縁側のコンサルタント、世界へ

長野県の山あいに位置する、人口わずか数千人の小さな村。

朝もやが立ち込める午前五時、美智子(五十五歳)はいつものように、祖父の代から受け継いだ小さな畑に立っていた。

彼女が育てているのは、この地方でしか育たないと言われる「幻の緋色大根(ひいろだいこん)」だ。透き通るような鮮やかな赤と、梨のように瑞々しい甘み。だが、その栽培には手間がかかり、形も不揃いになりやすいため、農協の出荷ルートには乗らない。

「お前、本当に綺麗だねぇ……」

美智子はじんわりと霜の降りた土を払い、大根を愛おしそうに撫でた。
彼女の手は、長年の農作業で節くれ立ち、指先は土の色が染み付いて消えない。この手で、彼女は女手一つで娘を育て上げ、この静かな田舎で「誠実」だけを信条に生きてきた。

しかし、美智子の心には、冬の朝霧のように消えない「焦り」があった。
数年前、娘が東京の大学を卒業し、就職した。それ以来、家の中はひっそりと静まり返った。自分に残されたのは、古びた平屋と、市場では二束三文でしか売れない、この最高に美味しい野菜たちだけ。

「私の人生、このまま静かに土に還っていくだけなのかな……」

そんなある日、彼女に転機が訪れる。
都会の高級レストランで働く娘から、一本の電話があったのだ。

「お母さんの大根、職場のシェフに食べさせたら、みんな驚いてたよ。『この野菜にはストーリーがある。もっと詳しく知りたい、ぜひメニューに取り入れたい』って。……お母さん、一度、うちの店の人たちにちゃんと説明してみない?」

娘の言葉に、美智子の心は一瞬跳ねた。だが、すぐに深い溜息がついた。

「説明って……プレゼンっていうやつ? 私、パソコンなんて触ったこともないし、横文字なんてさっぱりだよ。送った野菜が美味しいってだけで十分じゃない。私みたいな田舎者が、東京のプロの料理人さんの前で何て言えばいいの……」

美智子は、自分の節くれ立った手を見つめた。
農協に持っていけば「規格外」として弾かれ、近所に配れば「いつもありがとう」と笑顔で返ってくる。それで完結していた世界。
彼女にとって、都会のレストランや「ビジネス」という言葉は、まるで別の星の出来事のように遠かった。

その日の夜、美智子は居間で、娘が「お母さんの役に立つかもしれないから」と送ってきた一冊の本を手に取った。

『50代の爆速AIプレゼン術:Felo活用』
「……フェロー? AI?」

タイトルを見ただけで、美智子は本を閉じそうになった。自分のようなアナログな人間に、こんな魔法のような道具が使いこなせるはずがない。