17歳、住所不定。

 窓を開けると、摘みたてのハーブのような、清らかで澄んだ空気が部屋に入り込んできた。半袖の制服だけでは肌寒く、そろそろ長袖の出番だとクローゼットの奥から羽織を一枚取り出す。少しずつ変わっていく空気に、朝比奈紬(あさひなつむぎ)は季節の訪れを感じた。
 部屋を出て、廊下を歩き、階段を下りる。キッチンには、すでに家族の気配があった。食器の触れ合う音や、朝の会話が静かな部屋に広がっている。その中には、テレビから流れるニュースの声も混じっていた。
「おはよう、紬。今日は早いね」
「うん。なんとなく目が覚めちゃって……嫌な夢、見たから」
 心配そうにこちらを見る母に気づかないふりをして、私は食卓に着いた。テレビに目を向けたままの父に「おはよう」と言うと、父はコーヒーを一口啜り、「ん」と短く返した。こんなに無愛想な父と、そんな父を受け入れる母は、どうして結婚したのだろう。物心ついた頃から気になっていて、ある日、母に尋ねたことがある。
「んーと……忘れちゃった」
 曖昧に笑う母の顔を見て、たぶん本当に忘れたわけではないのだと思った。
 何も語らない父を前に、私は黙々と箸を動かしながら、ぼんやりと流れるテレビの音に耳を傾けていた。意識して聞いていたわけではない。それでも、ニュースの言葉だけが少しずつ、静かな食卓の中に入り込んできた。
 川辺で身元不明の遺体が発見されたこと、未成年の神崎蓮(かみざきれん)が行方不明になったこと、いじめを受けていた登坂花梨(とうさかかりん)が学校の屋上から飛び降りたこと、作家の塚本雄二(つかもとゆうじ)が失踪してしまったこと。
「物騒なニュースばかりね」
 味噌汁の入った椀を静かに置きながら母が呟いた。「いじめ」という言葉に、私はわずかに反応してしまった。まるで、鍵をかけて誰にも見せないようにしていた日記を、勝手に開かれてしまったような感覚だった。忘れたつもりで、いや、忘れたふりをして、心の奥底に押し込めていた記憶。その蓋を、不意に開けられたような気がした。
 胸がざわつく。理由を探そうとしても、うまく言葉にはできなかった。ただ、もう触れることはないと思っていた過去が、静かにこちらを見返しているようだった。
 椅子を引いて、立ち上がる。食器を流しに置くと、母が「いってらっしゃい」と声をかけてくれた。その優しさが、今は少しだけ苦しかった。
  普段よりも少しだけ早い朝の道は、妙に長く感じた。いつもなら気にも留めない景色が、今日はなぜかゆっくり流れていくようだった。橋の下で丸まって眠る少年を見つけたのは、そのせいかもしれない。
 川のせせらぎや風に揺れる草の音に紛れ、小さな寝息だけが静かに朝の空気へ溶け込んでいる。色あせたパーカーを毛布代わりに肩まで引き寄せた少年は、まるで世界から切り離された場所で眠っているように見えた。
 思わず立ち止まる。見知らぬ誰かのはずなのに、その寝顔にはどこか放っておけないものがあった。
「あのー……大丈夫、ですか?」
 恐る恐る声をかけたが返事はない。聞こえなかったのだと思い、少しだけ距離を縮めようと一歩踏み出した。枯れ葉を踏む乾いた音が、思いのほか大きく響く。
 音に反応したのか、少年の肩がぴくりと震えた。ゆっくりとまぶたが開き、警戒するような視線がこちらへ向けられる。寝起きとは思えないほど鋭い目つきに、私は思わず足を止めた。
「あ……ご、ごめんなさい。驚かせるつもりじゃなくて」
 慌てて両手を軽く振ると、少年は何も言わずに私を見つめたまま、ゆっくりと上半身を起こした。辺りを見回し、気まずそうに視線を伏せながら言った
「ちょうど起きるつもりだったから、大丈夫」
 少年は笑った。どこか遠慮がちで、少しだけ寂しそうで、それでも相手を安心させようとするように。朝の風が橋の下を吹き抜け、川面を揺らす。その風が、春嵐のようでしかたがなかった。その理由を考えることもなく、私はもう一歩だけ少年との距離を縮めていた。