その日は、今年一番の大雪だった。街じゅうの電車は止まり、いつもなら絶え間なく響いているはずの音まで、雪が静かに降り積もるたび、白い世界の奥へ吸い込まれていく。
 バス停には、たった一つだけベンチがあった。僕らは肩を並べて腰を下ろし、言葉よりも先に降り積もる雪を見つめていた。街灯の明かりに照らされた雪片がゆっくりと落ちてくるたび、この夜だけ時間が少し遅く流れているような気がした。
 寒さでかじかんだ指先とは裏腹に、隣にいる彼女の気配だけが、不思議なくらい温かかった。
 遠くで信号が青に変わったのが見える。けれど、ここへ来るはずのバスの灯りは見えない。それでよかった。
「春になったらさ」
「……ん」
 返事をすると、彼女は少しだけ笑った気がした。街灯に照らされた横顔は、降り続く雪よりも眩しくて、でも、目を離せなかった。
「私たち、中学生になってさ」
「うん」
「高校生になって、大学生になって、大人になって」
 彼女はそこで一度だけ言葉を切り、白い雪が落ちてくるのを見上げた。桜みたいだ、と思った。まだ冬の真ん中なのに、彼女の表情は春を連想させた。
「その頃には、誰かと結婚してたりするのかな」
「どうだろ……わかんない」
 結婚なんて、僕らには遠すぎる未来だった。中学生になることさえ、曖昧なものに感じているのに。それでも、その未来を隣の彼女と想像している時間だけは、変に現実的だった。背負った鞄がやたらと重く感じる。彼女が白い息を吐いた。だから、聞いた。
「美咲も行くの?東京」
「どうだろ……わかんない」
「東京ってさ、何があるんだろうな」
 目の前でひらりと降るこの雪も、東京に行ったら、まるで小さな宝石みたいな、別の何かに映るのだろうか。調べたことも、行ってみたいとも考えたことがない僕なんかには、一生わからないかもしれない。
 もぞもぞと動かした左手が美咲の指に触れてしまった。かじかんでいても、人の体温は分かるらしい。それだけで、東京になにがあろうと、もうどうでもよくなった。
「電信柱よりも高い建物とか。あと、夜でも昼みたいに明るい街とか」
「へぇ。そんなのあるんだ」
「うん」
「行ってみたくなった?」
「全然」
 首を左右に振ると、吹き出すように美咲が笑ってくれる。一人では行きたくないけれど、そこに美咲が行くなら、僕も行ってみたい。
「いつか、二人で行けるといいね」
「……ん」
 適当にしてしまったその返事を、僕は今でも後悔してる。バスが来て、どちらも手を離さないで、でも、離して。「またね」って言ってから美咲がバスに乗るものだから、僕は期待してしまった。
 行かないでって、言えばよかった。
 春になって、中学生になって、また何度目かの冬が来て。公衆電話がこれほどまでにありがたいと思ったことはなかった。十円玉を握りしめて、何度も番号を押し間違えないように確認して、数秒のコール音の後に遠くなったはずの声が、受話器の向こうから聞こえた。
「久しぶり。無事に合格できたよ。そっちは……どうだった?」
「私も……合格」
 電話でよかったと、その時だけは本気で思った。もし目の前にいたら、きっと飛び跳ねて、抱きしめて、嬉しさのまま何か変なことを言ってしまっていたと思う。平常心を装うために、硝子に掌を付けて外気の冷たさを確かめた。
「そっか……そっか、そっか……そっか」
「なに?もしかして泣いてるの」
「泣いてない」
「噓。鼻啜ってる」
「こっち、雪がね。降ってるから。寒くって」
「それはこっちも同じ」
 ふたりの笑い声が重なったのはいつぶりだったか。くだらない話はこれまで、百も千もしてきたけれど、お互い、心の底から笑うことを忘れていたように感じていた。でも今日は、ただの、本当にただの、嬉しいって感情だけで笑い合っているのが分かる。
「ねえ」
「……ん?」
「……」
「……なんか言えよ」
「そっちこそ」
 他の人ならこんな時、なんて声をかけるのが正解なんだ。気まずくない沈黙。電話でも、向かい合ってでも、隣どうしても、つながっていることが、大切だった僕に。彼女に。一体、何を言えばよかったんだろう。
「……そろそろ切んないと」
「おお、そうか。もうそんなか」
「……うん」
「ああ、うん」
 頭の中でバスが到着した。扉の開く音が聞こえて、それと同時に温もりが冬の冷たさに消されていく。雪なんて解ければいいのに。
「……じゃあ、慶君」
「……」
「またね」