなかった。もう、かつて母がいたこの家で幸せになることは諦めなければならない。
 だが、代わりにごく小さな希望が生まれた。司沙のいる市ヶ谷家に行けば、なにかは変わるかもしれない。
 それが良いことか、悪いことか、今はまだ見分けがつかないけれど。
 真央は契約書に万年筆を滑らせた。

「血判は、これを使え」

 司沙が大きな黒い包から脇差を出した。

「市ヶ谷の家に代々伝わる名刀の脇差だ。これで指を切れ」
「……はい」

 両手で取った脇差は黒塗りでずっしりと重い。柄を握って抜けば、司沙の目にも似た鋭い刃が現れた。
 その先を左手の人差し指に沿わせ、覚悟を決めて切っ先を引く。
 わずかな痛みの後、切れたところから血が浮き出てきた。血が垂れる前に、書いた名前の上に指を押し付ける。
 はたして、血判が押された。
 続いて春太郎も血判を押し、契約書が司沙の手に戻ってきた。
次の瞬間、契約書が輝き、間いっぱいにまばゆい光が放たれる。ただの契約書ではないらしい。
 ふいに彼が真央の顔を見た。

「ずいぶんと余裕そうじゃないか。こんな契約を押し付けられて泣きださないとは意外に肝が据わっているのか?」
「いいえ。私は今、この契約の中に小さな希望を見つけたのでございます。ほんのわずかな、でも確かな希望」
「希望? 絶望の間違いではないのか」

 鼻で笑われたが、真央は構わなかった。わざと微笑を返してやると、司沙の柳眉が持ち上がり、やや不機嫌そうな面持ちになる。

「なにを企んでいるのかしらんが、お前は京より俺の嫁になったんだからな。覚悟することだ。さて──これで契約は完了だ。明日の朝、車で迎えに行く。持ち物があれば今日のうちに準備しておくように」

 満足げに契約書をしまい、司沙が音もなく立ち上がる。

「見送りはけっこう」

 ついていこうとした春太郎を手で阻止し、彼は間を出て行った。ややあって、車のエンジンがかかる音がする。
 間に残された真央が次の所作を決めかねていると、千佳がそれより早く口を開いた。

「あんた、本当にあの人の家に行くの」

 フリルがたっぷりとあしらわれた襟元をいじりながら、千佳が横目で真央を見る。問われたことの真意が掴めず、真央は頷くしかなかった。

「逆らわないなんて、誰にだってできることよね。それに真央の持つ力がいくら良いからって、あんたを名指しで嫁にめとるなんて言うのも変な話だわ。どうして私にしなかったのかしら。私だって柴崎家の娘、神通力だって強いものを持っているのに」

 市ヶ谷家が求めているのが単なる神通力ではなく、神通力を増強させる力であることは触れないまま言い放つ。
 真央は「そうですね」とだけ答えたが、それがかえって千佳の矜持に傷をつけたらしい。
 彼女は気色ばんで立ち上がった。

「なに、自分が司沙さまに選ばれたからって調子に乗っているの。本来ならあんたは柴崎の家に置かせてもらっている立場なのよ。使ってもらえるだけありがたいと思うべきなんだから」
「千佳、やめなさい。みっともない」

 静かに律がたしなめたことで千佳は一旦は座ったものの、明らかに苛立っている。
 真央はいつもは冷たい律に救われたことに動揺し、うっかり口を滑らせた。

「私が市ヶ谷の家に行くことを、惜しいと思ってくださりますか」

 彼女は突然の問いにやや戸惑ったようだったが、少し間を置いて「ええ」と言った。

「当然でしょう。──とうとう使用人が家から一人もいなくなるんだもの」

 返事を受けた直後、心臓に杭を打ち込まれた心地がした。
 隣から春太郎も口を添える。

「そうだな。市ヶ谷の家でお前が粗相をすれば、一瞬で柴崎家は終わりだ。柴崎家の命運がお前にかかっているんだ。それが不安で仕方ない。わかるだろう」
「……はい」

 違う。
 真央が求めていたのは、自分がいなくなることで、彼らの心が少しでも痛んで、悲しんで、辛いと惜しんでくれることだった。
 少なくとも働き手がいなくなるからとか、不安で嫌だとか、そんな現実的な理由を欲していたのではない。
 正座をした足が急激に痺れてきた。今すぐ立ち上がってこの場を去りたいのに、自分の身体がそれを許してくれない。

「柴崎家がこれからも続くよう、嫁として粗相のないようにいたします」

 真央が絞り出せたのは、この一言だけだった。