ならば憎まれ役になりましょう~傀儡皇帝との秘密の盟約~

「まともな挨拶もできないの!?」
 四阿(あずまや)に置かれた香炉から立ち上る白檀の煙が、柳明珠(リュウミンジュ)の叱責で揺れた。

 大陸の中央に位置する(ルイ)国の首都・豊連(フォンリェン)
 その中央からやや北側にある後宮に、ミンジュのよく通る声が響き渡る。

「『オハヨゴザマス』ではないでしょう? 『おはようございます』と、ちゃんと言いなさいな!」
 ミンジュの攻撃の的になっているのは、幼い少女エニス。
 少し赤みがかった金髪と青い目、十歳にしてすでに目鼻立ちのくっきりした顔は、エニスが異国の出身であることを表している。
 そんな彼女もれっきとした皇帝の妃嬪のひとりだ。

 二十歳のミンジュとは体格差がある上、威圧感のある大きな目で睨まれたエニスは、すくみ上って震えている。
 朝の散歩中、蓮の花を見ようと向かった池の四阿で鉢合わせた。無視するわけにもいかず、エニスがたどたどしい言葉で挨拶したところ、ミンジュが烈火のごとく怒りだしたのだ。
「ここへ来てもう一年もたつのでしょう? いつになったら瑞国の言葉をきちんと話せるようになるのかしら!」
 眉を吊り上げて吠えまくるミンジュが何を言っているのか、幸か不幸かエニスには半分ほどしかわからない。

 青い目いっぱいに涙を浮かべて震えるエニスを、お付きの女官が抱きしめた。
「ミンジュ様、大変失礼いたしました。エニス様は語学習得に向けて鋭意努力中でございますゆえ、どうぞご容赦を!」
「もっとしっかり教育してちょうだい。まったく無能ばっかりなんだから」
 ミンジュはふたりをきつく睨みつけ冷たく言い放つと、フンッと鼻を鳴らして踵を返した。

 池の周辺にはほかにも妃嬪や女官たちがいるが、誰もミンジュと目を合わせようとしない。
 標的にされようものなら、どんな言いがかりをつけて罵倒されるかわかったものではないと思っているのだろう。
 清く美しい花を咲かせる池の清涼な雰囲気を台無しにした自覚なら、ミンジュにだってある。
 子ども相手に随分と大人げない態度をとったとわかってもいる。

 その場に居合わせた一部の者は、扇子で口元を隠しながらも嘲るような冷笑を浮かべていた。
 つい最近、後宮へ入内してきたばかりの平民あがりが何を粋がっているのかと、胸の内でミンジュを侮蔑しているのだろう。

 その通り、ミンジュは今でこそ六部のひとつである吏部の長官を務める柳家の姓を名乗っているが、元は平民だ。
 貴族出身の妃嬪たちにとっては、平民などゴミも同然。
 しかし——。

「お生憎様。わたし、陛下からの寵愛を一身に受けているんですもの」
 聞こえよがしに言ったミンジュは、皇帝から賜った翡翠の簪を見せつけるように首を傾ける。
 目が合った妃たちに嫣然と微笑んで、その場をあとにした。

 自分の宮へと戻り、足早に寝房へ入ったミンジュは、ようやく本音を吐き出した。
「あんなに可愛らしい子を虐めて追い出せ? あいつ、なに考えてるのよ!」
 扉に背中を預けて両手で顔を覆う。
 エニスの金髪は朝陽を浴びてキラキラ輝き、潤んだ青い目は宝石のようだった。本当は『なんて可愛らしいの!』と抱きしめて、あの子を穢そうとするすべてのものから守ってやりたいと思うほど庇護欲をそそられたというのに。
 エニスを罵倒した先ほどの自分を、ボッコボコに殴って池に沈めてやりたい。
 ミンジュは爪が食い込むほど強く拳を握りしめた。

「仕方ないわ……契約は契約だもの」
 後戻りはできないと己に言い聞かせる。
 皇帝と密約を交わし、憎まれ役になるときめたのだから。