両手で逃げ場を奪ってコオロギを捕まえた。
親指と人差し指で後ろ足を挟み込むようにして動きを封じる。10年ぶりくらいに捕まえるが、考えるよりも先に手が覚えていた。記憶に無かったのは、その風貌だった。可愛いと思っていた顔は真っ黒で、左右の目が側面に付いている。口には大きな顎があり、モゾモゾと開閉を繰り返している。これのどこを可愛いと思い、必死に捕まえて輪切りにしたナスビを与えていたのだろうか。長い2本の触角が前後に揺れ、なぜか6本もある足が逃げようととしてモゾモゾと動き続けている。最も強力な武器であり、大ジャンプを生み出す後ろ足は胴体部分に比べるとアンバランスで、顔を近付けてみると短い毛が生えていることに気付く。正直なところ、かなり気味が悪い生き物だとしか思えない。
さて、と。これをどうしたものだろうか?
さすがに、このまま指に力を入れて潰すことには抵抗がある。
だからといって、一度放して踏み潰すのもどうかと思う。
このまま、頭部を引き千切る?
後ろ足を押さえられて足掻くコオロギと目が合った。
アリとは違い、ハッキリと目の部位が分かる。
それがきっかけだったのかは分からないが、コオロギの抵抗が一層激しくなる。縮めていた後ろ足を精一杯伸ばす。でも、それくらいでは私の指から逃れることはできない。それでもコオロギは何度も何度も繰り返し、足が一直線になるほど伸ばし続ける。当然のように、そんなことでは私から逃げることはできない。しかし次の瞬間、予想もしていなかったハプニングが起きた。強く摘んでいたからなのか、コオロギの右後ろ足が千切れた。バランスを崩したまま、片足で同じ動作を繰り返したコオロギの体が右側に大きく跳ね上がり、足を私の指先に残したままコオロギは地面に転がり落ちた。
4本足になったコオロギに俊敏な動きができるはずもなく、モゾモゾと地面を這うように草むらへと逃亡を図る。私は当然その行動を赦さない。今度は胴体を摘み、持ち上げて手の平に乗せた。アリとは違い、胴体の感触が手に残る。強く摘むと内臓が飛び出し、体液で手が汚れる未来が見える。
―――――握り潰す。
ことは、できなかった。
どうすれば良いのか考えているうちに、コオロギは再び手の平から転がり落ちた。足元で這って進むコオロギの姿がある。仮に見逃したとしても、この状態では野生で生きていくことは不可能だ。カマキリに見付かれば簡単に捕まり、腹部からムシャムシャと齧られてしまう。鳥に上空から襲われれば、一撃で嘴で挟まれてしまう。いや、カラスであれば抑え付けられて、頭部から啄ばまれてしまうだろう。
そうだ。
後ろ足が千切れた時点で、もう死んでいるのだ。
息の根を止めていないだけで、実質的な死をコオロギに与えたのは私だ。
実質的な死は、それがまだ動いている時点で起きる。
「殺した」という事実はない。
動かなくなるように、何かをした訳ではない。
しかし、それでも、近い未来において死を免れない状態だ。
死んではいない。
誰も殺してもいない。
まだ、心臓は動いている。
ただ、死が決っている。
罪悪感は希薄だ。
罪の意識は限りなく低い。
私が原因だ。
当然、私が悪い。
でも、心の負担は限りなく薄い。
そういう思いが脳内を駆け回り、目の前の景色がグルグルを回って意識が遠くなった。そして、再び視界がクリアになった瞬間、明確に思考が切り替わった。
「もう死んでいるのなら、カマキリや鳥に食べられる前に私が責任を取らないといけないよね」
振り上げた右足がコオロギの真上に落ちる。動きを予測し、その鼻先へと振り下ろしたクツの裏は、狙い通り綺麗にコオロギを踏み潰した。コオロギは地面で平面になり、覗き込んだクツの裏には透明な液体と一緒に薄い羽が2枚貼り付いていた。私はその光景を目にし、深くため息を吐いて地面にクツ底を擦り付ける。足を前後に動かしながら、視線が草むらに向かう。
足が事故で千切れてしまったコオロギであれば、既に死が決定しているのであれば、息の根を止める作業は誰かがしなければならない善行だ。
草むらに飛び込み、黒い虫を探す。この時期の夜になると、至る所でコロコロと鳴いているのだ。いないはずがない。いつもは気にも留めず通り過ぎているから、視界にすら入っていないだけだろう。
あ、いた。
草の根元に隠れているコオロギに手を伸ばす。
先ほどよりも少しだけ力を込めて捕まえる。
すると、なぜか、後ろ足が千切れた。
ああ、これは不幸な事故だ。
ただ、捕まえて観察しようと思っただけなのに。
私は悪くない。
私が悪い訳ではないけれど、これではもう野生では生きていけないよね。
不慮の事故で、このコオロギは死んでしまった。
私は残っていたもう片方の後ろ足を引き千切り、左右対称の姿にすると優しく地面に置いてやった。すると、必死になって草むらに向かって動き始める。素早さは失われ、モゾモゾとイモ虫のように這って進むコオロギ。
可哀想に。
カマキリや鳥のエサとして食われるのならば、私が潰してしまっても構わないよね。
ああ、そうだ。
潰した後は、経験値になってくれたアリの巣に持って行こう。
お詫びの品って感じで。
それならば、もっと数があった方が良いよね。
5匹・・・10匹くらいあれば良いかな。
私は公園を見渡し、コオロギが潜んでいそうな場所に向かう。
3匹目、4匹目、5匹目をアリの巣に届けた頃には、コオロギを殺すことに対する言い訳の必要がなくなった。何も考えず、何も感じることもなく、ただ淡々と作業として身体を動かした。合計で17匹。アリの巣の前には、ご馳走の山でできあがっていた。
親指と人差し指で後ろ足を挟み込むようにして動きを封じる。10年ぶりくらいに捕まえるが、考えるよりも先に手が覚えていた。記憶に無かったのは、その風貌だった。可愛いと思っていた顔は真っ黒で、左右の目が側面に付いている。口には大きな顎があり、モゾモゾと開閉を繰り返している。これのどこを可愛いと思い、必死に捕まえて輪切りにしたナスビを与えていたのだろうか。長い2本の触角が前後に揺れ、なぜか6本もある足が逃げようととしてモゾモゾと動き続けている。最も強力な武器であり、大ジャンプを生み出す後ろ足は胴体部分に比べるとアンバランスで、顔を近付けてみると短い毛が生えていることに気付く。正直なところ、かなり気味が悪い生き物だとしか思えない。
さて、と。これをどうしたものだろうか?
さすがに、このまま指に力を入れて潰すことには抵抗がある。
だからといって、一度放して踏み潰すのもどうかと思う。
このまま、頭部を引き千切る?
後ろ足を押さえられて足掻くコオロギと目が合った。
アリとは違い、ハッキリと目の部位が分かる。
それがきっかけだったのかは分からないが、コオロギの抵抗が一層激しくなる。縮めていた後ろ足を精一杯伸ばす。でも、それくらいでは私の指から逃れることはできない。それでもコオロギは何度も何度も繰り返し、足が一直線になるほど伸ばし続ける。当然のように、そんなことでは私から逃げることはできない。しかし次の瞬間、予想もしていなかったハプニングが起きた。強く摘んでいたからなのか、コオロギの右後ろ足が千切れた。バランスを崩したまま、片足で同じ動作を繰り返したコオロギの体が右側に大きく跳ね上がり、足を私の指先に残したままコオロギは地面に転がり落ちた。
4本足になったコオロギに俊敏な動きができるはずもなく、モゾモゾと地面を這うように草むらへと逃亡を図る。私は当然その行動を赦さない。今度は胴体を摘み、持ち上げて手の平に乗せた。アリとは違い、胴体の感触が手に残る。強く摘むと内臓が飛び出し、体液で手が汚れる未来が見える。
―――――握り潰す。
ことは、できなかった。
どうすれば良いのか考えているうちに、コオロギは再び手の平から転がり落ちた。足元で這って進むコオロギの姿がある。仮に見逃したとしても、この状態では野生で生きていくことは不可能だ。カマキリに見付かれば簡単に捕まり、腹部からムシャムシャと齧られてしまう。鳥に上空から襲われれば、一撃で嘴で挟まれてしまう。いや、カラスであれば抑え付けられて、頭部から啄ばまれてしまうだろう。
そうだ。
後ろ足が千切れた時点で、もう死んでいるのだ。
息の根を止めていないだけで、実質的な死をコオロギに与えたのは私だ。
実質的な死は、それがまだ動いている時点で起きる。
「殺した」という事実はない。
動かなくなるように、何かをした訳ではない。
しかし、それでも、近い未来において死を免れない状態だ。
死んではいない。
誰も殺してもいない。
まだ、心臓は動いている。
ただ、死が決っている。
罪悪感は希薄だ。
罪の意識は限りなく低い。
私が原因だ。
当然、私が悪い。
でも、心の負担は限りなく薄い。
そういう思いが脳内を駆け回り、目の前の景色がグルグルを回って意識が遠くなった。そして、再び視界がクリアになった瞬間、明確に思考が切り替わった。
「もう死んでいるのなら、カマキリや鳥に食べられる前に私が責任を取らないといけないよね」
振り上げた右足がコオロギの真上に落ちる。動きを予測し、その鼻先へと振り下ろしたクツの裏は、狙い通り綺麗にコオロギを踏み潰した。コオロギは地面で平面になり、覗き込んだクツの裏には透明な液体と一緒に薄い羽が2枚貼り付いていた。私はその光景を目にし、深くため息を吐いて地面にクツ底を擦り付ける。足を前後に動かしながら、視線が草むらに向かう。
足が事故で千切れてしまったコオロギであれば、既に死が決定しているのであれば、息の根を止める作業は誰かがしなければならない善行だ。
草むらに飛び込み、黒い虫を探す。この時期の夜になると、至る所でコロコロと鳴いているのだ。いないはずがない。いつもは気にも留めず通り過ぎているから、視界にすら入っていないだけだろう。
あ、いた。
草の根元に隠れているコオロギに手を伸ばす。
先ほどよりも少しだけ力を込めて捕まえる。
すると、なぜか、後ろ足が千切れた。
ああ、これは不幸な事故だ。
ただ、捕まえて観察しようと思っただけなのに。
私は悪くない。
私が悪い訳ではないけれど、これではもう野生では生きていけないよね。
不慮の事故で、このコオロギは死んでしまった。
私は残っていたもう片方の後ろ足を引き千切り、左右対称の姿にすると優しく地面に置いてやった。すると、必死になって草むらに向かって動き始める。素早さは失われ、モゾモゾとイモ虫のように這って進むコオロギ。
可哀想に。
カマキリや鳥のエサとして食われるのならば、私が潰してしまっても構わないよね。
ああ、そうだ。
潰した後は、経験値になってくれたアリの巣に持って行こう。
お詫びの品って感じで。
それならば、もっと数があった方が良いよね。
5匹・・・10匹くらいあれば良いかな。
私は公園を見渡し、コオロギが潜んでいそうな場所に向かう。
3匹目、4匹目、5匹目をアリの巣に届けた頃には、コオロギを殺すことに対する言い訳の必要がなくなった。何も考えず、何も感じることもなく、ただ淡々と作業として身体を動かした。合計で17匹。アリの巣の前には、ご馳走の山でできあがっていた。



