珊瑚礁

 キーボードをケースに戻す。コンセントを抜いてファスナーを閉め、ベッドの下に押し込もうとして手が止まった。

 「……また弾こうかな」

 独り言みたいに呟く。返事はない。

 振り向くと蒼馬はいつの間にかベッドへ腰掛けていた。勝手に座るなと言おうとして、その前に視線の先を追う。壁際のハンガーラック。夏服の制服が一着だけ掛かっている。

 濃紺のベレー帽に白いパフスリーブのブラウスと濃紺のネクタイ。胸元に校章のワッペンを付けたジャンパースカートは、プリーツを深く落とした長めの丈だった。

 「お嬢様学校みたいな制服だね」

 「そんなことないよ」

 「学校どこ」

 「和泉ノ宮女子(いずみのみやじょし)

 「ほら、お嬢様」

 「違うって」

 思わず笑う。

 「偏差値が高いだけ」

 「それがお嬢様なんじゃないの」

 「うち、奨学金の子も普通にいるし。制服がちょっと特別なだけ」

 「可愛いじゃん」

 「着る側は毎朝暑いよ」

 「ベレー帽も被るの?」

 「夏服の時は任意」

 「似合いそう」

 「見る側だけだよ。着る側は動きにくし邪魔だし」

 「制服ってそういうもん?」

 「少なくとも私はそう思ってる。」

 蒼馬の隣に腰を降ろす。

 「福並高は?」

 「校舎ボロい」

 「そんな情報いらない」

 「制服もダサい」

 「見れば分かる」

 第二ボタンまで開けてるシャツと緩く結ばれたネクタイを見る。真面目に着ていたら案外普通なのかもしれないが、本人にその気はなさそうだった。

 「寮なんだよね」

 「うん」

 「家、遠いの?」

 「遠い」

 それだけ言って、蒼馬は窓の外へ目を向ける。

 「どこ?」

 「沖縄」

 少しだけ意外だった。

 「へえ、すごい」

 「生まれはこっち」

 「じゃあ親の仕事?」

 「いや」

 首を横に振る。

 「じいちゃん」

 「おじいちゃん?」

 「沖縄に住んでた」

 そこで言葉が途切れる。続きを待つと、蒼馬はハンガーに掛かった制服を眺めたままぽつりと続けた。

 「小さい頃、長期休暇はほとんど沖縄だった」

 窓の外を見たまま、蒼馬は続ける。

 「夏休みも、冬休みも、春休みも。親よりじいちゃんといた時間の方が長かったかも」

 「そんなに?」

 「共働きだったから」

 「なるほど」

 それなら寮生活というのも少しだけ納得がいく。

 「おじいちゃん、漁師だったの?」

 海の近くと聞いて勝手にそんな想像をした。

 「違う」

 蒼馬は少し笑う。

 「絵描いてた」

 「え」

 思わず聞き返す。

 「仕事じゃないけど、俺より全然うまかった」

 「趣味?」

 「うん」

 どこか遠くを見るような目だった。

 「毎日描いてた」

 「海?」

 「海も描いてたし、街も、家も」

 少し間が空く。

 「人も」

 その一言だけ、少しだけ柔らかかった。

 「だから描き始めたの?」

 「分かんない」

 またその言葉だった。

 「気づいたら描いてた」

 自分は何も言わない。多分、本当にそうなのだろう。きっかけなんて覚えていないくらい自然に絵は蒼馬の生活の中にあった。

 「じいちゃん、変な人だった」

 「弥生くんに言われたくないと思う」

 「俺より変」

 「想像つかないなぁ」

 「朝四時に起きて散歩して」

 「昼寝して」

 「夕方また散歩」

 「途中で急に座って描く。」

 思わず笑ってしまう。

 「自由」

 「自由だった」

 蒼馬も少しだけ笑う。

 「描きたいと思ったら描けばいい、て」

 「いいおじいちゃんだね」

 「うん」

 返事は短かったけど、その一文字だけで十分だった。部屋に少しだけ静かな時間が流れる。エアコンの風で制服の裾が小さく揺れた。

 「亡くなったの?」

 静かに尋ねる。

 蒼馬は頷いた。

 「去年」

 去年。思っていたより最近だった。

 「病気?」

 「老衰」

 そう答えた声は驚くほど落ち着いている。悲しそうでもなく、無理に明るくしているわけでもない。ただ事実だけを話しているようだった。

 「それから?」

 自然と続きを聞いてしまう。

 蒼馬は少しだけ黙る。

 「家、売ることになった」

 「沖縄の?」

 「うん」

 「誰が?」

 「親」

 その二文字だけで何となく空気が変わった。さっきまでより少しだけ声が硬い。

 「維持できないからって」

 ベッドの縁に置いた手が小さくシーツを掴む。

 「まあ、普通だよね」

 笑うように言う。

 「住む人いないし」

 「……」

 「俺もこっちいるし」

 「……」

 「税金もあるし」

 一つ一つ理由を並べる。誰かを納得させるというより自分自身に言い聞かせるように。

 「合理的な判断だった」

 ぽつりと呟いた。その言葉だけが少し寂しく聞こえた。

 返事を探しす。「仕方ないね。」違う。「残念だったね。」それも違う。どちらも正しいのにどちらも言いたくなかった。

 沈黙が続く。

 やがて蒼馬が小さく笑った。

 「親とは、その辺からかな。ギクシャクし始めたの」

 「家売るの、反対した?」

 「した」

 即答だった。

 「でも」

 肩をすくめる。

 「俺、高校生だから」

 それ以上何もできなかった。その一言に妙な重さがあった。

 「九月には」

 窓の外を見たまま続ける。

 「どっかのお金持ちの別荘になるらしい」

 「別荘かぁ」

 「うん。知らない人が住む」

 部屋が急に静かになった気がした。

 「……行ってないの?」

 蒼馬は首を横に振る。

 「じいちゃんが亡くなってから、一回も」

 「なんで」

 蒼馬は少しだけ考えてから、

 「分かんない」

 と答えた。でも今度の「分かんない」はいつもの軽さとは違っていた。分からないのではなく、分からないままにしている。そんな響きがあった。

 「……後悔してる?」

 気づけば口が動いていた。

 蒼馬は少しだけ首を傾げる。

 「何を」

 「行かなかったこと」

 窓の外から蝉の声が聞こえる。

 しばらく考えてから、蒼馬は小さく息を吐いた。

 「分かんない」

 「またそれ」

 「本当に」

 笑うわけでもなく言う。

 「考えないようにしてたから」

 その一言だけで十分だった。行けば、もう誰かの家になっている現実を見ることになる。行かなければ、祖父との思い出だけは昔のまま残せる。どちらを選んでも苦しい。だから止まっている。そういうことなんだろう。

 「でも、」

 蒼馬はゆっくり続ける。

 「夢には見る」

 「夢?」

 「じいちゃん家」

 「縁側」

 「風鈴」

 「昼寝してるじいちゃん」

 「海」

 一つずつ置くように話す。

 「起きたら忘れるけど」

 忘れると言うくせに、その光景だけは驚くほど鮮明に浮かんでいるようだった。

 「今一番描きたいものは?」

 何気なく聞いた。

 蒼馬は迷わなかった。

 「珊瑚礁」

 「珊瑚礁?」

 「今、無性に描きたい。」

 その答えだけは、今までの「分かんない」と違っていた。迷いがない。

 「なんで珊瑚礁?」

 蒼馬は少し考えてから答えた。

 「じいちゃんが、最後に描こうとしてたものだから」

 「水族館で見れるんじゃない」

 「駄目」

 「なんで?」

 「本物じゃないから」

 短く答える。

 「野生の珊瑚礁が描きたい」

 少し考え込む。

 沖縄。

 蒼馬の祖父の家。

 九月には売られる。

 そして今は八月。

 頭の中で点と点がゆっくり繋がっていく。

 「来月には別荘になるんだよね」

 「うん」

 「今月なら?」

 蒼馬が顔を上げる。

 「まだ間に合う?」

 「……多分」

 「家、入れる?」

 「鍵はある」

 「親は?」

 「仕事」

 「寮は?」

 「門限ある」

 「夏休みだよね」

 「うん」

 「珊瑚礁もまだあるんだよね」

 「あると思う」

 自分でも何を考えているのか分からなかった。頭の中では「駄目」がいくつも並んでいる。高校生。無断外泊。沖縄。親。学校。全部まともじゃない。

 なのに。目の前にいる蒼馬は一年間ずっと動けずにいる。このまま九月になれば、多分一生行かない。そして何年もあとで、「あのとき行けばよかった。」とだけ思い続ける。それは自分がベッドの下へ押し込んだキーボードと、どこか似ている気がした。

 「……ねえ」

 蒼馬がこちらを見る。

 慎重に、ゆっくりと口を開いた。

 「沖縄、」

 少し息を吸う。

 「行く?」

 言った瞬間、自分が一番驚いた。何を言ってるんだろう。昨日までの自分なら絶対に言わない。受験生だ。医学部志望だ。夏休みは勉強するものだ。そんなこと自分が一番分かっている。それでも。

 蒼馬は目を丸くしたまま固まっていた。

 「……え?」

 「だから」

 苦笑を漏らす。

 「今しかないんでしょ?」

 蝉の声だけが部屋に満ちる。

 「家も」

 「珊瑚礁も」

 「今しか見られないなら」

 蒼馬は何も言わない。信じられないものを見るようにこっちを見つめている。

 「もちろん、簡単じゃないよ」

 「お金もいるし」

 「どうやって行くかも調べないといけないし」

 「泊まる場所も考えないと」

 「親に見つかったら怒られるし」

 「学校にも言えない」

 現実を並べる。それでも最後に残った言葉は一つだった。

 「でも、今ならまだ間に合う」

 蒼馬はゆっくりと視線を落とし、自分の手を見つめる。その指先は、鉛筆を握るときよりも少しだけ震えていた。

 「本当に?」

 「うん」

 「勉強は?」

 「旅途中でもできるし、帰ってからもできる」

 「怒られるよ」

 「その時はその時」

 蒼馬は笑う。

 「葉月らしくない」

 「そうだね。だから、ほら、私が正気に戻らないうちがチャンスだよ」

 小さく笑いかける。そして、もう一回言う。

 「沖縄、行く?」

 沈黙。長い、長い沈黙が続いた。

 「……行く」

 小さな声だった。でも今まで聞いたどの返事よりも迷いがなかった。

 「行く」

 もう一度言う。今度はこっちの目をしっかり見て、少しだけ笑っていた。その笑顔を見た瞬間、胸の奥が熱くなるのを感じた。勢いで口にしたはずなのに不思議と後悔はなかった。

 外で蝉が鳴いていた。エアコンの風で制服の裾が揺れる。私たちは、その夏、一番最初の約束をした。