落ちこぼれ令嬢と陽だまりの天狐さま

(ようやく終わったわ……。何だかとても長い一日だったような気がする)

 騒がしかった昼とは一変、家族が寝静まった深夜。

 漆黒色で塗りつぶしたような夜空には無数の星が浮かぶ。

 春の夜の空気は、よりいっそう身体に染みて歩きながら堪える。

 自室が奥まった場所にあるからといって油断は出来ない。

 屋敷はかなり築年数も経っているので廊下の床は軋みやすい。

 うるさい音をたててしまい、家族の就寝時間を邪魔してしまえば、また面倒なことになる。

 廊下の壁に掛けられている小さな灯火を頼りに進んでいく。

 入浴を済ませた小夜は風呂場から長い廊下を歩き、最奥にある自室へと戻ってきた。

 押し入れから布団と敷き布団を取り出し、畳に敷いていく。

 支度が終わると、ゆっくりと横になり、じっと木目の天井を見つめた。

 (お母さまたちが帰ってくる前に耳と尻尾が消えて良かったけれど、一時的では意味がないわ)

 はあっ、というため息をついて布団を深く被る。

 まるで恐怖心や不安から逃げるように。

 結局、小夜が勉強に集中出来たのは僅かな時間だった。

 客人が帰ったあと父から、もてなし用に出したお茶や菓子の片付けや応接間の掃除を命じられてしまった。

 しかも、与えられた仕事を終えようとしたときに姉と母が帰ってきてしまい、自分の時間をもてなかった。

 使用人たちと家族の分の夕食を作り、後片付けをしているうちに深夜を迎えて現在に至る。

 (明日……、いや。きっと日付が変わっているはずだから今日ね。朝食の準備もあるから寝られてあと三、四時間くらいかしら)

 本当はもう少し長く休んでいたいくらい疲労困憊だ。

 けれど誰よりも早く起床し朝食の準備に取りかかるよう、命じられている。

 風邪をひいていても貧血でも関係ない。

 落ちこぼれの役立たずに自分の意思など必要なく指示通りに動くこと、それがすべてである。

 (それがわたしの役目、運命ならば──)

 深く考えても意味のないこと。

 徐々に瞼が重くなってきて、それに耐えきれず身を任せる小夜だった。

          ◆

 大小、様々な大きさの穴が空いた障子から差し込む光を薄らと感じて、ゆっくりと瞼を開ける。

 ぼんやりとした視界が覚醒して、焦点が合う。

 今日もまた新しい朝を迎えてしまったと、心底落胆した。

 就寝して、そのまま目が覚めなければどれほど良いか。

 春の早朝は、まだ凍えそうなほど寒く、気を抜けば風邪をひいてしまいそうだった。

 それもこれも問題がありすぎる睡眠環境のせいである。

 中綿が減った布団は、軽く、そして薄い。

 掛けても掛けなくても同じようなものだ。

 本来ならば、起床にはかなり早い時刻。

 眠気と倦怠感を感じながらも、奮い立たせて上体を起こす。

 (本当はもう少し眠りたいけれど、早く起きないとお母さまに怒られるわ)

 水園家は使用人が朝食を準備してくれるが、母の命令で小夜も調理場に立たなくてはいけない。

 しかも使用人たちが来る前に、ある程度の仕込みなど、調理の準備をしなくてはならないので、まだ空は若干暗い。

 その決まりを破ってしまえば罰が与えられるので、時間に遅れるわけにはいかないのだ。

 寝たからといって数時間で身体が休まるはずもなく、すこぶる体調が悪いし、足元がおぼつかない。       

 小夜のように名家生まれで霊力が少ないのは稀有だ。

 (このままではいけない。どうにかして霊力を高める方法を見つけないと)

 ぼんやりとした頭を早く覚醒させようと、出来るだけ、てきぱきと布団をたたみ、手を動かす。

 小夜のように霊力を欲している者は少なからずいる。

 しかし決して霊力が少ないわけではなく、さらに地位や名声を築き上げたいといった欲が彼らをそうさせている。

 つまり、ほとんどが欲深い者だ。

 霊力を高める方法はいくつか存在していて小夜も手探りの状態である。

 女学院の図書室で様々な本を見ては試しているが、上手くいかない。

 古い文献、近年に刊行された書物……。

 読むといっても放課後はすぐに帰宅しなければいけないので少ない休み時間だけが頼りだ。

 しかし、試せたのは数回だけ。

 文献や書物の中には危険な手段も記載されていて、小夜にはとても出来るものではなかった。

 霊力が高い者なら、その危険を承知の上でさらなる力を求めて、あらゆる手段を選んでいるらしい。

 (一番、有効的なのは霊力が高い狐の血を分け与えてもらうことらしいけれど、わたしは無理ね)

 空狐の一族の長である水園家は定期的に会合に参加しているので、天狐たちとも繋がりはある。

 もし、一華がもっと霊力が欲しいとねだれば、父は天狐へ願いを乞うかもしれない。

 (お姉さまたちがわたしに血を分けてくれるはずがないし、何か別の方法を探らないと)

 幼い頃、小夜の霊力の少なさを見かねて父と兄は自らの血を分け与えたけれど、何も変化は起きなかった。

 母と姉は痛い思いまでして血を抜くのは嫌だといって拒否したまま。

 彼女たちは家族のために行動を起こすようなひとたちではなかった。

 父も最初は頼み込んだようだけれど、なにしろ彼は一華に弱い。

 それ以来、頼むことをやめたようだった。

 しかも、たとえ他者から血を分け与えてもらったとしても成功するか分からない。

 自分の身体に適合しないと悪影響を及ぼしてしまうのが欠点だ。

 記憶を失う、昏睡状態に陥る、精神に負荷がかかるなどがある。

 成功すれば良いけれど、もし失敗すれば余計に周囲に迷惑をかける。

 ただでさえ落ちこぼれなのに、使いものにならなければ完全に見放され、生きていくのは不可能だろう。

 (方法を見つけても勝手に行動したら怒られるかしら……。もうあのひとたちにとっては、わたしは使用人以下だもの。新たに力を手に入れたところで喜んでくださるかどうか……)

 何度目か分からないため息をついて、押し入れへ布団をしまうと、箪笥から着替えを取り出す。

 お仕着せ服で作業をした方がたとえ汚れても心配がないのだが、今のうちに着替えておかないと登校に間に合わなくなってしまう。

 片付けもやりなさいと母から言いつけられているので仕方ない。

 わざと遅刻寸前にさせるように仕組んでいることを小夜は知っていた。

 そうならないよう、てきぱきと手を動かし、身支度を始める。

 玄関で草履を履くと一度外へ出て、屋敷の裏へと回る。

 顔を洗うのにわざわざ外へ出なければいけないのが億劫だ。

 家族は中にある洗面台を使えるけれど、小夜や使用人たちは、寒くても雨が降っていても使用出来るのは裏の流しのみ。

 かじかむ手を擦り合わせながら、草木の間を歩いていく。

 そして家の裏の流しで顔を洗うと、足早に中に戻り、自室で薄く化粧を施す。

 血色の悪い肌を隠すように、おしろいを伸ばして、くすむ唇には紅を。

 父もさすがに名家の娘が化粧もせずに外出をするのは、まずいと思ったのだろう。

 入学と同時に安物ではあるが、最低限の化粧道具を贈ってくれたのだ。

 無駄使いをしないように毎日毎日、少量ずつ使用しているので物持ちは良い。

 あとは無くなって父に新しいものが欲しいとねだるのが気が引けるという理由もあるが。

 そして菖蒲柄の単衣に学校指定の行燈袴を身に纏う。

 そして髪をまとめ、控えめな飾りが付いた留め具を付ければ完成だ。

 姿見で頭からつま先まで、全身を確認する。

 (うん、どこもおかしいところはない。及第点くらいね)

 周りから見れば庶民に間違えられるかもしれない。

 それくらい地味だけれど、小夜には派手な装いより、これくらいの方がしっくりきて似合っている。

 人前に出られるくらいの、まあまあの完成度だ。

 教科書と雑記帳、筆記用具を鞄に入れて文机に置くと割烹着を持って台所へ向かった。

 やはり、早朝ということもあって使用人たちの姿はなかった。

 (ええと、最初はお米を炊かないと)

 小夜は釜に測った米を入れると、水道の蛇口をひねり、そこに冷たい水を流し入れる。

 ジンジンと痛いほどの水の冷たさを我慢しながら手早く研いでいく。

 しかも、小夜の手は頻繁に行っている水仕事のせいで、あかぎれなどで荒れている。

 そのため、余計に染みてつらさを倍増させた。

 しかし、手を止めている暇はない。

 食事の準備は全部ひとりでやるわけではないけれど、ある程度は任されている。

 任されているといっても信頼されているわけではなく、一華はただ、妹を虐げたいだけ。

 研ぎ終わった米が入った釜を置くと、薪をくべて火をつけた。

 そして次に味噌汁の中に入れる、わかめと豆腐、湯通しした油揚げを食べやすい大きさに切っていく。

 基本的に味付けは、水園家に仕えて長い使用人が担当している。

 小夜が変に手を出してしまうと、味が変わっただの不味いだの言われてしまうので食材を切ることくらいしかやらない。

 そのため、献立表を見て必要な準備をするのが役目である。

 小鉢に使う野菜も切ったところで、台所の戸が開いた。

 「皆さま、おはようございます」

 「……おはようございます」

 続々と割烹着を着た使用人たちが無愛想な顔で挨拶を返しながら入ってくる。

 返してくれるだけでもマシだ。

 使用人の中には小夜をよく思っていない者もいて、時々無視されることも珍しくない。

 この異様な空気は毎朝漂うこと。

 他の名家ならば大問題だけれど、この家ではこれが普通である。

 しかし小夜は慣れてしまっていて特に嫌だとか怒りだとか何とも思わない。

 「あの、食材は切っておきました。わたし、食器を準備したら外に炭を取ってきます」

 「……ええ。お願いします」

 厳しい冬は越したが春の朝はまだ寒い。

 そのため、水園家ではこの季節も食事をとる居間には火鉢を置いている。

 一華たちが来るまでに部屋を暖めておかないといけないのだ。

 確か昨夜に火鉢を確認した際、中に置かれている炭が残り僅かだったような気がする。

 朝食の時間に途中で無くなってしまったら叱られてしまうので今のうちに裏口にある炭置き場に取りに行った方がいい。

 使用人たちもおそらくそのことに気がついているけれど、わざわざ寒い外に出たくないのか、ずいぶん昔に小夜が担当するように指示したのだ。

 そして小夜の報告にひとりの使用人は素っ気ない返事をすると再び作業に戻った。

 (無視されないだけ良いのよ。少しでも役に立てたら、存在を示せたら、それだけで……)

 必死に孤独感を押し殺し裏口を出て、炭置き場に向かう。

 吐く息が白く、時折吹く冷たい風が肌に当たって、痛い。

 炭置き場に着くとしゃがみ込んで軍手をはめて、バケツに次々と炭を入れていく。

 (これくらいあれば十分よね。きっと今日の夜までは保つわ)

 ある程度入れたところで立ち上がり、重くなったバケツを持ちながら足早に屋敷の中へと戻っていった。

 そのまま居間に向かい、部屋の隅に置かれている火鉢に入れていく。

 ほんのりと赤くなりパチパチと燃える音が鳴る。

 火鉢からの熱を身体に感じたところで立ち上がり、台所に戻る。

 小夜が居間を暖めている間に朝食の準備はほとんど終わったようだった。

 おぼんの上には、わかめと豆腐、油揚げが入った味噌汁とほうれん草のお浸し、そして焼き魚。

 料理に使われているどの食材も、名家御用達の一級品。

 特に父の高志郎は食にこだわりが強く、少しでも口に合わないと激怒する。

 小夜も簡単な調理はするけれど、味付けなどのあとの工程は経験豊富な使用人が担当する。

 最近はめったにないけれど、昔はよく気に入らないと残していた。

 満足に食事をとれない小夜にとって、その行為は信じられなかった。

 一口だけ食べて残した出汁香る味噌汁。

 艶と若干の粘り気がある炊きたての白米。

 ほどよく焦げ目がついた魚。

 丁寧に仕込まれた、ほうれん草とこんにゃくのごま和え。

 緑鮮やかなきゅうりと真っ白な大根のお漬物。

 味には問題ないはずなのに、こだわりが強いがゆえ、廃棄するなんて今でも考えられない。

 いらないなら代わりに食べたかったけれど、すぐに片付けられてしまって叶わなかった。

 だから食事の準備は少しも気を抜けないのだ。

 白米はあともう少し、炊けるまで時間がかかるようでひとりの使用人が近くで様子を見ていた。

 (ええと、あとはお茶の準備だけね)

 急須と人数分の湯呑みを食器棚から取り出す。

 そして小さな戸棚から玉露の茶葉が入った袋を手に取った。

 この高級茶葉は両親と一華、冬真や客人のみが口にすることを許されている。

 小夜や使用人たちが飲むお茶に使う茶葉はそれに比べて安物だ。

 きっと高価な茶葉で入れた茶は素晴らしく美味しいのだろうけれど、小夜にとってはたとえ安物でも飲めるだけ良い。

 自分用に茶を入れるなんて、そんな余裕などなく、飲むのはほとんど水だからだ。

 お茶を入れることも慣れているので、とろいなどと言われている小夜でも手際が良い。

 三人分の茶が入れ終わると、おぼんにのせて食事を運ぶ使用人たちと共に居間へと向かう。

 居間の襖を開けると火鉢による暖かな空気がふわりと肌に感じる。

 先ほど炭を追加したおかげだろう。

 寒すぎず暑すぎず、ちょうど適温だ。

 これならば文句も言われないはず。

 そして座卓に配膳が終わると同時に両親と一華が居間に入ってきた。

 「おはようございます。旦那さま、奥さま、一華お嬢さま」

 使用人たちが丁寧に腰を折り曲げて挨拶をしているのに三人は返しもせず、座卓の前に座っていく。

 今日は登校日なので一華は女学院指定の行燈袴姿である。

 紺色の袴に珊瑚色の単衣が合っていて、彼女の華やかさをさらに引き立てている。

 休日は下ろしている長く艶やかな髪は、きっちりとひとつに結われている。

 そこに美しい蝶の意匠が施された簪が挿されていて、光が当たるたびにきらりと煌めく。

 朝食後に本格的に化粧をするのだろう、おしろいは塗っているけれど、他は素顔のままだ。

 それでも十分麗しく、とても整っている。

 母の華織も黒色を基調とした生地に赤色と白色の花柄が入った振り袖を身に纏っている。

 つんとした気高い彼女にとても似合っていて、まるで肖像画から出てきたようだ。

 時々、本当にこのひとの腹から生まれてきたのかと疑ってしまう。

 「おはようございます。お父さま、お母さま、お姉さま」

 小夜も使用人たちに続いて、部屋の隅で深く頭を下げた。

 両親と姉はこれから豪華な朝食を食べるのに対し、妹は古い割烹着姿で使用人の仕事をしている。

 何とも異様な光景で殺伐とした朝の時間である。

 しかし、その挨拶は返されることはなかった。

 両親は反応すら示さず、一華はこてんと首を傾げて右手を頬に添えた。

 不思議そうに辺りを見渡したあと、眉間にしわを寄せて不快感を露わにした。

 「あら? 今なにか薄汚い声が聞こえたような気がしたのだけれど……。誰か話しかけたのかしら。せっかくの優雅な朝の時間が台無しよ」

 「気のせいじゃないかしら。家族は誰も話していないわよ。ねえ、貴方」

 「ああ。……さあ、気高き我々にとって時間は貴重で有限なんだ。早く朝食を食べなさい」

 「はい、お父さま」

 父の答えに一華は機嫌を直したようで、にっこりと笑みを浮かべる。

 そして三人は箸を取ると目の前に並べられた料理を口にしていく。

 味に対しては特に文句はないようで、箸を進める様子に安堵する。

 挨拶はわざと無視をされて酷くけなされたけれど、それだけで済むならまだ良い。

 過去には小夜の言動に不満を抱いたときには、熱い味噌汁やお茶を床に勢いよくまき散らした。

 「薄汚い」なんて言われて安堵するなんておかしい。

 けれど以前には手に火傷もしたし、後片付けにも苦労したので言葉の刃に比べればなんてことはない。

 「……失礼します」

 無事に朝食をとりはじめたところで小夜や使用人たちは居間から退出していく。

 あとは三人が食べ終わり次第、食器の片付けをするけれど、それは使用人たちの仕事だ。

 小夜はそろそろ本格的に準備をして、女学院に向かわなくてはいけない。

 今日は日直を担当する日。

 教師から任されている仕事を他の生徒が登校する前に終わらせなければいけない。

 まずは急いで台所に行って、朝食の残り物を確認する。

 おひつに一膳分もない白米、鍋の中には具がない味噌汁が残っていた。

 使用人たちが先に台所に到着していれば、きっとこれは捨てられていた。

 それくらいの僅かな量。

 しかし普段からまともに食事がとれていない小夜にとっては十分すぎる量である。

 (昨日よりも残っていて良かったわ。温かな汁物があるだけで違うもの)

 食器棚から茶碗とお椀、箸を取り出していく。

 白米と味噌汁を盛りつけたところで数名の使用人が台所にやってきた。

 一度、こちらに対して怪訝そうな表情を見せるが何も言わずに調理器具の片付けを始めた。

 (……取り上げられるかと思ったわ。でも見過ごしてくれたみたい)

 仮に小夜が食べなくても廃棄されてしまう量だったし、彼女にある程度食べてもらわないと女学院でも疑われてしまうと思ったのだろう。

 表向きの水園家は父の手腕と母の献身的な支え、一華の優秀さでたいそう評判が良いのだから。

 白米が盛られた茶碗とお味噌汁がよそられたお椀、水が入った湯呑みと箸をおぼんの上に載せる。

 そしておぼんを持つと、足早に自室へ向かった。

 朝食を食べるために自室へ戻ってきた小夜は食事を文机に置くと、その前に座る。

 ちらりと壁掛けの時計を見て現在の時刻を確認する。

 まだ針は予定していた位置にはきていない。

 「急いで食べれば間に合いそう。いただきます」

 手を合わせて箸を取ると少し冷えた白米を口にする。

 しかし、その冷えも気にならないほど小夜は空腹だったので美味しく感じられた。

 味噌汁も具がないので見目は寂しいが、鰹節と昆布の出汁がよく出ている。

 「ごちそうさまでした」

 どちらとも、ほんの数口だけで完食すると箸を置いて立ち上がる。

 自室を出て再び台所に向かい、使用した食器を片付けていく。

 洗って拭き上げると食器棚の中へと戻して仕事をしている使用人たちへと視線を向けた。

 「ではわたし、女学院に行ってまいります」

 「……かしこまりました」

 一番近くにいた使用人だけが、小夜を一瞥してからたった一言、返事をした。

 他の者には完全に無視をされたが、ほぼ毎日同じような反応なので気に留めることはなかった。

 もし両親や兄、一華ならば外に出て見送りまでするが、落ちこぼれである娘にそこまでする必要はないと判断したのだろう。

 小夜は会釈をすると教科書が入った鞄を取りに自室へ向かった。

 すべての準備が整うと、玄関で草履に履き替えて庭へと出る。

 そこにはすでに自動車が二台、止められていて運転手も立っていた。

 一つは小夜用、もう一つは一華用である。

 行き先は同じでも一華は小夜と一緒に女学院に行きたくないようで、父はわざわざもう一台、自動車を購入したのだ。

 自動車なんて貴族や金満家くらいしか手に入れることは出来ないのに、いかに水園家が立派な家柄なのか思い知らされる。

 小夜は玄関から遠い方に止められている自動車を選び、その前に立っている運転手へと頭を下げる。

 「おはようございます。今日もよろしくお願いします」

 「挨拶など結構です。貴女を送迎するのは旦那さまのご命令ですから。さあ、早くお乗りください」

 「……はい」

 小夜が小さく頷くと運転手は自動車の扉を開いた。

 彼女に余計な時間は割きたくなかったのだろう。

 乗り込むとすぐに扉を閉められて、自動車を発進させた。

 (変ね、こうして冷たくあしらわれることには慣れているはずなのに……)

 窓から後方へと流れていく景色を見ながら、悲しさを誤魔化すように胸元をぎゅっと握りしめた。

          ◆

 (良かった、何とか間に合いそう)

 学院から少し離れた場所で自動車を降り、小夜は歩き出す。

 日が昇り、少しずつ明るくなってきてはいるけれど、冷たい風が吹くたびに身震いする。

 今朝も相変わらず、家族や使用人たちに理不尽な言動をされたけれど、手を出されずに済んだのは良かった。

 せっかく身支度を整えたのに、汚れて着替えることになってしまっていたら、遅刻は確定だっただろう。

 周囲には、小夜と同じく自動車から降りて歩いて登校したり、自転車を走らせたりする女学生が多くいた。

 鈴風女学院はお嬢様学校と呼ばれているけれど皆が皆、自動車を購入出来るほど金に余裕があるわけではない。

 近年では実家の傾きを阻止するために、ほぼ強制的に政略結婚をさせられる令嬢もいるという。

 帝都で働くことを夢見ていても家の存続のために、そして親の頼みとならば断れないのだろう。

 その悔しい思いは小夜にも共感出来る。

 落ちこぼれの小夜に選択肢などないのだから。

 もし両親が他の家の娘のように普通に優しく接してくれていたら考えも変わったかもしれない。

 優しくしてくれた両親と家のためならばと、素直に受け入れて決められた男性と結婚することもあっただろう。

 しかし最近は、そんな話は耳にしないので彼女たちの表情も穏やかである。

 そしてその光景を見て再度、自分は遅刻をしていないのだと理解して、ほっと胸を撫で下ろす。

 遅刻や欠席などしてしまえば、さらに評価が下がってしまう。

 たださえ同級生や教師からも、良くは思われていないのだから。

 水園家の内情を明かすわけにはいけないし、話したところで誰も信じてはくれないだろう。

 「家族から虐められている」なんて訴えても、戯言だと言われるだけ。

 上っ面だけは完璧なのだ、小夜以外の家族は。

 だからこそ誰も本質を見抜こうともしない。

 命を軽んじて、痛みつけていく隠された秘密を。

 それはきっとこの先も、死ぬまで続くこと。

 大勢が行き交う中を悲観しながら歩いていく。

 すると、小夜の後ろから横を小走りで追い越していく生徒がいた。

 前方に歩いていた一人の浅緑色の単衣を纏った女学生の元へ一直線に駆けていく。

 「ごきげんよう、瑠璃子さん」

 「あら、ごきげんよう。梢さん」

 あのふたりは確か隣の学級の生徒だ。

 時折、休み時間に小夜の学級へ来ては他の友人と会話に興じているのを見たことがある。

 梢と呼ばれた生徒が足を止めた瑠璃子の隣へ並ぶと早速仲睦まじそうに話し始める。

 「ねえ、瑠璃子さん。その単衣は新しく買ったの? 初めて見るわ。とても素敵ね」

 確かに浅緑色の単衣は爽やかで可愛らしく、近くを歩いている女学生たちも気になるのか、ちらりと視線を向けている。

 褒められて嬉しいのだろう。

 瑠璃子は照れたように白い頬をほんのりと赤くさせて、こくりと頷いた。

 「ありがとう。定期試験で良い成績を修めたら買ってもらう、それがお父さまとの約束だったから」

 「羨ましいわ。わたしも今度、お願いしてみようかしら」

 「ええ。絶対その方がいいわよ」

 まるで憧れているような、きらきらと輝く眼差しに見つめられ、瑠璃子は赤に染まった頬をさらに濃くさせた。

 流行を取り入れてお洒落をすることが当たり前の世の中で、憧れの的になれるのは女子にとって幸せなことだろう。

 そして二人は、ふふっと何やら楽しそうに会話をしながら、後方を足取り重く歩く小夜を置いて先へ行った。

 (きっとあのふたりはご両親と仲がよろしいのね。わたしとは大違い……。お父さまから貰った物といえば、この単衣だけだもの)

 ふと視線を横に動かすと、近くの建物の硝子に自分の姿が映った。

 この単衣は父からの贈り物。

 落ちこぼれでも、身なりだけは水園家の名前に恥じないようにと、昔から贔屓にしている呉服屋に仕立ててもらったのだ。

 今も覚えている、父が珍しく自分の書斎に呼び出した日のことを。

 父は椅子にどかりと座り、萎縮する小夜を鋭い目つきで睨みつけていた。

 呼び出されるなんてきっとまた怒られるようなことをしてしまったのだと覚悟して、きつく目を閉じていた。

 しかし父の口から発せられたのは叱りの言葉ではなく、斜め上の予想もしていなかった言葉だった。

 「お前に、上等な単衣を贈るなんて金の無駄だ」と言って顔をしかめながら、しぶしぶといった様子で箱に入った単衣を小夜に渡したのだ。

 まだ女学院に入学する前の遠き記憶。

 その時はすでに、家族から落ちこぼれ扱いを受けていたが、それでも小夜は純粋に嬉しかった。

 蔑まれても見向きもされなくても、少しでも自分のことを考えてくれたのだと。

 正直、兄姉や母は小夜の物よりもさらに最上級な着物などを貰っている。

 安くてもいい、もう何も買ってもらわなくてもいい、そう思うほど幼いながらに舞い上がっていたのかもしれない。

 小走りで自室に戻り、箱を開けて目に飛び込んできた菖蒲柄の単衣。

 可愛らしく、気品溢れる美しさに魅了され、何度も鏡で確認をした。

 これから先、もっと酷い仕打ちをされることも知らずに。

 (結局、入学しても緊張したり怖い思いをしたりすると変化が頻繁に解けて皆から笑われたわ)

 落ちこぼれ扱いは家だけでなく、女学院でも。

 霊力も少ない上、暗い性格はマドンナの姉とよく比較されている。

 周囲から浴びる冷ややかな視線と口元を抑えながら嘲笑う同級生。

 授業中はまだ良い。

 皆の意識は教師や黒板に向いているから。

 休み時間など、小夜にとって憩いの時間ではない。

 お弁当が準備出来た日は屋上の、日が当たらない隅で食べている。

 教室も中庭も生徒が多く、小夜には眩しく感じて賑やかな雰囲気が耐えられなかった。

 元々、明るく華やかな場所は苦手なので、ひとりの方が気が楽なのも事実だ。

 落ちこぼれから脱却出来ると思って志し高く門をくぐった鈴風女学院も今となっては苦痛の場である。

 (今日は実技の授業もあるし、憂鬱だわ。遅くまで練習したけれど、あまり上手く出来なかった……)

 実技の授業を担当する男性教師は生徒に厳しいことで有名である。

 小さな間違いも見逃さず、与えられた課題をこなせなければ、きつく叱られる。

 成績の良い生徒でも一度でも失敗をすれば、目をつけられてその対象になるのだ。

 その男は相手が令嬢だからといって手加減は決してしない。

 ただでさえ女学院に来るのが憂鬱だというのに、その教師のせいで苦手意識を植え付けられる。

 (でもだからって逃げ出すことなんて出来ないし、水園家の人間として頑張らないと)

 ここで諦めれば、家族にも教師にもそして自分自身にも負けたように思える。

 そんな結果は許したくないし、必ず責め続けて後悔するだろう。

 ふぅっと息を吐き出してぼんやりと見つめていた鏡から踵を返し、女学院まで足を進めていく。

 このまま立ち止まって、ぐだぐだ考えていても何も変わらないし意味もない。

 ただ目の前のやるべきことを淡々とこなしていくだけだ。

 「小夜ちゃん、おはよう。良い天気ね」

 突然、背後から快活な声で名前を呼ばれて、足を止めて振り返る。

 そこには、路肩に停車した自動車から降りてきた、ひとりの女学生、緒方凛が立っていた。

 肩まで伸びた琥珀色の髪と珊瑚色の単衣姿は華やかで人々の注目を集める。

 そんな彼女は片手を挙げて、何度も振りながらこちらへ小走りでやって来る。

 落ちこぼれに自ら声をかける者などいないので、彼女の通る声に気づいて、登校していた女学生たちが、ぎょっとした瞳で凛を見ている。

 そんな周囲の反応に若干、狼狽えそうになりながらも、背筋を伸ばして丁寧に頭を下げた。

 「お、緒方さん……。おはようございます」

 「もう。同学年なんだから、そんなにかしこまらないでって言っているじゃない」

 眉を八の字にして苦笑する凛に小夜は出来る限り口角を上げようと励んだ。

 彼女は隣の学級の生徒で、入学式の日に校舎内で迷子になっていた小夜を助けてくれたのだ。

 周囲と馴染めず、何かとひとりでいるのを気にかけてくれている心優しい生徒。

 「ですが、どのような方にお会いしても、父から礼儀作法は忘れないよう、きつく言われていますので……」

 「そんな、私たち先輩後輩でもない、同級生同士なのよ? それに立場でいうなら水園家の方が格上じゃない。小夜ちゃんは本当に真面目ね」

 違う。

 凛との間に線を引いている一番の理由は、関係のない彼女を傷つけないようにするため。

 ただでさえ、挨拶をして軽く会話をするだけでも、「落ちこぼれの友人」と凛も悪く言われるのだ。

 一線を引くのは心苦しいが、これ以上彼女への風評被害も避けたい。

 どこまでも純粋な彼女をとても真っ直ぐに見られずに視線をやや下げる。

 そんな憂いを帯びる小夜を心配するように凛はこちらの顔を覗き込んだ。

 「もしかして、話しかけるのって迷惑だったかしら?」

 「い、いえ……!迷惑なんかじゃないです。いつも緒方さんに優しくしていただけで嬉しいです」

 「それなら良かった。私が話しかけると、肩をびくって震わせるから怖がらせてるのかなって」

 「違います。ただ、少し驚いただけで」

 「あら、そうなの? もっと早く気がつけば良かった。ごめんなさい」

 凛は口元に片手を添えて申し訳なさそうに眉を八の字にさせた。

 普段から明るい彼女の謝罪に小夜は慌てて首を横に振った。

 「そんな、謝らないでください。わたしが臆病すぎるんです」

 「でもよく私、声が大きいって言われるの。今度から気をつけるわ」

 「緒方さんは、何も悪くないです。無理に治さなくてもいいと、わたしは思います」

 凛の眩しい太陽のような笑顔と弾むような声は彼女自身の宝物。

 それが人を傷つけているわけではないのに、無くしたり変えたりするのは間違いだ。

 その想いを込めて、訴えかけるように真っ直ぐに見つめた。

 小夜の真剣な眼差しに凛は僅かに目を見開いたあと、細めて微笑んだ。

 「小夜ちゃん……。ありがとう、実はずっと悩んでいたことだったの。背中を押してもらったようで気持ちが晴れたわ」

 「わたしなんかがお力になれるなんて、嬉しいです」

 今出来る精一杯の笑顔をはりつけて、言葉を返す。

 (……ああ。わたしにもっと霊力があれば、落ちこぼれではなければ、緒方さんともっと仲良くなれたのに)

 いつも顔に血の気がなく、周りと話を合わせることさえできずに、ただ勉学にのみ打ち込んでいる小夜など、凛と大違いだ。

 何かと気にかけてくれる同級生。

 何度かきちんとした友人になりたいと言ってくれたこともあったが、今日まで曖昧にしたまま。

 友人になったとしても、自由な外出は禁止されているので、休日はパーラーも観劇も一緒に行けない。

 休み時間でさえ、自分なんかと関われば凛にも悪影響になってしまう。

 誘ってくれて、ありがたくはあったけれど、それも小夜には無理な相談だった。

 (本当に申し訳ないわ。こんな反応ばかりしていては、いずれ嫌われてしまう。それもきっと時間の問題ね……)

 ばつの悪い思いを抱え、小夜は荷物が入った鞄を持つ手に力を加えた。

 誰にも水園家での内情を知られないように、隠し通すのも心が痛む。

 そんな暗い影を落とした表情を凛は見逃さなかった。

 「ねえ、小夜ちゃん。何か悩みがあるんじゃない? 私で良ければ話、聞くわよ」

 「えっ、あの……」

 どきりと心臓が鳴った。

 図星をつかれ、慌てて視線を逸らす。

 これでは、悩みがあると言っているようなものだ。

 しかし、流石に「家で家族から虐げられている」などと言えるはずがない。

 その秘密を他人に明かしてしまえば、必ず相手も巻き込んでしまう。

 一度、静かに深呼吸をすると、くるりと凛へと向き直る。

 「ご心配ありがとうございます。でも、わたしは大丈夫です」

 「そんな風には見え──」

 「何かあったときは、すぐに緒方さんに相談させてください」

 普段の小夜なら、他人の話を遮るような真似はしない。

 しかしこれ以上、追及されては本当に口を滑らせてしまうような気がした。

 安心させるように、しっかりと笑みを浮かべる。

 (ごめんなさい、緒方さん……。でも優しくしてくれる貴女だけは嘘をついてでも守りたいの)

 自分が落ちこぼれでいる限り、いや、たとえ最底辺から脱却しても、この秘密を明かすことはないだろう。

 寄り添ってくれるひとがすぐ近くにいるというのに、壁をつくる。

 こんなに悲しく、つらいことはない。

 これで、嫌われてしまうかもしれない。

 それでも、凛や緒方家にまで迷惑をかけるわけにはいかなかった。

 凛は気狐の一族、緒方家の娘。

 位で見ると空狐より下に値する。

 小夜はどちらが上で下かなんて考えないが、両親や兄姉は違う。

 水園家は何百年も前から権勢を振るう。

 立場をわきまえない者は、容赦なく制裁を下してきたのを、小夜は知っている。

 優しい凛のことだ。

 小夜が虐げられていると知れば、彼女の性格から考えて、屋敷に乗り込んできても、何ら可笑しくない。

 もし、それが現実となれば、凛は女学院に通えなくなり、緒方家は終わりだ。

 (駄目、絶対に駄目。そんなことになれば、わたしは後悔する)

 立ち止まり、黙り込む小夜に凛は一度、目を伏せて、そして微笑んだ。

 「分かったわ。もうこれ以上、詮索しない。私、いつでも待ってるから」

 切れ長の瞳を細めて、笑いかけている表情は、たいそう美しく、眩しかった。

 でも小夜は気がついた。

 どこか悲しそうな寂しそうな感情が滲み出ていることを。

 (……ああ、わたしはこんな表情をさせたいわけじゃない。これも全部、落ちこぼれで生まれてきてしまった自分のせい)

 他者の目を気にせずに堂々とおしゃべり出来たらどれだけ良いだろう。

 一緒に買い物だってしてみたい。

 お菓子を持ち寄って一緒にお茶会もしてみたい。

 だが家族はそれを決して許さない。

 小夜は重たい気持ちを抱えながら、今出来る精一杯の笑みをつくった。

 「ありがとうございます」

 「いいのよ。もし、小夜ちゃんに何かあったら、わたしは笑って過ごせないと思うの」

 何故か同級生というより、妹に見えるのよねと言いながら再び歩き出す。

 凛には三人の兄がいる。

 男子が多い環境で育ったからか、お嬢さま学校の鈴風女学院では珍しい、砕けた口調だ。

 校風を損なうから直すようにと教師や上級生から注意を受けているのを見たことがある。

 でも、小夜はまったく嫌悪感を抱かない。

 出逢った当初は多少驚いたけれど、不思議とすぐに馴染んだ。

 耳に届く凛の声と、近くの木に止まる小鳥たちのさえずり、そして穏やかな風の音。

 (わたしの姉が緒方さんだったら、また違った人生だったのかしら。それに、家のことは忘れて、ずっとこの空間に浸りたくなるわ)

 小夜は凛の他愛のない話を聞きながら、鈴風女学院の正門を通る。

 聞き手に徹しながらでも忘れない。

 周辺には数多くの生徒が校舎を目指しているので、凛に迷惑がかからないよう、距離をあけることを。

 女学院の敷地は広大で、規則的に敷かれている石畳、その両側にある色彩豊かな花壇などがある。

 そして一番に存在感を放つのは、噴水。

 昼休みには、噴水近くの長椅子に座ってお弁当を食べる生徒も多い。

 以前、凛にもその場所で一緒にお弁当を食べないかと誘われたが、丁寧に断った。

 色とりどりの鮮やかな花の乙女たちが、かしましくおしゃべりに興じている空間に、耐えられる自信はないから。

 お弁当だって毎日持ってこられるわけではない。

 朝食の残りがあった日のみ、曲げわっぱに詰めることが出来る。

 凛の誘いを受けて、一緒にいるのに何も食べないでいれば必ず不審がられる。

 ただでさえ痩せ細っているのに、これ以上栄養を摂れなければ疑われてしまいそうで気が気でない。

 凛に気がつかれないように、小さくため息をついたとき。

 「あら、誰かと思えば落ちこぼれ狐さんがいるわ」

 昇降口までの長い道を歩いていると、背後から和やかな雰囲気を壊すような声が聞こえ、思わず足を止めた。

 すでに、その声の主に気がついている小夜は、ひゅっと息を吸い込むと、ゆっくりと振り返る。

 マガレイトに結われている艶のある黒髪にぷるりとした紅色の唇、唐紅色の単衣と学校指定の行燈袴を身に纏っている少女を見た瞬間、小夜に緊張が走った。

 「……寺石さま」

 名前を呼ばれた娘──寺石舞子は、まるで獲物を狙うかのような鋭いまなざしを小夜に向ける。

 彼女は小夜と同じ、空狐の一族の娘。

 寺石家は水園家に次いで、権勢を振るっている家であり、舞子はその家の長女。

 姉の一華と比べても見劣りしないほどの美貌を兼ね備えており、成績も優秀。

 空狐の筆頭の家に生まれながらも、霊力をほとんど有さない小夜を昔から馬鹿にしているのだ。

 普通ならば、位が上であるはずの小夜を虐めているとなれば、舞子は周囲から咎められるはず。

 だが、よく姉の一華が「あんな落ちこぼれが妹だなんて恥ずかしくてたまりませんわ」とか「皆さんも、あの子に対しては立場などわきまえなくて結構ですよ」などと言うので、堂々と虐めが行われている。

 それが、実の家族に対する言葉なのか、一令嬢として恥ずべきことではないかと誰も問わない。

 それだけ、水園家は敵に回したくない恐ろしい家なのだ。

 「それにしても、よく女学院に通い続けることが出来ますね。私だったら、惨めになって、堂々と登校をするなんて無理ですわ」

 「本当に一華さまと同じ血が流れているのかと疑ってしまいますね」

 舞子の両隣には彼女と一華を敬愛する生徒ふたり。

 品定めでもするかのように、馬鹿にするかのように、小夜を見ている。

 近くを歩く生徒たちも、ちらりとこちらの様子を伺っていて、今すぐに逃げたくなった。

 でも、彼女たちが言っていることは正論で反論も逃げ出す勇気もない。

 矢継ぎ早に発せられる凶器の言葉が胸を深々と抉る。

 「あの、ごめんなさ──」

 小夜は何も悪いことなどしていない。

 謝る必要も、陰で生きる必要もないけれど、そうしなければと頭が勝手に命令するのだ。

 今もこうして攻められているのは、自分が未熟だから。

 謝罪することで、この瞬間だけでも許されるかもしれない。

 しかし頭を下げた瞬間、目の前に誰かが立ったのが分かった。

 「貴方たちこそ弱い者虐めをして、いつまでも幼稚じゃない。そんな性格は早く直した方が良いわよ」

 庇うように立ち、彼女たちに向かい合う凛に小夜は、ぱっと顔を上げる。

 右腰に手を当てて舞子たちと対峙する姿は正義感に溢れていて何とも勇ましい。

 優しくて強くて頼れる存在である凛だが、小夜は気が気ではなかった。

 (……緒方さんを巻き込むことだけは避けたかったのに)

 味方がいるという嬉しさの反面、彼女が傷つかないか、迷惑をかけないかと冷や汗が出た。

 相手は空狐、凛は気狐。

 舞子からしてみれば、位が下の凛が自分に逆らってくるなんて、腸が煮えくりかえるだろう。

 凛と小夜は学級が違うので、いつも守れるわけではない。

 しかし、こうして舞子たちと会うと必ずといっていいほど喧嘩を始めるのだ。

 しかし、力強くはっきりとした口調に対して、臆することなく負けじと舞子も言い返す。

 その表情は、背筋が凍るほど品が良く優美だ。

 「あら、私は事実を申したまで。緒方さんは、もう少しお淑やかに令嬢らしく振る舞ったらいかが?」

 「舞子さま。それはきっと無理なお話ですわ」

 「ええ。彼女は気狐ですもの。しかも野蛮な環境で育った娘。社交マナーを学んでもこれが精一杯ですから」

 「それもそうね。許してくださいな、令嬢らしくだなんて貴女には到底無理な話をしてしまって。可哀想な思いをさせてしまいましたね」

 「……何ですって?」

 彼女たちの間にバチバチと音が鳴るような火花が散っている。

 何とか手は出さずに済んでいるという状況だ。

 もし男同士だったら睨み合いだけでは終わらないだろう。

 特に凛は余裕しゃくしゃくとしている舞子たちに酷く苛立っているよう。

 中々論破出来ないのを悔しそうに顔を歪めていた。

 「あの方たち大丈夫かしら?」

 「先生を呼んできます?」

 こそこそと話す声に気づき、視線を向けると、事情をよく知らない下級生が不安げにこちらを見ていた。

 (ここに先生たちが来てしまったら、まずいわ。何とかして止めないと)

 女学院から家に連絡がきてしまえば、父は憤慨する。

 声を荒げて叱って、そして殴られる。

 凛だって、手は出されないだろうけれど、きっと、こっぴどく怒られるはずだ。

 凛と舞子が喧嘩して、舞子が両親に言いつければ寺石家から緒方家へ、抗議の知らせがゆく。

 小夜もそれを心配して、問いかけても彼女は首を横に振るだけだった。

 〈私は大丈夫よ。困っている友人を守ることがいけない、なんてあったら、たまらないわ〉

 自身の名前のように凜々しく、そして正義感に満ちる表情が脳裏に浮かぶ。

 凛も一華や舞子に劣らず、成績優秀だ。

 無事に卒業出来れば、帝都で辣腕を振るって働くことも、嫁いで幸せな花嫁にもなれる。

 数年後には輝かしい未来が待っている。

 そこに傷などつけたくはない。

 これ以上、騒ぎが大きくなる前に止めなければと、小夜は慌てて凛の腕を掴んだ。

 「緒方さん、もうやめてください。わたしは大丈夫ですから……!」

 「駄目よ、小夜ちゃん。今日こそはぎゃふんと言わせないと」

 その瞳には炎のように熱い闘志が宿っていて、相変わらず、舞子を睨みつけたままだ。

 普段は一度声をかければ、しぶしぶ引いてくれるのだが、今日は駄目だった。

 どこかでこの陰湿で酷い虐めは終わりにしなければと思っているのかもしれない。

 「ふふっ。冗談はよしてくださいな。貴女なんか到底、私たちに及びませんし」

 「なんかってなによ!力が劣っているからって他者を馬鹿にするなんてひととして、空狐として終わっているわ!」

 「そんな、私は馬鹿になどしておりません。先ほどから申しているでしょう。霊力が少ないのは明らかな事実。それは水園さんご本人が認めています。ねえ、そうでしょう?」

 「そ、それは……」

 舞子が語ったことはすべて紛れもない事実だった。

 しかし、もしこの場でそうだと頷けば、舞子たちに加担してしまうような気がして、すぐには答えられなかった。

 それに凛が庇ってくれたことも無駄にしてしまう。

 何と言っていいか分からず、困惑するように口を噤む小夜。

 (ここで頷けば、この騒ぎも収まるのかしら……。でも緒方さんの思いも大切したい……)

 少しずつ野次馬の人数が増えていくのが視線の端で分かる。

 早く答えを出さなければ教師がやって来るのは時間の問題だ。

 悩み苦しみ、黙り込む姿を見て、凛は心情を察したようだった。

 「そういうところなのよ!小夜ちゃんが努力しているのも知らないで気持ちを踏みいじるなんて、どうかしているわっ!」

 刺のある口調にさらに苛立ちが募ったのか、凛は声を張り上げる。

 「まあまあ。とても熱くて素晴らしい友情ですこと。まるで舞台を観ているみたい。私、涙が出そう」

 「確かに。彼女の大きな声は鈴風女学院ではなくて舞台の方がお似合いですわね。舞子さまは例えがお上手ですね」

 「緒方さんは卒業したら舞台役者を目指してはいかが? 仲の良い水園さんは付き人、なんてどうかしら。まあ、一生売れないでしょうけれど」

 「ふふふっ」

 「立場が上だからって好き勝手いって……!私はともかく、今貴女たちは水園家を敵に回すような発言をしたのよ!それ相応の覚悟はなさった方がよろしくて?」

 「ご心配は無用よ。水園家の長女である一華さまが彼女を丁重に扱うことは必要ないと申しているの。たとえ空狐を筆頭する家の出身でも位もないと同じよ」

 一華が認めていれば、この虐めを生徒も教師も水園家に通告することはない。

 しかし、清らかな鈴風女学院で起こった喧嘩の原因が小夜だと知らされるのは話が別である。

 ほぼ最底辺にいる自分はどうなっても良いが、優秀な凛には悪影響を与えたくない。

 このままではまずいと焦りが募り、彼女の腕を掴む力を少しだけ強めた。

 もちろん痛みは感じないように。

 「お願い、お願いします」

 「……っ!」

 か細く、震える声に凛は、はっと我に返って、斜め後ろにいる小夜へと視線を向けた。

 それと同時に周囲の人数に気づいたようだ。

 「ご、ごめんなさい!私、ついカッとなっちゃって……」

 申し訳なさそうに謝る凛に小夜は何度も首を横に振った。

 「いえ……!わたしのために怒ってくれた。それだけで十分嬉しかったですから」

 その言葉とは裏腹にいつもより笑みが弱々しい。

 そして若干、呼吸も乱れている。

 「小夜ちゃん、もしかして具合悪い?」

 舞子に向けられていた怒りの眼差しは、すっかり消えて、いつも通りの穏やかさに戻っている。

 「わたしは──」

 大丈夫、そう言おうとした矢先、ぽんっという軽い音と共に身体を煙が包んだ。

 その場にいる誰もが、理解した。

 変化の術が解けて、元の狐へと姿が戻ったのだと。

 案の定、煙が霧散すると、小夜は人間から小さな雪色の狐になっていた。

 「ふ、ふふっ!」

 「あはは!」

 「本当に愉快だわ……!」

 舞子たちは雪色の狐を見るやいなや、可笑しそうに笑い始めた。

 登校中の生徒も、くすくすと笑う者、引いている者、反応は様々で、小夜に重くのしかかる。

 授業前で術が解けるのは、かなりまずいことだった。

 霊力がそこそこある普通の者ならば、ある程度は自由に操れるので問題はないが、小夜の場合は違う。

 再度、人間に化けることに時間をかなり要するため、下校後ならまだしも、朝に起こってしまえば授業にも影響してしまうのだ。

 特に今日は一限目から筆記の授業なので、早く人間の姿にならなければ、受けられないし、教師にもたしなめられる。

 荷物が入った鞄も地面に落ちていて、この手では持つことすらままならない。

 羞恥心と悔しさと悲しさが心に一気に押し寄せる。
 
 もうこのまま消えてしまえたら、どれだけ良いか。

 泣いてしまいたくなる。

 (いや、わたしに泣く資格なんてない)

 どれだけ虐げられても笑われても、こんな身体に生まれてきてしまった運命を受け入れるしかないのだ。

 目を固く閉じて俯いていると、ふわりと浮遊感を感じた。

 一瞬、何が起きたのかと驚いて目を開くと、凛が真剣な面持ちで身体を抱き上げてくれていた。

 地面に落ちていた鞄も持っていてくれている。

 「もうこんな人たちと関わることはないわ。行きましょ、小夜ちゃん」

 「……あ」

 それだけ言うと凛は足早に校舎へ歩き出す。

 まだ後ろでは、「逃げたわ」「私たちに怖じ気づいたのよ」と何やら話し声が聞こえたが、勝ち気な凛も無視をしていた。

 昇降口に着いて、そっと降ろしてくれた彼女に小夜は丁寧に頭を下げる。

 「あの、緒方さん。連れてきてくれてありがとうございます」

 「いいのよ。元はといえば、私があの人たちの挑発にのってしまったのもあるし。荷物、教室まで運ぶわね」

 「そこまでしていただくわけには……」

 「いいわよ、これくらい。私たちの教室、隣なんだから一緒に行きましょうよ」

 にっこりと笑い、下足から上履きの草履に履き替えると歩き出した。

 きっと彼女なりに、強引になったくらいの方が控えめな小夜には良いのだと思ったのかもしれない。

 そんなことを考えているうちに凛はどんどん先を行く。

 教科書などが入った重い鞄を小夜の分に加え、自身の物も持っているのだ。

 本人が大丈夫といっても、こちらが気にしてしまう。

 普段から家で甘えることを許されていないので余計に申し訳なくなる。

 おろおろと立ち尽くしていると、少しずつ昇降口に生徒がやって来る。

 「ま、待ってください……!」

 小夜は慌てて階段を上がり始める彼女を追いかけた──。