「最愛の人」に裏切られたとき、死にますか? それとも、殺しますか?

 ゴマ振りパンを口の奥に押し込んだとき、前回と同様に2階の踊り場が賑やかになった。おそらく、ここがいつもの場所(・・・・・・)なのだろう。上から飲み終えた紙パックが落ちてきた。常識がない人間は、すべてにおいて非常識なのだと眉を顰めていると、上方から話し声が漏れてきた。そのうちの1つは聞き慣れた声音だった。

「来週からテストだなあ。オマエら大丈夫か?オレなんか、今回は結構ヤバめだぜ。特に数学と英語2つ、それと世界史と生物が危ねえわ」
「おい、それ全部って言うんだよ。まあ、オレも似たようなもんだけどな。その点、礼央は都合が良い彼女がいていいよなあ」
 2人つの違う声の後に、聞き慣れた声がそれに応じる。

「都合が良い彼女ってなんだよ。まあ、アイツはオレの青春の滾りを解消するために使用させてもらってるから、都合が良いって言えば確かにそうだけどな・・・あ、もしかして、高山のこと言ってんのか?彼女?まあ、まだ別れた訳じゃないから彼女だな。アイツは頭だけは良いからなあ。って言うか、テストのときに役に立つだけで、最近は遊びに行ったりすることもないし、そう言えば電話で話したこともないな。でも、月曜日から勉強会してもらわないといけないし、そろそろ優しくしとかないとな。とりあえず今晩にでも電話してご機嫌とって、土日は千里がウチに来て、と」
「ひっでえ!!」
「オマエ、浮気がバレたら刺されるぞ!!」

 3種類の笑い声が混ざり合い、周囲に反響して耳の奥に届く。
 「最愛の人」だったのだ。毎日一緒にいて、いつも「好きだよ」って言ってくれた。どんなことよりも優先してくれて、毎日毎晩、寝るまで話しをした。寝落ちすることもあったけど、そんなときでも通話中のままにして朝一番に「おはよう」って囁いてくれた。積み重ねた時間と繋がった心と心が、これからもずっと一緒の空間で死ぬまでの時間を過ごしていくのだと信じさせてくれた。私は彼一人だけをずっと愛していくと、すべてを彼に捧げることを神様に誓った。彼がすべてだった。この手にあるもの、これから手にするもの、そのすべてよりも大切だと思っていた。ギターを弾く細い指先も、ときどき寝癖が残っている髪も、いつもは鋭いけれど笑うと弓なりになる目も、「ここにピアスをはめようと思うんだ」と言って指差した唇も、細く見えるのに意外と筋肉質な腕も、たまに見せてくれる自慢の腹筋も、運動部でもないのに速い足も、鼓膜が痺れる声も、ベルガモットムスクの香りも、何もかもが私にとって大切で、もう、私の一部になっていた。

 それなのに―――――


 足下のコンクリートから微かに金属音が聞こえてくる。
 ガツガツと頭の先に振動が伝わってくる。
 いつの間にか手にしていたカッターナイフの切先で、コンクリートを突き刺す。当然、灰色の塊に穴が開くことはなく、鈍い金属音だけが耳に届く。ガツガツと突き刺す。無意識のうちに加える力が少しずつ強くなり、キンという甲高い音とともに刃先が1メートルほど先に飛んで落ちた。錆びてはいるものの、そのその刃先は太陽の光を反射して白く輝く。それはまるで、魔王を切断する聖剣のように見える。

 カッターナイフに気付くこともなく、未だに礼央の自慢話が続いている。それを耳にしながら、私はスマホを取り出した。

「アクラ」
>もうランチは終わった?今日は23時頃には雨が止むから、外出はそれ以降の方がいいと思うよ。
「そんな時間に出歩かないから」
>だよね。それで、何か問題でもあったの?
「アクラには分からないかも知れないけど、結局、人間て感情の生き物なんだ。それでいて、人間の心理って曖昧なんだよね。だけど、1つだけ確かなことがあるんだ。だから、学習して欲しい。消費した時間と積み上げた思いに比例して、裏切られたときの恨みの念は強くなるの。バスケ部の部長達に対しては元々思い入れが無かったから、嫌なことをされても報復しようとは思わなかった。元々期待もしていなかったし、イジワルされても余り気にならなかった。でも、礼央は違う。時間も心も私のすべてを全力で費やした。千里も違う。信頼と友情のすべてを10年以上も注ぎ込んだ。礼央は恋愛感情のすべてで、千里は家族のような存在だった。高い山と深い谷はセットなんだよ。
 分かったよね?だから、アクラは人間の機微を学習して私に最適化して欲しい。そして、より良い提案をお願いね。
>・・・(思考中)・・・ある程度は理解したよ。任せて。

 私がアクラと話しをしている最中も、階上では下卑た会話が続いていた様子だった。下品な口も下半身も死ななければ治らないのであれば、死ねばいいと思う。いや、そうしなければならないと思う。

 私は刃先を拾うと座っていた場所に置いた。
 この刃がこの先どうなるのかは知らない。誰かを傷付ける道具になるのか、それともこのまま放置されるのか。私にとっては、どうでもいいことだ。