珊瑚礁

 午後三時を少し過ぎた頃。電車が姫路駅へ滑り込んだ。

 窓の外を眺めながらスマホの画面を確認する。参考書のデジタル版。今日だけで何ページ進んだだろう。電車に乗っている時間が長いから、思っていたより勉強はできている。

 画面の端に表示された時刻を見る。

 「……そろそろ」

 隣を見ると、蒼馬は窓にもたれたまま眠っていた。口元が少しだけ緩んでいる。昨日ほとんど眠れていなかったのだろう。

 「弥生くん」

 反応がない。

 「弥生くん、起きて」

 「……ん」

 「乗り換えだよ」

 「……あと五分」

 「もう着いた」

 「うそ」

 「本当」

 蒼馬がゆっくり目を開ける。

 「ここどこ?」

 「姫路」

 「……姫路?」

 「うん」

 「もう?」

 「もう」

 蒼馬は寝ぼけた顔のまま窓の外を見る。

 やがて駅名を確認すると、

 「すご」

 と呟いた。

 「朝まで東京だったのに」

 「そりゃ電車に乗ってるから」

 「なんか不思議」

 「寝てた人が言う?」

 「寝てたから余計」

 「意味分かんない」

 二人で荷物を持ってホームへ降りる。駅構内を歩いているうちは、それほど暑さを感じなかった。

 だが、改札を抜け、外へ出た瞬間。

 「……暑っ」

 思わず声が漏れた。

 熱気が一気に身体へまとわりつく。東京で感じていた暑さとは少し違う。湿った空気が肌に張りつくようだった。

 「やっぱり」

 慧麻は額に手を当てる。

 「東日本の暑いと西日本の暑いは違うね」

 「分かる」

 蒼馬もシャツの襟元をぱたぱたと扇ぐ。

 「こっちの暑さ、別次元」

 「そりゃ、八月だもん」

 「沖縄どうなるんだろ」

 「考えたくもない」

 「海は?」

 「絶対暑いでしょ」

 「海なのに?」

 「水蒸気で湿度半端ないことになってそう」

 蒼馬は笑いながら駅前を見渡した。

 「今日、どこまで行くの」

 「広島」

 「今日中?」

 「うん。夜の八時には着いてるはず」

 「思ってたより早い」

 「この先は電車の接続がいいから」

 スマホの電車アプリを見ながら説明する。

 「ただ、それ以上行くと宿が心配だから」

 「宿?」

 「うん。広島で泊まる予定」

 「じゃあ」

 蒼馬が駅前の景色を見る。

 「遊べるね」

 「え?」

 「姫路」

 「ちょ、」

 蒼馬はもう駆け出していた。

 「待ってって!」

 慌てて追いかける。

 「今日の予定、広島に行くまでの移動だよ?」

 「終電で着くまで三時間余裕ある」

 「だから?」

 「三時間もある」

 「いやいや」

 「姫路、初めてだし」

 「私だって初めてだけど」

 「じゃあ、遊ぼう」

 「遊ぼうって……」

 言い返そうとしたところで、蒼馬が振り返る。

 「葉月」

 「なに」

 「旅なんだから」

 その言葉に一瞬だけ黙った。

 旅。昨日までなら、そんな言葉を自分に使うことはなかった。参考書を開いて、問題を解いて、模試の予定を確認して。それが夏休みだった。なのに今、自分は姫路駅の前に立っている。

 「……一時間半なら」

 「二時間半」

 「二時間」

 「いいよ」

 「交渉早っ」

 「勝った」

 「勝負してない」

 蒼馬は笑った。

 「じゃあ、まず何食べる?」

 「食べるの?」

 「姫路おでん」

 「お昼に私が作ったお弁当食べたじゃん」

 「旅先のご飯は別腹」

 「まだ三時だよ」

 「だから別腹」

 「意味が違うと思う」

 それでも蒼馬は聞く気がないらしい。スマホを片手に、駅前の通りを歩いていく。

 「ここ」

 「もう見つけたの?」

 「駅の近く」

 「早……」

 店先に掲げられた暖簾の向こうからだしの香りが漂ってくる。扉を開けると、冷房の効いた店内の空気が肌に当たった。

 「涼しい……」

 思わず声が漏れる。

 「こっち」

 蒼馬が先に入っていく。店内にはカウンター席とテーブル席がいくつか並んでいた。昼食と夕食の間の中途半端な時間だからか、客はそれほど多くない。

 二人で端のテーブル席に座ると、すぐに店員が注文を取りに来た。

 「姫路おでん、二人前でよろしいでしょうか?」

 「はい」

 蒼馬が即答する。

 「ちょっと待って」

 慧麻が口を挟む。

 「一人前じゃ駄目ですか?」

 「え」

 蒼馬が振り返る。

 「だって、まだ旅の途中だよ。食費は節約しないと」

 「でも」

 「お昼食べたでしょ」

 「それは東京のお弁当」

 「何その区別」

 「姫路は姫路」

 「意味分かんない」

 店員が微笑ましそうに二人を見ている。

 「一人前を二人で分けることもできますよ」

 「それでお願いします」

 今度はこっちが即答する。

 「えー」

 「えーじゃない」

 「もっと食べたい」

 「足りなかったら追加すればいいでしょ」

 「……まあ、それなら」

 蒼馬が渋々頷く。

 店員がメニューを差し出した。

 「こちらからお好きな具をお選びください」

 「おお」

 蒼馬の目が少しだけ輝いた。

 「選べるんだ」

 「何にする?」

 大根。

 玉子。

 こんにゃく。

 ちくわ。

 厚揚げ。

 牛すじ。

 ごぼう天。

 姫路らしい生姜醤油の文字も目に入る。

 「大根」

 蒼馬が指を差す。

 「まず大根」

 「定番だね」

 「あと玉子」

 「うん」

 「牛すじ」

 「高くない?」

 値段を見る。

 「……ちょっと」

 「じゃあ、ちくわ」

 「それならいい」

 「ごぼう天」

 「それも」

 「こんにゃく」

 「いっぱい頼むじゃん」

 「一人前だから」

 「一人前って何個?」

 「分かんない」

 「じゃあ頼んでみればいい」

 「……」

 蒼馬はメニューを眺める。

 「葉月は?」

 「私は大根と玉子」

 「二つだけ?」

 「うん」

 「少な」

 「まだお腹空いてないから」

 「じゃあ俺が食べる」

 「最初からそういうつもりだったでしょ」

 「ばれた?」

 「ばればれ」

 二人で顔を見合わせて笑う。

 「じゃあ、大根二つ、玉子二つ、ちくわ、ごぼう天、こんにゃく一つずつでお願いします」

 店員に注文を伝える。

 やがて、大きな器におでんが盛られて運ばれてきた。湯気が立っている。大根はだしをたっぷり吸って、少し茶色く染まっていた。

 「うわ」

 蒼馬が身を乗り出す。

 「美味しそう」

 「熱いから気をつけて」

 「分かってる」

 箸で大根を割る。ほろ、と崩れた。

 「……すご」

 「そんなに?」

 「見て」

 蒼馬が箸で持ち上げる。

 「染みてる」

 「分かったから早く食べなよ」

 「いただきます」

 一口。

 しばらく黙る。

 「……うま」

 「そんなに?」

 「うん」

 もう一口。

 「これ、東京で食べるおでんと違う」

 「生姜醤油つけるんだよね」

 テーブルに置かれた小皿へ視線を落とす。

 蒼馬が大根を少しだけつける。

 「こう?」

 「たぶん」

 ぱくり。

 「……うま」

 「さっきからそれしか言ってないよ」

 「だって美味しいもん」

 こっちも箸を伸ばす。大根を少しだけ取って、生姜醤油につける。一口食べる。だしの味に、生姜の辛さが加わる。

 「……美味しい」

 「でしょ?」

 「うん」

 「だからもっと頼めばよかったのに」

 「それとこれとは別」

 「なんで?」

 「旅費」

 「現実的」

 「誰かが現実見ないと」

 蒼馬が少しだけ笑う。

 「葉月って、旅してても葉月だね」

 「どういう意味?」

 「ちゃんと心配してる」

 「当たり前でしょ」

 「俺、朝からずっと浮かれてるんだよね」

 「……うん」

 「葉月は?」

 箸を止める。

 「私も」

 「本当に?」

 「本当」

 少しだけ笑う。

 「ただ」

 「うん」

 「食費は心配」

 「そこは俺も」

 「嘘」

 「本当」

 「さっき追加しようとしてたじゃん」

 「それはそれ」

 「どれ?」

 「食欲」

 「知らない」

 二人で笑う。その笑い声の向こうで、店内の冷房が静かに唸っていた。

 東京からずっと電車に乗り続けてきた身体に、冷たい空気と熱いおでんが妙に心地よかった。旅の途中で、予定にはなかった寄り道。こういうのも、悪くない。予定表に書かれていない時間も。参考書を開いていない時間も。案外、ちゃんと楽しいのかもしれない。

 食事を終えると、二人は再び駅前の通りに出た。

 「次どこ行く?」

 「姫路公園」

 蒼馬が即答する。

 「行くの?」

 「せっかくだし」

 「時間大丈夫?」

 「まだある」

 「……分かった」

 駅から歩いていく。

 姫路城が少しずつ大きくなっていった。白い壁。大きな石垣。夏の空。そして、その手前に広がる緑。

 「すご……」

 思わず足を止めた。

 「写真より大きい」

 「姫路城?」

 「うん」

 蒼馬は何も言わず、スケッチブックを取り出した。鉛筆が紙の上を滑る。

 こっちはその横顔を眺める。電車の中でも。駅でも。食事中でも。この人は何かを見ると、すぐに描く。

 「ねえ」

 「ん?」

 「描くのって、疲れないの?」

 「疲れるよ」

 「じゃあなんで描くの?」

 蒼馬は鉛筆を止めた。

 少しだけ考えてから、

 「描きたいから」

 と答える。

 「それだけ?」

 「それだけ」

 「ふーん」

 慧麻は城を見上げる。自分だったら面白そうだと思っても、帰ってから写真を探すかもしれない。わざわざその場で描こうとは思わない。

 「変なの」

 「葉月によく言われる」

 蒼馬が鉛筆をしまってから、二人は姫路公園の中を歩き始めた。蝉の声が大きく、木陰に入ると、少しだけ涼しい。

 「暑い」

 「さっきからそれしか言ってない」

 「暑いから仕方ない」

 「じゃあアイス食べる?」

 「食べる」

 「即答じゃん」

 「旅先のアイスは別腹」

 「またそれ?」

 売店で買ったアイスを片手に、城を眺める。何となくスマホを取り出して、写真を一枚、カシャっと。二枚。三枚。

 「何撮ってるの」

 「姫路城」

 「俺も撮って」

 「なんで?」

 「記念」

 「自分で撮れば?」

 「葉月が撮った方がいい」

 「何それ」

 「分かんない」

 「出た」

 笑いながらスマホを構える。

 蒼馬が少し離れた場所に立つ。白いシャツ。首元には汗。片手にはスケッチブック。その後ろに白い姫路城がある。

 「はい」

 シャッターを押す。

 「どう?」

 「普通」

 「普通なんだ」

 「でも」

 慧麻は画面を見る。

 「……いい写真かも」

 「見せて」

 「嫌」

 「なんで」

 「自分で撮ったから」

 「それ理由になる?」

 「なる」

 「じゃあ後で送って」

 「考えとく」

 二人はそのまま歩いた。姫路城を見上げたり。木陰で休んだり。アイスを食べたり。意味のない話をしたり。何度も立ち止まったり。気づけば二時間なんてとっくに過ぎていた。

 スマホを見る。

 「……やば」

 「何?」

 「もう五時」

 「本当だ」

 「そろそろ戻らないと」

 「広島行ける?」

 「行けるけど、急ぐよ」

 「了解」

 二人で駅へ向かって歩き出す。

 「ねえ、葉月」

 「なに?」

 「楽しかった?」

 一瞬、答えに詰まった。楽しかった。そう言えばいいだけなのに、妙に照れくさい。

 「……うん」

 「よかった」

 「弥生くんは?」

 「楽しかった」

 「そっか」

 それだけだった。でも、なぜか嬉しかった。

 駅が近づいてくる。この先、鹿児島まで再び何度も電車を乗り換えて。そこから船に乗って、沖縄へ向かう。その途中で何が起きるのかなんて、二人とも知らない。

 ただ今は。姫路駅の前で食べたおでんと。夏の暑さと。白い城と。くだらない会話だけが残っていた。

 今日はそれでよかった。