「葉月、何読んでんの」
突然後ろから降ってきた声に、心臓が嫌な跳ね方をした。指先の力が完全に抜け、開いていた本がパサリと音を立てて膝の上に落ちる。
「っ!?」
振り返るまでもなく、明らかに声のした方向がおかしい。ベンチの背もたれを掴んで上半身をひねると、逆さまにぶら下がった蒼馬の顔がそこにあった。膝を枝に引っ掛け、腕をだらりと垂らしたまま、金髪が重力に負けて真下に流れている。
「な……」
「何読んでるの」
同じ質問がもう一度落ちてくる。こっちの動揺なんかにはお構いなしだ。
「先にその体勢どうかして」
「別に平気」
「頭に血登っちゃうよ」
「大丈夫」
「鼻血出ても知らないから」
軽口を叩きながらも内心では心臓がまだ落ち着かない。木の上にいるとは思っていたが、まさか逆さ吊りで話しかけてくるとは。やっぱりこの年頃の男子なんかは所詮、小学生の延長版だ。こいつが変わってるなんて前後撤回。
「古典」
仕方なく参考書を拾い上げて見せる。小説かなんかだと思われていたらしいが、生憎ただの問題集だ。
「面白い?」
「全く。苦手な分野だし、あと八点足りない」
「八点」
「模試のA判定に」
「へえ」
興味があるのかないのか分からない相槌を打つと、ようやく身体を起こして枝に座り直した。逆さまだった前髪が元に戻り、少しだけ乱れている。
「毎日、木、変えてるんだ」
気づいたことをそのまま口にする。一週間前に会ったのは公園の入り口近くの木だったが、次の日は奥の方、その次はまた別の木。今日はベンチの真後ろに立つ木の上にいた。
「気づいてたんだ」
「気づくよ、これだけ通ってれば」
言ってから、しまったと思う。
「結局来るんじゃん。分からないって言ってたのに」
案の定、揶揄うような声が降ってきた。
「……たまたま」
「一週間、毎日たまたま?」
「勉強に飽きたら外の空気吸いたくなるだけ」
「へえ」
納得していない相槌がもう一度落ちてくる。ムッとして参考書に視線を戻すが、集中できているとは言い難い。文章が目を滑っていくだけで、頭には入ってこない。
「なんで毎日違う木にするの?」
沈黙が気まずくて、こっちから話を振ってみる。
「昨日と同じの、なんか違う気がして」
「違う木に登ったら、違う絵になるってこと?」
「そう」
「同じ公園なのに?」
「同じ公園だからこそ」
言っている意味がよく分からない。眉を寄せると、蒼馬は枝の上で身体をずらし、頭だけをこちらに向けた。
「同じ景色ずっと見てたら、違うとこ探したくなる」
その理屈もよく分からないが、なんとなく納得してしまいそうになる自分がいる。毎日同じ参考書、同じ問題、同じ「あと8点」。景色を変えることなんて、この一週間で一度も考えなかった。
「葉月は」
「はい?」
「毎日同じページ、見てんの」
図星を突かれて言葉に詰まる。
「……間違えた問題を、間違えなくなるまでやってる」
「飽きない?」
「飽きる」
自分の口から出た言葉に少し驚く。飽きるなんて、今まで誰にも言ったことがなかった。言う相手もいなかったし、言う必要もなかった。ただ黙って、参考書を開いて、閉じる。それだけの毎日。
「飽きるのに、やんの」
「足らない点数は勝手に埋まってくれないんで」
「ふうん」
興味なさそうな声。なのに、なぜか責められている気はしなかった。
蝉の声が一段と強くなる。木陰にいるはずなのに、じわりと汗が滲んでくる暑さだった。今日の最高気温は三十八度。エアコンなしでは、とてもじゃないがこの暑さに耐え続けられそうにない。
「そろそろ限界かも」
呟くと同時に、スケッチブックを閉じる音が頭上でした。
「終わり?」
「今日はここまで」
言うが早いか、蒼馬はするりと幹を伝って降りてくる。相変わらず危なげのない動きで、着地の衝撃すら感じさせない。
「見せてよ」
「え」
「今日の絵」
自分の言葉に自分でも驚く。今までは描き途中のものをチラチラするくらいで、見せてと頼んだことなんてないのに。
蒼馬は少しだけ間を置いてから、スケッチブックを開いて渡してきた。断られると思っていたが、意外ともあっさりと見せてくれるらしい。
紙の上には、いつも通り、木の上から見た公園が描かれていた。今回は下を見下ろしたような構図だ。斜めに伸びるベンチ。その足元へ落ちる枝葉の影。ベンチの横に置いたビニール袋。その真ん中に小さく私がいる。俯いた頭。開いた参考書。
風景は相変わらず驚くほど細かい。木漏れ日まで描いてある。
なのに。
私だけが、少し危うい。右肩が妙に大きいし、腕の長さが少し変だ。髪の流れもぎこちない。顔なんて、前髪でほとんど隠れているせいか、輪郭だけがなんとなく私だと分かる程度だった。
「人物、苦手なんだね」
蒼馬は絵を覗き込んで、
「うん」
とだけ答えた。
「背景との差がすごい」
「人物むずいもん」
「これ、私じゃなくてもバレないんじゃない?」
「葉月だよ」
「いや、分からないって」
「俺には分かる」
「描けてないくせに」
「……そう」
本気で少し落ち込んだような声だった。
少しだけ気まずくなって、視線をスケッチブックから空へ逃がす。
「別に、下手って言いたいわけじゃなくて」
「分かってる」
「ただ、風景があまりにも上手いから、余計に目立つっていうか」
「うん」
蒼馬はスケッチブックを受け取り直すとパラパラとページをめくり始めた。見せる気なのかと思ったが、そうではなく、ただ自分で見返しているだけらしい。指先が止まったページには、誰もいないブランコが描かれていた。人物なんて、どこにもない。
「苦手なら、描かなきゃいいのに」
思ったことがそのまま口から出る。
「最近は葉月がいるから」
顔を上げないまま、蒼馬は淡々と言う。
「同じ公園でも、いるかいないかで絵は変わるよ」
意味を飲み込むのに数秒かかった。要するに、自分がベンチに座っている日はその景色に自分が含まれるということだ。描くのが下手でも消さない。描かないという選択肢もあったはずなのに。
「別に、人物練習する意味なんてないんでしょ」
「でも、いたし」
理由になっているようで、なっていない。でも、それ以上突っ込む気にもなれなかった。
「……次はもうちょっと上手く描いて」
「善処する」
「善処って便利な言葉だよね」
「うん」
悪びれもせずに頷く横顔を見ていたら、なんだか毒気を抜かれた。ため息をひとつ吐いて参考書を閉じる。今日はもう本当に限界だ。文字を読む気力なんか、この暑さの中では蒸発してしまったらしい。
「もう帰るね」
「一人で冷房部屋に逃げるつもり?」
「弥生くんも寮に戻れば」
「あそこ、冷房古いから二分の一の確率で温風でるんだよね」
「二分の一て」
思わず笑ってしまう。真顔で言われるとなおさら可笑しい。
「壊れてるっていうか、気分屋なんだと思う」
「エアコンに機嫌なんかあったら困るよ」
「そういう葉月のエアコンは、今日のご機嫌はいかが?」
「正常に働いてるかっていうことなら、冷風はちゃんと出るよ」
「じゃあ、使わせて」
「は?」
思わず変な声が出た。予想の斜め上をいく返しに、頭の中で言葉を組み立て直す。
「え、普通に自分家の使ってください」
「やだ」
「知り合ったばっかな女の子の家に上がり込もうとするのやめて」
「涼むだけならいいじゃん」
悪びれもせず言い切る顔を見ていると、こっちが非常識なことを言っているような錯覚すら覚えてくる。
「それに、家帰ったら親にネチネチ言われるし」
軽い口調のわりに、目だけは少し逸れていた。踏み込んでいい話題かどうか迷う間もなく、蒼馬はスケッチブックを小脇に抱え直して空に向かって言い放った。
「あー、暑いなー。このまま熱中症になっちゃうかもー」
棒読みの熱中症アピールに、思わず半目になる。
「その幼稚園の学芸会レベルの演技で同情引けると思った?」
「思ってない。でも効果はある」
「ないから」
「じゃあ倒れる。今から」
「勘弁して」
本当にふらつくフリでもされたら困る。今日の気温は洒落にならない。三十八度の中、本当に具合が悪くなる人間がいてもおかしくない暑さだ。そう考えると強気に出づらくなる自分がいた。
「……三十分だけ」
「三十分」
「涼んだらすぐ帰る。それが条件」
「了解」
食い気味の返事だった。
……いや、待て。
「ちょっと待って」
「ん?」
「なんで私、了承した?」
「したね」
「普通しないよね」
「した」
「いやいやいや」
頭を抱える。冷静に考えろ、慧麻。知り合って一週間。名前を知って、毎日公園で話して、それだけじゃん。そんな相手を家に上げる高校二年生がどこにいる。
「やっぱなし」
「えー」
「えー、じゃない」
「二十五分」
「時間の問題じゃない」
「二十分」
「短くすればいいってもんじゃないから」
蒼馬は少しだけ考え込む。
「玄関」
「は?」
「玄関だけ」
「玄関でも駄目」
「じゃあ廊下」
「変わらない」
「ベランダ」
「むしろ何しに来るの」
「涼みに」
「ベランダ暑いでしょ」
「確かに」
納得するな。
目の前の男は本気で悪意がない。だから余計に厄介だった。キッパリ断れば跡をついてくるなんてこともしないだろう。でも、この炎天下に追い返して、本当に熱中症で倒れられても困る。
それに。
毎日木の上で絵を描いてるくらいだから、少なくとも変な目的ではない、と思う。思う、だけだ。
「……本当に三十分」
「うん」
「変なことしたら追い出す」
「しない」
「勝手に部屋見ない」
「見ない」
「写真撮らない」
「撮らない」
「冷蔵庫勝手に開けない」
「開けない」
「物を持ち出さない」
「持ち出さない」
「引き出し漁らない」
「漁らない」
「……」
ここまで言って、自分が何を確認しているのか分からなくなる。
蒼馬は不思議そうに首を傾げた。
「葉月」
「なに」
「俺、そんな信用ない?」
「あると思う?」
少しだけ間が空いて蒼馬は笑った。
「ないね」
「そうだね」
「じゃあ仕方ない」
その潔さに力が抜ける。歩き出した背中に蝉の声が降り注いだ。隣を歩く蒼馬は鼻歌まじりで、さっきまで木の上にいた人間とは思えないくらい機嫌がいい。
こっちはというと、なんでこうなったんだろう、とばかり考えていた。
公園で鉛筆が落ちてきた、たったそれだけの偶然。それが一週間も続いて、ついには知り合って間もない男子高校生を家に連れて帰ろうとしている。
我ながら意味が分からない。
ただ、この日は暑かった。それだけだった。
突然後ろから降ってきた声に、心臓が嫌な跳ね方をした。指先の力が完全に抜け、開いていた本がパサリと音を立てて膝の上に落ちる。
「っ!?」
振り返るまでもなく、明らかに声のした方向がおかしい。ベンチの背もたれを掴んで上半身をひねると、逆さまにぶら下がった蒼馬の顔がそこにあった。膝を枝に引っ掛け、腕をだらりと垂らしたまま、金髪が重力に負けて真下に流れている。
「な……」
「何読んでるの」
同じ質問がもう一度落ちてくる。こっちの動揺なんかにはお構いなしだ。
「先にその体勢どうかして」
「別に平気」
「頭に血登っちゃうよ」
「大丈夫」
「鼻血出ても知らないから」
軽口を叩きながらも内心では心臓がまだ落ち着かない。木の上にいるとは思っていたが、まさか逆さ吊りで話しかけてくるとは。やっぱりこの年頃の男子なんかは所詮、小学生の延長版だ。こいつが変わってるなんて前後撤回。
「古典」
仕方なく参考書を拾い上げて見せる。小説かなんかだと思われていたらしいが、生憎ただの問題集だ。
「面白い?」
「全く。苦手な分野だし、あと八点足りない」
「八点」
「模試のA判定に」
「へえ」
興味があるのかないのか分からない相槌を打つと、ようやく身体を起こして枝に座り直した。逆さまだった前髪が元に戻り、少しだけ乱れている。
「毎日、木、変えてるんだ」
気づいたことをそのまま口にする。一週間前に会ったのは公園の入り口近くの木だったが、次の日は奥の方、その次はまた別の木。今日はベンチの真後ろに立つ木の上にいた。
「気づいてたんだ」
「気づくよ、これだけ通ってれば」
言ってから、しまったと思う。
「結局来るんじゃん。分からないって言ってたのに」
案の定、揶揄うような声が降ってきた。
「……たまたま」
「一週間、毎日たまたま?」
「勉強に飽きたら外の空気吸いたくなるだけ」
「へえ」
納得していない相槌がもう一度落ちてくる。ムッとして参考書に視線を戻すが、集中できているとは言い難い。文章が目を滑っていくだけで、頭には入ってこない。
「なんで毎日違う木にするの?」
沈黙が気まずくて、こっちから話を振ってみる。
「昨日と同じの、なんか違う気がして」
「違う木に登ったら、違う絵になるってこと?」
「そう」
「同じ公園なのに?」
「同じ公園だからこそ」
言っている意味がよく分からない。眉を寄せると、蒼馬は枝の上で身体をずらし、頭だけをこちらに向けた。
「同じ景色ずっと見てたら、違うとこ探したくなる」
その理屈もよく分からないが、なんとなく納得してしまいそうになる自分がいる。毎日同じ参考書、同じ問題、同じ「あと8点」。景色を変えることなんて、この一週間で一度も考えなかった。
「葉月は」
「はい?」
「毎日同じページ、見てんの」
図星を突かれて言葉に詰まる。
「……間違えた問題を、間違えなくなるまでやってる」
「飽きない?」
「飽きる」
自分の口から出た言葉に少し驚く。飽きるなんて、今まで誰にも言ったことがなかった。言う相手もいなかったし、言う必要もなかった。ただ黙って、参考書を開いて、閉じる。それだけの毎日。
「飽きるのに、やんの」
「足らない点数は勝手に埋まってくれないんで」
「ふうん」
興味なさそうな声。なのに、なぜか責められている気はしなかった。
蝉の声が一段と強くなる。木陰にいるはずなのに、じわりと汗が滲んでくる暑さだった。今日の最高気温は三十八度。エアコンなしでは、とてもじゃないがこの暑さに耐え続けられそうにない。
「そろそろ限界かも」
呟くと同時に、スケッチブックを閉じる音が頭上でした。
「終わり?」
「今日はここまで」
言うが早いか、蒼馬はするりと幹を伝って降りてくる。相変わらず危なげのない動きで、着地の衝撃すら感じさせない。
「見せてよ」
「え」
「今日の絵」
自分の言葉に自分でも驚く。今までは描き途中のものをチラチラするくらいで、見せてと頼んだことなんてないのに。
蒼馬は少しだけ間を置いてから、スケッチブックを開いて渡してきた。断られると思っていたが、意外ともあっさりと見せてくれるらしい。
紙の上には、いつも通り、木の上から見た公園が描かれていた。今回は下を見下ろしたような構図だ。斜めに伸びるベンチ。その足元へ落ちる枝葉の影。ベンチの横に置いたビニール袋。その真ん中に小さく私がいる。俯いた頭。開いた参考書。
風景は相変わらず驚くほど細かい。木漏れ日まで描いてある。
なのに。
私だけが、少し危うい。右肩が妙に大きいし、腕の長さが少し変だ。髪の流れもぎこちない。顔なんて、前髪でほとんど隠れているせいか、輪郭だけがなんとなく私だと分かる程度だった。
「人物、苦手なんだね」
蒼馬は絵を覗き込んで、
「うん」
とだけ答えた。
「背景との差がすごい」
「人物むずいもん」
「これ、私じゃなくてもバレないんじゃない?」
「葉月だよ」
「いや、分からないって」
「俺には分かる」
「描けてないくせに」
「……そう」
本気で少し落ち込んだような声だった。
少しだけ気まずくなって、視線をスケッチブックから空へ逃がす。
「別に、下手って言いたいわけじゃなくて」
「分かってる」
「ただ、風景があまりにも上手いから、余計に目立つっていうか」
「うん」
蒼馬はスケッチブックを受け取り直すとパラパラとページをめくり始めた。見せる気なのかと思ったが、そうではなく、ただ自分で見返しているだけらしい。指先が止まったページには、誰もいないブランコが描かれていた。人物なんて、どこにもない。
「苦手なら、描かなきゃいいのに」
思ったことがそのまま口から出る。
「最近は葉月がいるから」
顔を上げないまま、蒼馬は淡々と言う。
「同じ公園でも、いるかいないかで絵は変わるよ」
意味を飲み込むのに数秒かかった。要するに、自分がベンチに座っている日はその景色に自分が含まれるということだ。描くのが下手でも消さない。描かないという選択肢もあったはずなのに。
「別に、人物練習する意味なんてないんでしょ」
「でも、いたし」
理由になっているようで、なっていない。でも、それ以上突っ込む気にもなれなかった。
「……次はもうちょっと上手く描いて」
「善処する」
「善処って便利な言葉だよね」
「うん」
悪びれもせずに頷く横顔を見ていたら、なんだか毒気を抜かれた。ため息をひとつ吐いて参考書を閉じる。今日はもう本当に限界だ。文字を読む気力なんか、この暑さの中では蒸発してしまったらしい。
「もう帰るね」
「一人で冷房部屋に逃げるつもり?」
「弥生くんも寮に戻れば」
「あそこ、冷房古いから二分の一の確率で温風でるんだよね」
「二分の一て」
思わず笑ってしまう。真顔で言われるとなおさら可笑しい。
「壊れてるっていうか、気分屋なんだと思う」
「エアコンに機嫌なんかあったら困るよ」
「そういう葉月のエアコンは、今日のご機嫌はいかが?」
「正常に働いてるかっていうことなら、冷風はちゃんと出るよ」
「じゃあ、使わせて」
「は?」
思わず変な声が出た。予想の斜め上をいく返しに、頭の中で言葉を組み立て直す。
「え、普通に自分家の使ってください」
「やだ」
「知り合ったばっかな女の子の家に上がり込もうとするのやめて」
「涼むだけならいいじゃん」
悪びれもせず言い切る顔を見ていると、こっちが非常識なことを言っているような錯覚すら覚えてくる。
「それに、家帰ったら親にネチネチ言われるし」
軽い口調のわりに、目だけは少し逸れていた。踏み込んでいい話題かどうか迷う間もなく、蒼馬はスケッチブックを小脇に抱え直して空に向かって言い放った。
「あー、暑いなー。このまま熱中症になっちゃうかもー」
棒読みの熱中症アピールに、思わず半目になる。
「その幼稚園の学芸会レベルの演技で同情引けると思った?」
「思ってない。でも効果はある」
「ないから」
「じゃあ倒れる。今から」
「勘弁して」
本当にふらつくフリでもされたら困る。今日の気温は洒落にならない。三十八度の中、本当に具合が悪くなる人間がいてもおかしくない暑さだ。そう考えると強気に出づらくなる自分がいた。
「……三十分だけ」
「三十分」
「涼んだらすぐ帰る。それが条件」
「了解」
食い気味の返事だった。
……いや、待て。
「ちょっと待って」
「ん?」
「なんで私、了承した?」
「したね」
「普通しないよね」
「した」
「いやいやいや」
頭を抱える。冷静に考えろ、慧麻。知り合って一週間。名前を知って、毎日公園で話して、それだけじゃん。そんな相手を家に上げる高校二年生がどこにいる。
「やっぱなし」
「えー」
「えー、じゃない」
「二十五分」
「時間の問題じゃない」
「二十分」
「短くすればいいってもんじゃないから」
蒼馬は少しだけ考え込む。
「玄関」
「は?」
「玄関だけ」
「玄関でも駄目」
「じゃあ廊下」
「変わらない」
「ベランダ」
「むしろ何しに来るの」
「涼みに」
「ベランダ暑いでしょ」
「確かに」
納得するな。
目の前の男は本気で悪意がない。だから余計に厄介だった。キッパリ断れば跡をついてくるなんてこともしないだろう。でも、この炎天下に追い返して、本当に熱中症で倒れられても困る。
それに。
毎日木の上で絵を描いてるくらいだから、少なくとも変な目的ではない、と思う。思う、だけだ。
「……本当に三十分」
「うん」
「変なことしたら追い出す」
「しない」
「勝手に部屋見ない」
「見ない」
「写真撮らない」
「撮らない」
「冷蔵庫勝手に開けない」
「開けない」
「物を持ち出さない」
「持ち出さない」
「引き出し漁らない」
「漁らない」
「……」
ここまで言って、自分が何を確認しているのか分からなくなる。
蒼馬は不思議そうに首を傾げた。
「葉月」
「なに」
「俺、そんな信用ない?」
「あると思う?」
少しだけ間が空いて蒼馬は笑った。
「ないね」
「そうだね」
「じゃあ仕方ない」
その潔さに力が抜ける。歩き出した背中に蝉の声が降り注いだ。隣を歩く蒼馬は鼻歌まじりで、さっきまで木の上にいた人間とは思えないくらい機嫌がいい。
こっちはというと、なんでこうなったんだろう、とばかり考えていた。
公園で鉛筆が落ちてきた、たったそれだけの偶然。それが一週間も続いて、ついには知り合って間もない男子高校生を家に連れて帰ろうとしている。
我ながら意味が分からない。
ただ、この日は暑かった。それだけだった。
