事の発端は、ミンジュが入内した翌日。初のお渡りで起きた。
後宮に集う妃嬪の役目は、次代の世継ぎとなる男児を産むことだとミンジュも承知している。
初対面でいきなり閨を共にする流れになってもかまわない。その覚悟なら、後宮入りがきまった時からできていた。
(ようやくここへ辿り着いたのだもの。好きでもない男に純潔を捧げたって、どうってことないわ)
瑞国の若き皇帝・陽景は、ひとりでミンジュの宮を訪れた。
皇帝のみが着用を許される禁色の黄袍をまとい、腰に巻く玉帯には翡翠があしらわれている。
ヤンジンは、床に額をつけて挨拶をするミンジュの前を大股で通り過ぎ、長椅子へドカッと腰を下ろした。
微かに眉をひそめたミンジュは顔を上げると、鋭い視線とかち合って息を呑んだ。
事前に、ヤンジンは品行方正で優等生タイプのお坊ちゃまだと聞いていたが、誤情報だったのかもしれない。
榛色の目は猛禽類が獲物に狙いを定めたかのような威圧感を放ち、濡れ羽色の長髪をさらりと揺らして頬杖をついている。
鷹を前にした雀はこんな気持ちだろうか。
ゴクリと唾を呑み込む音がやたらと大きく聞こえる。
そんなミンジュに、彼は形のいい唇を片方だけ上げて笑った。
「良い目をしているな」
ヤンジンの言葉の意図がわからず、ミンジュは押し黙ったままだ。
しかしここで目を逸らせば、冗談ではなく本当に命を失うかもしれない。
ミンジュは頬をこわばらせ、息をするのも忘れてヤンジンを見つめつづけた。
「おまえと吏部尚書には、血の繋がりがないと聞いた」
「その通りでございます」
ミンジュはもともと、官吏登用試験を受けて採用された文官だった。
代替わりした皇帝が女性を登用する政策を推し進めていると聞き、田舎から上京して受験。登用後は、がむしゃらに働いた。
『これだから平民は』『女性はやはり感情的だな』『経験もない奴が偉そうに言うな』
いくら罵倒されても、歯を食いしばって耐えてきた。
「光栄なことに、働きぶりを買われて養女となりました」
中央政府を構成している六部のうち、官吏たちの任免や統括を行う官部。その長官である尚書を務めているのが、ミンジュの養父となった柳功太だ。
柳家の当主でもある彼には、皇帝へ差し出せる娘がいない。近い血筋にもちょうどいい娘がいなかったようで、どういう縁かミンジュに白羽の矢が立てられた。
働きぶりを見て根性があると見初められたのかもしれない。
なにせ後宮は、皇帝の寵愛を巡って妃嬪たちが凄まじい争いを繰り広げる伏魔殿だというではないか。
ミンジュは養子縁組の申し出をふたつ返事で了承し、入内を果たした。
『期待しているぞ』
後宮の頂点に上り詰めろとまでは言われなかった。
宰相派の妃嬪たちと仲良くし、彼女たちの味方になってほしいと言われたのだ。
瑞国の宰相は皇帝よりも権力を持っている。
先代の皇帝も、宰相の提案をすべて是として了承するだけのお飾りの存在だった。
いわゆる『傀儡皇帝』だ。
いまミンジュの目の前にいるヤンジンも、そうだと聞いていたのだが……。
ヤンジンはとんでもない提案をしてきた。
「俺と手を組まないか」
話が見えない。一体何を試されているのか——ミンジュは黒曜石のような瞳を揺らす。
ヤンジンは長椅子から下りると、床に手をついたままのミンジュの腕を引いた。
立ち上がった彼女の耳元へ、ヤンジンは低い声で囁いた。
「後宮をひっくり返してやろう」
ミンジュは小さく息を呑む。
(この人は、自分が傀儡皇帝でいることを良しとしていないのね……!?)
至近距離で見つめ合ったまま、ミンジュは静かに問うた。
「わたしは何をすればよいでしょう」
「俺が寵愛する振りをしてやるから、好きなように振る舞って宰相派の妃たちを追い出せ。上手くいった暁には命の保証をしてやる」
裏を返せば、上手くいかなかった場合は命はないと言いたいのだろう。
ミンジュはしばし目を伏せた後、ヤンジンを見つめ返して言い切った。
「それをお望みとあらば、見事な憎まれ役になりましょう」
わずかに目を見開いたヤンジンが差し出した手を、ミンジュはしっかりと握る。
こうして、ふたりの密約は成立したのだった。
******
こういうのを渡りに船と言うのだろう。
あらかじめ用意していた茶にも酒にも手を付けずにヤンジンが帰った後、ミンジュはようやく肩の力を抜いた。
心臓の鼓動はまだ大きいままだ。
ミンジュが後宮へ来た目的は、皇帝からの寵愛を受けることではなかった。
十二年前、ミンジュの妹が牛車の大きな車輪に巻き込まれて命を落とした。うっかり飛び出した先に牛車が迫っていたのだ。
驚いて転んでしまった妹の細い腕が車輪の下敷きになった。
そこで救出する猶予を与えてくれれば、妹は腕の骨折だけで済んでいただろう。
しかし中に乗っていた男性は、窓からチラリと顔を覗かせると、泣き叫ぶ妹を見て舌打ちをした。
『無礼な平民など轢き殺してかまわん。そのまま進め』
当時のミンジュは八歳、妹は四歳。
何もできぬまま、ただ妹の背中を押しつぶすように乗り上げて進んでいく車輪を、身を震わせて見ているだけだった。
周りの大人たちも皆、黙って目を逸らしていた。
あの凄惨な光景は、ミンジュの瞼の裏にずっと焼き付いている。どうして助けられなかったのかという自責の念とともに。
後から、妹を轢き殺した身分の高そうな男が宰相であると知った。
皇帝の巡幸に付き添ってミンジュの暮らす田舎を訪れていたのだ。
妹はその一行を邪魔した無礼者にされ、両親も村長もむしろ平身低頭で謝罪をして許しを乞うたらしい。
平民の命など、高貴な者たちにとっては虫けら同然だ。
それはよくわかっているけれど、それでもそんな世の中が、妹を死に至らしめた宰相がどうしても許せなかった。
『いつか復讐してやる……!』
ミンジュがずっと胸に秘めていたどす黒い感情は、女性も官吏登用試験を受けられるようになったとのお触れで再燃した。
もともと、妹を見殺しにした両親もこの村も捨ててひとりで生きて行こうと思っていた。
独学ではあるが、そのための勉強もしていたミンジュにとって、登用試験は一筋の光明だったのだ。
見事合格し中央官吏として働きはじめたものの、下っ端の官吏が趙宰相と直接まみえる機会などない。
それでもいつかはと己を奮起させながらがむしゃらに仕事をしていた彼女へ、降ってわいたような養子縁組の打診がきた。
後宮に送れそうな若い娘がいない柳家は、周囲の『うちの娘もぜひ後宮に!』という色めき立った雰囲気がうらやましかったのだろう。
養父に言わせると、ミンジュは『これまで後宮にはいなかったタイプ』らしい。
それはそうだろう。田舎者の元官吏なのだから。
彼の『期待しているぞ』の言葉がどこまで本心なのかはわからない。
誰かを後宮に送り込み話題を共有できたことで、一定の満足感は得ただろう。あとは平民出身のミンジュが虐めにあおうが皇帝から冷遇されようが知ったことではないと思っていそうな節がある。
それでもミンジュにとっては、願ってもない僥倖だった。
直接宰相に会えなくとも、後宮を滅茶苦茶にしてやれば復讐になるかもしれない。
養父の柳家に迷惑がかかるかもしれないが、それこそ知ったことではない。
そう決意して入内したミンジュに、ヤンジンから俄かには信じがたい提案がなされたのだ。
「なにこれ……」
夢ではないのだとしたら、一生分の幸運を使い果たしたようなご褒美にちがいない。
ヤンジンの目的は、傀儡皇帝から脱するために宰相を排除したい。
ミンジュの目的は、宰相にひと泡吹かせてやりたい。
奇しくも標的が一致したのだ。
「やってやろうじゃないの」
ミンジュは武者震いする手を握りしめた。
後宮に集う妃嬪の役目は、次代の世継ぎとなる男児を産むことだとミンジュも承知している。
初対面でいきなり閨を共にする流れになってもかまわない。その覚悟なら、後宮入りがきまった時からできていた。
(ようやくここへ辿り着いたのだもの。好きでもない男に純潔を捧げたって、どうってことないわ)
瑞国の若き皇帝・陽景は、ひとりでミンジュの宮を訪れた。
皇帝のみが着用を許される禁色の黄袍をまとい、腰に巻く玉帯には翡翠があしらわれている。
ヤンジンは、床に額をつけて挨拶をするミンジュの前を大股で通り過ぎ、長椅子へドカッと腰を下ろした。
微かに眉をひそめたミンジュは顔を上げると、鋭い視線とかち合って息を呑んだ。
事前に、ヤンジンは品行方正で優等生タイプのお坊ちゃまだと聞いていたが、誤情報だったのかもしれない。
榛色の目は猛禽類が獲物に狙いを定めたかのような威圧感を放ち、濡れ羽色の長髪をさらりと揺らして頬杖をついている。
鷹を前にした雀はこんな気持ちだろうか。
ゴクリと唾を呑み込む音がやたらと大きく聞こえる。
そんなミンジュに、彼は形のいい唇を片方だけ上げて笑った。
「良い目をしているな」
ヤンジンの言葉の意図がわからず、ミンジュは押し黙ったままだ。
しかしここで目を逸らせば、冗談ではなく本当に命を失うかもしれない。
ミンジュは頬をこわばらせ、息をするのも忘れてヤンジンを見つめつづけた。
「おまえと吏部尚書には、血の繋がりがないと聞いた」
「その通りでございます」
ミンジュはもともと、官吏登用試験を受けて採用された文官だった。
代替わりした皇帝が女性を登用する政策を推し進めていると聞き、田舎から上京して受験。登用後は、がむしゃらに働いた。
『これだから平民は』『女性はやはり感情的だな』『経験もない奴が偉そうに言うな』
いくら罵倒されても、歯を食いしばって耐えてきた。
「光栄なことに、働きぶりを買われて養女となりました」
中央政府を構成している六部のうち、官吏たちの任免や統括を行う官部。その長官である尚書を務めているのが、ミンジュの養父となった柳功太だ。
柳家の当主でもある彼には、皇帝へ差し出せる娘がいない。近い血筋にもちょうどいい娘がいなかったようで、どういう縁かミンジュに白羽の矢が立てられた。
働きぶりを見て根性があると見初められたのかもしれない。
なにせ後宮は、皇帝の寵愛を巡って妃嬪たちが凄まじい争いを繰り広げる伏魔殿だというではないか。
ミンジュは養子縁組の申し出をふたつ返事で了承し、入内を果たした。
『期待しているぞ』
後宮の頂点に上り詰めろとまでは言われなかった。
宰相派の妃嬪たちと仲良くし、彼女たちの味方になってほしいと言われたのだ。
瑞国の宰相は皇帝よりも権力を持っている。
先代の皇帝も、宰相の提案をすべて是として了承するだけのお飾りの存在だった。
いわゆる『傀儡皇帝』だ。
いまミンジュの目の前にいるヤンジンも、そうだと聞いていたのだが……。
ヤンジンはとんでもない提案をしてきた。
「俺と手を組まないか」
話が見えない。一体何を試されているのか——ミンジュは黒曜石のような瞳を揺らす。
ヤンジンは長椅子から下りると、床に手をついたままのミンジュの腕を引いた。
立ち上がった彼女の耳元へ、ヤンジンは低い声で囁いた。
「後宮をひっくり返してやろう」
ミンジュは小さく息を呑む。
(この人は、自分が傀儡皇帝でいることを良しとしていないのね……!?)
至近距離で見つめ合ったまま、ミンジュは静かに問うた。
「わたしは何をすればよいでしょう」
「俺が寵愛する振りをしてやるから、好きなように振る舞って宰相派の妃たちを追い出せ。上手くいった暁には命の保証をしてやる」
裏を返せば、上手くいかなかった場合は命はないと言いたいのだろう。
ミンジュはしばし目を伏せた後、ヤンジンを見つめ返して言い切った。
「それをお望みとあらば、見事な憎まれ役になりましょう」
わずかに目を見開いたヤンジンが差し出した手を、ミンジュはしっかりと握る。
こうして、ふたりの密約は成立したのだった。
******
こういうのを渡りに船と言うのだろう。
あらかじめ用意していた茶にも酒にも手を付けずにヤンジンが帰った後、ミンジュはようやく肩の力を抜いた。
心臓の鼓動はまだ大きいままだ。
ミンジュが後宮へ来た目的は、皇帝からの寵愛を受けることではなかった。
十二年前、ミンジュの妹が牛車の大きな車輪に巻き込まれて命を落とした。うっかり飛び出した先に牛車が迫っていたのだ。
驚いて転んでしまった妹の細い腕が車輪の下敷きになった。
そこで救出する猶予を与えてくれれば、妹は腕の骨折だけで済んでいただろう。
しかし中に乗っていた男性は、窓からチラリと顔を覗かせると、泣き叫ぶ妹を見て舌打ちをした。
『無礼な平民など轢き殺してかまわん。そのまま進め』
当時のミンジュは八歳、妹は四歳。
何もできぬまま、ただ妹の背中を押しつぶすように乗り上げて進んでいく車輪を、身を震わせて見ているだけだった。
周りの大人たちも皆、黙って目を逸らしていた。
あの凄惨な光景は、ミンジュの瞼の裏にずっと焼き付いている。どうして助けられなかったのかという自責の念とともに。
後から、妹を轢き殺した身分の高そうな男が宰相であると知った。
皇帝の巡幸に付き添ってミンジュの暮らす田舎を訪れていたのだ。
妹はその一行を邪魔した無礼者にされ、両親も村長もむしろ平身低頭で謝罪をして許しを乞うたらしい。
平民の命など、高貴な者たちにとっては虫けら同然だ。
それはよくわかっているけれど、それでもそんな世の中が、妹を死に至らしめた宰相がどうしても許せなかった。
『いつか復讐してやる……!』
ミンジュがずっと胸に秘めていたどす黒い感情は、女性も官吏登用試験を受けられるようになったとのお触れで再燃した。
もともと、妹を見殺しにした両親もこの村も捨ててひとりで生きて行こうと思っていた。
独学ではあるが、そのための勉強もしていたミンジュにとって、登用試験は一筋の光明だったのだ。
見事合格し中央官吏として働きはじめたものの、下っ端の官吏が趙宰相と直接まみえる機会などない。
それでもいつかはと己を奮起させながらがむしゃらに仕事をしていた彼女へ、降ってわいたような養子縁組の打診がきた。
後宮に送れそうな若い娘がいない柳家は、周囲の『うちの娘もぜひ後宮に!』という色めき立った雰囲気がうらやましかったのだろう。
養父に言わせると、ミンジュは『これまで後宮にはいなかったタイプ』らしい。
それはそうだろう。田舎者の元官吏なのだから。
彼の『期待しているぞ』の言葉がどこまで本心なのかはわからない。
誰かを後宮に送り込み話題を共有できたことで、一定の満足感は得ただろう。あとは平民出身のミンジュが虐めにあおうが皇帝から冷遇されようが知ったことではないと思っていそうな節がある。
それでもミンジュにとっては、願ってもない僥倖だった。
直接宰相に会えなくとも、後宮を滅茶苦茶にしてやれば復讐になるかもしれない。
養父の柳家に迷惑がかかるかもしれないが、それこそ知ったことではない。
そう決意して入内したミンジュに、ヤンジンから俄かには信じがたい提案がなされたのだ。
「なにこれ……」
夢ではないのだとしたら、一生分の幸運を使い果たしたようなご褒美にちがいない。
ヤンジンの目的は、傀儡皇帝から脱するために宰相を排除したい。
ミンジュの目的は、宰相にひと泡吹かせてやりたい。
奇しくも標的が一致したのだ。
「やってやろうじゃないの」
ミンジュは武者震いする手を握りしめた。


