17歳、住所不定。

 水道橋の下から見る朝陽が、川面をゆっくりと金色に染めていく。時刻を確認すると午前四時を過ぎていた。
「眠れなかったのか」
 振り向くと、昨日の夜に出会った男が、段ボールを畳みながらこちらを見ていた。
 さまよっていた末に辿り着いた土手の道路脇で、その男はうずくまっていた。最初は酔っているのかと思ったが、近づいて声をかけると、かすれた声で「腹が減って、少し動けなくなっただけだ」と笑った。「よかったら」そう言いながら、手にぶら下げていたコンビニの袋を差し出した。中には、買ったものの手をつけずに残っていた菓子パンと、水が入っていた。
 男はしばらく袋を見つめたあと、深く頭を下げてからゆっくりと受け取った。
 それが、このホームレスとの出会いだった。夜の闇の中では年齢など分からなかったが、朝陽に照らされた顔を見て驚いた。勝手にもっと年老いた男を想像していたのに、実際の男は思っていたより若かった。
「……まあ、眠れなくて」
 男は「そうか」とだけ答え、缶コーヒーを一本放り投げてよこした。それを慌てて受け止める。
「朝は冷える。飲んどけ」
 この橋の下で夜を明かす者にとって、朝陽は目覚まし時計の代わりなのだろう。男は古びたアルミのマグカップを手に取ると、川辺へ向かった。慣れた手つきで水を汲み、拾い集めた木片を並べて小さな火を起こす。やがて炎の上に置かれたマグカップから、かすかな湯気が立ち上った。ここで何度も朝を迎えてきたのだろう。その一連の動作には迷いがなく、まるで自分の家の台所で湯を沸かしているようだった。そんな姿を横目で見ながら、川面へ視線を戻した。
 男は佐伯と名乗った。元会社員だということ以外、僕はまだ何も知らない。
 缶コーヒーのプルタブを開けて啜る。冷えた身体に少しだけ温かさが広がった。
「家出か?」
 不意に佐伯が言った。
「……なんでそう思うんですか」
「こんな時間に、こんな場所でひとり座ってる奴は、だいたい訳ありだ」
「……まあ、そんなところです」
「早く仲直りして……いや、何でもない」
 自分でも忘れかけていた額の痣に佐伯の視線が止まると、彼は何かを察したように口をつぐみ、それ以上は尋ねようとしなかった。
「金はあるのか?」
「……少しは」
 心もとない返事だと自分でも思った。佐伯は小さく息を吐き頷くと、後ろを指さして「見ろ」といった。促されるまま視線を向ける。
「あの白い看板、見えるか?『アラージュ』って書いてあるやつ。あれがビジホだ。ホテルならあれが一番安い。ネカフェがいいならもう奥にある三件目のやつにしろ。あそこなら未成年でも比較的入りやすい。隣の、英語で『スター』って書いてある昭和レトロなやつ。あれが、この辺で一番安いラブホだ」
 言葉を選ぶように一瞬ためらったが、やがて静かに口を開いた。
「……できれば勧めたくはないが、最悪の場合、あそこに泊まれ」
「どうして、そこまで」
 昨日会ったばかりの、それも橋の下で暮らす男が、なぜここまで自分のことを気にかけるのか分からなかった。佐伯は少し黙り、火の向こうへ視線を落とした。
「飯のお礼だ」
 あまりにも素っ気ない答えだった。火の中で小さな木片が弾ける音だけが響く。何も言わず黙っていると、佐伯は気まずそうに視線を逸らし、ゆっくりと息を吐いた。
「……お前の指な、ここじゃ似合わないくらい、細くて綺麗なんだよ」
 思わず自分の手を見る。荒れた土や煤で汚れた佐伯の手とは違い、傷はあるものの、まだ守られてきた手だった。自分では気にも留めていなかった部分だった。
「何があったかは聞かん。だから、金があるうちに自分の答えを見つけてこい。困った時はこの橋の下に来い。俺は大体この辺りにいるから」
 ぶっきらぼうな言い方だった。けれど、それが佐伯なりの優しさなのだと、なぜか分かった。歯が欠けて、今だけはよかったと思った。でなければ、コンビニで買った菓子パンを全部食べていたかもしれない。そうしていたら、昨夜、土手でうずくまっていた佐伯に渡すものは何も残っていなかった。人の縁なんて、案外そんな小さな偶然で繋がるものなのかもしれない。
「わかったら、さっさと行け」
 その声には追い払う冷たさではなく、前へ進ませようとする不器用な気遣いが滲んでいた。僕は立ち上がり、佐伯を見る。そして深々と頭を下げた。
「……ありがとうございました……行ってきます」
 声が少し震えた。佐伯は何も言わなかった。ただ、目を見開いた。その表情は、驚いているようにも、何かを思い出しているようにも見えた。やがて佐伯は視線を炎へ戻し、「おう」と小さく返事した。それだけで、十分だった。