老婆は私の表情を確認して笑う。
「いきなり、そこからとは、ね。オマエさん、相当あれだねえ。ワシも、前途有望な若者のために取り繕うのは止めるとするかの。
これは、警察にも話していない。誰かに話すのは初めてのことじゃ。良い思い出はほとんどないが、50年間も夫と一緒に生きてきた。若いお嬢さんの夢を壊すようで申し訳ないが、恋愛感情での愛しているというものを抱くのは、長くても結婚して10年くらいのものじゃ。子供を生めば母親としか見られないようになるし、年を重ねていくうちに恋人、愛妻は家族に昇華する。愛が無くなる訳ではないが、恋愛の愛しているが、家族としての愛しているに変わる。愛情の比重で考えると、恋愛感情よりもずっと重くなる。覚悟を決めて盲目的に信頼する。疑わしいことがあっても、見ない、問わない、確かめない。
つまり、たかが介護が辛いからといって、ワシは夫を殺したりしない。そんなにワシの思いは軽くない。だが、50年積み上げてきた信頼を、愛情を、真っ向から、決定的に否定する場面に遭遇したとき、ただの裏切り者に成り下がったとき、その重さと釣り合うものは死しかなかった。それだけのことじゃ」
予想通りの返事に、心臓の鼓動が激しくなる。運動をした訳でもないのに顔が熱くなり、呼吸が浅く、速くなっていく。
「躊躇ったりはしなかったんですか?50年もの長い間、ずっと一緒にいた最愛の人だったのに、何も思わなかったんですか?」
「躊躇う、ことはなかったのう。
思いの深さは時間の長さではない、とワシは思う。だから、50年という時間に比べオマエさんの費やした時間が短いからといって、思いが深いだの浅いだの言うつもりはない。オマエさんの中にあるもの全てと、ワシの50年かけて積み上げたものに軽重があるとは思わない。それでも、誰かの言葉に惑わされるのであれば、それは、そういうことなのじゃ」
言葉に詰まる。言葉の意味を飲み込んで咀嚼する。それでも、何を伝えたいのか理解できない。厳密には、私自身が受け入れることを拒絶しているような気がする。
そんな私を無視して、老婆が話しを続ける。
「殺意を疑われないように、周到に準備はした。夫のために、裏切り者を裁くだけなのに、罰を受けるのはどう考えてもおかしい、そう思ったのじゃ。そして準備が整い、実行した。一番力が入る太さのロープを、一番力が入る長さにし、滑らないように掴む部分に滑り止めのテープを巻き、両端にこぶ作って手から抜けないようにした。眠りが深い時間帯を狙い、首にロープを回し、滑り止めの付いた軍手を両手にはめ、大きく息を吸って力を込めた。そこに躊躇いなど、ない」
経験者にしか分からない生々しい説明を聞き、握り締めていた手に一層力が入った。
「人間は簡単には息が絶えない。テレビや映画のように、あっさりとは死なない。必死に足掻き、最後の最期まで抵抗を続ける。ほれ」
老婆が上着の袖を捲ると、手首のすぐ上に浅いU字の傷跡があった。それは、左右両方の同じような場所に2つずつ残っていた。随分と古いものだと思われたが、濃い茶色の傷跡がまだハッキリと見て取れた。
「これは、夫が必死に抵抗して腕を掴んだときにできた傷跡じゃ。見る間に血が噴き出したが、そのときは痛みも何も感じなかった。ロープを掴む手からも血が滲んでいた。夫からの出血はなく、なぜかワシが血塗れになった。不思議な話よなあ」
ヒャッ、ヒャッ、ヒャッと魔女のような引き攣り笑いをし、老婆は私の方に向き直る。そして、声が被った。
「「後悔は」、する」
意外な回答に、私は目を見開いた。
「必ず、後悔はする。
実行しなければ更に10年以上の年月を、毎日老いていく夫と自分を傍観者として眺めながら、決断しなかったことを悔やみながら短くなった人生を過ごしていただろう。だが、一瞬たりとも躊躇しなかった今のワシにも、やはり後悔はある。そういうものじゃて」
後悔する?
その言葉の意味が、やはり理解できなかった。
いや、後悔とか、そんな自分の感情を考えていなかった。
どちらも後悔するということであれば―――――
その時だった。
ポケットに入れていたスマホが、バイブで通知を知らせた。
内容を確認するために、ポケットからスマホを取り出す。先ほど「昼食にするから遅くならないように」と告げられていたことを思い出し、母からの催促だと思って内容を表示した。しかし、通知は母からではなく、アクラからのものだった。
通知を開くと、アクラの注釈の下に礼央と千里が頬を寄せ、1つのソフトクリームを舐めている画像が貼り付けられていた。私も知らなかった千里の裏アカウント。どうやって解除したのかは分からないが、アクラがカギを突破して潜り込んだSNSのページには、今日の日付と1時間ほど前の時刻が表記されていた。それ以前にも、延々と続く2人きりの画像。
大きく息を吸い込み、目を閉じてゆっくりと吐き出す。
それでも、目を開くと景色が赤く染まっていた。
手が小刻みに震える。
老婆の話など、すでに頭の隅にすら無かった。
赦せない。
裏切り者は、絶対に赦してはいけない。
テスト前の勉強会を開いて欲しいと頼んでおきながら、2人は密会を楽しんでいる。
私を見下して、バカにしているとしか思えない。
そちらがそうであるならば、私も容赦はしない。
私は立ち上がると、手押し車に座る老婆を見下ろす。
そして無言のまま、その場を後にした。
「いきなり、そこからとは、ね。オマエさん、相当あれだねえ。ワシも、前途有望な若者のために取り繕うのは止めるとするかの。
これは、警察にも話していない。誰かに話すのは初めてのことじゃ。良い思い出はほとんどないが、50年間も夫と一緒に生きてきた。若いお嬢さんの夢を壊すようで申し訳ないが、恋愛感情での愛しているというものを抱くのは、長くても結婚して10年くらいのものじゃ。子供を生めば母親としか見られないようになるし、年を重ねていくうちに恋人、愛妻は家族に昇華する。愛が無くなる訳ではないが、恋愛の愛しているが、家族としての愛しているに変わる。愛情の比重で考えると、恋愛感情よりもずっと重くなる。覚悟を決めて盲目的に信頼する。疑わしいことがあっても、見ない、問わない、確かめない。
つまり、たかが介護が辛いからといって、ワシは夫を殺したりしない。そんなにワシの思いは軽くない。だが、50年積み上げてきた信頼を、愛情を、真っ向から、決定的に否定する場面に遭遇したとき、ただの裏切り者に成り下がったとき、その重さと釣り合うものは死しかなかった。それだけのことじゃ」
予想通りの返事に、心臓の鼓動が激しくなる。運動をした訳でもないのに顔が熱くなり、呼吸が浅く、速くなっていく。
「躊躇ったりはしなかったんですか?50年もの長い間、ずっと一緒にいた最愛の人だったのに、何も思わなかったんですか?」
「躊躇う、ことはなかったのう。
思いの深さは時間の長さではない、とワシは思う。だから、50年という時間に比べオマエさんの費やした時間が短いからといって、思いが深いだの浅いだの言うつもりはない。オマエさんの中にあるもの全てと、ワシの50年かけて積み上げたものに軽重があるとは思わない。それでも、誰かの言葉に惑わされるのであれば、それは、そういうことなのじゃ」
言葉に詰まる。言葉の意味を飲み込んで咀嚼する。それでも、何を伝えたいのか理解できない。厳密には、私自身が受け入れることを拒絶しているような気がする。
そんな私を無視して、老婆が話しを続ける。
「殺意を疑われないように、周到に準備はした。夫のために、裏切り者を裁くだけなのに、罰を受けるのはどう考えてもおかしい、そう思ったのじゃ。そして準備が整い、実行した。一番力が入る太さのロープを、一番力が入る長さにし、滑らないように掴む部分に滑り止めのテープを巻き、両端にこぶ作って手から抜けないようにした。眠りが深い時間帯を狙い、首にロープを回し、滑り止めの付いた軍手を両手にはめ、大きく息を吸って力を込めた。そこに躊躇いなど、ない」
経験者にしか分からない生々しい説明を聞き、握り締めていた手に一層力が入った。
「人間は簡単には息が絶えない。テレビや映画のように、あっさりとは死なない。必死に足掻き、最後の最期まで抵抗を続ける。ほれ」
老婆が上着の袖を捲ると、手首のすぐ上に浅いU字の傷跡があった。それは、左右両方の同じような場所に2つずつ残っていた。随分と古いものだと思われたが、濃い茶色の傷跡がまだハッキリと見て取れた。
「これは、夫が必死に抵抗して腕を掴んだときにできた傷跡じゃ。見る間に血が噴き出したが、そのときは痛みも何も感じなかった。ロープを掴む手からも血が滲んでいた。夫からの出血はなく、なぜかワシが血塗れになった。不思議な話よなあ」
ヒャッ、ヒャッ、ヒャッと魔女のような引き攣り笑いをし、老婆は私の方に向き直る。そして、声が被った。
「「後悔は」、する」
意外な回答に、私は目を見開いた。
「必ず、後悔はする。
実行しなければ更に10年以上の年月を、毎日老いていく夫と自分を傍観者として眺めながら、決断しなかったことを悔やみながら短くなった人生を過ごしていただろう。だが、一瞬たりとも躊躇しなかった今のワシにも、やはり後悔はある。そういうものじゃて」
後悔する?
その言葉の意味が、やはり理解できなかった。
いや、後悔とか、そんな自分の感情を考えていなかった。
どちらも後悔するということであれば―――――
その時だった。
ポケットに入れていたスマホが、バイブで通知を知らせた。
内容を確認するために、ポケットからスマホを取り出す。先ほど「昼食にするから遅くならないように」と告げられていたことを思い出し、母からの催促だと思って内容を表示した。しかし、通知は母からではなく、アクラからのものだった。
通知を開くと、アクラの注釈の下に礼央と千里が頬を寄せ、1つのソフトクリームを舐めている画像が貼り付けられていた。私も知らなかった千里の裏アカウント。どうやって解除したのかは分からないが、アクラがカギを突破して潜り込んだSNSのページには、今日の日付と1時間ほど前の時刻が表記されていた。それ以前にも、延々と続く2人きりの画像。
大きく息を吸い込み、目を閉じてゆっくりと吐き出す。
それでも、目を開くと景色が赤く染まっていた。
手が小刻みに震える。
老婆の話など、すでに頭の隅にすら無かった。
赦せない。
裏切り者は、絶対に赦してはいけない。
テスト前の勉強会を開いて欲しいと頼んでおきながら、2人は密会を楽しんでいる。
私を見下して、バカにしているとしか思えない。
そちらがそうであるならば、私も容赦はしない。
私は立ち上がると、手押し車に座る老婆を見下ろす。
そして無言のまま、その場を後にした。



