「最愛の人」に裏切られたとき、死にますか? それとも、殺しますか?

 放課後、正式にバスケ部を退部した私は、体育館に行く理由がなくなったため真っ直ぐ帰宅する。廊下でバスケ部の部員達が待ち構えていたが、気にする素振りも見せずに素通りした。背後で声を掛けようとする気配を感じるが、立ち止ることはしなかった。
 バスケ部を辞めたことは、あの2人には話していない。話す必要がないからだ。どうせ、2人とも私の動向に興味などない。それに、今日も明日も明後日も、2人は私に隠れて会っているのだから。

 カッターナイフは、もうポケットには入っていない。
 背負っている通学用のリュックに、ネジをきつく締めて入れてある。


 帰宅するとまだ17時30分を少し回った頃だった。電車の時間さえ合えば、通学に要する時間は40分程度で済む。帰宅時のルーティーンを守り、一応「ただいま」と室内に向かって声を掛けた後で洗面台に向かった。
 ザバザバと顔を洗い、今日の相談内容をまとめていく。今日、カッターナイフを持参したことで、自分に何が足りていないのかが十分に理解できた。それを解消するために、今はその方法が知りたいと強く思っている。

 階段を上がり自分の部屋に入るとジャージに着替え、途中のコンビニで購入したミネラルウォーターをリュックから取り出し、定位置に腰を下ろした。そして、まだ時間が早いかも知れないと思いつつ、お気に入りに登録してあるサイトを開いた。

>織田N:ただいま帰りました。どなたかいらっしゃいますか?



 ―――――深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている―――――
 これは哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉だ。つまり、警察官に例えると、刑事事件を解決させる経過の中で、凶悪な犯罪者と接するうちに、次第に共感し、影響されて自らも犯罪に手を染めてしまう。ということだ。

 普通に考えて、警察官が犯罪者の事情聴取をしているうちに、感化されて犯罪者になるなどということは有り得ない。そう思っていた。しかし、実際にそういうことは起こり得ることを、身をもって体験することになった。

 国家公務員総合職試験に合格し、所謂キャリア組として警察官になった。一般的な採用と違い、警部補からスタートし1年後には警部に昇進した。そして4年目、警視に昇進すると同時に本庁の捜査一課に異動になった。本庁の捜査一課は殺人事件などの凶悪犯罪を全国的に捜査している部署だ。オレはその捜査一課で3年間凶悪犯罪者、特に殺人犯の検挙に携わり、実際に何人もの殺人犯の事情聴取を行ってきた。
 当然、犯人の動機や環境の調査を行うことになる。そうすると、数件に1件ほどの割合で、犯人の思いや考え方に共感できてしまうことがあった。犯人と話しをしているうちに、その思想や心情に感化されてしまうこともある。通常、そういったものは、その事件の捜査が終わり、犯人が移送された時点でリセットされる。健全な思考は、対象となる人間がいなくなった時点で消え失せのだ。

 しかし、例外というものはどこの世界にもある。
 事件の内容としては、ごくありふれたものだった。浮気をした妻と不倫相手を、包丁でメッタ刺しにして殺害したというものだ。ただ、その犯人から事情聴取をした直後に、まったく同じ場面に遭遇してしまった。偶然、現場が自宅近くであったため、シャワーを浴びるために帰宅した。すると、玄関に自分の物ではないクツがあったのだ。しかも、室内から男女の艶めいた声が漏れてくる。

「なるほど」

 今さらながらに、犯人の気持ちが理解できた。理解できるのであれば、当然ながら結果も同じことになる。ただ、オレは警察の内情に精通している。何が犯人に繋がり、何が犯人を特定する材料になるのか。妻は犯人が殺したことにすれば良い。間男は襲い掛かってきたため、止むを得ず対応した。所謂(イワユル)、正当防衛を成立させる要件を揃えれば良い。

 オレは何の罪悪感も無く、ただこれまで出会った殺人犯と同じように、台所にあった包丁で刺した。殺人犯に倫理観などありはしない。可能な限り自分を正当化しなければ、人としての範を越えることはできない。少なくともオレは、そんなことは一切考えなかった。ただ、あの犯人とシンクロし、あの犯人が語った手口で、あの犯人と同じように血の海で嗤っただけだ。

 結果、正当防衛は成立し、当初の予定通りに無罪となった。ただ、お咎めなしとはいかず、世間が忘れるまでの間、二階級降格の上で地方都市の派出所勤務を言い渡された。だが、これでもオレはキャリア組だ。一時的に派出所に配属されているだけで、近い将来本庁に呼び戻される。そのため、周囲の誰もが腫れ物のように扱い、パトロールに出ることもなく、一日中派出所で何もしていなくても注意されることもない。退屈な毎日を送っている。

 でも、思うのだ。
 殺人犯に感化されていなければ、オレには生身の人間を殺すという行為ができると思えない。事情聴取をした数多の凶悪犯に影響を受けてもなお、2人を刺した後の数ヶ月間は、手に感触が残っていて眠れなかった。最初に手をく下した人間は、一体どうやって人間としての感情を捨て去り、凶行に及んだのだろうか。その過程を、オレは知りたい。



>警察官:おかえり。この部屋は、今日も本官がパトロールしているぞ。