薬を飲んでしまえば、その日の予定はほとんど終わったようなものだった。特にやることもなく、庭へ出て、木陰に寝転び、葉の隙間から見える夏の空をぼんやり眺めていた。
色彩道具かカメラでも持って来ていたら、この静かな時間を持て余さずに済んだかもしれない。省吾さんは資料の入った鞄を手に、朝早くから出かけてしまい、文子さんは庭の草花を世話したり、家の中を整えたりして、一日を過ごしていた。
「修くん。暑くない?」
草花に水をやっていた文子さんが、じょうろを片手に庭先から声をかけてきた。
「はい。風があるので大丈夫です」
庭先の花壇に咲く花々は、どれも手入れが行き届いていた。色とりどりの花びらが夏の日差しを受けながら揺れていて、その一つひとつを文子さんが大切に育てていることが伝わってくる。
頬を撫でる風の心地良さに身を委ねるように瞼を閉じると、近くの茂みが小さく揺れる音がした。風のせいだと思ったけれど、明らかに風とは違う揺れ方をしていた。
確かに何かいる。思わず身体を起こした。茂みの奥へ目を凝らすと、葉の揺れが次第に大きくなっていった。手を伸ばそうとしたとき、そこから姿を現したのは、白い毛並みを持つ小さな生き物だった。
「……狸?」
狸にしては細い顔つきで、狐にも似ていた。その生き物は、こちらを警戒するように立ち止まり、じっと僕を見つめている。こんな色の狸がいるなんて知らなかった。触れたら冷たいのだろうか。そんなことを考えてしまうほど、その毛並みは雪のように白かった。
ゆっくり動いたつもりだったのに、その一瞬の動きで驚いたのか、白いたぬきは風に溶けるように茂みの奥へ消えていった。
「……待って」
いつもなら無理をしないように考えるはずなのに、その時だけは、もう一度あの白い姿を見たいと思った。気がつけば茂みを掻き分けていた。枝が腕に触れることも、足元の土の感触もお構いなしに、小さな生き物の後を追っていた。
息があがり膝に手を乗せて、ゆっくり呼吸を整えた。胸の奥にわずかな違和感を覚え、無意識に手を当てる。見失った。そう思ったのに、その生き物は足を止めた僕を迎えに来るように、木陰から白い姿を覗かせた。近づくわけでもなく、一定の距離を保ったまま、じっとこちらの様子を窺っている。
「はぁ…はぁ……ついてこいって、ことか」
森は、息をひそめるように静かだった。
頭上では、幾重にも重なる木々の枝葉が空を覆い、その隙間から差し込む陽光だけが、まるで祝福のように地面を照らしている。苔むした大地は、淡い翡翠色に染まっていた。
奥へ続く細い道の先には、澄みきった泉が静かに眠っていた。水面は鏡のように穏やかで、空も木々も、そのすべてを優しく映し出している。波ひとつ立たないその場所は、時間から取り残されたような静寂に包まれていた。
森を抱く古木たちは、何百年もの歳月を見届けてきた番人のように、そこから動かず泉を見守っている。太くねじれた幹には苔が生い茂り、長く垂れた蔦は風に揺れながら、まるで小さく囁き合っているようだった。
ここは、人が足を踏み入れてよい場所ではない、そう思った。
それでも、不思議と恐ろしさはなかった。胸の奥に宿ったのは畏れではなく、懐かしさだった。まるで、遠い昔に失くした何かが、この森のどこかで自分を待っている。そんな確信だけが、静かに心を満たしていた。
「……誰?」
木々の間から静かに響いた声の先にいたのは、泉に足を浸しながら座る一人の少女だった。森の緑の中で不気味なほど鮮やかに浮かんだその白い布には、見覚えがあった。
「君、昨日のーー」
「兄さん?」
予想もしなかった呼びかけに、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。幼い少女が一人でこんな森の奥にいることの方が、本来なら不自然なはずなのに、なぜかそのことを疑問に思うより先に、泉の静かな水面と一緒に映る彼女の姿が、現実のものとは思えないほど美しく見えた。
「迷ったの?……私も。そこの狸を追いかけてたら」
呆れたように言いながら、少女は視線を足元へ向けた。そこでは白い狸が、長い尻尾を抱くように丸まり、気持ちよさそうに眠っていた。
改めて周囲を見渡すと、泉の上には無数の小さな光が漂っていた。蛍とも、妖精ともつかない光の粒は、ゆっくりと水面の上を泳ぐように揺らめいている。ふと視線を少女へ落とすと、泉に浸された右足首に、紫色の痛々しい痣が浮かんでいた。白い肌の上で、その色だけが鮮やかに目を引く。
「……君。その足、どしたの」
「転んだの。狸を追いかけてて、木の根元につまずいて……それで、ここを見つけたから脚を冷やしてた」
「少し見せて」
手を伸ばした瞬間、少女の身体がわずかに強張った。「大丈夫」と言いながらハンカチを取り出すと、泉の水に軽く浸した。水から出された少女の脚は、雪のように白かった。細い足首には小さな傷がいくつか残り、その中でも紫色の痣だけが、はっきりと痛みを伝えていた。
冷たく濡れた布を絞ってから、そっと痣へ当てる。
「痛くない?」
「うん。平気」
短く答えた少女は、自分の足首ではなく、ハンカチを当てる僕の手をじっと見つめていた。しばらくの間、二人の間には泉のせせらぎだけが静かに響く。夏の森なら聞こえてくるはずの蝉の声は、どこにもなかった。
森から出なければ、これ以上の処置はできない。せめて家に戻って、消毒くらいはした方がいいだろう。ただ、僕の体力では彼女を背負ったまま、この歩きにくい道を戻るのは難しい。自分の身体のことは、自分が一番よく分かっている。少し無理をすれば、きっと途中で動けなくなる。それでも、目の前で痛みを隠している少女を、このまま置いていくという選択肢はなかった。
「歩けそう?」
「大丈夫。もう平気」
即答だったけれど、その声には少しだけ強がりが混じっているように聞こえた。せめて転ばないように支えることくらいはできる。背負うほどの力はない。だが、せめて転ばないように支えることくらいはできる。
「……手、貸して」
迷うように僕の手を見つめたあと、少女はゆっくりと小さな手を差し出した。二人が歩き出した気配に気づいたのか、眠っていた白い狸がゆっくりと顔を上げ、長い尻尾を揺らしながら、僕たちの先頭を歩きだした。
距離がひらくと振り返って立ち止まり、縮まるとそれを確認するように、また先へ進んでいく。まるで僕たちが迷わないように、こちらの様子を窺っているようだった。
「……変な狸だな」
「かわいいよね」
木々の隙間から差し込む光が、白い狸の毛並みを淡く照らしている。その姿は、森の中に最初から存在していたものではなく、どこか別の場所から迷い込んできたようにも見えた。
「……君はーー」
「ヨウで、いい」
「……ヨウは、いつからここにいたの?」
「さあ。気づいたら、この辺りを歩いてた。タユキを見つけて、追いかけていただけ」
「……タユキ?」
「あの子の名前」
白い狸の背中をそっと見つめながら、当たり前のことのように言った。
「雪みたいな狸だから、タユキ。……今、付けたの」
目の前を歩いていた狸が「ギャーッ」と獣らしい声を上げた。返事をしたつもりなのか、それとも文句でも言いたかったのか。わからない。
けれど、その声はどこか新しい名前を受け取った合図のようにも聞こえて、思わず笑みをこぼした。
前方の木々の向こうから見慣れた庭先が見えて、思わず胸を撫で下ろした。森の中では方向なんてまるで分からなかったのに、不思議と迷わず帰ってこられた。
「修くん!」
突然、庭の方から慌てた声に振り向くと、文子さんが息を切らしながらこちらへ走ってくるところだった。落ち着いた様子からは想像できないほど焦った表情をしている。
「こんなところにいたの。急に姿が見えなくなったから心配して……」
「すみません…森に入ったら迷ってしまって」
「あら、修くん、この子は?」
息を整えながら、僕の袖を掴む少女へ穏やかな笑みを向けた。何も答えないヨウの代わり、僕はどう説明すればいいのか迷いながら口を開いた。
「森で出会ったんです」
「森で……そう」
文子さんは小さく頷くと、少女に視線を合わせるように腰を少しかがめた。
「お名前を聞いてもいいかしら」
少女は僕の袖を握ったまま、小さく口を開く。
「……ヨウ」
「ヨウちゃんというのね」
少女は少しだけ眉を寄せた。
「……ちゃん、はいらない」
文子さんは一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑う。
「そう。ごめんなさいね、ヨウ」
「うん」
「それじゃあヨウ、足を見せてくれる? 手当てをしましょう」
ヨウは小さく頷き、僕の袖からそっと手を離した。
色彩道具かカメラでも持って来ていたら、この静かな時間を持て余さずに済んだかもしれない。省吾さんは資料の入った鞄を手に、朝早くから出かけてしまい、文子さんは庭の草花を世話したり、家の中を整えたりして、一日を過ごしていた。
「修くん。暑くない?」
草花に水をやっていた文子さんが、じょうろを片手に庭先から声をかけてきた。
「はい。風があるので大丈夫です」
庭先の花壇に咲く花々は、どれも手入れが行き届いていた。色とりどりの花びらが夏の日差しを受けながら揺れていて、その一つひとつを文子さんが大切に育てていることが伝わってくる。
頬を撫でる風の心地良さに身を委ねるように瞼を閉じると、近くの茂みが小さく揺れる音がした。風のせいだと思ったけれど、明らかに風とは違う揺れ方をしていた。
確かに何かいる。思わず身体を起こした。茂みの奥へ目を凝らすと、葉の揺れが次第に大きくなっていった。手を伸ばそうとしたとき、そこから姿を現したのは、白い毛並みを持つ小さな生き物だった。
「……狸?」
狸にしては細い顔つきで、狐にも似ていた。その生き物は、こちらを警戒するように立ち止まり、じっと僕を見つめている。こんな色の狸がいるなんて知らなかった。触れたら冷たいのだろうか。そんなことを考えてしまうほど、その毛並みは雪のように白かった。
ゆっくり動いたつもりだったのに、その一瞬の動きで驚いたのか、白いたぬきは風に溶けるように茂みの奥へ消えていった。
「……待って」
いつもなら無理をしないように考えるはずなのに、その時だけは、もう一度あの白い姿を見たいと思った。気がつけば茂みを掻き分けていた。枝が腕に触れることも、足元の土の感触もお構いなしに、小さな生き物の後を追っていた。
息があがり膝に手を乗せて、ゆっくり呼吸を整えた。胸の奥にわずかな違和感を覚え、無意識に手を当てる。見失った。そう思ったのに、その生き物は足を止めた僕を迎えに来るように、木陰から白い姿を覗かせた。近づくわけでもなく、一定の距離を保ったまま、じっとこちらの様子を窺っている。
「はぁ…はぁ……ついてこいって、ことか」
森は、息をひそめるように静かだった。
頭上では、幾重にも重なる木々の枝葉が空を覆い、その隙間から差し込む陽光だけが、まるで祝福のように地面を照らしている。苔むした大地は、淡い翡翠色に染まっていた。
奥へ続く細い道の先には、澄みきった泉が静かに眠っていた。水面は鏡のように穏やかで、空も木々も、そのすべてを優しく映し出している。波ひとつ立たないその場所は、時間から取り残されたような静寂に包まれていた。
森を抱く古木たちは、何百年もの歳月を見届けてきた番人のように、そこから動かず泉を見守っている。太くねじれた幹には苔が生い茂り、長く垂れた蔦は風に揺れながら、まるで小さく囁き合っているようだった。
ここは、人が足を踏み入れてよい場所ではない、そう思った。
それでも、不思議と恐ろしさはなかった。胸の奥に宿ったのは畏れではなく、懐かしさだった。まるで、遠い昔に失くした何かが、この森のどこかで自分を待っている。そんな確信だけが、静かに心を満たしていた。
「……誰?」
木々の間から静かに響いた声の先にいたのは、泉に足を浸しながら座る一人の少女だった。森の緑の中で不気味なほど鮮やかに浮かんだその白い布には、見覚えがあった。
「君、昨日のーー」
「兄さん?」
予想もしなかった呼びかけに、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。幼い少女が一人でこんな森の奥にいることの方が、本来なら不自然なはずなのに、なぜかそのことを疑問に思うより先に、泉の静かな水面と一緒に映る彼女の姿が、現実のものとは思えないほど美しく見えた。
「迷ったの?……私も。そこの狸を追いかけてたら」
呆れたように言いながら、少女は視線を足元へ向けた。そこでは白い狸が、長い尻尾を抱くように丸まり、気持ちよさそうに眠っていた。
改めて周囲を見渡すと、泉の上には無数の小さな光が漂っていた。蛍とも、妖精ともつかない光の粒は、ゆっくりと水面の上を泳ぐように揺らめいている。ふと視線を少女へ落とすと、泉に浸された右足首に、紫色の痛々しい痣が浮かんでいた。白い肌の上で、その色だけが鮮やかに目を引く。
「……君。その足、どしたの」
「転んだの。狸を追いかけてて、木の根元につまずいて……それで、ここを見つけたから脚を冷やしてた」
「少し見せて」
手を伸ばした瞬間、少女の身体がわずかに強張った。「大丈夫」と言いながらハンカチを取り出すと、泉の水に軽く浸した。水から出された少女の脚は、雪のように白かった。細い足首には小さな傷がいくつか残り、その中でも紫色の痣だけが、はっきりと痛みを伝えていた。
冷たく濡れた布を絞ってから、そっと痣へ当てる。
「痛くない?」
「うん。平気」
短く答えた少女は、自分の足首ではなく、ハンカチを当てる僕の手をじっと見つめていた。しばらくの間、二人の間には泉のせせらぎだけが静かに響く。夏の森なら聞こえてくるはずの蝉の声は、どこにもなかった。
森から出なければ、これ以上の処置はできない。せめて家に戻って、消毒くらいはした方がいいだろう。ただ、僕の体力では彼女を背負ったまま、この歩きにくい道を戻るのは難しい。自分の身体のことは、自分が一番よく分かっている。少し無理をすれば、きっと途中で動けなくなる。それでも、目の前で痛みを隠している少女を、このまま置いていくという選択肢はなかった。
「歩けそう?」
「大丈夫。もう平気」
即答だったけれど、その声には少しだけ強がりが混じっているように聞こえた。せめて転ばないように支えることくらいはできる。背負うほどの力はない。だが、せめて転ばないように支えることくらいはできる。
「……手、貸して」
迷うように僕の手を見つめたあと、少女はゆっくりと小さな手を差し出した。二人が歩き出した気配に気づいたのか、眠っていた白い狸がゆっくりと顔を上げ、長い尻尾を揺らしながら、僕たちの先頭を歩きだした。
距離がひらくと振り返って立ち止まり、縮まるとそれを確認するように、また先へ進んでいく。まるで僕たちが迷わないように、こちらの様子を窺っているようだった。
「……変な狸だな」
「かわいいよね」
木々の隙間から差し込む光が、白い狸の毛並みを淡く照らしている。その姿は、森の中に最初から存在していたものではなく、どこか別の場所から迷い込んできたようにも見えた。
「……君はーー」
「ヨウで、いい」
「……ヨウは、いつからここにいたの?」
「さあ。気づいたら、この辺りを歩いてた。タユキを見つけて、追いかけていただけ」
「……タユキ?」
「あの子の名前」
白い狸の背中をそっと見つめながら、当たり前のことのように言った。
「雪みたいな狸だから、タユキ。……今、付けたの」
目の前を歩いていた狸が「ギャーッ」と獣らしい声を上げた。返事をしたつもりなのか、それとも文句でも言いたかったのか。わからない。
けれど、その声はどこか新しい名前を受け取った合図のようにも聞こえて、思わず笑みをこぼした。
前方の木々の向こうから見慣れた庭先が見えて、思わず胸を撫で下ろした。森の中では方向なんてまるで分からなかったのに、不思議と迷わず帰ってこられた。
「修くん!」
突然、庭の方から慌てた声に振り向くと、文子さんが息を切らしながらこちらへ走ってくるところだった。落ち着いた様子からは想像できないほど焦った表情をしている。
「こんなところにいたの。急に姿が見えなくなったから心配して……」
「すみません…森に入ったら迷ってしまって」
「あら、修くん、この子は?」
息を整えながら、僕の袖を掴む少女へ穏やかな笑みを向けた。何も答えないヨウの代わり、僕はどう説明すればいいのか迷いながら口を開いた。
「森で出会ったんです」
「森で……そう」
文子さんは小さく頷くと、少女に視線を合わせるように腰を少しかがめた。
「お名前を聞いてもいいかしら」
少女は僕の袖を握ったまま、小さく口を開く。
「……ヨウ」
「ヨウちゃんというのね」
少女は少しだけ眉を寄せた。
「……ちゃん、はいらない」
文子さんは一瞬きょとんとしたあと、くすりと笑う。
「そう。ごめんなさいね、ヨウ」
「うん」
「それじゃあヨウ、足を見せてくれる? 手当てをしましょう」
ヨウは小さく頷き、僕の袖からそっと手を離した。



