玄関のドアを開けると、ひんやりとした空気が流れ出た。
「……生き返る」
背後から聞こえた声に振り返る。蒼馬は玄関先に立ったまま目を閉じて冷気を浴びていた。
「まだ入っていいって言ってない」
「玄関だからセーフ」
「屁理屈」
靴を脱ぐ。後ろから続いてきた足音も素直に靴を揃えていた。少し意外だ。こういうタイプは脱ぎっぱなしにするものだと思っていた。
「お邪魔します」
「……どうぞ」
リビングへ案内すると、蒼馬はソファにも座らず部屋を一周見回した。
本棚。
テレビ。
観葉植物。
そして書類が山積みされた参考書。
「参考書、多」
「受験生だから」
「全部読むの」
「読まないと落ちるでしょ」
「へえ」
また、その「へえ」だった。興味があるのかないのか分からない返事。そう言ったきり、蒼馬は積まれた参考書の前でしゃがみ込んだ。一冊だけ抜き取る。
「医学部だ」
「勝手に触らないで」
「見てるだけ」
「それを触るって言うの」
素直に元へ戻すが、次は模試の成績表へ目が向いた。一番上に置かれた紙には、大きく赤字で書き込まれている。
あと8点。
「これ、葉月が書いた?」
「うん」
「なんで」
「忘れないように」
「忘れる?」
「人間って都合よく忘れるから」
蒼馬は少しだけ黙った。
「俺、嫌なことすぐ忘れる」
「羨ましい」
「その代わり昨日描いた絵も忘れる」
「え」
「だから毎日描く」
さらっと言われて言葉に詰まる。
「覚えてないの?」
「覚えてるけど」
蒼馬は宙を指でなぞった。
「昨日の木から見た景色と今日の木から見た景色は、別物だから」
「それ、よく言ってるよね」
「本当のことだもん。葉月だって毎日同じ参考書見てるでしょ」
今度は私が黙る番だった。そんなこと、考えたこともない。昨日解けなかった問題が今日は解ける。今日は解けても明日は間違える。確かに毎日同じではない。
「そういうもん?」
「そういうもん」
蒼馬は当たり前みたいに言う。完全には納得していないけど、否定する材料も見つからなかった。
冷房の風がカーテンをゆっくり揺らす。しばらく沈黙が続いた。
「飲み物いる?」
「麦茶」
「遠慮ないね」
「ジュースでも可」
「贅沢言わないの」
奥のキッチンに回って、冷蔵庫を開ける。
「お茶とスポドリとソーダ、どれがいい?」
「じゃあスポドリ」
冷蔵庫から二本取り出してリビングへ戻る。
蒼馬は本棚の前に立っていた。もちろん今度は何も触っていいないが、中央に飾られた家族写真をじっと見つめていた。
「はい」
スポーツドリンクを投げると片手で受け止める。
「ありがと」
キャップを開ける音が重なる。
エアコンの風だけが部屋を流れていた。
「静かだね」
蒼馬がぽつりと言う。
「親、仕事?」
「お父さんは天国、お母さんはニューヨーク」
蒼馬の手が止まった。口に運びかけていたスポーツドリンクをそっとおろして、家族写真を見つめ直す。
「……すごい距離」
「どっちが?」
「両方」
思わず吹き出す。
「そこ笑うとこ?」
「ううん、予想外だっただけ。小一のとき、交通事故」
言葉はそれだけで十分だった。詳しく話したところで、空気が重くなるだけだ。蒼馬も、それ以上は聞かなかった。
「お母さん、仕事?」
「商社。海外出勤中」
「てことは、今一人暮らし?」
「一応。親戚がたまに来るけど」
「へえ」
またその「へえ」。だけど今度は少し違った。何を言えばいいのか分からないけど、少しだけ本当に考えているような「へえ」に聞こえた。
「寂しくない?」
その質問に、少しだけ考える。
寂しい。
そう思ったことはあまりない。小学生の頃にはもう父はいなかったし、母も家を空けることが多かった。だからこの静けさは、私にとって普通だった。
「慣れた」
答えると、蒼馬は「そっか」とだけ言った。変な空気にならなくて助かる。こういう話をすると、大抵「大変だったね」とか「かわいそう」とか返される。
そういう一言が一番困る。大変だったことなんて、自分が一番知っている。だから慰められる理由もない。蒼馬は慰めなかった。それが妙に心地よかった。
視線がまた家族写真へ向く。七五三。父と母に挟まれて笑っている小さな私。
「写真の葉月、今より笑ってる」
「失礼だな」
「今も笑うけど」
少し考える。
「なんか違う」
「どこが?」
「今は考えながら笑ってる」
思わず眉をひそめる。
「そんなことない」
「そう?」
「そう」
即答した。でも、そのあと少しだけ言葉が続かない。本当に違うのかな。
「俺、人の顔描けないけど」
蒼馬が写真を見たまま言う。
「表情は分かるよ」
「描けないのに?」
「描けないから見る」
意味が分からない。
「人物苦手なんじゃなかったの」
「苦手」
「じゃあなんで」
「分かんない」
またそれだ。
「葉月も、なんで医者になりたいかって聞かれたら困るでしょ」
胸の奥で何かが引っ掛かった。
「……まだ聞かれてないけど」
「聞いてる」
「え?」
「参考書、」
そう言って、本棚の方を指差す。
「毎日、」
「あと八点、」
「毎日、」
「毎日」
一語ずつ置くように繰り返す。
「葉月が毎日聞かれてる」
思わずリビングを見渡す。
積まれた参考書。
付箋。
赤本。
模試。
赤字で書いた、
あと八点。
「毎日、なんでって聞かれてる」
静かな声だった。
「そして、毎日答えてる」
「……答えてないよ」
「答えてる」
「勉強してるだけ」
「それが答え」
自分は何も言えなかった。
そのとき。
グゥゥ……
間の抜けた音が部屋に響く。二人同時に止まった。蒼馬がゆっくり自分の腹を見る。
「……鳴った」
「聞こえた」
「昼、食べてない」
「今何時?」
スマホを見る。午後三時四十分。
「私は三時間前にコンビニで済ませたけど」
「俺、朝から麦茶しか飲んでない」
「なんで」
「描いてた」
あまりにも当然みたいに言うから思わずため息が出る。
「馬鹿」
「多分そうだね」
「認めるんだ」
「お腹空くと描けなくなる」
「じゃあ食べなよ」
「描いてた」
「堂々と同じこと言わないで」
私は立ち上がって再びキッチンの冷蔵庫へと向かった。
卵。
ハム。
食パン。
昨夜の残りのポテトサラダ。
「……トーストくらいなら作れるけど」
背中越しに言うと、間髪入れずに返事が返ってきた。
「いただきます」
「まだ作ってない」
振り返ると、蒼馬はソファにもたれながら、どこか安心したように目を細めていた。
その表情を見て、私はふと気づく。この人は、さっきから部屋の中を見ているようでいて、一度も「いい家だね」とも「広いね」とも言わない。代わりに見ているのは、参考書だったり、家族写真だったり、私が置きっぱなしにしたシャーペンだったり。
物じゃなくて、その向こうにあるものばかり見ている。だから絵を描くんだろうか。そんなことを考えながら、パンをトースターに入れた。
背後では、エアコンの風に混じって、スケッチブックを開く小さな音がした。
「……生き返る」
背後から聞こえた声に振り返る。蒼馬は玄関先に立ったまま目を閉じて冷気を浴びていた。
「まだ入っていいって言ってない」
「玄関だからセーフ」
「屁理屈」
靴を脱ぐ。後ろから続いてきた足音も素直に靴を揃えていた。少し意外だ。こういうタイプは脱ぎっぱなしにするものだと思っていた。
「お邪魔します」
「……どうぞ」
リビングへ案内すると、蒼馬はソファにも座らず部屋を一周見回した。
本棚。
テレビ。
観葉植物。
そして書類が山積みされた参考書。
「参考書、多」
「受験生だから」
「全部読むの」
「読まないと落ちるでしょ」
「へえ」
また、その「へえ」だった。興味があるのかないのか分からない返事。そう言ったきり、蒼馬は積まれた参考書の前でしゃがみ込んだ。一冊だけ抜き取る。
「医学部だ」
「勝手に触らないで」
「見てるだけ」
「それを触るって言うの」
素直に元へ戻すが、次は模試の成績表へ目が向いた。一番上に置かれた紙には、大きく赤字で書き込まれている。
あと8点。
「これ、葉月が書いた?」
「うん」
「なんで」
「忘れないように」
「忘れる?」
「人間って都合よく忘れるから」
蒼馬は少しだけ黙った。
「俺、嫌なことすぐ忘れる」
「羨ましい」
「その代わり昨日描いた絵も忘れる」
「え」
「だから毎日描く」
さらっと言われて言葉に詰まる。
「覚えてないの?」
「覚えてるけど」
蒼馬は宙を指でなぞった。
「昨日の木から見た景色と今日の木から見た景色は、別物だから」
「それ、よく言ってるよね」
「本当のことだもん。葉月だって毎日同じ参考書見てるでしょ」
今度は私が黙る番だった。そんなこと、考えたこともない。昨日解けなかった問題が今日は解ける。今日は解けても明日は間違える。確かに毎日同じではない。
「そういうもん?」
「そういうもん」
蒼馬は当たり前みたいに言う。完全には納得していないけど、否定する材料も見つからなかった。
冷房の風がカーテンをゆっくり揺らす。しばらく沈黙が続いた。
「飲み物いる?」
「麦茶」
「遠慮ないね」
「ジュースでも可」
「贅沢言わないの」
奥のキッチンに回って、冷蔵庫を開ける。
「お茶とスポドリとソーダ、どれがいい?」
「じゃあスポドリ」
冷蔵庫から二本取り出してリビングへ戻る。
蒼馬は本棚の前に立っていた。もちろん今度は何も触っていいないが、中央に飾られた家族写真をじっと見つめていた。
「はい」
スポーツドリンクを投げると片手で受け止める。
「ありがと」
キャップを開ける音が重なる。
エアコンの風だけが部屋を流れていた。
「静かだね」
蒼馬がぽつりと言う。
「親、仕事?」
「お父さんは天国、お母さんはニューヨーク」
蒼馬の手が止まった。口に運びかけていたスポーツドリンクをそっとおろして、家族写真を見つめ直す。
「……すごい距離」
「どっちが?」
「両方」
思わず吹き出す。
「そこ笑うとこ?」
「ううん、予想外だっただけ。小一のとき、交通事故」
言葉はそれだけで十分だった。詳しく話したところで、空気が重くなるだけだ。蒼馬も、それ以上は聞かなかった。
「お母さん、仕事?」
「商社。海外出勤中」
「てことは、今一人暮らし?」
「一応。親戚がたまに来るけど」
「へえ」
またその「へえ」。だけど今度は少し違った。何を言えばいいのか分からないけど、少しだけ本当に考えているような「へえ」に聞こえた。
「寂しくない?」
その質問に、少しだけ考える。
寂しい。
そう思ったことはあまりない。小学生の頃にはもう父はいなかったし、母も家を空けることが多かった。だからこの静けさは、私にとって普通だった。
「慣れた」
答えると、蒼馬は「そっか」とだけ言った。変な空気にならなくて助かる。こういう話をすると、大抵「大変だったね」とか「かわいそう」とか返される。
そういう一言が一番困る。大変だったことなんて、自分が一番知っている。だから慰められる理由もない。蒼馬は慰めなかった。それが妙に心地よかった。
視線がまた家族写真へ向く。七五三。父と母に挟まれて笑っている小さな私。
「写真の葉月、今より笑ってる」
「失礼だな」
「今も笑うけど」
少し考える。
「なんか違う」
「どこが?」
「今は考えながら笑ってる」
思わず眉をひそめる。
「そんなことない」
「そう?」
「そう」
即答した。でも、そのあと少しだけ言葉が続かない。本当に違うのかな。
「俺、人の顔描けないけど」
蒼馬が写真を見たまま言う。
「表情は分かるよ」
「描けないのに?」
「描けないから見る」
意味が分からない。
「人物苦手なんじゃなかったの」
「苦手」
「じゃあなんで」
「分かんない」
またそれだ。
「葉月も、なんで医者になりたいかって聞かれたら困るでしょ」
胸の奥で何かが引っ掛かった。
「……まだ聞かれてないけど」
「聞いてる」
「え?」
「参考書、」
そう言って、本棚の方を指差す。
「毎日、」
「あと八点、」
「毎日、」
「毎日」
一語ずつ置くように繰り返す。
「葉月が毎日聞かれてる」
思わずリビングを見渡す。
積まれた参考書。
付箋。
赤本。
模試。
赤字で書いた、
あと八点。
「毎日、なんでって聞かれてる」
静かな声だった。
「そして、毎日答えてる」
「……答えてないよ」
「答えてる」
「勉強してるだけ」
「それが答え」
自分は何も言えなかった。
そのとき。
グゥゥ……
間の抜けた音が部屋に響く。二人同時に止まった。蒼馬がゆっくり自分の腹を見る。
「……鳴った」
「聞こえた」
「昼、食べてない」
「今何時?」
スマホを見る。午後三時四十分。
「私は三時間前にコンビニで済ませたけど」
「俺、朝から麦茶しか飲んでない」
「なんで」
「描いてた」
あまりにも当然みたいに言うから思わずため息が出る。
「馬鹿」
「多分そうだね」
「認めるんだ」
「お腹空くと描けなくなる」
「じゃあ食べなよ」
「描いてた」
「堂々と同じこと言わないで」
私は立ち上がって再びキッチンの冷蔵庫へと向かった。
卵。
ハム。
食パン。
昨夜の残りのポテトサラダ。
「……トーストくらいなら作れるけど」
背中越しに言うと、間髪入れずに返事が返ってきた。
「いただきます」
「まだ作ってない」
振り返ると、蒼馬はソファにもたれながら、どこか安心したように目を細めていた。
その表情を見て、私はふと気づく。この人は、さっきから部屋の中を見ているようでいて、一度も「いい家だね」とも「広いね」とも言わない。代わりに見ているのは、参考書だったり、家族写真だったり、私が置きっぱなしにしたシャーペンだったり。
物じゃなくて、その向こうにあるものばかり見ている。だから絵を描くんだろうか。そんなことを考えながら、パンをトースターに入れた。
背後では、エアコンの風に混じって、スケッチブックを開く小さな音がした。
