「帰って来い」という通知が、掌の中の画面に淡く浮かんだ。少年は何も見なかったように画面を伏せ、窓の外へ視線を移す。
月は、今にも落ちてきそうなほど大きく、完璧な円を夜空に浮かべていた。夜を縫うように走る電車の中で、少年は窓際の席に座り、後方へ流れていく街の灯りをぼんやりと眺めていた。
二度目の景色だった。
終点で降りると、向かいのホームに停まっていた折り返しの電車へ乗り換える。また終点まで揺られ、そうして辿り着いたのは、最初に乗った駅と同じ路線の、ひとつ先の終点だった。それでも少年は懲りることなく、反対側の電車へ乗り込み、変わることのない月を、ただ見上げている。
月光ソナタ。
ふと、その曲名が指先に浮かんだ。けれど、すぐに沈んでいった。
窓枠に肘を置き、頬杖をつく。頭を硝子に預けると、ひやりとした冷たさが額に伝わった。ジンジンと疼く痣には、最適の冷却材だった。
二つ折りの財布を開き、札が何枚あるか数えながら、今夜泊まる宿を考える。数日なら困らないだけの金は残っていた。けれど贅沢をする理由も、待つ相手もいなかった。どうせなら、ネットカフェやカラオケで時間をつぶすより、目覚めたときにその街を好きになれるような宿がいいと思った。だから一番安い宿ではなく、川の見える部屋をこれから探すことにした。母が「いい所ね」と目を細めて言いそうな、そんな場所に。
ガタンと、電車が大きく揺れて、冷たい硝子に押し当てていた額の痣へ、鈍い痛みが走った。
「……っ」
思わず息が漏れた。身体を起こし、頭をもたせかけていた窓を見る。そこには、疲れ切った顔をした知らない少年が映っていた。目の下には薄い影が落ち、何かを諦めたような目をしている。これが、かつて「神童」と呼ばれた自分だなんて、少年自身が一番信じられなかった。
車内を歩いていた老人が足を止め、ちらりとこちらを見た。目が合った気がして、慌ててうつむく。こんな時間の電車に、制服姿でもない十七歳ほどの少年が一人で乗っている。だからこそ、気にならない方が不自然だったのかもしれない。
「君」
掠れた声が降りてきて、少年はゆっくり顔を上げる。老人は六十代後半くらいに見えた。白髪混じりの髪を整え、くたびれた上着を着ている。片手には小さな鞄を持ち、歩くたび、革靴の音が静かな車内に響いた。
深く刻まれた皺のある顔と、その目元には、長い時間を過ごしてきた人らしい柔らかさがあった。少年を見つめる視線にも、詮索するようなものではなく、ただ静かに様子を見ているような温度がある。
「こんな時間に帰りか」
「……はい」
短く答えると、自分でも驚くほど小さな声になった。
老人は責めるでもなく、ただ「そうか」と頷いた。
電車は一定の揺れを繰り返しながら、暗い街の中を進んでいる。窓の外には流れる灯りが映り、少年の顔を一瞬照らしては消えていった。
「学生か?」
「……はい」
「名前は?」
「……雄二、です」
「そうか。雄二くんか」
頷いてから、その名前を舌の上で確かめるように、老人はもう一度つぶやいた。
「覚えた。もう遅いから、気をつけて帰れよ」
「……はい」
それ以上、尋ねることもく、ただ、少しだけ安心したような表情を浮かべた。革靴の音が、次第に遠ざかっていく。やがて扉が開き、その背中は隣の車両へと消えていった。
去ってしまった。もっと色々と聞かれるものだと思って身構えていたのに、あまりにもあっさりとした別れに、拍子抜けしてしまう。家はどこだ、親は心配していないのか、なぜこんな時間に乗っているのか、指の傷は、どうしたのか。
やがて、終点の到着を知らせるアナウンスが車内に流れた。車輪と線路が擦れる音が響いて、電車がゆっくりと速度を落としていく。その音は、最近になって鳴き始めた蝉よりもうるさいかもしれない。そんな取り留めのないことを、ぼんやりと考えていた。
月は、今にも落ちてきそうなほど大きく、完璧な円を夜空に浮かべていた。夜を縫うように走る電車の中で、少年は窓際の席に座り、後方へ流れていく街の灯りをぼんやりと眺めていた。
二度目の景色だった。
終点で降りると、向かいのホームに停まっていた折り返しの電車へ乗り換える。また終点まで揺られ、そうして辿り着いたのは、最初に乗った駅と同じ路線の、ひとつ先の終点だった。それでも少年は懲りることなく、反対側の電車へ乗り込み、変わることのない月を、ただ見上げている。
月光ソナタ。
ふと、その曲名が指先に浮かんだ。けれど、すぐに沈んでいった。
窓枠に肘を置き、頬杖をつく。頭を硝子に預けると、ひやりとした冷たさが額に伝わった。ジンジンと疼く痣には、最適の冷却材だった。
二つ折りの財布を開き、札が何枚あるか数えながら、今夜泊まる宿を考える。数日なら困らないだけの金は残っていた。けれど贅沢をする理由も、待つ相手もいなかった。どうせなら、ネットカフェやカラオケで時間をつぶすより、目覚めたときにその街を好きになれるような宿がいいと思った。だから一番安い宿ではなく、川の見える部屋をこれから探すことにした。母が「いい所ね」と目を細めて言いそうな、そんな場所に。
ガタンと、電車が大きく揺れて、冷たい硝子に押し当てていた額の痣へ、鈍い痛みが走った。
「……っ」
思わず息が漏れた。身体を起こし、頭をもたせかけていた窓を見る。そこには、疲れ切った顔をした知らない少年が映っていた。目の下には薄い影が落ち、何かを諦めたような目をしている。これが、かつて「神童」と呼ばれた自分だなんて、少年自身が一番信じられなかった。
車内を歩いていた老人が足を止め、ちらりとこちらを見た。目が合った気がして、慌ててうつむく。こんな時間の電車に、制服姿でもない十七歳ほどの少年が一人で乗っている。だからこそ、気にならない方が不自然だったのかもしれない。
「君」
掠れた声が降りてきて、少年はゆっくり顔を上げる。老人は六十代後半くらいに見えた。白髪混じりの髪を整え、くたびれた上着を着ている。片手には小さな鞄を持ち、歩くたび、革靴の音が静かな車内に響いた。
深く刻まれた皺のある顔と、その目元には、長い時間を過ごしてきた人らしい柔らかさがあった。少年を見つめる視線にも、詮索するようなものではなく、ただ静かに様子を見ているような温度がある。
「こんな時間に帰りか」
「……はい」
短く答えると、自分でも驚くほど小さな声になった。
老人は責めるでもなく、ただ「そうか」と頷いた。
電車は一定の揺れを繰り返しながら、暗い街の中を進んでいる。窓の外には流れる灯りが映り、少年の顔を一瞬照らしては消えていった。
「学生か?」
「……はい」
「名前は?」
「……雄二、です」
「そうか。雄二くんか」
頷いてから、その名前を舌の上で確かめるように、老人はもう一度つぶやいた。
「覚えた。もう遅いから、気をつけて帰れよ」
「……はい」
それ以上、尋ねることもく、ただ、少しだけ安心したような表情を浮かべた。革靴の音が、次第に遠ざかっていく。やがて扉が開き、その背中は隣の車両へと消えていった。
去ってしまった。もっと色々と聞かれるものだと思って身構えていたのに、あまりにもあっさりとした別れに、拍子抜けしてしまう。家はどこだ、親は心配していないのか、なぜこんな時間に乗っているのか、指の傷は、どうしたのか。
やがて、終点の到着を知らせるアナウンスが車内に流れた。車輪と線路が擦れる音が響いて、電車がゆっくりと速度を落としていく。その音は、最近になって鳴き始めた蝉よりもうるさいかもしれない。そんな取り留めのないことを、ぼんやりと考えていた。


