次の日から、鈴は早朝に家を出て深夜に帰宅する日が続いた。
どんなに遅い帰りでも六華は夫を出迎え、鈴もまた、妻に惜しみない愛を注いでいる。
この家に来た時には想像もしなかった、穏やかで幸福な時間だ。
そして今夜も日付が変わってから帰宅した夫に、彼女はいつも通りの笑みを向ける。
「旦那さま、お話があります」
鈴は何も言わずこちらに向き合った。近頃は多くを口にせずとも、六華の意図は伝わってしまう。
「明日の夜明け、宿花が開花しますわ」
彼は息を呑んでから、静かなまなざしで「それは確かなのだな」と問いかけた。
「はい。わたくしには分かりますの」
理屈ではない、宿主の本能というべきものが告げている。
今宵の明ける瞬間が、『その時』なのだと。
鈴はこちらを見つめてから「わかった」とだけ言った。六華は真っ青になっている使用人たちに、なるべく明るく微笑みかける。
「ようやくお約束を果たせますわ。皆さまとお別れするのは寂しいですが」
「奥様……!」
女中たちが涙を流すのを「あらあら」と慰め、傍らで控える堂本には「鳴神の家族を頼みます」と告げ、すっかりしょげている琥珀をむぎゅっと抱きしめる。
最後に夫の手を取り、たおやかに笑んだ。
「今宵はずっと、傍にいてくださるのでしょう?」
生きとし生けるものたちが息をひそめるように、静かな夜だった。
六華の頭上でふくらみきった蕾は、星屑を散りばめたようにきらめき、いっそうの輝きをまとっている。
姿見でそのさまを眺め、彼女は鈴に微笑みかけた。
「わたくし、不思議と怖くありませんの」
この花が咲いたとき、自分は最も美しくなる。その瞬間を最愛のひとに焼きつけることが、六華の最期の願いだ。
「旦那さま。お体をお大事になさってくださいね。良いお食事を食べ、よく眠り、よく笑って暮らすのですよ」
「わかっているよ」
鈴は穏やかにそう告げると、不器用に微笑った。伸ばされた彼の両手が、六華の頬を包み込む。
黄水晶の瞳に映った自分の姿が、なんだかくすぐったくて。
「……わたくしのことは、ときどき思い出してくだされば十分ですわ」
「それは無理な相談だ。君を忘れる日はもう来ない」
そういって彼は、愛しむように彼女の額に唇を寄せた。
「六華と出会ってしまったことを後悔した日もあった。でも君と出会わなければ、私は一生愛を知らないままだった」
「愛があるから、ひとは生きていけるのですわ」
「君を喪っても?」
「ええ」
六華は確信に満ちたまなざしでうなずいた。
「わたくしはそう信じています」
一瞬にも永遠にも感じられる夜が終わり、東の空がうっすらと白んできた。
六華と鈴は、庭園の中央でその時を待っていた。
いまだ残る月と星々は、その名残を惜しむようにゆっくりと上天を進んでいく。
次第に空が明るくなり、東の地平線から目覚めたばかりの太陽の光が見えた刹那、六華の中で何かが弾けた。
次の瞬間、頭上で幾重にも重なる花びらがいっせいに開き、咲き誇る。
深い、深い、紫の花。
六華の夢見るようなまなざしが、鈴をとらえた。この世のものとは思えぬほどの美しさが、鈴の身の内を焦がす。
彼女の姿を目に映すだけで、全身が歓喜で震えた。
薔薇色の唇がゆるやかに弧を描いたとき、上空で雷鳴が轟き白銀に輝く龍が現れる。
龍は白銀の鱗を煌かせながら六華の頭上へ飛翔し――目にもとまらぬ速さで宿花を刈り取った。
――約束は果たされた。契約成立じゃ。
その言葉を聞き遂げた刹那、六華の身体は崩れ落ちていく。
「六華!」
抱き留めた鈴が、命を終えようとしている彼女に口づけをした。
光の粒子をまとった銀の葉が、ひらりひらりと散り落ちていく。
いつしか雷鳴は遠くなり、明朝の澄んだ静けさがふたりを包み込んでいった――
どんなに遅い帰りでも六華は夫を出迎え、鈴もまた、妻に惜しみない愛を注いでいる。
この家に来た時には想像もしなかった、穏やかで幸福な時間だ。
そして今夜も日付が変わってから帰宅した夫に、彼女はいつも通りの笑みを向ける。
「旦那さま、お話があります」
鈴は何も言わずこちらに向き合った。近頃は多くを口にせずとも、六華の意図は伝わってしまう。
「明日の夜明け、宿花が開花しますわ」
彼は息を呑んでから、静かなまなざしで「それは確かなのだな」と問いかけた。
「はい。わたくしには分かりますの」
理屈ではない、宿主の本能というべきものが告げている。
今宵の明ける瞬間が、『その時』なのだと。
鈴はこちらを見つめてから「わかった」とだけ言った。六華は真っ青になっている使用人たちに、なるべく明るく微笑みかける。
「ようやくお約束を果たせますわ。皆さまとお別れするのは寂しいですが」
「奥様……!」
女中たちが涙を流すのを「あらあら」と慰め、傍らで控える堂本には「鳴神の家族を頼みます」と告げ、すっかりしょげている琥珀をむぎゅっと抱きしめる。
最後に夫の手を取り、たおやかに笑んだ。
「今宵はずっと、傍にいてくださるのでしょう?」
生きとし生けるものたちが息をひそめるように、静かな夜だった。
六華の頭上でふくらみきった蕾は、星屑を散りばめたようにきらめき、いっそうの輝きをまとっている。
姿見でそのさまを眺め、彼女は鈴に微笑みかけた。
「わたくし、不思議と怖くありませんの」
この花が咲いたとき、自分は最も美しくなる。その瞬間を最愛のひとに焼きつけることが、六華の最期の願いだ。
「旦那さま。お体をお大事になさってくださいね。良いお食事を食べ、よく眠り、よく笑って暮らすのですよ」
「わかっているよ」
鈴は穏やかにそう告げると、不器用に微笑った。伸ばされた彼の両手が、六華の頬を包み込む。
黄水晶の瞳に映った自分の姿が、なんだかくすぐったくて。
「……わたくしのことは、ときどき思い出してくだされば十分ですわ」
「それは無理な相談だ。君を忘れる日はもう来ない」
そういって彼は、愛しむように彼女の額に唇を寄せた。
「六華と出会ってしまったことを後悔した日もあった。でも君と出会わなければ、私は一生愛を知らないままだった」
「愛があるから、ひとは生きていけるのですわ」
「君を喪っても?」
「ええ」
六華は確信に満ちたまなざしでうなずいた。
「わたくしはそう信じています」
一瞬にも永遠にも感じられる夜が終わり、東の空がうっすらと白んできた。
六華と鈴は、庭園の中央でその時を待っていた。
いまだ残る月と星々は、その名残を惜しむようにゆっくりと上天を進んでいく。
次第に空が明るくなり、東の地平線から目覚めたばかりの太陽の光が見えた刹那、六華の中で何かが弾けた。
次の瞬間、頭上で幾重にも重なる花びらがいっせいに開き、咲き誇る。
深い、深い、紫の花。
六華の夢見るようなまなざしが、鈴をとらえた。この世のものとは思えぬほどの美しさが、鈴の身の内を焦がす。
彼女の姿を目に映すだけで、全身が歓喜で震えた。
薔薇色の唇がゆるやかに弧を描いたとき、上空で雷鳴が轟き白銀に輝く龍が現れる。
龍は白銀の鱗を煌かせながら六華の頭上へ飛翔し――目にもとまらぬ速さで宿花を刈り取った。
――約束は果たされた。契約成立じゃ。
その言葉を聞き遂げた刹那、六華の身体は崩れ落ちていく。
「六華!」
抱き留めた鈴が、命を終えようとしている彼女に口づけをした。
光の粒子をまとった銀の葉が、ひらりひらりと散り落ちていく。
いつしか雷鳴は遠くなり、明朝の澄んだ静けさがふたりを包み込んでいった――
