朝、四時二十分。駅前のロータリーにはまだ夜の名残が残っていた。
空は薄い青色に変わり始めている。コンビニの看板だけが妙に明るく見え、始発を待つ人たちが、眠そうな顔でそれぞれの方向を向いて立っていた。
ボストンバッグの持ち手を握り直す。重い。昨日の夜は何度も中身を確認した。着替え。タオル。歯ブラシ。充電器。財布。学生証。参考書。日焼け止め。水着。そして、蒼馬からもらった絵。
全部入っている。なのに、何か忘れているような気がする。
スマホを見る。
四時二十一分。
待ち合わせは四時二十分。
……来ない。
四時二十二分。
四時二十三分。
四時二十四分。
「……」
嫌な予感がする。まさか。いや、でも。あいつならやりかねない。朝から何も食べずに木に登る人間だ。時間を守ると言っていたが、あれはこっちを安心させるための適当な返事だったのかもしれない。
四時二十五分。
電話をかけようとした、そのとき。
「葉月」
「っ」
背後から声がした。
振り返る。
駅前の階段を、蒼馬がゆっくり上がってくるところだった。黒いリュックを背負い、片手には小さなスケッチブック。制服ではなく、白いTシャツに薄手のシャツを羽織っている。金髪はいつもと違って一つ結びにされていた。
「……遅い」
「五分」
「五分は遅刻」
「まだ朝だから」
「時間に朝も夜もないよ」
「眠い」
「知らない」
文句を言いながらも少しだけ肩の力が抜けた。本当に来た。昨日の約束は、夢なんかじゃなかったんだ。
ボストンバッグの冷たい金属の引き手に指を掛け、口を少しだけ開けた。荷物の一番上に置いた紙袋を取り取り出す。
「どうせ朝ごはん食べてないんでしょ」
紙袋を押し付ける。
蒼馬は一瞬きょとんとしたあと、中を覗き込んだ。
「おにぎり?」
「二個」
「具は?」
「鮭とツナマヨ」
「最高」
「あと水」
「神」
「大げさ」
「朝四時に飯くれる人、神様以外いないよ」
蒼馬は紙袋から鮭のおにぎりを取り出すと、ラップを剥がし始めた。
「いただきます」
「ちゃんと食べて」
「食べてる」
一口。
二口。
あっという間に半分が消える。
「……本当に何も食べてこなかったの」
「だから言ったじゃん」
「いや、言われた覚えはないけど」
「顔に書いてある」
「何て?」
「腹減った」
思わず笑ってしまう。こんな時間に、こんなところで、これから沖縄へ向かう。昨日までなら絶対に考えなかったことだ。なのに今は、目の前でおにぎりを食べている蒼馬を見ていると、妙に現実味があった。
もう一つの紙袋も取り出してからチャックを閉めた。今度は自分の分。
「ちょっとでもお金節約するために、今日は全部私が用意したからそれで我慢して」
「我慢?」
蒼馬が眉を上げる。
「鮭とツナマヨがあるのに?」
「コンビニより質素でしょ」
「朝から鮭だよ。十分贅沢」
そう言って蒼馬は残りのおにぎりに取り掛かる。本当に美味しそうに食べるから、早朝に作ってきた甲斐があったような気がした。
自分もおにぎりのラップを剥がす。まだ暖かい白米の間から、具材の茶色がのぞき出ていた。
「あれ、違う具なの?」
「私のには残り物詰めてきたからね」
「何?」
「こっちは唐揚げと焼きそば。もう一個はお好み焼き」
「え、ずるっ」
「もちろん。優越感に浸るために選んだからね」
「交換しよう」
「嫌」
即答する。
「一口だけ」
「弥生くんの一口ってほぼ三分の一だよ」
「じゃあ半分」
「絶対嫌」
「ケチ」
「作った人の特権だから諦めて」
蒼馬は不満そうに頬を膨らませた。
「葉月って意外と意地悪」
「初対面から知ってたでしょ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「じゃあ仕方ない」
あっさり引き下がる。こういうところだけ妙に潔い。おにぎりを食べ終えると、蒼馬は紙袋を丁寧に折り畳んでリュックの脇へ入れた。
「ごちそうさま」
「はい」
「美味しかった」
「……そう」
なんとなく照れくさくなって、視線を駅の方へ向ける。始発の電車が来るまであと少し。改札の向こうには、いつも通りの日常がある。
学校へ向かう人。
仕事へ向かう人。
新聞を抱えた人。
眠そうに欠伸をする人。
その中に、自分たちだけが少しだけ場違いな気がした。胸の奥が妙にざわつく。本当に行くんだ。昨日まで机の上で検索していた駅名を、今から実際に通る。
東京。
静岡。
名古屋。
大阪。
そして、その先。
鹿児島。
そこから船に乗って、沖縄。
頭の中で地図を思い浮かべる。あまりにも遠い。遠すぎて、逆に現実感がない。
「葉月」
「ん?」
「顔、怖い」
「怖くない」
「旅行に行く顔じゃない」
「旅行じゃないじゃん」
「じゃあ何?」
少し考える。
「……逃亡?」
蒼馬が吹き出した。
「それ、俺たち捕まるやつ?」
「知らない」
「じゃあ逃亡でいいや」
「よくない」
「じゃあ、家出?」
「もっと悪い」
「逃亡より?」
「同じくらい」
蒼馬は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、さっきまでの不安が少しだけ薄れていく。
「……行こう」
「うん」
二人で改札へ向かう。
まだ人の少ない駅構内は、昼間とは別の場所みたいだった。シャッターの閉まった店。消えた電光掲示板。清掃員の人が黙々と床を磨いている。
改札に青春18きっぷを通す。たったそれだけのことなのに妙に緊張した。これで本当に始まってしまったんだな、と実感する。
「葉月」
「なに」
「今ならまだ帰れるよ」
足が止まる。
「……え?」
蒼馬は笑っていなかった。
「別に、帰りたかったら帰っていい」
「何それ」
「昨日からずっと思ってた。葉月、無理してるんじゃないかなって」
思わず蒼馬を見る。いつもの気の抜けた顔ではなかった。
「受験生だし」
「うん」
「お母さんにも言ってないし」
「うん」
「お金だって借りてる」
「うん」
「だから……」
蒼馬は一度言葉を切った。
「俺に付き合う必要ないよ」
「……」
胃の底が少しキリキリと痛んだ。確かにそうだ。これは蒼馬の事情だ。祖父の家。珊瑚礁。九月までという期限。私はただ、それを聞いて「行こう」と言っただけ。
なのに。
「弥生くん」
「ん?」
「私、今すごく楽しみなんだけど」
「……え」
「昨日からずっと」
自分でも少しおかしくなって笑う。
「今まで、高二の夏休みってずっと勉強するものだと思ってた」
「実際そうじゃない?」
「そうだよ」
「じゃあ、」
「でも」
言葉を遮る。
「今は、電車に乗ってる」
ホームへ続く階段を上りながら言う。
「知らない場所に行って」
一段。
「知らない電車に乗って」
もう一段。
「その先で海を渡る」
最後の一段を上る。
「なんか、楽しい」
ホームへ出る。ちょうどそのとき、遠くから電車のライトが見えた。
「だから」
振り返る。
「弥生くんが気にすることじゃないよ」
蒼馬はしばらく黙っていた。やがて、ほんの少しだけ笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、行こう」
「うん」
電車がホームへ滑り込んでくる。風が一気に吹き抜け、服の裾が揺れた。蒼馬が片手でシャツを押さえながら、もう片方の手でスケッチブックを抱える。
「うわ。今、ちょっとだけ旅行っぽかった」
「どこが?」
「電車来て、風が吹いて」
「それだけ?」
「それだけ」
扉が開く。まだ乗客は少ない。二人で車内へ入り、長い座席の端っこに並んで座った。蒼馬はリュックを膝に乗せると、すぐに窓の外を見た。
「……本当に行くんだ」
小さく呟く。
窓の外を流れていく景色は、いつもと変わらない。見慣れた住宅街。コンビニ。交差点。地元の小学校。毎朝見ていた風景。
それなのに、今日は全部が少しだけ違って見えた。もしかしたら、帰ってきたときには同じ景色を見ても、今とは違うものに見えるのかもしれない。
蒼馬がリュックからスケッチブックを取り出す。
「もう描くの?」
「うん」
「まだ駅を出たばっかりだけど」
「だから」
鉛筆を取り出す。
「今しか描けない」
紙の上に、迷いなく線を引いていく。
窓。
座席。
吊り革。
そして、その前に座っている私。
「また私?」
「いたから」
「それ、便利すぎる」
「便利だから」
前と同じ答え。でも今日は、少しだけ違って聞こえた。
「……じゃあ、私も描こうかな」
「何を?」
「弥生くん」
ボストンバッグの中から筆箱とメモ帳を探り出した。ページの端に小さく線を引く。眠そうな顔。少し乱れた金髪。窓にもたれている姿。
……難しい。
「描けない」
「見せて」
蒼馬が覗き込んでくる。
「わあ、イラストだ」
「うん。弥生くんみたいなリアルのは描けないから」
「でも似てるよ」
「お世辞はいいから」
「本当に似てる」
「どこが?」
「……眠そうなところ?」
「そこは間空けないでよ」
蒼馬が笑う。その笑い声と同時に、電車が大きく揺れた。窓の外の景色がゆっくりと後ろへ流れていく。
ペンをそっと置く。
「ねえ」
「ん?」
「沖縄に着いたら、最初に何する?」
蒼馬は少し考えた。
「海を見る。そのあと、じいちゃんの家」
「家が先じゃないんだ」
「うん」
蒼馬は窓の外を見る。
「海を見てから行きたい」
「なんで?」
「分かんない」
「出た」
「でも」
少しだけ間を置く。
「じいちゃんが見てた海を、先に見たい」
きっと蒼馬の中では、それが大切な順番なのだろう。海を見て。珊瑚礁を描いて。祖父の家へ行く。その順番を崩したくない。それなら、こっちもそれに付き合えばいい。
「じゃあ、海ね」
「うん」
「絶対に晴れてるとは限らないよ」
「晴れる」
「根拠は?」
「夏だから」
「いや、夏だから気象が不安定なんでしょ」
「葉月は晴れると思う?」
少し考える。
「……晴れてほしいとは思う」
「じゃあ晴れる」
「何その理屈」
笑いながら窓を見る。空はいつの間にか明るくなっていた。東京の街が少しずつ目を覚ましていく。電車の中にも人が増えてくる。スーツ姿の人。制服姿の学生。買い物袋を抱えた人。
誰も私たちを気にしていない。それが妙に安心した。私たちはただの乗客だ。大きなボストンバッグを持って、早朝の電車に乗っている高校生。まさか、このまま鹿児島へ向かっているなんて誰も思わない。
「葉月」
「ん?」
「一個聞いていい?」
「何?」
「もし」
蒼馬が少しだけ言葉を探す。
「帰りたくなったら、言って」
「……」
「沖縄に行ってからでも」
「うん」
「途中でも」
「うん」
「俺、無理に連れていかないから」
その言葉を聞いて、少しだけ笑った。
「弥生くん」
「ん?」
「そんなに私が心配?」
「……うん」
「そっか」
私は窓の外を見る。
「帰らないよ」
「なんで?」
「もう電車乗っちゃったから」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど」
少し考える。
「今、自分で行くって決めたから」
蒼馬は何も言わなかった。ただ、スケッチブックを閉じて膝の上へ置く。
「そっか」
その声は小さかった。でも、どこか安心したように聞こえた。
最初の乗り換え駅が近づき、車内アナウンスが流れる。スマホを確認し、立ち上がった。
「次、降りるよ」
「うん」
蒼馬も立ち上がる。
ボストンバッグを持ち上げた瞬間、肩にずしりと重さがかかった。
「重……」
「持とうか?」
「いい」
「重そう」
「自分の荷物だから」
「じゃあ俺のリュック持って」
「それは嫌」
「なんで」
「人の荷物の方が嫌だから」
「なるほど」
ホームへ降りる。朝の空気は、さっきより少しだけ暖かくなっていた。
二人で階段を下り、次のホームへ向かう。まだ先は長い。ここから何度も乗り換える。何度も電車を待つ。何度も駅を降りる。その先に鹿児島があって、その先に海がある。そして、その海の向こうに沖縄がある。
一駅ずつ。
一つずつ。
自分たちの足で近づいている。
「葉月」
「何?」
蒼馬が前を歩きながら振り返る。
「競争しよう」
「何の?」
「次の電車」
「意味分かんない」
「先にホームに着いた方が勝ち」
「子供?」
蒼馬は答えずに走り出した。
「ちょっと!」
慌てて追いかける。朝の駅に、二人分の足音が響く。
「待って!」
「早く!」
「荷物重いんだけど!」
「じゃあ負け!」
「それは嫌!」
気づけば笑っていた。こんなふうに走るのは、いつ以来だろう。受験勉強を始めてから駅ではいつも時間を確認していた。
次の電車。
次の予定。
次の模試。
次の参考書。
ずっと「次」のために生きてきた。
なのに今はただ目の前の電車を追いかけている。それだけだった。
ホームへ着く頃には二人とも息を切らしている。
「……勝った」
蒼馬が笑う。
「そもそも勝負に合意してない」
「勝ちは勝ち」
「じゃあ次は負けないから」
「受けて立つ」
ちょうどそのとき、遠くから電車の音が聞こえた。二人で顔を見合わせる。そして、同時に笑った。まだ朝だった。鹿児島までは、あまりにも遠い。沖縄までは、もっと遠い。
でも、今日の私たちは、ちゃんと一歩目を踏み出していた。
空は薄い青色に変わり始めている。コンビニの看板だけが妙に明るく見え、始発を待つ人たちが、眠そうな顔でそれぞれの方向を向いて立っていた。
ボストンバッグの持ち手を握り直す。重い。昨日の夜は何度も中身を確認した。着替え。タオル。歯ブラシ。充電器。財布。学生証。参考書。日焼け止め。水着。そして、蒼馬からもらった絵。
全部入っている。なのに、何か忘れているような気がする。
スマホを見る。
四時二十一分。
待ち合わせは四時二十分。
……来ない。
四時二十二分。
四時二十三分。
四時二十四分。
「……」
嫌な予感がする。まさか。いや、でも。あいつならやりかねない。朝から何も食べずに木に登る人間だ。時間を守ると言っていたが、あれはこっちを安心させるための適当な返事だったのかもしれない。
四時二十五分。
電話をかけようとした、そのとき。
「葉月」
「っ」
背後から声がした。
振り返る。
駅前の階段を、蒼馬がゆっくり上がってくるところだった。黒いリュックを背負い、片手には小さなスケッチブック。制服ではなく、白いTシャツに薄手のシャツを羽織っている。金髪はいつもと違って一つ結びにされていた。
「……遅い」
「五分」
「五分は遅刻」
「まだ朝だから」
「時間に朝も夜もないよ」
「眠い」
「知らない」
文句を言いながらも少しだけ肩の力が抜けた。本当に来た。昨日の約束は、夢なんかじゃなかったんだ。
ボストンバッグの冷たい金属の引き手に指を掛け、口を少しだけ開けた。荷物の一番上に置いた紙袋を取り取り出す。
「どうせ朝ごはん食べてないんでしょ」
紙袋を押し付ける。
蒼馬は一瞬きょとんとしたあと、中を覗き込んだ。
「おにぎり?」
「二個」
「具は?」
「鮭とツナマヨ」
「最高」
「あと水」
「神」
「大げさ」
「朝四時に飯くれる人、神様以外いないよ」
蒼馬は紙袋から鮭のおにぎりを取り出すと、ラップを剥がし始めた。
「いただきます」
「ちゃんと食べて」
「食べてる」
一口。
二口。
あっという間に半分が消える。
「……本当に何も食べてこなかったの」
「だから言ったじゃん」
「いや、言われた覚えはないけど」
「顔に書いてある」
「何て?」
「腹減った」
思わず笑ってしまう。こんな時間に、こんなところで、これから沖縄へ向かう。昨日までなら絶対に考えなかったことだ。なのに今は、目の前でおにぎりを食べている蒼馬を見ていると、妙に現実味があった。
もう一つの紙袋も取り出してからチャックを閉めた。今度は自分の分。
「ちょっとでもお金節約するために、今日は全部私が用意したからそれで我慢して」
「我慢?」
蒼馬が眉を上げる。
「鮭とツナマヨがあるのに?」
「コンビニより質素でしょ」
「朝から鮭だよ。十分贅沢」
そう言って蒼馬は残りのおにぎりに取り掛かる。本当に美味しそうに食べるから、早朝に作ってきた甲斐があったような気がした。
自分もおにぎりのラップを剥がす。まだ暖かい白米の間から、具材の茶色がのぞき出ていた。
「あれ、違う具なの?」
「私のには残り物詰めてきたからね」
「何?」
「こっちは唐揚げと焼きそば。もう一個はお好み焼き」
「え、ずるっ」
「もちろん。優越感に浸るために選んだからね」
「交換しよう」
「嫌」
即答する。
「一口だけ」
「弥生くんの一口ってほぼ三分の一だよ」
「じゃあ半分」
「絶対嫌」
「ケチ」
「作った人の特権だから諦めて」
蒼馬は不満そうに頬を膨らませた。
「葉月って意外と意地悪」
「初対面から知ってたでしょ」
「そうだっけ」
「そうだよ」
「じゃあ仕方ない」
あっさり引き下がる。こういうところだけ妙に潔い。おにぎりを食べ終えると、蒼馬は紙袋を丁寧に折り畳んでリュックの脇へ入れた。
「ごちそうさま」
「はい」
「美味しかった」
「……そう」
なんとなく照れくさくなって、視線を駅の方へ向ける。始発の電車が来るまであと少し。改札の向こうには、いつも通りの日常がある。
学校へ向かう人。
仕事へ向かう人。
新聞を抱えた人。
眠そうに欠伸をする人。
その中に、自分たちだけが少しだけ場違いな気がした。胸の奥が妙にざわつく。本当に行くんだ。昨日まで机の上で検索していた駅名を、今から実際に通る。
東京。
静岡。
名古屋。
大阪。
そして、その先。
鹿児島。
そこから船に乗って、沖縄。
頭の中で地図を思い浮かべる。あまりにも遠い。遠すぎて、逆に現実感がない。
「葉月」
「ん?」
「顔、怖い」
「怖くない」
「旅行に行く顔じゃない」
「旅行じゃないじゃん」
「じゃあ何?」
少し考える。
「……逃亡?」
蒼馬が吹き出した。
「それ、俺たち捕まるやつ?」
「知らない」
「じゃあ逃亡でいいや」
「よくない」
「じゃあ、家出?」
「もっと悪い」
「逃亡より?」
「同じくらい」
蒼馬は楽しそうに笑った。
その笑顔を見ていると、さっきまでの不安が少しだけ薄れていく。
「……行こう」
「うん」
二人で改札へ向かう。
まだ人の少ない駅構内は、昼間とは別の場所みたいだった。シャッターの閉まった店。消えた電光掲示板。清掃員の人が黙々と床を磨いている。
改札に青春18きっぷを通す。たったそれだけのことなのに妙に緊張した。これで本当に始まってしまったんだな、と実感する。
「葉月」
「なに」
「今ならまだ帰れるよ」
足が止まる。
「……え?」
蒼馬は笑っていなかった。
「別に、帰りたかったら帰っていい」
「何それ」
「昨日からずっと思ってた。葉月、無理してるんじゃないかなって」
思わず蒼馬を見る。いつもの気の抜けた顔ではなかった。
「受験生だし」
「うん」
「お母さんにも言ってないし」
「うん」
「お金だって借りてる」
「うん」
「だから……」
蒼馬は一度言葉を切った。
「俺に付き合う必要ないよ」
「……」
胃の底が少しキリキリと痛んだ。確かにそうだ。これは蒼馬の事情だ。祖父の家。珊瑚礁。九月までという期限。私はただ、それを聞いて「行こう」と言っただけ。
なのに。
「弥生くん」
「ん?」
「私、今すごく楽しみなんだけど」
「……え」
「昨日からずっと」
自分でも少しおかしくなって笑う。
「今まで、高二の夏休みってずっと勉強するものだと思ってた」
「実際そうじゃない?」
「そうだよ」
「じゃあ、」
「でも」
言葉を遮る。
「今は、電車に乗ってる」
ホームへ続く階段を上りながら言う。
「知らない場所に行って」
一段。
「知らない電車に乗って」
もう一段。
「その先で海を渡る」
最後の一段を上る。
「なんか、楽しい」
ホームへ出る。ちょうどそのとき、遠くから電車のライトが見えた。
「だから」
振り返る。
「弥生くんが気にすることじゃないよ」
蒼馬はしばらく黙っていた。やがて、ほんの少しだけ笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、行こう」
「うん」
電車がホームへ滑り込んでくる。風が一気に吹き抜け、服の裾が揺れた。蒼馬が片手でシャツを押さえながら、もう片方の手でスケッチブックを抱える。
「うわ。今、ちょっとだけ旅行っぽかった」
「どこが?」
「電車来て、風が吹いて」
「それだけ?」
「それだけ」
扉が開く。まだ乗客は少ない。二人で車内へ入り、長い座席の端っこに並んで座った。蒼馬はリュックを膝に乗せると、すぐに窓の外を見た。
「……本当に行くんだ」
小さく呟く。
窓の外を流れていく景色は、いつもと変わらない。見慣れた住宅街。コンビニ。交差点。地元の小学校。毎朝見ていた風景。
それなのに、今日は全部が少しだけ違って見えた。もしかしたら、帰ってきたときには同じ景色を見ても、今とは違うものに見えるのかもしれない。
蒼馬がリュックからスケッチブックを取り出す。
「もう描くの?」
「うん」
「まだ駅を出たばっかりだけど」
「だから」
鉛筆を取り出す。
「今しか描けない」
紙の上に、迷いなく線を引いていく。
窓。
座席。
吊り革。
そして、その前に座っている私。
「また私?」
「いたから」
「それ、便利すぎる」
「便利だから」
前と同じ答え。でも今日は、少しだけ違って聞こえた。
「……じゃあ、私も描こうかな」
「何を?」
「弥生くん」
ボストンバッグの中から筆箱とメモ帳を探り出した。ページの端に小さく線を引く。眠そうな顔。少し乱れた金髪。窓にもたれている姿。
……難しい。
「描けない」
「見せて」
蒼馬が覗き込んでくる。
「わあ、イラストだ」
「うん。弥生くんみたいなリアルのは描けないから」
「でも似てるよ」
「お世辞はいいから」
「本当に似てる」
「どこが?」
「……眠そうなところ?」
「そこは間空けないでよ」
蒼馬が笑う。その笑い声と同時に、電車が大きく揺れた。窓の外の景色がゆっくりと後ろへ流れていく。
ペンをそっと置く。
「ねえ」
「ん?」
「沖縄に着いたら、最初に何する?」
蒼馬は少し考えた。
「海を見る。そのあと、じいちゃんの家」
「家が先じゃないんだ」
「うん」
蒼馬は窓の外を見る。
「海を見てから行きたい」
「なんで?」
「分かんない」
「出た」
「でも」
少しだけ間を置く。
「じいちゃんが見てた海を、先に見たい」
きっと蒼馬の中では、それが大切な順番なのだろう。海を見て。珊瑚礁を描いて。祖父の家へ行く。その順番を崩したくない。それなら、こっちもそれに付き合えばいい。
「じゃあ、海ね」
「うん」
「絶対に晴れてるとは限らないよ」
「晴れる」
「根拠は?」
「夏だから」
「いや、夏だから気象が不安定なんでしょ」
「葉月は晴れると思う?」
少し考える。
「……晴れてほしいとは思う」
「じゃあ晴れる」
「何その理屈」
笑いながら窓を見る。空はいつの間にか明るくなっていた。東京の街が少しずつ目を覚ましていく。電車の中にも人が増えてくる。スーツ姿の人。制服姿の学生。買い物袋を抱えた人。
誰も私たちを気にしていない。それが妙に安心した。私たちはただの乗客だ。大きなボストンバッグを持って、早朝の電車に乗っている高校生。まさか、このまま鹿児島へ向かっているなんて誰も思わない。
「葉月」
「ん?」
「一個聞いていい?」
「何?」
「もし」
蒼馬が少しだけ言葉を探す。
「帰りたくなったら、言って」
「……」
「沖縄に行ってからでも」
「うん」
「途中でも」
「うん」
「俺、無理に連れていかないから」
その言葉を聞いて、少しだけ笑った。
「弥生くん」
「ん?」
「そんなに私が心配?」
「……うん」
「そっか」
私は窓の外を見る。
「帰らないよ」
「なんで?」
「もう電車乗っちゃったから」
「それだけ?」
「それだけじゃないけど」
少し考える。
「今、自分で行くって決めたから」
蒼馬は何も言わなかった。ただ、スケッチブックを閉じて膝の上へ置く。
「そっか」
その声は小さかった。でも、どこか安心したように聞こえた。
最初の乗り換え駅が近づき、車内アナウンスが流れる。スマホを確認し、立ち上がった。
「次、降りるよ」
「うん」
蒼馬も立ち上がる。
ボストンバッグを持ち上げた瞬間、肩にずしりと重さがかかった。
「重……」
「持とうか?」
「いい」
「重そう」
「自分の荷物だから」
「じゃあ俺のリュック持って」
「それは嫌」
「なんで」
「人の荷物の方が嫌だから」
「なるほど」
ホームへ降りる。朝の空気は、さっきより少しだけ暖かくなっていた。
二人で階段を下り、次のホームへ向かう。まだ先は長い。ここから何度も乗り換える。何度も電車を待つ。何度も駅を降りる。その先に鹿児島があって、その先に海がある。そして、その海の向こうに沖縄がある。
一駅ずつ。
一つずつ。
自分たちの足で近づいている。
「葉月」
「何?」
蒼馬が前を歩きながら振り返る。
「競争しよう」
「何の?」
「次の電車」
「意味分かんない」
「先にホームに着いた方が勝ち」
「子供?」
蒼馬は答えずに走り出した。
「ちょっと!」
慌てて追いかける。朝の駅に、二人分の足音が響く。
「待って!」
「早く!」
「荷物重いんだけど!」
「じゃあ負け!」
「それは嫌!」
気づけば笑っていた。こんなふうに走るのは、いつ以来だろう。受験勉強を始めてから駅ではいつも時間を確認していた。
次の電車。
次の予定。
次の模試。
次の参考書。
ずっと「次」のために生きてきた。
なのに今はただ目の前の電車を追いかけている。それだけだった。
ホームへ着く頃には二人とも息を切らしている。
「……勝った」
蒼馬が笑う。
「そもそも勝負に合意してない」
「勝ちは勝ち」
「じゃあ次は負けないから」
「受けて立つ」
ちょうどそのとき、遠くから電車の音が聞こえた。二人で顔を見合わせる。そして、同時に笑った。まだ朝だった。鹿児島までは、あまりにも遠い。沖縄までは、もっと遠い。
でも、今日の私たちは、ちゃんと一歩目を踏み出していた。
