そしてついに、エニスを母国へ帰す日がやってきた。
「エニス様は原因不明の急病で臥せっているらしい」
「なんでも病状の重い劇症型で、命が危ぶまれているとか……」
不穏な噂が流れ、それを侍医が認めたものだから後宮は重苦しい雰囲気に包まれた。
「あれだけミンジュ様に虐められれば、心労で病気になってもおかしくはない」
「いや、ミンジュ様が毒でも盛ったのではないか?」
そんなことまで囁かれるようになり、機が熟したところでエニスの訃報が発表された。
伝染する恐れがあるため、遺体は樽に入れて密閉し夜半にひっそり後宮を出るという。
弔いすら許されず、後宮の面々はエニスの愛らしい笑顔を思い出して涙した。
夜の帳が下りると、エニスの入った樽がひっそり後宮の裏門から運び出される。
作業をする下女たちは感染を恐れ、皆口元を布で覆っていた。
ミンジュはこっそりその中に紛れ込み、一緒に樽を持ち上げる。
灯りは松明のみ。顔は布で覆っている。
(バレっこないわ。なんといっても、元平民だもの。高貴な気も持ち合わせていないし!)
エニス付きの女官が樽とともに荷台に乗る。彼女にはエニスを具亜王国まで無事に送り届けてもらわなくてはならない。
荷台を裏門の外まで押し、轅を用意されていた牛につないだ。
暗くてよくわからないが、外で待っていた男性の作業員の中に怪しい人物がいるとミンジュは気付いた。
所作がどう見ても、このような作業に従事する人足のそれではない。
(あの男、気を消すのが下手ね……)
宰相派が何かを嗅ぎつけて、エニスが本当に死んでいるのか確かめろと命じられたのかもしれない。
ミンジュに緊張が走る。
(エニスを入れた樽を途中まで見守る判断は、まちがっていなかったようだわ)
「わたしが牛を引きましょう」
ミンジュが手綱を握ると、すかさずその男も近寄ってきた。
「俺も手伝おう。ふたりで十分だから、あとは任せてくれ」
ほかの作業員たちと別れ、牛がゆっくり歩きだす。
ミンジュは男の声に聞き覚えがありすぎて、大きなため息をついた。
「陛下、何をされているのです?」
小声で囁き、隣を歩く男に視線を送る。
ミンジュと同じく口元を布で覆い質素な旅装束に身を包んでいるが、まちがいなくヤンジンだ。
「おまえこそ何をしているんだ」
ヤンジンは笑いを含んだ声で返してきた。
「心配だったのです。誰かに見守りを頼むわけにもいきませんし」
秘密を知る者は少ないほうがいい。
「ああ、俺もだ」
ミンジュは思わずプッと吹き出した。
荷台を引く牛はゆっくり進み、明け方には都の外壁へ辿り着いた。
本来ならば閉門している時間帯だが、女官が書状を見せると衛兵が門を開く。
さらに少し進んだところで、ヤンジンがあらかじめ手配していた馬が待っていた。
ここからは女官とエニス、ふたりきりの旅路となる。
国境まで行けば、具亜王国の迎えがいるはずだ。
樽の蓋を開けるとエニスが顔を覗かせた。目立たぬよう、金髪を布で覆い平民に変装している。
ヤンジンがエニスを抱えて馬に載せる様子を、ミンジュは離れたところから見ていた。
万が一ミンジュだとバレてしまえば、エニスを怖がらせることになる。
憎まれ役は、一切の言い訳などせず憎まれ役のままでいい。
(どうか無事に国境へ辿り着けますように)
ミンジュは強く祈りながら、昇りはじめた朝陽に照らされて駆けていくエニスと女官を見送った。
「さあ、帰るぞ」
いつの間にか別の馬に跨っていたヤンジンが、ミンジュへ手を伸ばす。
どうやら彼は、自分が乗る馬も手配していたようだ。
「ええっと……」
「乗らないのか? おまえはどうやって後宮に戻るつもりだったんだ?」
ミンジュは、そこまであまり深く考えていなかった。
後宮にいる妃嬪は、特別な許可がない限り供給の外へ出てはいけないことになっている。
しかしミンジュは表向き皇帝陛下から特別扱いされているから、門で顔を見せて陛下を呼べと言えばどうとでもなるだろうと思っていたのだ。
こうなった以上、共に帰るのが最善策だろう。
「一緒に乗せてください」
ミンジュは口元を覆う布を解き、ヤンジンの手を取った。
馬上でミンジュがぽつりと漏らす。
「わたしには事故死した妹がいるのです……」
どうしてこんなにも感傷的になっているのか自分でもわからなくなり、そこで口を噤んだ。
「安心しろ、途中にも影の者たちを手配している。エニスは無事に国境まで行けるはずだ」
「はい」
ミンジュの胸がじんわりと温かくなった。
到着した後宮の門では、当然ひと悶着あった。
外出した記録のない皇帝と妃が馬に乗って戻ってきたのだ。何事かと騒ぎになるのも頷ける。
「こっそりふたりで遠乗りをしてきた」
「とても楽しかったですわ」
ミンジュは微笑みを浮かべてヤンジンにしなだれかかる。
ふたりのみすぼらしい身なりに面食らってオロオロしている門番の後ろから、宦官長がやってくる。
その目は冷え切っており、顔には『世話の焼ける人たちですね』と書いてあるかのように見えて、ミンジュは内心震えあがった。
皇帝の衝動的な遠乗りの一件は、後宮に嵐を巻き起こした。
後宮全体がエニスの訃報を静かに受け止めようとしていたその夜に、ミンジュにそそのかされた皇帝が深夜にこっそり馬の遠乗りを楽しんでいた。
『皇帝陛下ご乱心』と言われても不思議ではない。
そしてこの三日後、ミンジュは宰相の娘・リンファから茶会の招待を受けたのだった。
「エニス様は原因不明の急病で臥せっているらしい」
「なんでも病状の重い劇症型で、命が危ぶまれているとか……」
不穏な噂が流れ、それを侍医が認めたものだから後宮は重苦しい雰囲気に包まれた。
「あれだけミンジュ様に虐められれば、心労で病気になってもおかしくはない」
「いや、ミンジュ様が毒でも盛ったのではないか?」
そんなことまで囁かれるようになり、機が熟したところでエニスの訃報が発表された。
伝染する恐れがあるため、遺体は樽に入れて密閉し夜半にひっそり後宮を出るという。
弔いすら許されず、後宮の面々はエニスの愛らしい笑顔を思い出して涙した。
夜の帳が下りると、エニスの入った樽がひっそり後宮の裏門から運び出される。
作業をする下女たちは感染を恐れ、皆口元を布で覆っていた。
ミンジュはこっそりその中に紛れ込み、一緒に樽を持ち上げる。
灯りは松明のみ。顔は布で覆っている。
(バレっこないわ。なんといっても、元平民だもの。高貴な気も持ち合わせていないし!)
エニス付きの女官が樽とともに荷台に乗る。彼女にはエニスを具亜王国まで無事に送り届けてもらわなくてはならない。
荷台を裏門の外まで押し、轅を用意されていた牛につないだ。
暗くてよくわからないが、外で待っていた男性の作業員の中に怪しい人物がいるとミンジュは気付いた。
所作がどう見ても、このような作業に従事する人足のそれではない。
(あの男、気を消すのが下手ね……)
宰相派が何かを嗅ぎつけて、エニスが本当に死んでいるのか確かめろと命じられたのかもしれない。
ミンジュに緊張が走る。
(エニスを入れた樽を途中まで見守る判断は、まちがっていなかったようだわ)
「わたしが牛を引きましょう」
ミンジュが手綱を握ると、すかさずその男も近寄ってきた。
「俺も手伝おう。ふたりで十分だから、あとは任せてくれ」
ほかの作業員たちと別れ、牛がゆっくり歩きだす。
ミンジュは男の声に聞き覚えがありすぎて、大きなため息をついた。
「陛下、何をされているのです?」
小声で囁き、隣を歩く男に視線を送る。
ミンジュと同じく口元を布で覆い質素な旅装束に身を包んでいるが、まちがいなくヤンジンだ。
「おまえこそ何をしているんだ」
ヤンジンは笑いを含んだ声で返してきた。
「心配だったのです。誰かに見守りを頼むわけにもいきませんし」
秘密を知る者は少ないほうがいい。
「ああ、俺もだ」
ミンジュは思わずプッと吹き出した。
荷台を引く牛はゆっくり進み、明け方には都の外壁へ辿り着いた。
本来ならば閉門している時間帯だが、女官が書状を見せると衛兵が門を開く。
さらに少し進んだところで、ヤンジンがあらかじめ手配していた馬が待っていた。
ここからは女官とエニス、ふたりきりの旅路となる。
国境まで行けば、具亜王国の迎えがいるはずだ。
樽の蓋を開けるとエニスが顔を覗かせた。目立たぬよう、金髪を布で覆い平民に変装している。
ヤンジンがエニスを抱えて馬に載せる様子を、ミンジュは離れたところから見ていた。
万が一ミンジュだとバレてしまえば、エニスを怖がらせることになる。
憎まれ役は、一切の言い訳などせず憎まれ役のままでいい。
(どうか無事に国境へ辿り着けますように)
ミンジュは強く祈りながら、昇りはじめた朝陽に照らされて駆けていくエニスと女官を見送った。
「さあ、帰るぞ」
いつの間にか別の馬に跨っていたヤンジンが、ミンジュへ手を伸ばす。
どうやら彼は、自分が乗る馬も手配していたようだ。
「ええっと……」
「乗らないのか? おまえはどうやって後宮に戻るつもりだったんだ?」
ミンジュは、そこまであまり深く考えていなかった。
後宮にいる妃嬪は、特別な許可がない限り供給の外へ出てはいけないことになっている。
しかしミンジュは表向き皇帝陛下から特別扱いされているから、門で顔を見せて陛下を呼べと言えばどうとでもなるだろうと思っていたのだ。
こうなった以上、共に帰るのが最善策だろう。
「一緒に乗せてください」
ミンジュは口元を覆う布を解き、ヤンジンの手を取った。
馬上でミンジュがぽつりと漏らす。
「わたしには事故死した妹がいるのです……」
どうしてこんなにも感傷的になっているのか自分でもわからなくなり、そこで口を噤んだ。
「安心しろ、途中にも影の者たちを手配している。エニスは無事に国境まで行けるはずだ」
「はい」
ミンジュの胸がじんわりと温かくなった。
到着した後宮の門では、当然ひと悶着あった。
外出した記録のない皇帝と妃が馬に乗って戻ってきたのだ。何事かと騒ぎになるのも頷ける。
「こっそりふたりで遠乗りをしてきた」
「とても楽しかったですわ」
ミンジュは微笑みを浮かべてヤンジンにしなだれかかる。
ふたりのみすぼらしい身なりに面食らってオロオロしている門番の後ろから、宦官長がやってくる。
その目は冷え切っており、顔には『世話の焼ける人たちですね』と書いてあるかのように見えて、ミンジュは内心震えあがった。
皇帝の衝動的な遠乗りの一件は、後宮に嵐を巻き起こした。
後宮全体がエニスの訃報を静かに受け止めようとしていたその夜に、ミンジュにそそのかされた皇帝が深夜にこっそり馬の遠乗りを楽しんでいた。
『皇帝陛下ご乱心』と言われても不思議ではない。
そしてこの三日後、ミンジュは宰相の娘・リンファから茶会の招待を受けたのだった。


