珊瑚礁

 翌日。いつも参考書が置かれていた机には、代わりにノートパソコンが開かれていた。

 「……高い」

 画面を見つめたまま、思わず呟く。

 「いくら?」

 ベッドに座っていた蒼馬が覗き込んでくる。

 「東京から那覇まで、安いので三万八千円」

 「片道?」

 「片道」

 「高いね」

 「高いよ」

 昨日までは、沖縄へ行くという言葉だけが先にあった。具体的にどうやって行くのかなんて何も考えていなかった。でも現実は目的地を決めただけでは動いてくれない。

 航空券。

 宿泊先。

 食費。

 現地での移動。

 そして帰りの交通費。

 画面をスクロールする。

 「もっと早く決めてれば安かったみたい」

 「今さら?」

 「今さら」

 「お盆近いもんね」

 「そう」

 検索結果に並ぶ航空券はどれも似たような値段だった。朝早い便にしても、乗り継ぎを増やしても、大して変わらない。むしろ変な時間の便にすると空港まで行く交通費の方が高くなりそうだった。

 「飛行機、なし」

 航空会社のサイトを閉じる。

 「まじ?」

 「だって片道四万近いんだよ。往復したら八万。二人で十六万」

 「……無理だね」

 「無理」

 即答だった。

 そこで蒼馬がスマホを取り出す。

 「じゃあ、船」

 「船?」

 「鹿児島から那覇までフェリーある」

 「本当に?」

 「ある」

 画面を見せてもらう。

 鹿児島。

 奄美。

 沖縄。

 海の上に伸びた一本の航路。

 「これなら飛行機より安い」

 「でも鹿児島までどうする?」

 「電車」

 「何時間かかると思ってるの」

 「知らない」

 「……調べるか」

 二人で再びノートパソコンを覗き込む。

 東京から鹿児島。新幹線なら早いけど、飛行機で行くのと値段はさほど変わらない。夜行バスは安いけけど、都合のいい便が見つからない。そして、画面をスクロールしていた指が止まった。

 「これ」

 「なに?」

 「青春18きっぷ。JRの普通列車と快速が乗り放題」

 「東京から鹿児島まで?」

 「一万円で三日間使える」

 「じゃあ、それで行こう」

 「言うのは易し」

 地図を開く。東京から鹿児島。線路は一本で繋がっているように見えるのに、実際には乗り換えがいくつも必要だった。

 「三日丸々かかるよ」

 「三日」

 「うん」

 「……長いね」

 「だから言ったでしょ」

 「でも安い」

 「安いけど」

 画面の時刻表を眺める。朝早く東京を出て、ひたすら電車に乗る。乗り換えて、乗り換えて、また乗り換える。途中でどこかに泊まって、次の日も電車に乗る。それを繰り返して、ようやく鹿児島。

 「青春18きっぷ三日分」

 指で数える。

 「鹿児島までの交通費」

 「フェリー」

 「鹿児島から那覇」

 「学割が使えるなら、さらに安くなる」

 「宿泊費」

 「じいちゃんの家」

 「あ」

 思わず顔を上げる。

 蒼馬が小さく頷いた。

 「家、俺の名義じゃないけど、鍵はある」

 「そもそも家に入っていいの?」

 「多分」

 「多分って何」

 「鍵が開けば入れる」

 「そういう問題じゃない」

 「でも、別荘になるのは九月からだから」

 「……まあ」

 そこは間違っていない。少なくとも、今月中なら祖父の家はまだ空き家だ。

 問題は別にある。

 「お金」

 二人同時に黙った。蒼馬がポケットから財布を取り出す。

 「三万二千」

 「現金?」

 「全部」

 「カードは?」

 「ない」

 「高校生だもんね」

 「葉月は?」

 「……私も三万くらい」

 財布を開く。千円札が何枚かと、小銭。コンビニで買い物をしていつの間にか減っていた。

 「二人合わせて六万ちょっと」

 「行ける?」

 「……分からない」

 「だよね」

 蒼馬はスマホの画面へ目を落とした。

 交通費だけならぎりぎり届くかもしれない。でも、それは往復の話ではない。現地で何かあったら終わる。フェリーで食事が必要になる。鹿児島までの途中でも何か食べなければならない。帰りの交通費も残しておかなければならない。

 「やっぱり無理かな」

 蒼馬がぽつりと言った。その声は、昨日よりずっと小さかった。

 「……」

 「別にいいよ」

 スマホを伏せる。

 「俺一人でなんとかする」

 「なんとかって」

 「分かんないけど」

 「またそれ」

 「今回は本当に分かんない」

 蒼馬は笑った。昨日まであんなに迷いなく「行く」と言っていたのに。たった一日で、現実に押し戻されている。

 「……ちょっと待って」

 「何?」

 私は立ち上がった。

 「お金、ある」

 「え?」

 「正確には、私のお金じゃないけど」

 机の一番下の引き出し。そこに、お母さんが毎月置いていく封筒が入っている。

 生活費。

 食費。

 学校関係。

 必要になったときに使うように、と言われていたお金。お母さんが出張に行くたびに余った分を残していたから、そこそこの額は貯まっているはずだ。

 引き出しの中から封筒を取り出す。中身を確認する。想像していたのより、ずっと多かった。

 「……これなら」

 呟いた瞬間、背後から蒼馬の声がした。

 「それ、生活費?」

 「うん」

 「使っていいの?」

 封筒を握ったまま黙る。お母さんはどう思うんだろう。きっと怒る。勝手に使うな、と言う。必要なものに使いなさい、と言う。未成年二人で旅行なんて駄目だ、と。ましてや、知り合って二週間にも満たない男子高校生と沖縄へ行くなんて。絶対に許さない。

 でも。

 机の上に並んだ参考書を見る。毎日繰り返してきた問題。あと8点。その隣には、昨日ベッドの下に戻してまた取り出したキーボードのケース。そして、机の端には蒼馬からもらった二枚の絵。

 封筒から何枚か札を抜き取った。

 「……借りるだけ」

 「返すの?」

 「もちろん」

 「いつ?」

 「……帰ってから」

 「怒られるよ、葉月」

 「知ってる」

 「怒られるの嫌じゃないの」

 「嫌だよ」

 それでも札を机の上へ置く。

 「でも」

 自分でも不思議なくらい、声は震えていなかった。

 「怒られるのと、行かないで後悔するのだったら」

 一度、息を吸う。

 「私は前者がいい」

 蒼馬は何も言わなかった。ただ、机の上に置かれた札を見つめている。

 やがて小さく息を吐いて、

 「……そっか」

 と言った。その声が、少しだけ嬉しそうに聞こえた。

 「じゃあ、次。食費も考えないと」

 「食費?」

 「鹿児島まで三日かかるんでしょ」

 「うん」

 「その間、何も食べないつもり?」

 「……パン?」

 「三日間?」

 「パン」

 「却下」

 蒼馬が少しだけ笑った。

 「じゃあ、おにぎり」

 「それも却下。途中で買う」

 「贅沢」

 「これが普通」

 スマホのメモアプリを開く。

 交通費。

 食費。

 現地交通費。

 予備。

 その下に、少し迷ってから、

 宿泊費。

 「鹿児島まで最低二泊はしないと」

 「……宿代」

 「安いところでも結構する。ネカフェのある駅でとまたほうがいいかもね」

 「漫画ならここで野宿するところだ」

 「現実でやったら普通に風邪引くよ」

 「じゃあ二人で段ボール」

 「もっと駄目」

 ノートに新しく数字を書き込む。思っていたよりどんどんお金が減っていく。この旅だけで、持っているお金のほとんどが消えてしまう。

 「予備のお金は絶対残す」

 「うん」

 「何かあったら困るから」

 「うん」

 「だから、現地で遊ぶお金はない」

 「別に遊びに行くわけじゃないし」

 「珊瑚礁見て、家を見る」

 「それだけ」

 「それだけ」

 言葉にしてみると本当にそれだけだった。観光地に行くわけでもない。有名な店で食事をするわけでもない。ただ、蒼馬が描きたいものを描く。祖父の家を見る。それだけ。

 それなのに、胸の奥が妙に騒がしかった。

 「今のところ1人七万、プラス宿代」

 「電車の時間も見よう」

 蒼馬が言う。

 ノートパソコンの画面を切り替える。

 始発。

 乗り換え。

 終電。

 いくつもの時刻が並ぶ。

 「この時間なら、ここまで行ける」

 「その先は?」

 「終電がない」

 「じゃあ、ここで降りる」

 「泊まる場所ある?」

 「……ない」

 調べれば調べるほど、旅が「行こう」という言葉だけでは済まないものだと分かってくる。

 「これ、ほんとに行くの?」

 不意に蒼馬が呟いた。

 「今さら?」

 「いや」

 画面を見たまま笑う。

 「なんか、現実になってきた」

 同感だ。昨日までは沖縄という言葉がどこか遠い場所の名前に過ぎなかった。でも今日は違う。机の上に書かれた数字。画面に並ぶ時刻。ノートに書いた駅名。一つ一つが、沖縄へ続く線になっている。

 「……明日」

 時計を見る。

 もう夕方になっていた。

 「明日の朝、出発しよう」

 「何時?」

 「最寄り駅の始発」

 時刻を確認する。

 「これ」

 画面を指差す。

 「その十分前に駅集合」

 「十分前?」

 「うん」

 「早すぎない?」

 「遅刻するから」

 「しないよ」

 「昨日まで朝から何も食べずに木登ってた弥生くんの言葉は信用できない」

 「それは関係ない」

 「ある」

 「俺、時間は守る」

 「本当に?」

 「本当」

 蒼馬が真顔になる。

 「葉月こそ絶対遅刻しないで」

 「……なんで私が言われる側なの」

 「葉月、準備とか始めたら細かいところ気にして遅くなりそう」

 図星だった。

 「……分かった」

 「十分前」

 「分かったって」

 「絶対」

 「絶対」

 ようやく蒼馬は満足したように頷いた。

 「じゃあ、明日」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が跳ねた。

 明日。

 本当に明日だ。

 「今日はもう帰る」

 蒼馬が立ち上がる。

 「じゃあ」

 ドアが閉まって、足音が廊下の向こうへ消えていく。家に静けさが戻る。いつもの家だった。いつもの玄関。いつものリビング。いつもの机。なのに、何かが決定的に違っていた。

 「……明日」

 小さく呟く。

 その瞬間だった。

 心臓が急に速くなった。

 明日。

 沖縄。

 本当に行く。

 そう思った途端、身体の奥から何かが噴き出したような感覚になった。

 「……やば」

 私は部屋へ駆け戻った。ボストンバッグをクローゼットから引っ張り出す。何を持っていけばいいんだ。

 着替え。

 タオル。

 歯ブラシ。

 充電器。

 財布。

 学生証。

 参考書。

 ……参考書?

 手に取ったまま止まる。旅の途中でも勉強すると言ったのは自分だったが、流石に全部は持っていけない。そうだ、デジタル版をスマホにダウンロードすればいい。

 次に着替えを畳む。

 下着。

 Tシャツ。

 ショーパン。

 お気に入りの夏用白ワンピ。

 今年はまだ一度も来てない水着。

 あとサンダルも。

 「多いかな」

 バッグに詰める。予備の分を考えたらまだ少ない。もう一枚。

 「……まあいいか」

 財布を入れる。

 モバ充。

 充電ケーブル。

 日焼け止め。

 虫除けスプレー。

 思い浮かぶものを一つずつ並べていく。さっきまで冷静に交通費を計算していたのに、今はそんなことどうでもよくなっていた。明日、家を出る。駅へ行く。電車に乗る。そして海を渡る。沖縄へ。

 「……本当に行くんだ」

 笑ってしまう。自分でも分かっている。これは多分、いや絶対、人生で一番馬鹿な計画だ。

 でも、楽しかった。こんなふうに明日のことを考えて、眠れなくなりそうになるのはいつ以来だろう。

 ボストンバッグのファスナーを閉める。一度閉じてから、また開ける。

 「充電器……」

 確認する。

 ある。

 閉める。

 また開ける。

 「学生証」

 ある。

 閉める。

 また開ける。

 「……何やってんだろ」

 一人で笑う。それでも手は止まらない。

 ふと、机の上に置かれた蒼馬の絵が目に入った。そのうちの一枚をそっとバッグの内ポケットへ入れる。明日持っていこう。理由は分からない。ただ、持っていきたかった。

 時計を見ると十時を少し過ぎていた。明日は早い。寝ないといけない。そう思うのに眠気なんて一つもなかった。

 ボストンバッグを玄関に置く。その横にスニーカーを揃える。準備はできた。あとは朝を待つだけ。