「最愛の人」に裏切られたとき、死にますか? それとも、殺しますか?

 以前なら、近くに他人がいれば気になって、場所を譲っていたと思う。でも、今はそんな気にならない。当然、老婆がどんな反応を見せようとも、何とも思わない。老婆の存在よりも、少し離れた場所に転がっているツクツクボウシの方が気になる。ひっくり返っているということは、ほぼ100パーセント死んでいる。
 私はカッターナイフの刃を伸ばし、二、三歩離れた場所に向かって移動した。

 なるほど。近くで観察したころがなかったため知らなかったが、確かに頭部、胸部、腹部と見事に分かれている。理科で教わった通り、頭部に目があり、胸部から6本の足が伸びている。(ハネ)も胸部に付いているようだ。あとは、気持ち悪い腹部。
 罪悪感はない。
 軽く押さえ付けてカッターナイフを構える。
 何の感触もなく、足が切り離された。
 やはり、忌避感はない。死んでいる状態は元生物だ。つまり、ただの()だ。確か人間も死んでしまうと物扱いになる、そう何かの記事で読んだ記憶がある。だから、人間を運ぶにはバスやタクシーと同じように二種免許なるものが必要になるが、遺体を移送するのであれば必要ないと。
 だから、このツクツクボウシは、ただの物なのだ。

 軽い。
 ツクツクボウシを手に取り、順番に足を落としていく。6本全てがアスファルトの上に落ちると、次は翅の番だ。翅は2対4枚ある。足と合わせれば、狭い胸部から10本も生えていることになる。切りやすいように無理矢理広げると、翅が半ばから折れた。乾燥して脆くなっているのかも知れない。
 それでも、私は翅の付け根に刃を合わせ、続けざまに切り離した。
 残りは歪な形の芋虫のようになった体のみ。それをアスファルトの上に置き、頭部と胸部の境目に狙いを定めてカッターナイフを引く。小さい方の頭部が転がり、既に空洞になっている中身をさらけ出した。それを目で追い、まるで料理でもするよに胸部も切断する。やはり中身は空洞で、頭部の横に転がって並んだ。

 これでは本当に作業だ。これが何かの役に立つのか疑問だ。息絶えた直後なら、また違う経験ができるのだろうか。それとも、生きている状態でなければならないのだろうか。私にできるだろうか。まだ、自信がない。


 作業を終え、元の場所に戻って腰を下ろす。そこに飲みかけのヨーグルトドリンクを置いたままだったからだ。
 カッターナイフをポケットに入れ、ヨーグルトドリンクを口に含む。「ふう」と大きく息を吐き出したところで、近くから声が聞こえてきた。

「お嬢さん、楽しそうじゃな」

 声の主は手押し車に座った老婆のものだった。私は何気ない雰囲気の言葉に対し、即座に返事をすることができなかった。特に意味のない、ただのフックとしての言葉でしかなかったのかも知れない。でも、私の思考はグルグルと激しく巡った。
 楽しい?
 義務、とも違う。誰かにやらされている訳ではなく、自分にとって必要なことだからしているのだ。だから、楽しんでいる訳ではなく、目的を達成するための手段だ。いや、手段とも違う。では、いったい、何?

「ふむふむ、なるほどのう」

 私が首を捻っていると、老婆が勝手に納得した表情を見せた。何が「なるほど」なのかまったく分からない。突然話し掛けてきて、勝手に得心している。何か不愉快で気分が悪い。
 そんな私の心情を察したのか、老婆が手提げ袋からドラ焼きを取り出し私に差し出してきた。相手が老婆ということもあり、特に警戒する必要もないため素直に受け取る。

「いやな、お嬢さんを見ていると、少し前のワシと似てると思ってな。ちょっと声を掛けてみたんじゃ。心配・・・とは違うのう。どう言えばいいのか分からんが、まあ、ちょっと気になっての」
 意味が分からない。首を傾げるしかない。

 相手をすることが面倒になり、立ち去ろうとしたその時だった。コンビニの駐車場に見慣れた自動車が停車した。運転席には週休二日の父。助手席に母の姿があった。その母が助手席の窓を開け私を呼んだ。
「紅葉、ちょっと!!」
 タイミング的にちょうど良かったため、立ち上がって車に歩み寄った。後部座席にはスーパーにでも行ってきたのか、大きいビニール袋が置いてある。このまま同乗して帰宅しても良いかも知れない。

「あの人と知り合いなの?」
 母の視線が老婆に向かう。表情から、とても好意的とは思えなかった。
「コンビニの横で休憩していたら、向こうから声を掛けてきたんけど」
 母はあからさまに安堵の表情を浮かべ、私の肩に手を置いた。
「紅葉は小さかったから覚えてないだろうけど、10年ほど前にこの近所で殺人事件があったのよ。介護疲れで妻が夫の首を絞めて殺した、っていう。その夫がかなり酷い人で、まあ、同情しない訳ではないけれど。それでも、人を殺したことには変わりないから。そんな人に関わるのは、ね」

 夫を殺した?

「まあ、無罪になったし、悪い人という訳でもないけど、ね、分かるでしょ。もうお昼だし、一緒に帰らない?」

 夫を殺した?
 私は振り返り老婆を視界に捉える。おそらく、この時の私は目を輝かせていたに違いない。顔が綻ばないように必死で感情を抑え込み、神妙な顔で母に向き直った。

「分かった。あの人には関わらないようにするよ。でも、一緒には帰らない。この格好を見て。運動のために散歩していたんだから、車で帰ったら意味ないでしょ。ね?」
 そう言って両手を広げると、母は苦笑いしながら手を振った。
「もう昼だから、早目に帰ってきてね」

 コンビニの駐車場から車が出て行くまで見送り、私は老婆の元へと駆けて戻った。