「最愛の人」に裏切られたとき、死にますか? それとも、殺しますか?

 口から泡を噴き始めた犬のリードを放し、込み上げてくる嗤いを抑えながら駅の構内に駆け込む。次の電車の到着まで、まだ20分ある。それでも、構わず改札を抜けて駅のホームに飛び込んだ。

 振り向いて改札口越しに駅の外を確認する。でも、あの犬の飼い主が追い掛けてくる気配はない。殺そうとした訳ではないから、当然、死んでもいない。ちょっとだけ、リードを持って首輪で絞めただけだから、そんなことで死んだりはしない。
 そもそも、危機感がないことが悪い。飼い主は自分以外の人を善人だと勘違いしているのか、大切なはずのペットを目が届かない場所に放置して、自分の欲求を満たすためにコンビニに入った。危機感が足りないんじゃないの?この世は悪意に満ちているのに。簡単に周囲の人を信じてはダメだよ。どこにクソ男やクソ女のような悪人がいるのか分かったものではない。1匹30万円もするような種類であれば連れ去られる可能性もある。石を投げられたり、踏み潰されたりすることも十分に考えられる。

 あの犬もそうだ。全ての人間が自分を可愛がってくれるものだと信じきった目。小首を傾げて上目遣いで見上げると、周囲にいる人間が害意を抱かないとでも思っているのか。危機感が足りない。踏み潰される程度のサイズで、私にですら片手で持ち上げられる程度の重量で、どうしてそんなに落ち着いていられるのか。いつ死んでも不思議ではない環境で、周囲を警戒するこさえしない。手を伸ばしても、吼えない、咬まない、唸らない。だから、簡単に死にかける。

 ―――――世界は悪意に満ちているのだ。

 昔の偉い人が言ったように、人間の生まれつきの性質は「悪」であり、後天的な教育や努力によって初めて善に至ることができるのだ。つまり、自分の善性を磨かない者は悪のままなのだ。そして、大部分の者が教育を受けても理解せず、努力する者を嘲笑う。だから、この世は悪意に満ちてしまう。

 40代半ばと思われる2人組の女性が、駅のホームにあるベンチに座っている。本来は4人が座ることができるものだ。しかし、そのベンチを2人が荷物の入った紙袋を置いて占領している。明らかに、紙袋は誰も座れないようにするための道具だ。そのベンチの横に腰が曲がり、高齢の女性がどうにか杖をついて立っている。時折チラリと老婆に視線を送っているため、2人が気付いていないはずがない。それでも、2人は無視を続けている。こんな人間ばかりだ。悪で生まれ、悪のまま成長し、悪のまま灰になる。そんな人間ばかりだ。

 駅のホームに立つ学生の耳にはイヤホンが(ハマ)っている。そこから溢れ出す音楽の7割以上がラブソングで、残りは世の中を憂う曲だ。「ずっと一緒にいたい」「この愛は永遠だ」「こんなにキミが好きなのに」「愛してる」「貴方しかいない」と歌いながら、「明日が見えない」「愛ってなに?」「愛だけじゃ生きられない」「私は嘘で固めた泥人形」「あの子が屋上から飛び降りました」という歌詞に共感する。

 構内に音楽が響き、ホームに電車が滑り込んできた。
 1週間前に起きたホームでの電車と乗客の接触事故は、本当に事故だったのだろうか。嗤いながら眺めていた者は、本当に誰もいなかったのだろうか。
 ベンチに座っていた女性達は急いで紙袋を両手で掴むと、並んでいた人達を無視して我れ先にと乗降口へと突き進む。その様子を眺めながら、私は一番最後にドアを通り抜けた。


 車内に足を踏み入れて周囲を見渡すと、まばらに人が立っている程度の込み具合で、詰めて座れば全員が立たなくても良いくらいだ。優先席を高校生と思われるカップルが占領し、カバみたいに大きな口を開けて笑っている。あの2人の女性は、ベンチのときと同じように紙袋を周囲に並べて、高齢者を無視して大声で話しをしている。誰も注意をしない。見てみぬフリは最上位の悪意だ。

 私は少し離れた位置に立ち、そんな人達を哀れみながら眺めている。


 乗降口付近に座り込む女子高生。
 大声で笑っている男子高校生。
 幼稚園児がクツのまま座席に上がって飛び跳ねる。
 隣の母親はそれを笑いながら見ている。
 肩に蝶のタトゥーが入っている女性のイヤホンから漏れる音が煩い。
 若い女性の隣に座る男性の距離が必要以上に近い。
 ドアの近くに立っている男性が座っている女性のスマホを覗き込んでいる。
 泣き出した幼い子供に「みんなに迷惑でしょ」と言って怒る母親。
 自分が悪いだなんて誰も思わない。
 そもそも、善悪の基準は誰が決めるのか。
 自分がルールであるならば、やはり世界は悪意に満ちている。


 キィというブレーキ音が微かに聞こえ、徐々に電車の速度が遅くなってくる。
 下車する予定の駅に到着し、乗降口の前に立つと先ほどの女性2人組が私とドアの間に割り込んできた。そして、ドアが開くと同時に、我れ先にと下車しようとした。
 そんな女性たちの背中を、軽く押す。
 2人は同時にバランスを崩し、黄色い線の向こう側で仲良く前のめりに倒れ込んだ。

 地べたを這う2人を見下ろしながら、軽く会釈をして通り抜けた。