「最愛の人」に裏切られたとき、死にますか? それとも、殺しますか?

 彼氏と表現しても良いのか微妙な存在と、いつものように学校の最寄り駅で合流した。
 礼央の視線は千里の身体を爪先からゆっくりと上がり、顔までを舐めるように見詰めてその唇で視線を止める。その後になり、礼央はようやく私の存在を認識して顔を向けてきた。

「おっす。中間テストも近いし、どっかのファミレスで勉強するか?3人で」

 3人で(・・・)という言葉が耳に届くと同時に、無意識に礼央を睨み付けてしまう。そんな自分の態度に気付き、一旦俯いて表情をと整える。今このタイミングで余計な猜疑心を抱かせる訳にはいかない。

「いつもの勉強会ね。ありがとう紅葉」
 私が返事をするよりも先に、当然の権利を発動したかのように千里が私の手を握って笑顔を作る。

 私を除く2人の成績は、下から数えた方が早い。そのため、試験の前になると私が教える役割で勉強会を開催している。これまでは彼氏のためだと思い、出題傾向を含めた集中講義を2人に対して行ってきた。テスト前の恒例行事になっていたこともあり、特に気にすることもなく続けてきた。
 しかし、考えるまでもなく私にとっては何のメリットもない奉仕活動だ。よく教えることは自分の勉強にもなるとか、知識が定着する的な話を耳にすることがあるが、あれは嘘だ。どう考えても、自分一人で勉強をした方が身に付くし効率的だ。もし本当であれば、東大受験生全員が、放課後の教室でクラスメートに対して勉強を教えているはずだ。それが分かっていても、彼氏の頼みということで、ずっと面倒を見てきた。
 しかし、この状況下でそれを口にされても、「はい、そうですね」と簡単に頷くことはできない。いや、喜んで了承する馬鹿はいない。

「来週から試験週間だよね。今日帰ってから予定を確認してみるね」
 と、曖昧な返事をする。それでも、2人は私が断らないものと決め付け、向かい合ってハイタッチを交わしている。当たり前に考えて、親友の彼氏とハイタッチなどしない。私がいなかったら、抱き合っているのではないだろうか。
 ムカつく。
 この馴れ馴れしい接触は初めてではない。これまでも頻繁に行われてきた。それでも、初めて彼氏ができた私は「これが普通だよ」と信頼している2人に教えられ、そういうものだと信じ込んだ。


 目の前には相変わらず彼女であるはずの私を放置して、笑顔で千里と並んで歩く礼央の姿がある。
 気付かないうちに、手がポケットの中に入っていた。そして、その手は無意識に細長いグリップを握り締める。今度は千里のときのような高揚感はない。純粋な殺意だけが沸々と湧き上がっている。一度は締めたネジを再びキリキリと回し、ポケットから取り出した。何度かスライドさせる度に、少し錆びた刃が朝日を反射する。背中までの距離は1メートルと少し。大きく足を踏み出し、素早く手を伸ばすなら1秒とかからない。
 刺す。
 刺せる?
 いや、刺す。
 人としてのリミッターが作動する。
 刺したい。
 刺せない。
 刺せない。
 刺せない。
 刺したい。
 刺せない。
 刺せない。
 刺せない。
 刺せない。
 緩めていたカッターナイフの刃が、アスファルトの上に音も無く落ちた。
 その瞬間、私は我に返る。
 足を止め、カッターナイフの刃に手を伸ばした。

「痛っ・・・」

 慌てていたためか、アスファルトに横たわる刃を拾うために伸ばした指先から鮮血が溢れた。
 痛い。
 切れると痛い。
 刺されると、もっと痛い。と、思う。

 リミッターが完全に作動し、感情が猛スピードで平淡になっていく。平和な社会で、平均値を求められ、善悪を強要されて、誰かが作った倫理観に支配されている。その限界を越えることができない。他人の痛みが分かる教育と、譲り合って共生する社会構造。控え目に、我慢することが美徳だと刷り込まれた精神が簡単に壊れるはずがない。積み上がった範を無視することなどできない。どうすれば、一歩先に進むことができるのだろうか。どうすれば、このリミッターを解除できるのだろうか。

「おい、早く行かないと間に合わなくなるぞ」
 珍しく礼央が振り返って声を掛けてくる。
「あ、うん」

 歩き始めたことを確認すると、礼央は5メートルほど先を千里と並んで歩き始める。
 私が指を切ってしまったことに気付かず、千里に笑顔を向けている。カッターナイフを手にしていることにも気付かず、無防備な背中を晒している。少し早足で2人と距離を詰め、両手を同時に2人の肩に乗せた。その瞬間、2人の会話が途絶え、凄い勢いで振り返った。その顔が妙に真剣で私は笑みを浮かべてしまう。

 ああ、本当なら今この瞬間に2人を同時に刺せたのに。

「それで、勉強会はどこでするつもり?」
 私の問い掛けた内容に、あからさまに安堵の表情に変わった2人は互いに顔を見合わせる。
「そうだなあ、いつものファミレスでいいんじゃないか?」
「確かにね。あそこなら人も少ないし、店員も煩くないしね」

 私は肯定も否定もせず、ただ一度だけ頷いた。チャンスは多い方が良いに決っている。