珊瑚礁

 机に突っ伏したまま、浅い眠りに落ちていた。開きっぱなしの参考書にほおを押し付け、握ったままのシャーペンが指先から転がり落ちる。

 意識の底を小さな振動がかすめた。

 ぼんやりと眉をひそめる。誰かが遠くで自分の名前を呼んでいるような感覚だけが残り、重たい瞼は閉じたままだった。

 ……あと少し。

 夏休みなのだから少しくらい寝てもいいだろう。そう自分に言い訳をして、寝返りを打つ代わりに腕へ顔を埋める。

 しかし数秒後、その静寂はもう一度蹴られた。今度ははっきりと机の上で震える気配が伝わってくる。

 「……チッ」

 小さく舌打ちを漏らした。諦めて身体を起こすと、冷房効きすぎた部屋の空気が肌にまとわりつく。じわりと頭の奥が痛み、冷え切った喉は乾いてひりついていた。

 ため息をひとつ吐いてから、ようやくスマホへ手を伸ばした。

 『葉月(はづき)会長、お疲れ様です!体育祭のアンケート結果1年2組の分まとめました!データ化が難しくて締め切りめっちゃ過ぎちゃってごめんなさいm(_ _)m』

 画面いっぱいに並ぶ文字を眺めたまま、数秒固まる。

 今日は何日だっけ。

 寝起きの頭でカレンダーを開く。七月二十日。締め切りは、確か先週だった。

 「……は?」

 思わず声が出てしまう。

 通知欄には未読が十数件。

 生徒会のグループ、クラスの連絡、塾のお知らせ、オープンキャンパスの案内。どれも急ぎそうで、どれも今すぐじゃなくても困らないような内容だった。

 親指だけが勝手に動く。

 『了解。締め切りは次から気をつけて』

 送信。

 三秒もしないうちに既読がついた。返事の代わり送られてきたのは「はーい」と手を挙げるうさぎのスタンプ。

 『すみません!本当に反省してます!!』

 すぐさま追い打ちのようにメッセージが届く。

 『次からは締め切り前日に泣きつきます!』

 誰がこんなギャルを学級委員になんかしやがったんだ。苛立ちを超えて、この子の境遇に憐れみさえ感じてしまう。

 『生徒会の仕事は早めに取り組もう』

 それだけ返してスマホを伏せる。部屋は静かだった。エアコンの送風音と、壁掛け時計の秒針だけが時間を刻んでいる。

 机の上には参考書が何冊も積まれていた。

 医学部受験。

 付箋だらけの化学。

 赤本。

 模試の成績表。

 一番上には「あと8点」と赤ペンで丸がつけられていた。

 見慣れた景色だ。夏休みに入ってから毎日見ている。

 なのに、一度も胸が躍ったことはない。「頑張ろう」と思うこともない。ただ、今日もやるか。そう思って参考書を開くだけだった。その繰り返し。

 今日も参考書を開く。明日もきっと開く。その次の日も。模試の判定が悪ければ落ち込むし、点数が伸びれば安心する。なのに、どうしても、自分が夢を追っている人間には思えなかった。

 ……さすがに煮詰まったな。

 シャーペンを置き、思いっきり伸びをする。今日はこれ以上頭に入りそうにない気がした。コンビニまで五分。使い切りそうなシャー芯を補充して、アイスを買って、好きな漫画の新刊も買っちゃおう。

 財布とスマホだけをポケットへ突っ込み、玄関の扉を開ける。外気が熱気の塊みたいに押し寄せ、夏が肺の奥まで入り込んだ。

 *

 手に提げたビニール袋の中でシャー芯と漫画がカサカサ鳴った。アイスは手で持つのが鬱陶しくて適当に口の中に突っ込んである。流石に自分でも行儀悪いと思うが、この暑さではそんなことを気にしていられない。

 コンビニを出ると、アスファルトから立ち上る熱気が靴底を通して伝わってきた。蝉がうるさい。耳を塞ぎたくなるほど鳴いているくせに、その声は空の青さに吸い込まれていく。

 次の角を曲がればマンションは目の前だ。だけど、今日はなんとなく公園を突っ切ることにした。理由なんてない。強いて言えば木影があるからだ。

 アイスを咥えたまま公園に足を踏み入れる。照り返しは少しだけ和らいでいて、子どもたちの姿は見当たらない。ブランコも、滑り台も、砂場も、真昼の暑さに負けて眠ったように静まり返っている。木々の葉だけが、風もないのにわずかに揺れていた。

 そのときだった。

 コツン。

 頭のてっぺんに、何か硬いものが当たった。

 「……っ」

 反射的に頭を押さえる。危うく声を出してアイスを落とすところだった。危ない危ない。

 六角形の短い鉛筆が足元に転がってきた。かなり使い込まれている。木肌は指の形に合わせるように丸く削れ、先だけが新しく尖っていた。

 「……?」

 誰か落としたのもののようだが、辺りを見回しても人影はない。首を傾げながら、何気なく上を見る。

 そこで初めて気づいた。

 大きなクスノキの枝に人が座っていた。金髪のロン毛をハーフアップに結んだ、制服姿の男子高校生。枝に背中を預け、片膝を立てたまま膝の上のスケッチブックへ夢中で鉛筆を走らせている。

 こちらを見て、目が合う。

 数秒。

 沈黙。

 「……悪い」

 最初に口を開いたのは相手だった。

 「鉛筆、落とした」

 残りのアイスの棒を引っこ抜いてから鉛筆を拾い上げる。

 「っん」

 口をもごもごさせながら枝の上へ向かって鉛筆を掲げる。

 「投げて」

 「……落としたのそっちでしょ」

 「登れる?」

 「登れません」

 「じゃあ投げて」

 「残念ながら、遠投は得意としてないので普通に取りにきてください」

 「暑い」

 「私も暑いです」

 「だよな」

 それだけ言って、相手はまたスケッチブックへ視線を戻した。

 ……なんなんだ。

 鉛筆を握ったまま立ち尽くす。返せと言ったくせに、自分から取りに来る気はないらしい。ため息をついて、もう一度見上げる。

 そのとき、スケッチブックが目に入った。

 描かれていたのは公園だった。錆びかけたブランコ。誰もいない砂場。飲みかけのペットボトルが置き去りになったベンチ。見慣れた光景のはずだ。

 なのに、目が離せなかった。

 葉の隙間から落ちる光が白く弾けていて、その下の影は濃く、じっとりと沈んでいる。アスファルトの熱気まで紙の上から立ちのぼってきそうだった。蝉の声が聞こえる気がした。風なんて吹いていないのに、枝先だけは今にも揺れ出しそうだった。

 どう見ても鉛筆だけで描かれている。色なんて一つも使っていない。それなのに、炎天下の眩しさが、木陰の涼しが伝わってくる。

 意味が分からない。紙は白と黒しかないのに、頭の中では勝手に青空が広がっていた。

 思わず口が動く。

 「……すご」

 相手は一瞬こっちに視線を向けた。

 「どうも」

 鉛筆を止めることなくぶっきらぼう言う。照れる様子もない。自慢する様子もない。褒められることに慣れているのか、それとも興味がないのか。

 「美術部ですか」

 「違う」

 「美大志望?」

 「違う」

 「じゃあ趣味なんですね」

 「多分」

 「多分?」

 「分かんない」

 ちょっと眉を寄せてしまう。

 分からないってなんなんだ。

 絵を描いているのに、夢でもなく、目標でもなく。なのに、この炎天下で木に登ってまで描いている。

 変なやつだ。

 「鉛筆」

 「あ」

 ようやく思い出したように相手が顔を上げる。

 「忘れてた」

 「返す気ないなら持って帰りますけど」

 「それは困る」

 相手は枝の上で少し考え込み、面倒くさそうに立ち上がった。器用に幹へ足を掛けると、猿みたいな身軽さで地面へ降りてくる。着地して最初にしたことは、制服のズボンについた木くずを払うことだった。

 「ありがと」

 鉛筆を受け取ると、そのまま耳に挟む。

 近くで見ると自分より結構背が高い。制服はどこかでみたことがある気もしたが、あまりにも着崩し過ぎていてピンとくるまで時間がかかった。

 「もしかして、学校、この近く?」

 「そ。福並高」

 顎で北の方角をさす。

 「そこって、まだ夏休みじゃないんですか」

 「いや、制服は寮生活だから」

 そう言って相手はまた木の方を向いたが、幹に手を置くだけで登ろうとしない。

 「だりぃな」

 木を見上げたままぼやく。

 「また登る気ですか」

 「登るよ」

 そう言いながらも動かない。

 「登る気ないですよね」

 「ある」

 「ないです」

 「あるって」

 「じゃあ早く」

 「……五秒後」

 「子どもですか」

 「四秒後」

 「減ってるだけじゃないですか」

 「三」

 「本当に登るんですか」

 「二」

 「一」

 相手は小さく息を吐くと、ようやく幹に手を掛けた。驚くほど慣れた動きで枝を一つ、また一つ。靴底が樹皮を蹴る音だけを残して、数秒でさっきいた場所へ戻ってしまう。

 「慣れてますね」

 「毎日だから」

 「毎日?」

 「ここ来て描いてる」

 「飽きないんですか」

 鉛筆を走らせる音だけが返ってくる。

 「……飽きるよ」

 意外な答えだった。

 「飽きるんですか」

 「うん」

 「じゃあ、なんで毎日?」

 少しだけ手が止まる。相手が答えを考えているのだと思ったが、返ってきたのはひどくあっさりした言葉だった。

 「今日も描くって決めたから」

 思わず黙る。蝉だけが鳴いていた。好きだからじゃない。夢だからじゃない。なのに毎日描く。そんな理由で続くものなんだろうか。

 やっぱり変なやつだ。

 持ったままだったアイスの棒をビニール袋の中に捨てる。流石にもう帰ろう。そう思って一歩踏み出しかけたとき、上から声が落ちてきた。

 「名前、なに」

 「え」

 「名前」

 「葉月、慧麻(えま)です」

 「弥生蒼馬(やよいそうま)、よろしく」

 「はぁ……」

 名前の響きが妙に古風で、本人の雰囲気とまったく噛み合っていない。金髪ロン毛に着崩した制服、見た目はヤンキーなのに木の上で寝そべるように絵を描く高校生が「弥生蒼馬」だなんて。

 「じゃあ、また。弥生さん」

 そう言って踵を返すと、後ろからまた声が落ちてきた。

 「葉月」

 振り返る。枝の上で、相手は相変わらずスケッチブックを膝に乗せたまま、こっちを見下ろしていた。

 「……なに」

 「明日も来る?」

 「公園に?」

 「うん」

 「……分からないです」

 「そっか」

 それだけ言って、また鉛筆を動かし始める。背後では、蝉の声に紛れて鉛筆の音だけが静かに続いていた。