ならば憎まれ役になりましょう~傀儡皇帝との秘密の盟約~

 ヤンジンにとって、こんな速さで走るのは生まれて初めての体験だった。
 世継ぎ候補として幼い頃から大事に育てられてきた。己の足を動かして全速力で駆けまわる経験などない。
 思うように速く走れぬ体たらくがもどかしくてたまらない。
 
 髪を乱し喘ぐように大きく呼吸しながらミンジュの宮に飛び込んだ。
 そんなヤンジンの姿に、シージェンが目を剥いている。
「へ、陛下……!」
 ヤンジンはシージェンの声が聞こえぬかのように、真っすぐミンジュの寝房へと向かう。
 毎晩通った勝手知ったる場所だ。

 中へ入るとミンジュは寝台に寝かされていた。
 顔色は悪くないように見えるが、瞼を閉じたまま動かない。
「ミンジュ?」
 ヤンジンは不安に駆られながら近づいた。

 普段の彼女がどれほどひどい寝相であるかを知っている。
 それなのに……。
「ミンジュ」
 もう一度名を呼び、震えそうになる指先で頬を撫でる。
 温もりと規則正しい呼吸を感じて、ヤンジンはようやく肩の力を抜いた。
 
「眠っているだけなのか?」
 体を屈めてミンジュの顔を覗き込んだヤンジンは、まるで吸い寄せられるように唇を重ねた。

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 唇に柔らかくてあたたかい感触がして、ミンジュは目を覚ました。
 ぼんやりとした視界に長い睫毛が見える。
「うわあっ!」
 ミンジュは飛び起きて、覆いかぶさるヤンジンの肩を押した。
「うわっ!」
 驚いたヤンジンが後ずさる。
 
「情緒のないやつだな」
 ヤンジンはムスっとしているが、怒りたいのはこちらのほうだ。
「な、な、何をされていたのですか!?」
 まだ唇に残る感触に、ミンジュの心臓はあり得ないほど大きな音を立てている。

「なんとなく……したくなった」
 まるでイタズラを咎められた少年のようにそっぽを向いて、ヤンジンがもごもご言い訳を続けた。
「毒を塗った刃で怪我をしたと聞いて、ミンジュが死んでしまうのではないかと怖かった」

 きっと伝令が焦っておかしな言い方をしたにちがいない。
 刃物で怪我をしたのはリンファだけだ。彼女は女官と共に拘束された。回復を待って取り調べが行われるだろう。
 養父からの荷物をリンファに渡した協力者もいるはずだ。
 宦官長は、一網打尽にしてやると張り切っていた。
 
「わたしが死にかけていると思ったのですか? ぐっすり寝ていただけです」
「いつもはあんなに寝相が悪いのに、微動だにせず寝ていただろう」
 ヤンジンは、ばつの悪そうな顔をして反論してくる。

「あれは……」
「あれは何だ?」
 攻守が交代して今度はミンジュが口ごもった。
 
「陛下との共寝にどうにもドキドキしてしまって、ずっと寝不足だったのです」
 リンファとの争いに決着がついたことで肩の荷が下りたのか、あの後急に眠気に襲われてひと休みしていただけだ。
 昨日までは眠りが浅く、ドタバタ寝返りを打って暴れていたのだろう。

 正直に白状すると、ヤンジンは声を立てて笑った。
「つまり、俺を意識して眠れなかったってことか」
「まあ、そういうことになりますね」
 こんなに麗しい顔がすぐ近くにあってドキドキしないほうがどうかしていると思う。

 ミンジュの言い分に満足したのか、ヤンジンはいつもの余裕を取り戻した。
「これで契約は任期満了だ」
「そうですよね……」
 ミンジュらしからぬ、か細い声が出た。
 
(わたしは何を期待していたんだろう)
 先ほどの口づけは、別れの挨拶だったのかもしれない。
 目を伏せ、手首に残った縄の痕を撫でようとしたら、その手をヤンジンに取られた。
「なんだこれは」
「ちょっとした行き違いがあって、縄で縛られたのです」
 途端にヤンジンの顔が険しくなる。

「大丈夫です。誤解は解けましたので」
「大丈夫なものか。痛々しくて俺のほうがどうにかなりそうだ」
 そう言うや否や、ヤンジンが赤く腫れた手首に唇を寄せた。
 
 上目遣いのヤンジンの凄まじい色香に当てられたミンジュは、ただ言葉を失って固まっている。
 そんな彼女を、ヤンジンは優しく抱き寄せた。

「これからは契約に縛られずにおまえを寵愛するから、覚悟することだな」
「お、お手柔らかにお願いします!」
「相変わらず情緒のないやつだ」
 
 ふたりの唇がそっと重なった。