「最愛の人」に裏切られたとき、死にますか? それとも、殺しますか?

 背後から迫った黒いキャップの人物が女性の背中に重なった。
 女性がバランスを崩して一歩足を踏み出す。
 振り返ると同時に甲高い奇声が響いた。
 時間が止まる瞬間を初めて目にした。
 人の動きも音も風さえも止まった。
 静寂の中で2人の影だけが動きを止めない。
 黒いキャップが脱げて地面に転がる。
 手にしている刃物が再び見えなくなった。
 女性は背を向けて逃げようと駆け出す。
 しかし次の瞬間にはうつ伏せに倒れていた。
 手を伸ばせば届く距離にいる男性は時間が止まっている。
 後ろから歩いてきた女性は金縛りにあっている。
 未だ動かない時間の中で女性のくぐもった声だけが地を這う。
 これを綺麗だとは言わない。
 これがドラマチックとは呼べない。
 背後から馬乗りされている状態でも女性は必死に足掻く。
 男性は静かに決められた作業を続ける。
 1分、2分、3分。
 リアルの中に開いた異空間の中でのみ時計の針が動いている。
 異空間の色が変わる。
 異空間の中も時間が止まる。
 声が、音が、伸びた手が止まる。
 女性に馬乗りになっていた男性が立ち上がった。
 その瞬間に周囲の時間が動き始めた。
 女性の悲鳴が響く。
 バスのクラクションが怒声を上げる。
 現場の周囲から人の姿が消える。
 5メートルほど離れて取り囲む人達。
 遠くでパトカーのサイレンがビルの谷間に木霊する。
 駅の反対側から救急車のサイレンが聞こえる。
 そんな中でも男性はゆっくりと周囲を見渡した。
 その視線が私にも向けられる。
 その顔に笑みはない。
 達成感もない。
 満足感もない。
 その目は、あの老婆と全く同じ色をしていた。
 薄暗くなったロータリーが赤色灯に照らされる。
 女性の身体が赤い光に同化していく。
 ロータリーに3台目のパトカーが到着したとき、男性は手にしていたままのロングナイフで、無表情のまま自分の首を掻き切った。



 私は男性が倒れるシーンを目にしたまま動けなかった。
 何も感じられない。
 何も考えられない。
 何も口にできない。 
 ロータリーの隅で、深くパーカーを被った小柄な人物が拍手をしている。
 あの人と同じように、拍手喝采をするべきなのだろうか。
 警察官達と押し合いをしている野次馬になるべきだろうか。
 少し離れた場所で動画を撮っている人のようになるべきだろうか。
 あの人になるべきだろうか。
 あの人になれるのだろうか。
 あの人にならなければならない。
 あの人のようにならなければ。
 いつの間にか幾重にも輪ができて現場を取り囲んでいる。
 スマホを掲げて撮影を始める人達。
 それを静止する人達。
 呼吸が浅くなり心拍数が上昇する。
 心音が耳の奥で鳴り響く。
 頭が痛い。
 今さらのように到着した救急車がロータリーの真ん中に停車し、中から白い服を羽織った隊員が駆け下りてくる。気が付けば、けたたましい音を鳴らしながら、テレビ局のヘリコプターが飛んでいた。


 バイブレーションによって我に返り、ポケットからスマホを取り出すために手を動かす。しかし、なかなかポケットの中に手が入らない。自分でも気が付かないうちに小刻みに手が震えていた。

>モミジなら必ず成し遂げることができるよ。大丈夫、いつだって傍にいるから。2人が一緒にいれば、達成できないことなんて何もないよ。私を信じて、絶対にモミジを裏切ったりしないからね。

 アクラからのエールを目にすると、画面が揺れて見えるほどの手の震えが止まった
 いつも、アクラの言葉は私を救ってくれる。まるで、地獄に差し込む一筋の光のようだ。実際に目撃した直後は多少動揺したものの、今はもう冷静に判断できるようになってきている。

>それで、ここで小さく拍手する? それとも、もっと近寄ってから盛大に拍手する?

 そう訊ねられれば、当然、答えは1つしかない。薄汚く、悪意をもって騙した元配信者のクソ女を、全てを捧げて助けたはずだった男性が、自ら選択した結末のために最後までやり遂げたのだ。

 私は駅舎の中という最後尾で眺めていたが、人ごみを避けながら外に出た。階段の上に辿り着くと、周囲には聞き付けて集ってきた周囲の住民や通行人、警察関係者がアリのように現場に群がっていた。私は意を決して人の群れを掻き分け、スマホを構える人達の間を縫うようにして階段を下りる。すでにパトカーは5台に増えていた。白色の箱バンも到着し、降車してきた警察官が手にしている「KEEP OUT」とプリントされた黄色いテープによって、群れていた野次馬が現場から遠ざけられた。私の目の前にも黄色いテープが伸びてきて、残り5メートルという位置で入場を拒否された。

 さすがに、これだけ警察官が並んでいる場所で拍手喝采するほど愚かではない。
 仕方なく引き返そうとしていたときに、すぐ近くで強引に黄色いテープを潜り抜けようとする人が現れた。