——時は少し遡り、宰相が朝議で断罪されている時刻。
リンファが女官を伴いミンジュを訪ねてきた。
まだ朝餉も済ませていない時刻に何の用かとシージェンは訝っているが、ミンジュにはよくわかる。
ついにリンファ本人が決着をつけに来たのだろう。
「リンファ様と散歩してくるわね」
ミンジュはひとりで宮を出た。
リンファが数歩前を歩きながら、中庭へ続く回廊を進んでいく。
「あなたは、陛下のどういったところがお好きなの?」
リンファが前を向いたまま、鈴の音のような綺麗な声で問うてくる。
(寵愛されている振りだけなのに好きなところを言えだなんて……まさか契約だってバレてるのかしら?)
ミンジュは一瞬言葉を詰まらせた。
それでも瞼の裏に浮かんでくるヤンジンの姿を思い浮かべると、普段からおもしろいと思っている彼の仕草が自然と口をついて出てくる。
「本当は粗野で行儀が悪いのに、皆さんの前では猫をかぶって優等生ぶっている姿を見ると笑いそうになります。でも、根はお優しいんですよね。それに寝相の良さにもやっぱり高貴な育ちが窺えます。こちらのほうがいつもヤンジン様を蹴飛ばして……」
クスクス笑いながら話しているうちにリンファが立ち止まっていることに気づいて、ミンジュも足を止めた。
ゆっくり振り返ったリンファの顔は、いつもの庇護欲をそそる無垢なものではなかった。
眉間に深いしわを寄せ淀んだ目でミンジュを見据えている。
そして、唇をゆがめて低い声で呻くように吐き捨てた。
「この平民上がりが!」
「それがあなたの本性なのね?」
ミンジュはこの姿を引き出そうと、あえて閨を連想させるようなことまで言って煽ったのだ。
「ヤンジン様は、平民を馬鹿になさらないわよ?」
そうでなければ、いくら契約とはいえ元平民のミンジュと同衾などするはずがない。
しかしリンファ親子は、平民を虫けら同然としか思っていないのだ。
宰相が、顔色ひとつ変えずにミンジュの妹を轢き殺したように。
「うるさいっ!」
金切声で叫んだリンファが小刀を取り出した。
(ついに来たわね!)
身がまえたミンジュだったが……。
「きゃーっ!」
甲高い悲鳴を上げたのはリンファだった。
左腕の袖が切り裂かれ血が滲んでいく。
彼女はミンジュを攻撃するのではなく、自らを傷つけたのだ。
そして、右手に握っていた小刀をミンジュの足元へ投げた。
「リンファ様! 誰かっ、リンファ様がミンジュ様に刺されました!」
女官が大声で叫び、よろめいたリンファを抱える。
人が集まってくる中、ミンジュは小刀を拾い上げた。
「なるほどね」
リンファは自分が被害者になることで、ミンジュを排除する作戦を企てたのだろう。
小刀の柄には柳の紋章が彫り込まれている。
「なかなか届かないと思ったら、お養父様からの刀をあなたがくすねていたのね」
感心したように言うミンジュを女官が指さす。
「ミンジュ様がリンファ様を刺したのです! 早く拘束してくださいっ!」
宦官たちがバタバタ走ってやってくる。
しかしミンジュは落ち着いていた。
「それより早く手当てをしたほうがいいわ。毒が回って死ぬわよ?」
にっこり笑ってみせると、リンファは被害者ぶった顔をこわばらせた。
「え……?」
「この小刀が柳家から送られてきた物だとしたら、毒が塗られているはずだもの」
ミンジュが小刀を握る手首を回すと、朝陽が刃に反射して煌めいた。
それまでどうしようかと様子を見ていた宦官たちが一斉にミンジュに飛びかかり、小刀を持つ右手をねじ上げる。
「いたたたっ! やめなさい!」
小刀を落としたミンジュは、抵抗虚しく両手を縛られた。
「解毒薬を早くっ!」
女官が目を泳がせながら叫ぶ。
まさかこの刀に毒が塗られているとは知らなかったのだろう。それはおそらくリンファも同様で、唇を震わせている。
「ミンジュ様、その毒とは? 解毒薬はありますか?」
宦官のひとりが険しい顔で聞いてくるが、ミンジュはわざとらしく首を傾げた。
「さあ? 解毒薬は、小刀を受け取った人が持っているはずだけど」
「だからそれがおまえだろう!」
宦官が怒りだす。
「解毒薬がどこにあるのか知っているのは、リンファ様なのではなくて?」
おそらく養父は、小刀のほかにいつものように装飾品やお菓子も送ってくれたにちがいない。
雑多な荷物のひとつとして小瓶に詰めた解毒薬があったとして、それが解毒薬だと気づかなくても無理はないだろう。
「荷物の中にあった茶色い小瓶です。まさか捨ててしまいましたか? だとすれば大変、もう時間がないわ」
ミンジュは目を見開いて大げさに言う。
リンファはどうしようかと迷うように瞳を揺らした。
「解毒薬を早く!」
宦官はまだ状況がわかっていないらしい。
ミンジュの手首をさらにギリギリと縛り上げようとする。
痛みに顔を歪めながらも、ミンジュは『あははっ』と笑った。
「死んでほしいと思っている相手に解毒薬を渡すはずがないでしょうに」
そして再びリンファを見据える。
「お馬鹿さんね。意地を張っていたら本当に死ぬわよ? そろそろ息苦しくなってくる頃かしら」
ひゅっと息を呑んだリンファの呼吸が早くなる。
はくはくと口を動かすも、上手く吸い込めない様子で顔色を失っていく。
「どなたかリンファ様をお願いします!」
女官は涙声で叫び、リンファの体を宦官に預けた。すっくと立ち上がるとリンファの宮へ走り去り、ほどなくして小瓶を持って戻ってきた。
「リンファ様、解毒薬です。さあっ!」
彼女は必死の形相でリンファの口に瓶を傾け、解毒薬を飲ませる。
「どういうことだ」
「なぜ、リンファ様の女官が解毒薬を……?」
ざわつく周囲をぐるりと見回して、ミンジュは勝ち誇ったように笑った。
「だから言ったでしょう? 解毒薬の在処はリンファ様が知っているって」
ミンジュは後宮の壁の向こうへ思いを馳せた。
(今頃、陛下も上手くやっているかしら)
宰相親子はこれでおしまいだ。
ついにやり遂げた大きな達成感。そして、これでヤンジンとの契約が終わるという寂寥感。
その寂しさの正体が何なのか、ミンジュはもう気づいていた。
リンファが女官を伴いミンジュを訪ねてきた。
まだ朝餉も済ませていない時刻に何の用かとシージェンは訝っているが、ミンジュにはよくわかる。
ついにリンファ本人が決着をつけに来たのだろう。
「リンファ様と散歩してくるわね」
ミンジュはひとりで宮を出た。
リンファが数歩前を歩きながら、中庭へ続く回廊を進んでいく。
「あなたは、陛下のどういったところがお好きなの?」
リンファが前を向いたまま、鈴の音のような綺麗な声で問うてくる。
(寵愛されている振りだけなのに好きなところを言えだなんて……まさか契約だってバレてるのかしら?)
ミンジュは一瞬言葉を詰まらせた。
それでも瞼の裏に浮かんでくるヤンジンの姿を思い浮かべると、普段からおもしろいと思っている彼の仕草が自然と口をついて出てくる。
「本当は粗野で行儀が悪いのに、皆さんの前では猫をかぶって優等生ぶっている姿を見ると笑いそうになります。でも、根はお優しいんですよね。それに寝相の良さにもやっぱり高貴な育ちが窺えます。こちらのほうがいつもヤンジン様を蹴飛ばして……」
クスクス笑いながら話しているうちにリンファが立ち止まっていることに気づいて、ミンジュも足を止めた。
ゆっくり振り返ったリンファの顔は、いつもの庇護欲をそそる無垢なものではなかった。
眉間に深いしわを寄せ淀んだ目でミンジュを見据えている。
そして、唇をゆがめて低い声で呻くように吐き捨てた。
「この平民上がりが!」
「それがあなたの本性なのね?」
ミンジュはこの姿を引き出そうと、あえて閨を連想させるようなことまで言って煽ったのだ。
「ヤンジン様は、平民を馬鹿になさらないわよ?」
そうでなければ、いくら契約とはいえ元平民のミンジュと同衾などするはずがない。
しかしリンファ親子は、平民を虫けら同然としか思っていないのだ。
宰相が、顔色ひとつ変えずにミンジュの妹を轢き殺したように。
「うるさいっ!」
金切声で叫んだリンファが小刀を取り出した。
(ついに来たわね!)
身がまえたミンジュだったが……。
「きゃーっ!」
甲高い悲鳴を上げたのはリンファだった。
左腕の袖が切り裂かれ血が滲んでいく。
彼女はミンジュを攻撃するのではなく、自らを傷つけたのだ。
そして、右手に握っていた小刀をミンジュの足元へ投げた。
「リンファ様! 誰かっ、リンファ様がミンジュ様に刺されました!」
女官が大声で叫び、よろめいたリンファを抱える。
人が集まってくる中、ミンジュは小刀を拾い上げた。
「なるほどね」
リンファは自分が被害者になることで、ミンジュを排除する作戦を企てたのだろう。
小刀の柄には柳の紋章が彫り込まれている。
「なかなか届かないと思ったら、お養父様からの刀をあなたがくすねていたのね」
感心したように言うミンジュを女官が指さす。
「ミンジュ様がリンファ様を刺したのです! 早く拘束してくださいっ!」
宦官たちがバタバタ走ってやってくる。
しかしミンジュは落ち着いていた。
「それより早く手当てをしたほうがいいわ。毒が回って死ぬわよ?」
にっこり笑ってみせると、リンファは被害者ぶった顔をこわばらせた。
「え……?」
「この小刀が柳家から送られてきた物だとしたら、毒が塗られているはずだもの」
ミンジュが小刀を握る手首を回すと、朝陽が刃に反射して煌めいた。
それまでどうしようかと様子を見ていた宦官たちが一斉にミンジュに飛びかかり、小刀を持つ右手をねじ上げる。
「いたたたっ! やめなさい!」
小刀を落としたミンジュは、抵抗虚しく両手を縛られた。
「解毒薬を早くっ!」
女官が目を泳がせながら叫ぶ。
まさかこの刀に毒が塗られているとは知らなかったのだろう。それはおそらくリンファも同様で、唇を震わせている。
「ミンジュ様、その毒とは? 解毒薬はありますか?」
宦官のひとりが険しい顔で聞いてくるが、ミンジュはわざとらしく首を傾げた。
「さあ? 解毒薬は、小刀を受け取った人が持っているはずだけど」
「だからそれがおまえだろう!」
宦官が怒りだす。
「解毒薬がどこにあるのか知っているのは、リンファ様なのではなくて?」
おそらく養父は、小刀のほかにいつものように装飾品やお菓子も送ってくれたにちがいない。
雑多な荷物のひとつとして小瓶に詰めた解毒薬があったとして、それが解毒薬だと気づかなくても無理はないだろう。
「荷物の中にあった茶色い小瓶です。まさか捨ててしまいましたか? だとすれば大変、もう時間がないわ」
ミンジュは目を見開いて大げさに言う。
リンファはどうしようかと迷うように瞳を揺らした。
「解毒薬を早く!」
宦官はまだ状況がわかっていないらしい。
ミンジュの手首をさらにギリギリと縛り上げようとする。
痛みに顔を歪めながらも、ミンジュは『あははっ』と笑った。
「死んでほしいと思っている相手に解毒薬を渡すはずがないでしょうに」
そして再びリンファを見据える。
「お馬鹿さんね。意地を張っていたら本当に死ぬわよ? そろそろ息苦しくなってくる頃かしら」
ひゅっと息を呑んだリンファの呼吸が早くなる。
はくはくと口を動かすも、上手く吸い込めない様子で顔色を失っていく。
「どなたかリンファ様をお願いします!」
女官は涙声で叫び、リンファの体を宦官に預けた。すっくと立ち上がるとリンファの宮へ走り去り、ほどなくして小瓶を持って戻ってきた。
「リンファ様、解毒薬です。さあっ!」
彼女は必死の形相でリンファの口に瓶を傾け、解毒薬を飲ませる。
「どういうことだ」
「なぜ、リンファ様の女官が解毒薬を……?」
ざわつく周囲をぐるりと見回して、ミンジュは勝ち誇ったように笑った。
「だから言ったでしょう? 解毒薬の在処はリンファ様が知っているって」
ミンジュは後宮の壁の向こうへ思いを馳せた。
(今頃、陛下も上手くやっているかしら)
宰相親子はこれでおしまいだ。
ついにやり遂げた大きな達成感。そして、これでヤンジンとの契約が終わるという寂寥感。
その寂しさの正体が何なのか、ミンジュはもう気づいていた。


