珊瑚礁

 トースターが軽い音を鳴らした。

 焼き色のついた食パンにポテトサラダとハムを挟み、半分に切って皿へ乗せる。料理と呼ぶには申し訳ないくらい簡単な昼食、いや、おやつだった。

 「はい」

 ダイニングテーブルへ置くと、蒼馬は「いただきます」と言って迷いなくかぶりついた。

 「……うま」

 「ただのトーストだけど」

 「腹減ってるから」

 そう言いながら二口、三口と食べ進める。その勢いを見ていると、本当に朝から何も食べていなかったんだなと思う。

 「もっと作ろうか」

 「いや、これでいい」

 口いっぱいにパンを頬張ったまま答えるものだから説得力がない。

 自分は向かいへ腰を下ろし、スポーツドリンクを一口飲んだ。リビングに食パンを噛む音だけがやけに響く。行儀が良いんだか悪いんだか分からない食べ方だった。頬張るくせに、ハムがはみ出さないように器用に噛む。育ちが悪いわけじゃなさそうだ。

 最後の一口を食べ終えると、蒼馬は満足げに息を吐いてスポーツドリンクを一気に飲み干した。

 「ごちそうさま」

 「お粗末様」

 皿を片付けようと手を伸ばすと、その前に蒼馬が小脇に置いていたスケッチブックを引き寄せた。パラパラとページをめくり、途中で手を止める。

 「これ」

 「え」

 差し出されたページを覗き込んで思わず固まった。トースターの前に立つ自分の姿。伸ばした腕、覗き込む角度、傾いた首。鉛筆だけで描かれているのに、湯気まで見える気がした。

 「いつの間に……」

 「焼いてる間」

 そう言うと、蒼馬はまるで大したことじゃないみたいに肩をすくめた。

 改めて絵を見る。人物は相変わらず少しぎこちない。胴体の大きさも微妙だし、横顔だってほとんど描かれていない。それなのに、トースターの前でぼんやりパンを待っていた時間まで、そのまま紙の上に閉じ込められている気がした。

 「……また私」

 「いたから」

 「便利な言葉だね、それ」

 「便利だから」

 悪びれもせず言う。蒼馬はもう一枚ページをめくった。そこには、さっき公園で見せてもらった、ベンチで参考書を開いている私が描かれている絵だった。

 「これも」

 「それは見た」

 「うん」

 次の瞬間。

 ビリッ。

 乾いた音が部屋に響いた。

 「えっ」

 思わず声が漏れる。

 蒼馬は何の迷いもなく、スケッチブックからその二枚を切り離した。

 「ちょっ、何してるの」

 「あげる」

 差し出される。紙の端はギザギザで綺麗に切り取られたわけじゃない。

 「……え、でも」

 「いらないなら戻す」

 「戻せるの?」

 「無理」

 「じゃあ聞かないでよ」

 少しだけ困ったように笑う。

 「葉月だから」

 「またそれ」

 「うん」

 私は恐る恐る二枚の紙を受け取った。こんなものを貰ったことなんて一度もない。賞状でもない。手紙でもない。写真でもない。ただ、誰かが自分を描いた絵。

 「ありがとう」

 自然に口から出た。

 蒼馬は「どういたしまして」とだけ言って、もうスケッチブックを閉じていた。その様子は、本当に落書きを一枚渡した程度の軽さだった。

 改めて食器を流しへ運ぶ。後ろではテレビも点けず、蒼馬が静かに部屋を眺めている気配がした。

 「葉月」

 「なに」

 「部屋ある?」

 洗っていた皿を危うく落としかけた。

 「……あるけど」

 「見たい」

 即答だった。

 「なんで」

 「葉月の部屋だから」

 「理由になってない」

 「なる」

 「ならない」

 振り返ると、蒼馬はソファに座ったまま本気で不思議そうな顔をしていた。

 「人の部屋って面白いじゃん」

 「普通は勝手に見たがらないの」

 「勝手じゃない」

 「今許可取ろうとしてるだけ」

 「うん」

 「だから駄目」

 別に見られて困るものがあるわけじゃない。漫画や趣味の本が本棚の隅にちょこっと置いてある以外には、参考書と勉強道具くらいしかない部屋だ。むしろ面白くない。だからこそ、見せたくない。

 「面白くないよ」

 「知ってる」

 「知ってるの?」

 「何となく」

 「じゃあ余計見なくていいでしょ」

 「面白くない部屋ほど見たい」

 「変」

 「うん」

 迷いなく頷かれて返す言葉がなくなる。本当にこの人は欲しい答えを一つも返してこない。

 「ちょっと見るだけ」

 気づけばそんな言葉が口をついていた。

 「ちょっと見たら出る」

 「了解」

 あまりにも素直な返事だった。その素直さが少しだけ癪に障る。

 「ついてきて」

 廊下へ出る。リビングの隣、一番奥の扉の前で立ち止まる。ドアノブに手を掛けたまま一瞬だけ躊躇した。たった六畳の部屋だ。

 ベッド。

 勉強机。

 本棚。

 壁際には大学のパンフレットが積まれていて、机には開きっぱなしの参考書。付箋の貼られた単語帳と、芯の短くなったシャープペンシル。毎日をそのまま切り取ったような部屋だった。

 「失礼します」

 蒼馬は静かに中へ入る。思っていた通り、勝手に引き出しを開けたりはしなかった。ただゆっくり歩きながら部屋を見ている。蒼馬は本棚の前で足を止めた。参考書ばかりが並ぶ棚の端にだけ、色の違う背表紙が並んでいる。

 「漫画あるじゃん」

 「あ……」

 受験勉強を始める前から集めていた漫画たちだった。途中までしか揃っていないシリーズもある。新刊だけ買って、読む時間がなくて積んだままのものもあった。

 「ちょっとだけ」

 「ちょっとどころじゃないよね」

 蒼馬は指先で背表紙をなぞる。

 「これ読んでたんだ」

 「昔ね」

 「今は?」

 「新刊出たら買うくらい」

 「読むじゃん」

 「……読むけど」

 「好きなんだ」

 「好きだった、かな」

 自分で言ってから少しだけ引っかかった。好きだった。本当にそうなんだろうか。新刊が出るたびに買ってしまうのに。本屋へ行けば絶対漫画コーナーを覗くのに。

 「これも?」

 蒼馬が今度は隣の棚を指差した。

 画集。

 写真集。

 星空の本。

 鉱物図鑑。

 占い。

 深海生物。

 世界遺産。

 統一感なんてまるでない。

 「趣味バラバラ」

 「昔、面白そうって思ったもの」

 「全部?」

 「全部」

 「すご」

 感心したように言う。

 「いや、すごくないよ」

 思わず笑ってしまう。

 「全部途中だから」

 「途中?」

 「最初だけ興味あって、買って、読んで……それで終わり」

 画集を一冊抜き取る。

 ページをめくると、付箋が一枚だけ挟まっていた。

 「絵、描こうと思ってた時期もあった」

 「葉月が?」

 「イラストレーターになりたいなんか思っちゃって」

 「意外」

 「まあ、続かなかったけど」

 そのまま画集を閉じる。

 「星も好きだったなぁ」

 今度は星図の本。

 「天体望遠鏡まで買ってもらった」

 「へえ」

 「三回しか使ってない」

 「もったいない」

 「うん」

 笑うしかない。

 「バレエも」

 「え」

 「いつかやろうって妄想して、結局その『いつか』は来なかった」

 やってみたい。面白そう。楽しそう。そんな気持ちは何度もあった。でも、どれも行動する前か途中で終わった。飽きたのか、向いていなかったのか、それとも本気じゃなかったのか。今となっては自分でも分からない。

 蒼馬は何も言わなかった。責めることも、励ますこともしない。ただ棚を見ている。

 しばらく沈黙が流れた。

 そのときだった。

 「あ」

 蒼馬がベッドの方を見る。

 「その下、何」

 「え?」

 視線を追うと、ベッドの下から黒いケースの端が少しだけはみ出していた。

 「あー……」

 忘れていた。というより、見ないようにしていた。

 「何?」

 「……キーボード」

 「ピアノ?」

 「電子キーボード」

 少しだけ迷ってからしゃがみ込む。ケースを引っ張り出すと細かな埃がふわりと舞った。

 「久しぶりに見た」

 自分で言って苦笑する。

 ケースのファスナーを開けると、中から六十一鍵の小さな電子キーボードが現れた。

 「弾くの?」

 「弾いてた」

 「どれくらい?」

 「小学校六年間弱」

 「結構やってる」

 「まあね」

 ケースから取り出したキーボードを床へ置く。コンセントを差し込み、恐る恐る電源を入れた。ピッ、と短い電子音。それだけで懐かしかった。

 鍵盤に指を置く。白い鍵盤は少し黃ばんでいて、何年も弾いていなかったことを思い出させる。

 「何弾くの」

 「分かんない」

 右手だけで鍵盤を押す。

 ミ。

 レ。

 ミ。

 レ。

 指が自然と定位置の音を弾く。思っていたより覚えているかもしれない。

 ミシレドラ。

 ピアノを習う子は必ずと言ってもいいほどやらされる、『エリーゼのために』。右手だけで途切れ途切れに弾く。指は音を覚えていたのに、手首の動きはひどくぎこちない。

 ドミラ、ド。

 少しだけ間違える。

 「忘れてる」

 「うん」

 苦笑しながらもう一度最初から弾く。今度は少しだけ長く続いた。でも左手が入った瞬間、止まる。

 「あー……」

 思わず笑ってしまう。

 「無理」

 「弾けてるじゃん」

 「全然」

 鍵盤から手を離す。

 「昔はもっと弾けたんだけど」

 「なんでやめたの」

 少しだけ考える。

 「……なんでだろ」

 習い事をやめた日のことは覚えている。先生が「受験もあるしね」と笑っていたことも。母が「また落ち着いたら始めればいいよ」と言っていたことも。でも、そのまたは来なかった。

 「受験で忙しくなって」

 ぽつりと言う。

 「戻ろうとは思わなかった?」

 「思ったよ」

 即答だった。

 「何回も」

 でも。

 「そのたびに、もう指動かないだろうなって」

 蒼馬は何も言わない。

 「あとさ」

 自分でも驚くくらい、言葉が続く。

 「新しく始めたいものが見つかるたびに、そっちの方が面白そうに見えちゃうんだよね」

 鍵盤を一つ押す。

 澄んだドの音が部屋に響いた。

 「手芸とか」

 もう一つ。

 「小説とか」

 もう一つ。

 「写真とか」

 ぽん。

 ぽん。

 ぽん。

 「やってみたいなって思う」

 「でも、始めない」

 「始めても続かない」

 気づけば独り言みたいになっていた。

 「なんかね」

 鍵盤を見つめたまま笑う。

 「私、『面白そう』を集めるのだけは得意だった」

 蒼馬は本棚へ近づき、一冊の鉱物図鑑を手に取る。今度は何も言わず、ぱらぱらとページをめくる。紫色の結晶。青い鉱石。黄金色の断面。

 「これ」

 本を閉じてこっちに向ける。

 「好きだったんじゃないの」

 「好きだったよ」

 「今も?」

 返事が少し遅れる。

 「……分かんない」

 「なんで」

 「好きって、続いてる人が言う言葉じゃない?」

 自分で口にしてから、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 「私は全部途中だから」

 蒼馬は図鑑を元の場所へ戻した。

 「途中でも好きでしょ」

 「好きなら続くもん」

 「そう?」

 「そうだよ」

 「俺は違う」

 顔を上げる。蒼馬は本棚ではなく、床に置かれたキーボードを見ていた。

 「俺、描くの飽きる」

 「うん」

 「毎日」

 「うん」

 「嫌になる日もある」

 「……うん」

 「でも描く」

 それだけ言って黙る。さっき公園で聞いた言葉と同じだった。『今日も描くって決めたから』。

 「これ、」

 蒼馬は鍵盤を指差した。

 「まだ音鳴るじゃん」

 その一言が不思議なくらい胸に残った。弾けるかどうかでもない。上手いかどうかでもない。まだ音が鳴る。ただ、それだけ。

 私はもう一度鍵盤へ指を置く。今度は『エリーゼのために』じゃなかった。何の曲かも分からないまま、覚えている音だけをゆっくり並べる。途切れ途切れで、拙くて、何度も音を外した。

 それでも部屋の中には、小さなメロディーが流れ続けた。