水の底に眠る少女

 車の窓を、一匹の小さな虫が横切った。僕は反射的に目で追うと、透明な羽が夏の光を一瞬だけ弾く。きらり、と白く光ったと思った次の瞬間には、風に押されるようにして、青い空の向こうへ消えていた。
 街を出てから、もう三時間以上が経っていた。窓の外を流れる景色は、少しずつ形を変えている。
 高い建物や信号が減った代わりに、道路の両脇には深い緑が広がっていく。アスファルトの隙間から見えていた小さな草は、いつの間にか背の高い木々に変わっていた。木々の隙間から差し込む光が、車の窓を断続的に照らしていく。そのたびに、流れる景色が一瞬だけ白く滲む。
 僕は助手席の窓に額を少し寄せた。窓を閉めているのに、車の音よりも蝉の声の方が大きい。森の中を走っているような気がした。こんなに長い時間、何も考えずに景色を見ることなんて、いつ以来だろう。
(しゅう)くん、疲れてない?」
 ハンドルを握る千里(ちさと)さんは、前を向いたまま、心配そうな声で聞いた。
「大丈夫だよ」
「そう?もう少しで着くからね」
「うん」
 短い会話のあと、車内にはまた静かな時間が戻った。
 車がさらに山の奥へ進むに連れて道路は細くなっていく。しばらく走ったところで、木々の間に大きな看板が見えた。周囲の自然とは不釣り合いな、真新しい白い看板に『深山ダム建設計画』の黒い文字が、夏の日差しの中ではっきり浮かんでいる。
「……ダム?」
「うん。この辺りにできるみたいなの」
 車がゆっくりと看板の横を通り過ぎていく。その先、木々の向こうに小さな川が見えた。透明な水が、太陽の光を反射しながら静かに流れている。まるで、森の中に隠された小さな鏡みたいだった。風が吹くたび、木々の影が水面の上でゆっくり形を変える。
「ここも……?」
「全部じゃないけど、なくなる場所はあるみたい」
「そうなんだ……」
 父ならなんと言っただろうか。僕のように、「勿体ない」なんて陳腐な感想しか思い浮かばなかっただろうか。それとも、あの人なら、この景色が失われることの意味を、僕とは違う言葉で語るのだろうか。
「……また正臣(まさおみ)さんのこと考えてたでしょ。分かるんだから」
 不意に言われて、僕が黙り込むと、千里さんは困ったように笑った。
 病室で医師の話を聞いたあとも、千里さんは同じ顔をしていた。
 僕の心臓は、生まれつき少し弱かった。でも、これまで普通に生活できていたし、自分が病気だなんて、ほとんど意識したこともなかった。
 だが、春の真ん中の日に、突然、胸の痛みで動けなくなった。検査の結果、心臓の一部に負担が蓄積していたことが分かった。医師は淡々と説明していた。今すぐ命に関わるような状態ではないこと。けれど、これまでと同じように過ごせるとは限らないこと。入院と定期的な検査が必要になること。夏には退院してもいいこと。
 千里さんは、医師の話を一度も遮らずに聞いていた。時々、小さく頷きながら、真剣な顔でメモまで取っていた。
「修くん。ちゃんと捕まってて。少し揺れるよ」
 道は舗装されておらず、石や土の凹凸がそのまま残っていた。車体が上下に揺れるたび、座席から小さな振動が伝わってくる。
 周囲には背の高い木々や草が生い茂っていた。人の気配はほとんどなく、聞こえるのは車の音と、葉の擦れる音だけだった。緑に囲まれた静かな山道を、車はゆっくり進んでいく。
「ごめんね、修くん。私たちの都合で、しばらく私も正臣さんもそばにいてあげられなくなっちゃって」
「仕方ないよ。父さんも千里さんも、頼りにされてるんだから」
「……そう言ってくれると助かるけど……何かあったら、すぐ電話するのよ」
「ありがとう。千里さん」
 病院の窓から見える桜が散り始めた頃に、見舞いに訪れ父が「環境を変えた方がいい」と眉を寄せながら語った。理由を尋ねると、父は仕事の都合で海外へ、千里さんは学者の研究があり、ずっと傍にいるのは難しいのだと言う。
 千里さんは父と再婚した人だった。同じ研究者だった二人は、昔から自然や生き物の話をよくしていたらしい。
 血の繋がりはない。
 研究者として生きてきた二人にとって、僕の病気は大きな負担になっていたのかもしれない。そんな考えが浮かんだ自分を、僕はすぐに嫌になった。千里さんは、そんなことを一度も言わなかった。病院でも、家でも、僕のことを心配する言葉ばかり口にしていた。
 それでも、心のどこかで遠慮してしまう。本人の前で、素直に「お母さん」と呼べないのは、きっとそのせいだった。
 奥へ進むと森の中へ溶け込むように一軒の古い木造の家が見えてきた。
 長い年月を重ねた屋根には、ところどころ風雨の跡が残っている。軒先には蔓のような植物が絡みつき、大きな木枠の窓の向こうには、薄暗い室内が見えた。
 周囲を囲む草木と家の古びた雰囲気が、不思議なくらい馴染んでいる。
 まるで森そのものが、この家を守っているようだった。
 車を降りて近くまで行くと、土と草の匂いが鼻をくすぐった。街では嗅ぐことのなかった匂いだった。
「ようやく着いた。ここが正臣さんのお母様のご自宅よ。いい家よね」
 車のドアを閉めながら言う千里さんに、僕も頷いた。父が植物に興味を持ったのは、きっとこの場所がきっかけだったのだろう。小さな草花を見つけては足を止め、名前を調べ、時には何時間も森の中にいたのかもしれない。
 この庭を歩き回っていた幼い姿の父を想像していると、ギィ、と古びた扉が開く音がした。音の方を見ると、家の玄関に一人の女性が立っていた。
「車の音が聞こえましたものですから、そろそろお見えになる頃かと思いまして。お出迎えが遅くなってしまいましたわね」
 白髪の混じった髪はきれいに後ろでまとめられ、淡い色のブラウスの襟元には小さな飾りが添えられていた。
 年齢を感じさせる皺はある。けれど、それは疲れや苦労を刻んだものではなく、長い時間を穏やかに過ごしてきた人だけが持つ柔らかさだった。背筋はまっすぐ伸び、ゆっくりとした動きにも無駄がない。言葉遣いも仕草も丁寧で、古い家の雰囲気によく似合っていた。
「ご無沙汰しています。文子(ふみこ)さん」
「まあ、千里さん。こちらこそ。遠いところをありがとうございます」
 優しく微笑んだ時にできる目尻の細い皺が、昔の父とよく似ている気がした。でも、最後に僕へ向けられた笑顔がいつだったのかは、もうはっきり思い出せない。
「あなたが修くんね」
「あ、はい」
 突然名前を呼ばれて、少しだけ背筋が伸びた。
「正臣さんによく似ていらっしゃいます」
 突然、頭に柔らかな温もりが伝わってきた。何をされているのか分からないまま、しばらくして、それが文子さんに撫でられているのだと気づいた。十七歳になっても、身長はそれほど伸びなかった。周りの同年代と比べれば小柄な方で、体つきもまだ子どもっぽさが残っている。それでも、文子さんの手の温かさに触れていると、子ども扱いされているような嫌な感じはしなかった。
「長旅でお疲れでしょう。紅茶でも淹れますから、どうぞ上がってください」
 深々と頭を下げると、千里さんはその横で車の荷室を開き、自分の荷物と僕のキャリーバッグを取り出してくれた。
「修くん、それ持とうか?」
「大丈夫。僕が持つよ」
 昔なら、何も考えずに任せていたかもしれない。でも今は、できることまで誰かに頼ることが怖かった。
「無理しないでね」
「分かってる」
 キャリーバッグを持ち上げると、少し腕に重さを感じた。けれど、このくらいなら問題ない。
 僕の顔を見た千里さんは、ようやく安心したように笑った。
 玄関を上がると、外の暑さとは違う、涼しく静かな空気が流れてきた。
 廊下から続く床は、深い色合いの木でできている。長い年月を歩かれてきたせいか、表面には細かな傷や艶があり、落ち着いた雰囲気を作っていた。
 その上には、ところどころに淡い色のカーペットが敷かれている。木の冷たさを和らげるような柔らかな模様のカーペットは、この家の古い家具とよく馴染んでいた。
 壁には植物の絵が飾られ、窓辺には小さな鉢植えが置かれている。
 大きな窓から差し込む夏の光が、床の上に細長い影を落としていた。
 部屋の中央には、使い込まれた革張りのソファと木製のテーブルが置かれている。壁際に並んだ本棚には植物図鑑や古い洋書が並び、ページの色は少し変わっていた。
 森の中にひっそり残された昔の洋館みたいだと思った。
「さあ、どうぞお掛けになって。今、紅茶をお出ししますから」
「そんな、お気遣いなく。急に押しかけてしまったのはこちらですから」
「いいんですよ。修くんにも、この家でゆっくりしてほしいですから」
 ほどなくして、目の前に紅茶が置かれる。高級そうなティーカップから漂う花のような香りが、森の静けさに溶け込むように広がっていく。どこか上品で柔らかい。
 カップの持ち手を摘まんで、湯気の立つ紅茶を一口啜ると、口の中に優しい甘さと花のような香りが広がった。
 暑い日に温かい飲み物なんて、と思っていたけれど、むしろ、ゆっくりと身体の内側に染み込んでいくような温かさが、張り詰めていた気持ちまで解いてくれる。暑さの中で飲む温かな紅茶も、悪くないと思った。
「話は正臣さんから伺っています。修くんのことも、病気のことも。千里さんのお仕事のこともね」
 責めるような響きは一切なく、それどころか、文子さんはすべてを受け入れてくれているような穏やかさがあった。
「心配なさらなくても大丈夫です。修くんのことは、私がそばで見ていますから」
「本当にすみません。ご迷惑をおかけします」
 千里さんが深く頭を下げると、後頭部辺りで結んでいたポニーテールが、小さく揺れた。
「迷惑だなんて思っていませんよ。修くんが来てくれることを、私は楽しみにしていたんですから。そうだ。修くんのお部屋へ案内しないとね」
 カップをソーサーに置いて、すっと立ち上がる文子さんを見ていると、本当に僕が来ることを心から待っていてくれたのだと思えた。病気のことも、千里さんたちの事情も、すべて知った上で、それでも何も変わらない態度で接してくれる。
「さあ、こちらです」
 リビングの扉まで歩き出そうとしたその時、ガチャ、と背後で扉の開く音がした。振り返ると、そこには一人の男性が立っていた。
 白髪混じりの髪は整えられ、背筋はまっすぐ伸びている。落ち着いた色のシャツに身を包んだ姿は、年齢を重ねたからこそ生まれる品のようなものを感じさせた。
 穏やかな表情と丁寧な立ち振る舞いは、まるで古い洋館の雰囲気に溶け込んでいるようだった。
「あら。あなた。いつの間に帰っていたの?」
「これは失礼。お客様がいらしていたとは」
「この前、話したでしょう。正臣さんの息子さんが来るって」
「……ああ、そうだったね」
 男性は納得したように頷くと、改めて僕と千里さんへ視線を向けた。
「初めまして私、佐伯(さえき)正臣の父の佐伯省吾(しょうご)と申します。遠いところをよく来てくださいました」
「は、初めまして。佐伯……修です」
父と同じ名字を名乗ることに、不思議な感覚があったが、それ以上に、僕よりはるかに年上の男性が、まるで大切な客人を迎えるように深々と頭を下げたことに驚いた。
「いやあ、修くん。会えて嬉しいよ。千里くんも久しぶりだね」
「ご無沙汰しております。教授。相変わらずお元気そうで安心しました」
「教授はよしてくれ。もう大学を離れて何年も経つんだから」
 懐かしそうに目を細める省吾さんと、少しだけ表情を和らげる千里さんを見ていると、二人の間には僕の知らない長い時間が流れているのだと感じた。
「ねえ、あなた。これから修くんにお部屋の案内をしようと思うのだけれど」
 文子さんがそう言うと、省吾さんは「ああ」と頷いて、資料をまとめたような紙の束