コンビニエンスストアの駐車場に停まった白い車に歩み寄る少女。
余計なお世話だと思ってはいるが、黙っている訳にもいかなかった。少女の母親の視線から察するに、ワシのことを話しているのじゃろう。できることならば、過去を知られる前に話しをしたかった。まあ、仕方ない。これも巡り合わせじゃろうな。
あの少女を初めて意識してから、まだほんの少ししか時間が経っていない。何があったのかは分からないが、この世の終わりのような顔をしておった。あの光を失った目、あの黒く染まった表情には見覚えがあった。50年連れ添った、いや従った夫が、ワシが少し出ている間に、ヘルパーと乳繰り合っておった。若いときから疑わしいことは多々あったが、その度に聞かされた言い訳を信じた。いや、信じたかったのじゃろうな。言われるがまま信じて、夫のすべてを肯定して、齢70にもなって現実を思い知らされた。信じたふりを続けていたことが嘘になり、夫はただの裏切り者に成り下がった。妻を50年も騙し続けてきたのじゃ。
介護2に認定されてはいたが、あんなものは不貞行為とは無関係じゃ。日常生活に介助がいるといっても、逆に言えば、介助があれば何でもできるということに他ならない。
夫の日常生活に介助が必要になって8年。元から無かった自由はもっと失われ、夫の浪費癖のために貯蓄もまったく無かったため、元から苦しかった生活はもっと厳しくなった。それはまだ耐えることができた。しかし、50年間も騙してきたことを赦すことはできなかった。
準備は簡単じゃった。周囲に介護が大変だと言い続ければいい。夫がいかに手が必要か、自分自身の負担の大きさと、ワシに持病があるという嘘を周知させればいい。そして、少しずつ塩分を濃くした食事を与える。まるで、ヘンゼルとグレーテルに出てくる魔女のようだった。準備期間に半年。血圧は高くなり、薬を飲んでも効果は限定的だった。苦しめはしたが、病気や他人の手によって死ぬことは許さない。
深夜。ワシは用意していたロープを夫の首に回し、一気に絞め上げた。
抵抗され、夫の爪が手首に食い込んだ。それでも力を緩めることはしない。ロープを持つ手が真っ白になるほど、全身全霊で力を込めた。掴まれた手首から出血するが痛みは感じない。布団が血に染まり、夫の口からは泡が噴き出している。それでも、まだ身体が動いている。生への執着。人間は簡単には死なない。
しかし、50年間蓄積されたワシの恨みには勝つことはできない。握り締めたロープが赤く染まり、やっと解けた夫の手が布団の上にバタリと落ちた。痙攣もしない。夫の身体から力が抜け、どれだけ力を込めても反応がなくなった。青紫になった唇。血の気を失った顔色。私はその場にへたり込み、苦しみもがいた夫の顔を見下ろして大きく息を吐いた。
介護疲れを装って絞殺する直前、鏡に写る自分の表情を見ているだけに、少女の思考は透けて見える。
嬉々として老婆の元に駆け戻る。ひとまず、さっき手渡されたドラ焼きのお礼を告げた。
「すいません、お待たせしてしまって。あと、ドラ焼き、ありがとうございました」
高齢者のウケを狙って快活に喋ったつもりだったのに、老婆の反応が薄い。どうしたものかと考えていると、手押し車に座ったままで身を乗り出してきた。そして、数秒間、私の顔を見詰めた後で身を引いて持ち手に寄り掛かってため息を吐いた。
「ふう、オマエさんの考えていることは理解した」
老婆の言葉を受け、私も同意する。おそらく、私の考えは見透かされている。見るからに高校生の私が、それだけのために停止したであろう車に呼ばれ、母親に耳打ちされたのだ。当然、老婆の過去を聞かされたと思うだろう。それでも戻ってくる。もう、理由はそれしか考えられない。
「敢えてオマエさんのことは聞かないことにしよう。寝覚めが悪いからの。で、何が聞きたいんじゃ?」
「1つだけですか?」
訊ねたいことはいくらでもある。もし、1つに限定されるのであれば、何にするのか厳選して問わなければならない。
しかし、老婆は刻まれたシワを深くして答えた。
「ヒマが潰れるまでじゃな」
老婆の返事に顔が綻ぶ。
私の事情もある程度は理解していると思う。そうであるならば、確信に迫る質問を連発しても構わないだろう。
「さっき事件について母から聞いたことは分かってると思いますけど・・・本当に介護疲れだったんですか?」
一番最初に浮かんだ疑問だった。
介護という事ががどれほど大変なことなのかは知らない。どれだけ精神的に、肉体的に負担になるのかも想像することしかできない。ただ、それだけの理由で。ずっと一緒に生活してきた夫を手に掛けることができるものなのだろうか。私なら、絶対に首を絞めたりできない。手助けをしてくれる施設があることも、そこに入るために協力してくれる組織があることも、介護施設で仕事をしている母から聞いたことがある。そういうところがあるのだから、一番最初に相談すると思う。でも、話を聞いた限りでは、そういった手続きをしていたようには思えなかった。ずっと自分が面倒を見ようと思っていたのに、予想しなかったことが突然に起きて思考が切り替わったような感じがする。
そう―――――まるで、私と同じように。



